約束の子【信仰のみによる救い—ローマの信徒への手紙】#10

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この記事のテーマ

「『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。……神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます」(ローマ9:13、15)

パウロはここで何について語っているのでしょうか。信じることに意味を与える人間の自由意志や選択の自由は、どうなるのでしょうか。私たちは自由に神を選んだり、拒否したりできないのでしょうか。それともこれらの聖句は、個人的な選択にもかかわらず、ある人は救われるように、別の人は救われないように選ばれていると教えているのでしょうか。

その答えは、いつものようにパウロが言っていることのより大きな全体像を見ることでわかります。パウロがここで取っている論法は、「選ばれた」者として神がお用いになる人たちを選ぶ権利が神にあることを示そうとするものです。要するに、神は世界伝道の最終的な責任を負っておられる方です。それゆえ、神が望まれる人を、だれであれ神の器として選べないことがあるでしょうか。神がだれをも救いの機会から切り離したりなさらない以上、神の側のそのような行為は自由意志の原則に反しません。さらに重要なことに、その選びは、キリストが全人類のために死なれたという真理にも、キリストの願いが、すべての人が救われることであったという大いなる真理にも反しません。ローマ9章は、ここに名前が挙げられている人たちの個人的救いを扱っているのではなく、ある働きをするための召しについて述べているのです。そのことを忘れない限り、この章が大きな問題を提起することはありません。

パウロの重荷

「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」(出19:6)。

神は、異教信仰、闇、偶像礼拝に染まったこの世に伝道するための宣教師を必要としておられます。彼はイスラエルの人々を選び、彼らに御自分をあらわされました。彼らが模範的国民となり、ほかの国民を本当の神へ引きつけるようにと、神は計画なさったのです。イスラエルを通して御自分の品性を啓示することでこの世を引き寄せるというのが、神の目的でした。犠牲制度の教えを通して、キリストは国々の前に高く上げられ、彼を見るすべての人は生きるのです。イスラエルの人々の数が増え、彼らの祝福が増すに連れて、彼らの国はこの世を覆い尽くすまで、その国境を広げていくはずでした。

問1

ローマ9:1〜12を読んでください。人間の失敗や不履行の中にあっても神が忠実であられることについて、パウロはここでどんな指摘をしていますか。

パウロは、イスラエルになされた約束はまったく破られなかったということを示すための論法を組み立てています。残りの者が存在しており、神は依然として彼らを通して働こうとしておられます。残りの者(選ばれた者)という考えの妥当性を確立するため、パウロはイスラエルの歴史を少し振り返ります。彼は、神がいつも選択的であられたことを示します。①神は、アブラハムのすべての子孫ではなく、イサクの子孫だけが契約対象となるように選ばれました。②神はイサクのすべての子孫ではなく、ヤコブの子孫だけを選ばれました。

嗣業や家系が救いを保証しないことを知るのも重要です。あなたは正しい血統、正しい家系、正しい教会の一員にさえなることはできますが、それでもまだ失われており、約束の外にいます。「約束に従って生まれる子供」(ロマ9:8)である人たちを明らかにするのは、信仰、愛によって働く信仰なのです。

選び

「『兄は弟に仕えるであろう』と、リベカに告げられました。……『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりです」(ロマ9:12、13)。

「今週のテーマ」で述べられているように、パウロが個人の救いについて語っているのではないということを認識するまでは、ローマ9章を正しく理解することはできません。パウロはここで、神がある個人を召して果たさせようとしておられた特定の役割について語っているのです。神は、ヤコブがこの世において神の特別な伝道者となるであろう人々の先祖になることを望まれました。この聖句には、エサウが救われえなかったという意味合いはありません。神は、すべての人が救われることを望んでおられるように、エサウが救われることも望まれました。

ローマ9:14、15を読んでください。ここでもパウロは、個人の救いについて語っているのではありません。なぜなら神は、「すべての人々が救われ……ることを望んでおられ(る)」(Iテモ2:4)ので、個人の救いという領域に関しては、すべての人に憐れみを施されるからです。「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(テト2:11)。しかし神は、役割を果たす民を選ぶことがおできになります。その民は彼らの役割を果たすのを拒むことはできますが、神の選びを妨げることはできません。エサウがどれほど望んだとしても、彼はメシアの祖先や選民の祖先になることができませんでした。

最終的に、エサウが救いから締め出されたのは、神の側の気まぐれな選びによるのでも、天命によるのでもありませんでした。キリストによって与えられる神の恵みの賜物は、だれにとっても無償です。私たちはみな、救われるために選ばれたのであって、滅びるためではありません(エフェ1:4、5、IIペト1:10)。キリストによる永遠の命の約束を避けることは、私たち自身の選択であって、神の選択ではありません。イエスはすべての人のために死なれました。しかし、神は御言葉の中で、すべての魂が永遠の命に選ばれる条件を説明なさっておられます。それは、義とされた罪人を服従へと導くキリストに対する信仰です。

不可解なこと

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている」(イザ55:8、9)。

ローマ9:17〜24を読んでください。出エジプトの際、神はあのようにエジプトに対処することで、人類の救いのために働かれました。エジプトにくだった災いや神の民の解放によって神が御自身を啓示されたのは、イスラエルの神が確かに本当の神であることをエジプトやほかの国々に示す意図からでした。それは、諸国の民が彼らの神々を捨て、本当の神を礼拝するよう、招くためだったのです。

どう見ても、ファラオは神に逆らう選択をすでにしていました。従って、神はファラオの心をかたくなにすることにおいて、彼を救いの機会から閉め出しておられたのではありません。その心のかたくなさは、イスラエルを去らせよという訴えに対するものであって、個人的な救いを受け入れよというファラオへの神の訴えに対するものではありませんでした。キリストは、モーセやアロン、またイスラエルの子らのほかの者たちのために死なれましたが、同様にファラオのためにも死なれたのです。

ここにおける重要な点は、堕落した人間である私たちは、この世や現実に対して、また神や神がこの世でどのように働いておられるかということに対して、実に視野が狭いということです。自然界には、どこを向いても私たちの理解できない神秘があるというのに、どうして神の道(方法)をすべて理解できるなどと期待してよいものでしょうか。何しろ、手術をする前に手を洗ったほうがいいかもしれないと医師たちが気づいたのは、わずか171年前のことにすぎないのです。それほど私たちは無知の中にいました。そしてもし時が続くなら、今日の私たちがいかに無知であるかを明らかにするどんなものが将来発見されるか、だれにもわからないのです。

「アンミ」すなわち「わたしの民」

パウロはローマ9:25でホセア2:25(口語訳23節)を引用し、次のローマ9:26ではホセア2:1(口語訳1:10)を引用しています。神が、御自分とイスラエルの関係の実例として、ホセアに命じて「淫行の女」(ホセ1:2)をめとらせたというのがホセア書の背景です。イスラエルの民が外国の神々に従ったからでした。この結婚で生まれた子どもたちには、偶像礼拝をするイスラエルへの神の拒絶と罰を意味する名前が付けられました。三番目の子は「ロ・アンミ」(同1:9)と名づけられ、それはまさに、「わが民でない者」という意味でした。

しかし、ホセアはこのような中にあって、神は御自分の民を罰したあと、彼らの財産を回復し、偽りの神々を取り除き、彼らと契約を結ばれると予言しました(ホセ2:13〜21、口語訳11〜19節参照)。その時点で、「ロ・アンミ(わが民でない者)」は「アンミ(わが民)」になるのです。

パウロの時代、「アンミ」は「ユダヤ人からだけではなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」(ロマ9:24)。そもそも全世界に向けて意図されていた福音の、なんと明瞭で力強い提示でしょう。私たちアドベンチストが自分たちの召しの根拠を黙示録14:6にも置いていることは、驚くに値しません——「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来(た)」。パウロの時代や古代イスラエルの時代と同様、今日でも、救いの福音は世界中に広められる必要があります。

ローマ9:25〜29を読んでください。福音の訴えを拒絶した者が同胞の中にいたという事実は、「深い悲しみ(と)絶え間ない痛み」(ロマ9:2)をパウロに与えました。しかし少なくとも、残された者がいました。人間の約束が破られるときでさえ、神の約束は破られません。私たちが持ちえる希望は、最終的に神の約束は果たされるということ、そしてもし私たちがその約束を自分のものとして主張するなら、それらは私たちの内に実現するということです。

つまずき

問1

ローマ9:30〜32を読んでください。ここでのメッセージは何ですか。

パウロは誤解されることのない言葉で、なぜ、神が同胞たちに得てほしいと望んでおられるもの、それ以上に、実際に追い求めていたのに達しなかったものを、同胞たちが逃しているのか、その理由を説明します。

興味深いことに、神に受け入れられた異邦人は、受け入れられようと努力していませんでした。彼らは、福音のメッセージが伝えられたときに、自分たちの興味や目標を追求していたのです。しかし福音の価値を理解して、彼らはそれを受け入れました。神が義と宣告されたのは、彼らが自分の身代わりとしてイエス・キリストを受け入れたからです。それは信仰による取引でした。

イスラエルの民の問題は、彼らがつまずきの石につまずいたことでした(ロマ9:33参照)。全員ではないにしろ、ある者たちは(使徒2:41参照)、神が遣わされたナザレのイエスをメシアとして受け入れることを拒みました。イエスが彼らの期待したとおりのメシアではなかったので、彼らは、イエスが来られたときに反発したのです。

この9章が終わる前に、パウロは旧約聖書から別の引用をしています。「『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない』と書いてあるとおりです」(ロマ9:33)。この箇所でパウロは、救済計画において真の信仰がいかに重要であるかを改めて示します(Iペト2:6〜8も参照)。なぜ妨げの岩なのでしょうか。妨げの岩なのに、なぜそれを信じる者は、失望することがないのでしょうか。多くの人にとって、確かにイエスはつまずきの石ですが、イエスを知り、愛する者たちにとって、イエスは別の種類の岩、「救いの岩」(詩編89:27、口語訳89:26)なのです。

さらなる研究

「個人の選びも、民の選びもありますが、神の御言葉に示されている唯一の選びは、個人が救われるための選びです。多くの人は自分の未来を予想して、自分は天国の至福を味わえるように選ばれていると思っています。しかし、これは聖書が述べている選びではありません。人は自分自身の救いのために、畏れと身震いを持って、努力するために選ばれています。彼は鎧を身に着け、信仰のよい戦いを戦うために、選ばれています。サタンが彼の魂のための命の駆け引きをしている一方、人は自分の手の届くところに、神が備えられた手段を用いて、あらゆる汚れた情欲と戦わなければなりません。彼は絶え間ない祈りと聖書研究のために、そして誘惑に陥ることを避けるために選ばれています。彼は信仰を持続するために選ばれています。彼は神の口から語られるすべての御言葉に服従し、ただ御言葉を聞く者とならずに、御言葉を実行する者となるために選ばれています。これが聖書の選びなのです」(『聖霊に導かれて』下巻237ページ)。

「限りある人間の心は、無限である神のご品性やみわざを完全に理解しつくすことはとてもできない。神をさがしても見いだすことはできないのである。どんなにすぐれた教養の高い人にとっても、愚かな人や無知な人にとっても同じように、聖なる神は神秘におおわれたままでなければならない。しかし、『雲と暗やみとはそのまわりにあり、義と正とはそのみくらの基である』とある。われわれは、神の無限な力に結びついているかぎりない恵みを見分けることぐらいしか、われわれに対する神のご態度を理解することはできない。われわれは、理解できる程度にしか神の御目的を悟ることができないが、しかしそれ以上のところは全能のみ手と愛に満ちたみ心に信頼するのみである」(『教育』200ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年4期『信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙』からの抜粋です。

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