逃れの町【民数記―放浪する民】#13

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この記事のテーマ

神は御自分の約束されたものをすべて忠実に果たされましたが、イスラエルの民、特にその第一世代は、忠実に従わず、ついには──与えられた土地を受け継ぐことなく──ヨルダンの東岸の寂しい荒れ野で死にました。それは、逃れるべき地であって、死ぬべき地ではありませんでした。あらゆるものを与えられ、あらゆることを神からしていただいていたのに、彼らは信頼することを拒みました。私たちが見たことのない、たぶんこの世においては決して見ることのない、神の力の劇的な現れを見ていたにもかかわらず、彼らは信仰をもって行動することを拒みました。

しかし、主の働きは終わってはいませんでした。繰り返し語られてきたように、聖書のテーマは、神が御自分の約束を実現されるということです。主は御自分の贖われた民を新天地に入れてくださいます。このことには、疑いの余地がありません。唯一の問題は、私たちがそこに入るか、それともあらゆる配慮がなされていたのに約束に入ることを拒んだ第一世代のようになるかということです。

今回、民数記の研究を終えるにあたって、どのようにしてイスラエルの子らに約束された嗣業にあずかる最後の準備をしたらよいかについて学びます。

歴史の教訓

問1

民数記33章を読んでください。主がモーセに命じて、「出発した地点を旅程に従って」書き留めさせられたのはなぜだと思いますか。その目的は何でしたか。

考えてみると、じつに信じがたい歴史です。一民族全体が何世紀にもおよぶ抑圧の後に捕縛者の手を逃れ、シナイの荒れ野の敵地を40年も生き延びるのですから。神の恵みと力、奇跡によってのみできたことです。民数記33:2によると、「主の命令によって」、モーセは各地を移動した宿駅を書き留めました。主が彼らに、また将来の各世代に望まれたことは、荒れ野を移動するヘブライ人の物語が実際には神についての、また罪深い人間を救い、彼らを約束の地に導こうとする神の取り計らいについての物語であったことを忘れないようにすることにありました。

イスラエルの放浪についての記録は感動的なものですが、今日、聖書学者の中には、元奴隷の一団がエジプトを去った事実は否定しないまでも、それを単なる自然的状況によって説明しようとする人たちがいます。そのような態度は、主の御心に反することであり、神がそれらの出来事の中心におられたことを否定することです。

問2

民数記33:50~56を読んでください。歴史的な背景(およびさまざまな今日的問題)を別にして、これらの聖句はどんな重要な霊的原則について教えていますか。定住後の古代イスラエルの歴史に照らして考えるとき、土地の住民を取り扱うことに関するこの命令が重要な意味を持つのはなぜですか。

主の民にとって、世と妥協することは将来にわたって、「あなたたちの目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨」となります。世の悪影響と周りの文化から自分自身を守らないなら、それらは私たちの信仰を堕落させ、滅びに導く危険がつねにあります。

レビ人の町

シナイで主の側についたレビ人は[出32:26~29参照]、その忠誠のゆえに報いを受けるのでした。神は彼らの受ける分でした。それでもなお、主は彼らのために特別な配慮をし、彼らが自分たちの仕える民の間でいかに生きるべきかを定められました。

問3

レビ人のためにどんな配慮がなされましたか。このことは彼らの生き方についてどんなことを教えていますか。民35:1~8

レビ人の土地はすべての部族から分配されることになっていました。多くの土地を与えられた部族は少ない土地を与えられた部族よりも多くのものを与えねばなりませんでした。このようにして、土地は公平に分配されることになります。しかし、すべての部族が「自分の嗣業」から与えるのでした。すべての部族が協力してレビ人を養うのでした。それによって、主は彼らの義務について教えようとされました。ある意味で、十分の一はこれと同じ原則にもとづいています。多くのものを与えられた人は、自動的に、少し与えられた人よりも多くのものを納めるのです。レビ人がほかの部族によって養われるという事実は、同時に、自分たちが民全体のために忠実に働く責任を負っていることを絶えず彼らに思い起こさせたはずです。

レビ人はまた、イスラエルのすべての部族のうちに分散することになっていました。つまり、彼らは一つの地域に集まることがありませんでした。彼らが民の間に散らばって生活したのは、民が金の子牛を拝んだとき、彼らの先祖が忠実であったことを思い起こすためだったと思われます。また期待されたことは、彼らがその聖なる務めのゆえに、人々に忠誠と神聖の意味について絶えずあかしすることでした。民のうちに生活し、その共同体の一部となり、彼らの悩みと悲しみ、喜びにあずかることによって、レビ人は──その務めに忠実でありさえすれば──民の祝福となることができたはずです。彼らは排他的で、えり抜きの、尊大な階級となって、自分たちの仕える共同体から離れて生活するのではありませんでした。仕えられるのではなく、仕えるのでした。真の奉仕がどのようなものであるかについての模範となるのでした。

逃れの町

問4

民数記35:6、9~12を読んでください。ここに、どんな理由で、何が設置されていますか。

この時期のイスラエルにおいては、裁判制度が機能していませんでした。もし人が誤って、あるいは故意にだれかを殺したなら、殺された人に最も近い親戚が「血の復讐をする者」となって、正義を執行しました。誤審を防ぐために、6つの逃れの町(ヨルダン川の両側にそれぞれ3つずつ)が定められ、殺害者は身を守るためにそこに逃れることができました(ヨシュ20:1~9)。

しかしながら、民数記35:12にもあるように、その町に逃げ込むことによって、自動的に永久の庇護が保証されるわけではありませんでした。ある場合には、それは「共同体の前に立って裁きを受ける」まで、つまり事実関係が確定するまでの一時的な措置でした。これらの町は、今日、接受国(外交使節・領事などを受け入れる側の国)で罪を犯した外交官が逃げ込むことができるような、恒久的な外交特権を与えるものではありませんでした。これらの町が定められたのは、あくまでも誤審を防ぐためでした。

問5

民数記35:9~21を読んでください。私たちはこのような正義を福音の光に照らしてどう理解したらよいでしょうか。

このような記述が、赦しについての、あるいはもう一方の頬をも向けるようにという聖書の教えとどのように調和するのか理解できない人たちがいます。しかし、ここで扱っているのは刑法のことです。キリストによって教えられている赦しと恵みの福音は、殺人のような凶悪な犯罪でも社会によって処罰されるべきではないと教えているわけではありません。殺人者も神の前に悔い改めることができるということは全く別の問題です。犯罪を処罰しなければ、果たして社会は機能するでしょうか。ここに書かれていることは、殺人のような凶悪な犯罪は公正かつ正当な方法で裁かれねばならないという神の意思の表れです。

逃れの町(続き)

問6

民数記35:22~34を読み、以下の質問に答えてください。

  • 共同体はこの問題にどのようにかかわっていますか。共同体全体が参加する意義は何でしたか。
  • 故意の殺人と故殺(計画的でなく一時の激情などによるもの)がどのように区別されていますか。
  • 過失による殺人であっても、犯罪者は保護を受けるためには逃れの町に留まらねばなりませんでした。なぜだと思いますか。
  • 民数記の至るところに、特に背信と罪、反逆に関して、神の超自然的な介入の実例を見ることができます。とするなら、人間が有罪と無罪を決定するこのような司法制度を、神が定められたのはなぜだと思いますか。ほかの事例のように、神が超自然的な方法で正義を執行されなかったのはなぜですか。
  • 一人の証人の証言のみで殺害者を死刑にすることができなかったのはなぜですか。このことは極刑の重大さについてどんなことを教えていますか。

キリストは我らの避けどころ

「わたしの神、大岩、避けどころわたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え不法から救ってくださる方」(サム下22:3)。

問7

サムエル記下22:3は、逃れの町に備えられているものをどのように描写していますか。

問8

私たちはどんな意味で、逃れの町に逃げ込んだ人々が見いだしたのと同じ安全と保護をキリストのうちに見いだすことができますか。ヨハ8:10、11、エフェ1:7、コロ1:14、ヘブ6:18参照

「古代の神の民に定められたのがれの町は、キリストのうちに備えられているのがれを象徴している。この世ののがれの町をお定めになった情け深い救い主が、ご自身の血を流すことによって、神の律法を犯した者に確実なのがれの道をお備えになっているのであって、彼らはそこに逃げ込んで第二の死から守られることができるのである。ゆるしを求めて彼のもとに行く魂を、どんな権力も彼の手から引き離すことはできないのである。『こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない『』だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである』『それは、……前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである』(ロマ8:1、34、ヘブル6:18)。

のがれの町に逃げ込む者はぐずぐずしていることができなかった。家族も職業も放棄した。愛する人々に別れを告げるひまさえない。彼は死ぬか生きるかの境目にいるのであって、ほかのことは全部、安全な場所にたどりつくという一つの目的のために、犠牲にしなくてはならない。疲れも忘れ、困難も気にかけていられない。のがれる人は、町の壁の中にはいるまでは一刻も歩みをゆるめようとしなかった」(『希望への光』268ページ、『人類のあけぼの』下巻147ページ)。一方で、この類比は正確でないところもあります。なぜなら、十字架についての私たちの理解によれば、たとえ殺人であれ、故意の罪を犯した人も主によって赦されるからです。

まとめ

「罪人は、キリストのうちにかくれ場を見いだすまでは永遠の死にさらされている。のがれる者は、ぶらついたり、軽率であったりすれば生きる唯一の機会が失われるかもしれなかった。同じように、ぐずぐずしたり無頓着であったりすることによって魂は滅びるかもしれないのである。大敵サタンは、神の聖なる律法を破る人のあとを追っているので、自分の危険に気づかないで、永遠ののがれの町の中に保護を熱心に求めようとしない人は、この破壊者の手に陥るであろう。囚人が、のがれの町の外へ出たならば、いつでも血の報復者に引き渡された。

こうして人々は、彼らの安全を守るために限りない知恵によって定められた方法を守らねばならないことを教えられた。そのように、罪人が、罪のゆるしを求めてキリストを信じるだけでは十分でない。彼は、信じ、従うことによって、キリストの内にいなければならないのである。『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある』(ヘブル10:26、27)」(『希望への光』268ページ、『人類のあけぼの』下巻147、148ページ)。

アロンはホル山の山頂で死にました(民数記20:28)が、申命記10:6には、「イスラエルの人々は……モセラに着いた。アロンはその所で死んだ」と書かれています。人は一般に2か所で死ぬことはできません。アロンはどうだったかを考えてみましょう。彼はホル山で死ぬと予告されていました。「アロンはそのところで死んでその民に連なるであろう」(同20:26)。モーセの語った「モセラ」という言葉には、へブル語で「あけわたす」「委ねる」「送りだす」の意味があります。この言葉は、ホル山の麓にいたイスラエル人たちがモーセとエレアザルにアロンを「委ね」、彼らをホル山に「送りだ」し、アロンを死に「あけわたす」場所を詩的に表現した言葉でしょう。ホル山の麓は、イスラエル人にとってアロンとの「送別」の場所でした。メリバの水でモーセとアロンは神にそむいて、約束の地カナンに入れなくなりました。ホル山の麓は、アロンの死が予告された場所であり、アロンがそこに「葬られ」た(申命記10:6)場所でした。

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