【ローマの信徒への手紙】信仰によって義とされる【3章解説】#4

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今回から、『ローマの信徒への手紙』の基礎的な主題である「信仰による義認」について学びます。この言葉使いは法律にもとづいた象徴的表現です。法律を破った者は裁判官の前に出て、その罪のゆえに死を宣告されます。しかし、身代わりが現れ、違反者の罪を負い、それによって犯罪者を無罪とします。犯罪者は、身代わりを受け入れて裁判官の前に立ち、自分の罪を赦され、有罪の根拠となった罪を全く犯さなかったものと見なされます。つまり、無罪の記録を持つ身代わりとなった者が、自分自身の完全な法則遵守を提供してくれます。こうして、罪ありとされた者は全く罪を犯さなかったものとして裁判官の前に立つのです。

当人は決して無罪ではありませんでした。むしろ、彼は有罪でした。福音とは、有罪であったにもかかわらず、彼の罪が赦されたことです。

救いの計画においては、私たち一人ひとりが罪人です。身代わりであるイエスは無罪の記録を持ち、私たちの代わりに法廷に立ち、彼の義が私たちの不義の代わりに受け入れられます。こうして、私たちの行いのゆえでなく、イエスのゆえに、私たちは神の前に義とされます。私たちが「信仰によって」イエスの義を受け入れるとき、イエスの義が私たちのものとなります。私たちの過去がどうであれ、イエスを受け入れるとき、私たちは私たちを救うことのできるただ一つの義、イエスの義によって神の前に立つのです。

これが、福音です!これにまさる福音はありません。

律法を実行すること

問1

ローマ3:19、20を読んでください。パウロはここで、律法について、また律法がなし得ること、なし得ないことについて何と言っていますか。すべてのクリスチャンがこのことを理解する必要があるのはなぜですか。

パウロは当時のユダヤ人の理解に従って、「律法」という言葉を広い意味で用いています。ユダヤ人は今日でも“トーラー”(ヘブライ語で「律法」)という言葉を特にモーセの五書、また一般的に旧約聖書全体に含まれる神の教えの意味に理解しています。道徳律と道徳律にもとづく法規や裁き、それに儀式に関する規則はこの教えの一部でした。それゆえ、ここにある律法はユダヤ教の制度をさすと考えられます。

律法の下にあることは、律法の支配下にあることを意味します。しかしながら、律法は神の前における人間の欠点と罪責を明らかにします。律法はこの罪責を取り除くことができません。律法にできることは、罪人を導いて、罪の解決法を求めさせることです。

『ローマの信徒への手紙』を、ユダヤ人の律法が機能を失った現代に適用するとき、律法は特に道徳律を意味すると考えられます。ユダヤ教の制度がユダヤ人を救うことができないのと同様に、この律法は私たちを救うことができません。罪人を救うことは道徳律の機能ではありません。道徳律の機能は神の品性を現すこと、また人間がどんな点で神の品性を反映することができないかを示すことです。どのような法律──道徳律、礼典律、民法、それらの統合されたもの──であれ、それらの一部または全体を守ること自体は人間を神の前に義とはしません。事実、律法はもとより、そうすることを意図したものではありませんでした。むしろ、律法は私たちの欠点を指摘し、私たちをキリストに導くためのものでした。

病気の症状が病気をいやすことができないのと同様に、律法は人を救うことができません。症状はいやしません。それらはいやしの必要を指摘するだけです。律法の機能もこれと同じです。

律法を守ろうとするあなたの努力はどの程度成功していますか。このことから、律法を守ることによって救われようとすることの空しさについてどんなことがわかりますか。

信仰と義

問2

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ロマ3:21)。この聖句の意味をどのように理解したらよいですか。

この新しい義はユダヤ人のよく知っていた律法の義と対比されています。新しい義は「神の義」と呼ばれています。それは神から来る義、神が与えてくださる義、神が真の義として受け入れてくださる唯一の義です。

言うまでもなく、これはイエスが人として地上におられたときに達成された義です。イエスは信仰によって受け入れるすべての人にこの義を与えてくださいます。彼らがこの義を求めるのは、自分にそれを受ける資格があるからではなく、自分がそれを必要とするからです。

問3

「義とは、律法に対する従順である。律法は義を要求し、罪人はそれを律法に負っている。しかし、罪人にはそれを行うだけの力がない。彼が義に到達する唯一の道は信仰による。彼は信仰によってキリストの功績を神に提示し、主は御自分の御子の従順を罪人のものとして認めてくださる。キリストの義が人の失敗の代わりに受け入れられる。神は悔い改め、信じる魂を受け入れ、赦し、義とし、彼があたかも義であるかのように扱い、御自分が御子を愛するように彼を愛してくださる」(エレン・G・ホワイト『セレクテッド・メッセージズ』第1巻367ページ、英文)。私たちはどうしたらこの素晴らしい真理を自分のものとすることができますか(ロマ3:22参照)。

イエス・キリストの信仰(ロマ3:22、英語聖書参照)とは、イエス・キリストを信じる信仰のことです。この信仰がクリスチャンのうちに働くとき、それは知的な同意以上のものとなります。それは、単にキリストの生涯と死についての事実を認めること以上のものです。むしろ、イエス・キリストを信じる真の信仰とは、キリストを救い主、身代わり、保証、主として受け入れることです。それはイエスの生き方を選択することです。それはイエスに信頼し、信仰によってイエスの戒めに従って生きようとすることです。

恵みと義認

問4

律法と律法にできないことについてここまで学んだことを念頭において、ローマ3:24を読んでください。パウロはここで何と言っていますか。贖いがイエスによるとはどんな意味ですか。

この聖句にある「義とされる」とは、何を意味するのでしょうか。「義とする」(ロマ3:26)と訳されているギリシア語の動詞“ディカイオオー”は「、義と認める」「、正しいと宣言する」「、正しいと見なす」を意味します。この語は「義、義認」(ロマ4:11)を意味する名詞“ディカイオスネー”と同語根の言葉です。私たちは義とされるのは、神によって義が賜物として与えられ、義と見なされるときです。義とされる前は、人は不義であって、神に受け入れられません。義とされた後は、彼は義と見なされ、神に受け入れられます。

これはただ神の恵みによってのみ実現します。恵みとは好意のことです。人が救いを求めて神に行くとき、その人は恵みによって義と見なされ、正しいと宣言されます。それは功績によらない好意であって、信じる者は自分自身の功績なしに義とされます。彼はキリスト・イエスによる贖い、すなわちイエスが罪人の身代わり・保証として与えてくださる贖いを通して義とされます。

罪人のときには神の家族の外側にいて、不義で、受け入れられていません。ところが、彼はキリストを信ずるならば、義認によって、神に受け入れられて神の家族の内側に招き入れられ、義とされています。

キリストに結ばれている人は義認を過去の行為、つまり自分自身を完全にキリストにゆだねたときに起こった行為と見なします。「義とされた」(ロマ5:1)は、字義的には「義とされている」です。

もし義とされた罪人が堕落し、その後、キリストに戻れば、義認は再び起こります。回心は日ごとの経験と考えられますが、同じ意味で、義認も繰り返される経験と考えることができます。

「神の義」

ローマ3:25で、パウロは救いの福音についてさらに詳しく説明しています。彼はここで、「罪を償う供え物」という奇抜な言葉を使っていますが、そのギリシア語訳“ヒラステーリオン”は新約聖書の中で、ここと、ヘブライ9:5(「贖罪所」)に出てきます。ローマ3:25で、キリストによる義認と贖いを描写していることから考えると、「贖罪所」は血によって人の罪を過ぎ去らせる贖罪所的な働きをされたキリストを予示していました。つまり、イエスはその犠牲の死によって救いの道を備えるお方、罪を負い、血を振りかけられる贖罪所となられるお方であるという意味です。要するに、神は私たちの救いに必要なことを成し遂げてくださったのです。

私たちを神に受け入れられないものとしているのは、私たちの罪です。私たちは自分ではこの罪を取り除くことができません。しかし、贖いの計画において、神はキリストの血に対する信仰を通してこの罪を過ぎ去らせる道を備えてくださいました。

「過ぎ去らせる」にあたるギリシア語は“パレシス”です。「過ぎ去らせる」とは、決して罪を無視することではありません。神が過去の罪を過ぎ去らせてくださるのは、キリストが御自分の死によってすべての人の罪のための代価を支払ってくださったからです。したがって、「キリストの血によって信じる」人はだれでも、自分の罪を過ぎ去らせていただけるのです。なぜなら、キリストはすでに私たちの罪のために死んでくださったからです(Iコリ15:3)。

問5

ローマ3:26、27を読んでください。パウロはここで、どんなことを強調していますか。

カルバリーの十字架のゆえに、神は罪人を義とされると同時に、宇宙の前でも正しく、公正であると見なされます。サタンは神を告発することができません。神が最高の犠牲を払われたからです。神は自分が与える以上のものを人間に要求していると言って、サタンは神を非難しました。キリストの十字架はこの主張を論破しました。世が罪を犯した後、サタンは神が世を滅ぼすだろうと考えました。しかし、神は世を救うためにイエスを遣わされました。

信仰と行う

問6

「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ロマ3:28)。これは、もし律法が私たちを救わないのであれば、私たちは律法に従う必要がないという意味ですか。

歴史的背景において、パウロはローマ3:28でユダヤ教制度の広い意味での律法について語っています。ユダヤ人がこの制度の下でいかに良心的に生きようとしても、もしイエスをメシアとして受け入れなければ、義とされることはありません。この聖句は、信仰の法則が誇りを取り除くというパウロの主張による結論です。もし人が自分自身の行いによって義とされるのであれば、彼はそれを誇ることができます。しかし、彼がイエスを信じることによって義とされるのであれば、明らかにその功績は罪人を義とされた神のものです。

エレン・ホワイトは「信仰による義認とは何か」という問いかけに対して次のように答えています。「それは、人間の誇りを塵の中に置き、自分の力でできないことを彼に代わって行う神の働きである」(『牧師・伝道者へのあかし』456ページ、英文)。律法の行いは過去の罪を贖うことができません。義認は自力では獲得することができません。それはキリストの贖いの犠牲を信じる信仰によってのみ受けることができます。私たちのうちに義認に値するものが何ひとつなくても、キリストへの

信仰によって義とされるという意味です。

しかし、多くのクリスチャンがこの聖句を誤解し、誤って適用しています。彼らは、行いと神への従順、さらには道徳律の遵守すら軽視し、人のなすべきことはただ信じることだけである、と言います。それによって、彼らは完全にパウロの言葉を誤って解釈しています。パウロは『ローマの信徒への手紙』、その他において、道徳律の遵守を非常に重視しています(ロマ3:31)。イエスはもちろんのこと、ヤコブやヨハネもそうでした(マタ19:17、ロマ2:13、ヤコ2:10、11、黙14:12)。パウロが強調しているのは、律法に対する従順は義認の手段ではないということです。信仰によって義とされた人はなお神の律法を守るし、義とされていない生まれながらの人は決して律法の要求を満たすことができません。

まとめ

「キリストの品性があなたの品性の代わりとなり、神の前に全く罪を犯したことのない者として受け入れられるのです」(『希望への光』1956ページ、『キリストへの道』82ページ)。

「恵みとは、功績によらない好意である。罪を全く知らない天使たちは、恵みが自分たちに行使されることの意味を理解しない。しかし、私たちの罪深さは憐れみ深い神からの恵みの行使を要求する」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻331、332ページ、英文)。

「信仰は、神が罪人に赦しを約束される条件である──信仰に救いの功績となる美徳があるからではなく、信仰が罪のいやしであるキリストの功績を捕らえるからである。信仰は罪人の罪と欠点の代わりにキリストの完全な服従を提示する。罪人がキリストを自分の個人的な救い主と信じるとき、神は御自分の確かな約束に従って彼の罪を赦し、彼を無償で義としてくださる。悔い改めた魂は、自分が義とされたのは、自分の身代わり・保証であるキリストが自分のために死に、自分の贖いと義となられたゆえであることを認める」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻366、367ページ、英文)。

「律法は罪に対する刑罰を免除できず、罪人にあらゆる負債を負わせるが、キリストは悔い改めて彼の憐れみを信じるすべての人に豊かな赦しを約束しておられる。神の愛は悔い改めて信じる魂に豊かに提供されている。魂に押された罪の烙印は、……父なる神と同等のお方であったキリストの贖いの犠牲によってのみ除去される。キリストの働き、失われた人類のためのキリストの生涯、苦難、死、執り成しは律法を拡大し、光栄あるものとする」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻371ページ、英文)。

イエス・キリストを個人的な救い主として信じる者は、罪が赦されるだけでなく、主の完全な御品性を着せられます。罪や失敗だらけの歩みが、主の完璧な御生涯に交換させられるのです。「恵みによる、信仰による」ということは、計算度外視ということです。神は私たちを救うために、自ら大損を選んでくださったのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2010年3期『「ローマの信徒への手紙」における贖い』からの抜粋です。

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