将来の計画【民数記―放浪する民】#6

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民数記15章に入ると、混乱と反逆、恥辱と敗北(アマレク人とカナン人による)の光景は消えます。民は代償を払って、不従順がもたらす苦しみについて学んだのでした。民はもとの荒れ野に戻って行きます。このとき、15章の冒頭で、主はモーセに言われます。「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしが与える土地にあなたたちが行って住むとき……」(民15:2)。大きく後れを取ったとはいえ、約束はなおも生きていました。神は御自分の民を約束の地に導かれるのでした。そのことについては、疑問の余地がありませんでした。

ここに、神の選ばれた民に与えられた特別な教えを見ることができます。状況がどれほど特殊であれ、命令がどれほど独特であれ、彼らに与えられた霊的教訓と原則は私たちのためでもあります。

感謝

問1

民数記15:1~10、18~21を読んでください。これらの献げ物の目的は何でしたか。それらは何を表していましたか。油、飲み物、穀類をささげる目的は何でしたか。

「穀物(の献げ物)」をさすヘブライ語は“ミンチャー”で「、賜物」または「貢ぎ物」を意味します。これには、小麦粉、オリーブ油、ぶどう酒が含まれていて、畑と穀物への神の祝福に対する感謝を表しています(申8:18参照)。

民数記15章の文脈からすると、これらの教えは実際には、若い世代が後にカナンの新しい家郷で小麦や大麦などの穀物を植えるようになるという約束を含んでいました。彼らは自分の手でぶどう園や、オリーブ、いちじく、ザクロなどの果樹園を造るのでした。言い換えるなら、これらの血を流さない献げ物は、忠実であるなら彼らのものとなる物的な祝福に思いを向けさせるものでした。これらの思いは主への献げ物と密接に結びついていて、日ごとに彼らの思いを約束の地に向けさせてくれました。

問2

新約時代において、使徒パウロはこの思想をどのように適用していますか。ロマ12:1、IIコリ2:15、16、エフェ5:2

彼らが当時どれほど困難な状況にあったにせよ、主は御自分の民に対して過去の御業と将来の約束に対して賛美と感謝の態度を養うように望んでおられました。私たちも同じようにすべきではないでしょうか。

あなたの町の門の中に寄留する人々

古代イスラエルの革新的な思想の一つは、寄留者、つまり自分たちと伝統と信仰を異にする人々に対する態度に表されていました。

問3

カナンに定住することを待ち望む第2世代のイスラエル人に対して、どんな特別な命令が与えられましたか(民15:14~16)。これと同じ原則が新約聖書にどのように啓示されていますか。ガラ3:26~29、コロ3:11

「寄留者」または外国人とは、イスラエル人のうちに定住し、完全に信仰を受け入れ、男子なら、正式に割礼を受けた人のことです。彼らは、あたかもイスラエル人であるかのように扱われ、愛されるのでした。あなたたちも、「あなたたちのもとに寄留する者も、同一の指示、同一の法に従わねばならない」(民15:16)。まさに、彼らはイスラエル人の一人として扱われるのでした!

問4

第一の神殿をささげる祈りの中で、ソロモンはイスラエルに属さない異国人に関して神に何と求めましたか(王上8:41~43)。イザヤは神殿で礼拝する寄留者について何と言っていますか。イザ56:6、7

神が御自分の民を召し、彼らを約束の地に定着させる目的について考えるとき、これらの聖句はみな完全な意味を持ちます。イスラエルは自らを他と区別する特有の教えと真理、すなわち彼らを異教世界に対する神の特別な代表者とする教えと真理を持っていなければなりませんでした。同時に、彼らの神について知り、従いたいと望む異教徒に対しては、開放的で、受容的である必要がありました。

多くの点で、今日の私たちの教会もこれと同じでなければなりません。私たちは世界に教えるべき特別な真理を持ち、その真理を保護し、擁護する必要があります。同時に、主と、この時代のための主のメッセージを知ろうとする人々を喜んで受け入れなければなりません。

無知の罪

神がこの章(民15章)で語りかけておられる若い世代のイスラエルは奴隷の状態で生まれたことを忘れてはなりません。彼らは、奴隷としてエジプト文化の影響を受けてきた自分たちの両親による影響はもちろんのこと、自分たちを取り巻くエジプト文化による影響をも受けてきました。したがって、彼らには、忘れるべき悪しきことがたくさんあり、学ぶべき新しい、よいことがたくさんありました。

問5

もし共同体が集団として主の戒めに背いていたことに気づいたなら、彼らはどうすべきだったでしょうか。彼らは無知のゆえに犯したことのために主に「贖罪」の献げ物をささげねばなりませんでしたが、これにはどんな意味がありましたか。民15:22~27

贖罪の献げ物は彼らの罪を贖いました。焼き尽くす献げ物は神に対する会衆の献身を新たにすることを表していました。主が過失による行為と故意の行為とを区別しておられることは興味深いことです。しかしながら、過失による行為も「罪」と見なされ、贖う必要がありました。

問6

個人はどんな方法によって無知の罪を贖うことができましたか。その手続きは会衆の場合とどのように異なっていましたか。民15:27~29

「世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、いったい自分の心が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人があります。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。私たちは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いて、イエスの足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神に捨てられ拒まれたのではありません。キリストは神の右に座し、私たちのために執り成しておられます。使徒ヨハネは『わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる』(Iヨハネ2:1)と言いました」(『希望への光』1956ページ、『キリストへの道』84、85ページ)。

侮りの罪

問7

民数記15:30、31を読んでください。ここから、どんな教訓を学ぶことができますか。刑罰が厳しすぎるように思われるのはなぜですか。恵みはどこに見られますか。

ヘブライ語では、傲慢と反逆を表す「高い手をもって」という言葉が用いられています。イスラエルはカデシュで「高い手をもって」神に罪を犯しました。しかし、神は死刑を荒れ野への追放に減刑されました。重要なのは、罪が主によって非常に重大視されていることです。このような場合によくあることですが、後で後悔していると言う人は罪そのものを悔いるよりも、ただ罪の結果のゆえに悔いているだけです。そのようなかたくなな心に対しては、主は何もおできになりません。罪を赦されるためには、真心から悔い改めなければなりません。

問8

民数記15:32~36を読んでください。主が全会衆をこの処刑に参加させられたのはなぜだと思いますか。このことからどんな霊的教訓を学ぶことができますか。

イスラエルの民にとって、仲間の一人を石で打ち殺すことは辛いことだったに違いありません。主は明らかに罪の重大さを御自分の民に教えようとしておられました。「罪が支払う報酬は死です」(ロマ6:23)。主はまた、彼らの共同体が持つ共同性について、また彼らの行為が周囲の人々に影響を及ぼすことについて教えようとされたのでしょう。各人が個人的に行うことは全体の福祉に影響を及ぼすのです。結局のところ、宿営全体が荒れ野に留まることによって苦しみを味わうことになったのは、一部の者たちが不満を述べたためではなかったでしょうか。

私たちがクリスチャンとして特に銘記すべきことは、私たちの行いが、よい意味でも悪い意味でも、自分自身だけでなく他人にも影響を及ぼすという事実です。古代イスラエルの神権政治においては、死はしばしば直ちに訪れました。しかし、私たちはそのことに惑わされてはなりません。侮りのゆえに直ちに殺されることがなくても、いつの日か正当な報いを受けないことにはなりません。

青色の房

正統派のユダヤ教徒を見たことのある人なら、彼らがシャツの下に何か白い房の付いたものを着ているのに気づいたかもしれません。その起源は聖書のこの部分にあります。

問9

主はモーセに命じて、すべてのイスラエルの衣服に何を縫い付けさせられましたか。民15:38

さまざまな色の房を縫い付けることは古代近東の人々の習慣で、神はこの習慣を取り入れられました。「房飾り」(英語欽定訳)または、房は上着の四隅に縫い付けられていて、それぞれの房には青色のひも(「リボン」、欽定訳)が付いていました。現代の「タリス」[ユダヤ教徒の男子が朝の礼拝のとき頭(肩)にかける毛織り(絹織り)の肩衣。祈祷用ショール]も、四隅に房が付いていて、伝統的な結び方で白と青のひもで結ばれています。

問10

房を縫い付けるのはどんな理由からでしたか。神はそれによってイスラエルに何を思い起こさせようとされましたか。民15:39~41

これらの聖句に、「思い起こす」という言葉が2回出てきます。これらの房を見るたびに、イスラエル人は、「わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者とな」るのでした。ほかの神々に引かれるとき(霊的姦通)、これらの房の青色はイスラエルをエジプトの隷属から解放してくださった神への忠誠に連れ戻すのでした(41節)。

目覚ましい方法でイスラエルの民のうちに臨在されたにもかかわらず、神はなお、より直接的なものによって彼らになすべきことを覚えさせようとされたのでした。

今日の私たちはこのような房を身に付けませんが、それよりもはるかに力あるもの、つまりキリストの十字架が与えられています。それは、罪の代償、贖いの代価、そして信仰によってイエスの功績に信頼するすべての人に与えられる救いの約束を、つねに私たちに思い起こさせてくれます。そのような人について、次のように記されています。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブ12:14)。

まとめ

「キリストの忠実さについてわれわれが告白することは、キリストを世にあらわすために天のえらばれた方法である。われわれは、昔の聖人たちを通して知らされた神の恩恵を告白すべきであるが、しかし最も効果があるのは、われわれ自身の経験によるあかしである。神の力の働きを自分自身のうちにあらわすとき、われわれは、神の証人である。各個人はそれぞれ他人とちがった人生を持っており、また本質的に他人とちがった経験を持っている。神は、われわれの賛美が、それぞれ特有の個性を帯びてみもとにのぼることをお望みになる。このようなとうとい告白によって神の恵みの栄光を賛美することは、それがクリスチャン生活によって裏づけられるとき、抵抗することのできない力をもって魂の救いのために働くのである」(『希望への光』847、848ページ、『各時代の希望』中巻75ページ)。

申命記22:12には、「あなたは、自分のために自分が着る衣服のすその四すみに撚り縄を作りなさい」(拙訳)とあります。単なる「房」ではなく、ユダヤ人は撚った縄をさらに撚って、それを着物の四隅に付けます。イエス・キリストもそのような衣を着ておられましたが(マルコ6:56、ルカ8:44)、律法学者やパリサイ派のユダヤ人は、人に目立つように自分たちの衣のすその撚り縄を大きくしました(マタイ23:5)。イスラエルが神に忠実であったなら、神がアブラハムに誓われたように、イスラエルは大きな祭司の国となり、神が治める神政政治が続いたことでしょう。しかしイスラエルは救い主キリストを捨てて、十字架につけて殺してしまったとき、イスラエルを大きな国にするという神の御約束は取り消されました。割礼と同様に、着物に撚り縄を付けるとか、その縄飾りのない外国人の着物を着ないなどのイスラエルの市民律は破棄されました。新約時代のエルサレム会議では、「ただ偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを避けるように」と、改宗者たちにこれ以外の負担を負わせないように決議されました(使徒行伝15:19-20,28-29)。撚った縄の先に付けられた「青紫の糸」(民数記15:38)は、へブル語でテケーレトですが、アッカド語のタキルト(takiltu)と同語であれば、「青紫に染めた羊毛の糸」という意味があります。青紫色の染料は、ある種の貝から微量にとれる高価な染料だとする考えもありますが、イスラエル人の40年の荒野での生活は、ほとんど神が必要なものを備えられたので、地中海沿岸の貝の採取できる地方との交流はなかったと考えるのが自然でしょう。

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