この記事のテーマ
私たちは今、ローマ書の研究の最後の部分にいます。これは宗教改革を生み出した書であり、ほかのどの書巻よりも、なぜ私たちがプロテスタントであるのか、またなぜそうあり続けなければならないのかを確かに示しています。私たちはプロテスタントとして、とりわけセブンスデー・アドベンチストとして、信仰の土台を「聖書のみ」(ソーラ・スクリプトゥラ)の原則の上に置いています。そして、何世紀も前の霊的先人がローマ〔カトリック教会〕から離脱する原因となったのと同じ真理、つまり「信仰による義」という偉大な真理(パウロのローマ書で力強く表明されている真理)を私たちが学んできたのも、この聖書からでした。
すべては、あの異教徒の看守の質問によって要約されうるかもしれません——「救われるためにはどうすべきでしょうか」(使徒16:30)。ローマ書の中に、私たちはその質問に対する答えを得ました。そしてその答えは、ルターの時代に教会が与えていた答えではありませんでした。だから宗教改革が始まり、私たちは今日ここにいるのです。
この結びの部分において、パウロはほかの主題、おそらく彼の中心主題ではないものの、この手紙に含めるだけの重要さを持つ事柄に触れます。それゆえ、私たちにとってそれらも神聖な聖書の一部なのです。
パウロはどのようにこの手紙を結び、何を記したのでしょうか。そして、彼の後継者(相続人)であるばかりでなく、プロテスタントの先人の後継者である私たちにとって、そこにはどんな真理があるのでしょうか。
信仰が弱い
ローマ14:1〜3における問題は、偶像にささげられたと思われる肉を食べることに関係しています。異邦人改宗者はそのような食物を避けるべきだと、エルサレム会議(使徒15章)で定められました。しかし、市場で売られている肉が偶像にささげられた動物のものかどうかという疑問が、常に存在したのです(Iコリ10:25参照)。そのことをまったく気にしないクリスチャンもいれば、少しでも疑いがあるなら、代わりに野菜を食べることを選ぶクリスチャンもいました。この問題は、菜食主義や健康に良い生活とは無関係でしたし、パウロはこの箇所で、清い肉と汚れた肉の区別がなくなったとほのめかしているのでもありません。考察されている主題は、そういうことではありません。もし「何を食べてもよい」(ロマ14:2)という言葉が、清いものであれ、何であれ、今やどんな動物の肉でも食べられることを意味していると理解するなら、それは誤用されることになるでしょう。新約聖書のほかの箇所と照らし合わせれば、そのような適用は認められません。
一方、信仰の弱い人を「受け入れ(る)」というのは、教会員としての正式な資格と社会的地位をその人に与えることを意味します。その人は反論されるべきではなく、自分の意見を述べる権利が与えられるべきでした。
ローマ14:3で、パウロが「信仰の弱い人」を否定的に語っていないことに気づくことも重要です。しかも彼はそのような人に、強くなるための助言も与えていません。神に関する限り、(神によってではなく、仲間のクリスチャンによって、一見したところ几帳面すぎると判断された)過度に几帳面なクリスチャンも受け入れられます。「神はこのような人をも受け入れられたからです」
問1
ローマ14:4は、私たちが考えた1〜3節の問題点をいかに詳述していますか。
裁きの座の前
ローマ14:10を読んでください。私たちは時折、ほかの人を厳しく裁く傾向があります。また、しばしば自分自身に対しても同じことをします。しかし私たちがすることは、ほかの人が同じことをするときほどには、私たちの目に悪く映らないものです。私たちは偽善によって自分自身をだませても、次のように警告なさった神をだますことはできません。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか」(マタ7:1〜4)。
ローマ14:11を読んでください。ここのイザヤ45:23からの引用は、すべての人が裁きを受けなければならないという思想を支持しています。「すべてのひざ」「すべての舌」とは、個々の召喚をあらわしています。その意味合いは、それぞれの人が自分の一生と行為に対して釈明しなければならないということです(ロマ14:12)。だれもほかの人に代わって答えることはできません。このような重要な意味において、私たちは兄弟の「番人」ではないのです。
ローマ14:14を読んでください。ここで言っている主題は、依然として偶像にささげられた食べ物です。問題は明らかに、清いとか汚れたとかみなされる食べ物の区別ではありません。パウロは、偶像にささげられたかもしれない食べ物を食べること自体は問題ない、と言っています。そもそも、偶像とは一体何でしょうか。何物でもありません(Iコリ8:4)。ですから、異教徒たちがカエルの像や牛の像に食べ物をささげたとしても、どうでもいいことなのです。
人は自分の良心を、たとえそれが敏感すぎるとしても、侵害されるべきではありません。「強い」兄弟たちは、この事実を理解していなかったようです。彼らは「弱い」兄弟たちの几帳面さを軽蔑し、彼らの前につまずきとなるものを置いたのです。
そしりの種にならないように
問2
ローマ14:15〜23を読み(Iコリ8:12、13も参照)、パウロが言っていることの要点を下の余白にまとめてください。この箇所から、私たちの生活のあらゆる領域に適用できるどんな原則を引き出すことができますか。
ローマ14:17〜20において、パウロはキリスト教のさまざまな側面を正しく捉えています。食事は大切ですが、偶像にささげられたかもしれない肉の代わりに野菜を食べようとする人の選択について、クリスチャンは言い争うべきではありません。そうではなく、クリスチャンは、聖霊によって与えられる義、平和、喜びに焦点を合わせるべきです。私たちはこの考えを、私たちの教会における現代の食事の問題に、どう適用できるでしょうか。健康のメッセージ、とりわけ食事に関する教えが、どれほど私たちにとって祝福になりえるとしても、すべての人がこの問題を同じように捉えているわけではありません。ですから、私たちはそれらの違いを尊重する必要があります。
ローマ14:22を読んでください。「私が何を食べようが、何を着ようが、どんな気晴らしをしようが、あなたたちの知ったことじゃない」とだれかが言うのを、あなたは聞いたことがありませんか。本当にそうでしょうか。私たちはみな、独りで生きているのではありません。私たちの行動、言葉、そして食事さえもが、良かれ悪しかれ、ほかの人に影響を及ぼします。どうしてかを理解することは難しくありません。もしあなたを尊敬するだれかが、何か「悪い」ことをしているあなたを見かけたなら、その人はその手本に影響を受けて同じことをしかねないからです。もしそう思わないとすれば、私たちは思い違いをしています。その人を強制したわけではないと主張することも的外れです。クリスチャンとして、私たちは互いに責任があり、もし私たちの手本がだれかを堕落させうるなら、私たちは非難に値します。
いろいろな日を守る
私たちとは異なる観点から物事を見る人を裁かず、私たちの行動で気分を害するかもしれない人々にとってつまずきの石とならないことに関する議論の中で、パウロは特定な日の問題を持ち出します。特別な日は、守りたいと思う人もいれば、守りたくない人もいるのです。
ローマ14:4〜10を読んでください。パウロは何の日について語っているのでしょうか。初代教会の中に、ある日を守るか守らないかを巡って論争があったのでしょうか。どうやらそのようです。パウロが「いろいろな日、月、時節、年」の順守のことでガラテヤのクリスチャンを厳しく非難しているガラテヤ4:9、10に、そのような論争がほのめかされています。第2課で述べたように、教会内のある人たちが、割礼をするとともにモーセの律法のほかの掟も守りなさいと、ガラテヤのクリスチャンを説得していました。パウロは、このような考えがローマの教会にも悪影響を与えるかもしれないと恐れたのです。しかし、たぶんローマにおいて、もはやユダヤの祭りを守る必要がないことをなかなか納得できなかったのは、特にユダヤ人クリスチャンだったでしょう。パウロはここで、次のように言っています。「この件に関しては好きなようにしなさい。重要なのは、あなたとは異なる考え方をする人を裁かないことです」。どうやら、念のために、ユダヤの祭りをいくつか守ることにしたクリスチャンがいたようです。パウロの勧告は、守るべきだと思う人には守らせなさいというものでした。
ある人たちが論じるように、週ごとの安息日をローマ14:5に持ち込むことは、正当な根拠がありません。十戒の第四条に対してこれほどこだわりのない姿勢を取っているパウロを、だれが想像できるでしょうか。今期ずっと見てきたように、パウロは律法の順守を非常に重んじていました。ですから、彼が十戒の掟を、偶像にささげられたかもしれない肉を食べることに神経質な人たちと同じ部類に入れることは決してありません。第七日安息日がもはや拘束力を持たないことを示す例として、これらの聖句がどれほど一般的に用いられようと、それらはそんなことを述べていません。このような用い方は、パウロの書いた物を人々が誤用しているとペトロが警告した典型的な例です——w「彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(IIペト3:16)。
最後の言葉
問3
ローマ15:1〜3を読んでください。この箇所は、キリストの弟子であるとはどういうことかを、いかに捉えていますか。同じ考えを教えている聖句には、ほかにどのようなものがありますか。肝心なことに、あなた自身はこの原則をいかに実行することができますか。
パウロは祝福の祈りで手紙を締めくくっています(ローマ15:5、6、13、33参照)。「忍耐……の源である神」とは、御自分の子らが揺らぐことなく忍耐できるように助けてくださる神という意味です。「忍耐」という言葉(ギリシア語で「ヒュポモネー」)は、「不屈」「揺るぎない我慢強さ」を意味します。「慰め」に相当するギリシア語は、「励まし」と訳すこともできます。励ましの神とは、だれかを励ましてくださる神です。「希望の源である神」とは、人類に希望を与えてくださった神です。同様に、「平和の源である神」とは、平和を与えてくださる神、人がそのお方の中に平和を見いだせる神のことです。
ローマ16:25〜27を読んでください。パウロは、神をほめたたえる輝かしい言葉で手紙を書き終えています。ローマの信徒、そしてすべてのクリスチャンが、信仰によって義とされ、今や神の霊によって導かれている贖われた神の息子、娘としての自らの立場を確かなものとするうえで、神は安心して信頼することのできるお方です。
私たちは、パウロが特定の時代の特定の状況に応じてこの手紙を書くために主から霊感を受けたことを知っています。しかし、主が未来についてパウロに啓示されたことの一部始終は、私たちにはわかりません。
確かに、パウロは「神に対する反逆」(IIテサ2:3)について知っていましたが、彼がどれほど知っていたのかは、聖句に書かれていません。要するに、パウロが、彼や彼が書いたもの、とりわけこの手紙が終末の諸事件の中で果たす役割を多少なりとも知っていたのかどうか、私たちにはわかりません。ある意味で、そのようなことは重要ではありません。本当に重要なのは、プロテスタント主義がこれらの聖句の中から生まれたということであり、またイエスに忠実であろうとする人々が、自分の信仰や献身の根拠となる聖書的土台をそれらの聖句の中にこれまで見いだしてきたし、この世が「驚いてこの獣に服従」(黙13:3)するときでさえ、これからも見いだしていくだろうということなのです。
さらなる研究
「神の民の危険性が私に示された。すなわち、神の民がホワイト兄姉〔ジェームズ・ホワイトとエレン・ホワイト〕に頼りすぎ、重荷を携えてふたりのもとへ行き勧告を求めなければならない、と考えることの危険性である。これは、本来そうあるべきではない。神の民が疲れ、重荷を負うとき、彼らは、情け深く、愛情深い救い主のもとへ来るようにと招かれている。そして救い主は、彼らを楽にしてくださるのである。……多くの人が私たちのところへ質問を持ってやって来る。『私はこれをすべきですか』、『私はこの事業に関わるべきですか』、あるいは服に関して、『私はこれとかあれを着るべきですか』などと。私は彼らにこう答える。『あなたはキリストの弟子だと告白しているのでしょう。だったら聖書を学びなさい。親愛なる私たちの救い主が地上で人々の間に住んでおられたとき、どんな生活を送られたか、祈りつつ、注意深く読んでごらんなさい。彼の生活をまねるなら、あなたは狭い道から迷い出ることはないでしょう。私たちがあなたの良心になることは、きっぱりお断りします。もしあなたがすべきことを私たちが告げるなら、あなたはイエスのもとへ真っ直ぐ行く代わりに、あなたを導くよう、私たちに頼ってしまうからです』と」(『教会への証』第2巻118、119ページ、英文)。
「自分の義務についての責任を他人におしつけて、彼らがわれわれにすべきことを告げてくれるのを待ってはならない。われわれは人の助言にたよることはできない。主はほかの人にお教えになるのと同じようによろこんでわれわれの義務をお教えになる。……神をよろこばせないようなことは何もしないと決心する者は、自分の問題を神の前に持ち出したあとで、とるべき道を知るであろう」(『希望への光』1026、1027ページ、『各時代の希望』下巻150、152ページ)。
「教会の中には、絶えず、個人的な独立に走ろうとする傾向の人々がいる。彼らは、独立心というものが、人を自己過信に陥らせ、兄弟たち……の勧告を尊重せず、また彼らの判断を高く評価しないで、自己の判断に頼らせてしまう、ということに気づかないようである」(『希望への光』1417ページ、『患難から栄光へ』上巻175ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2017年4期『信仰のみによる救いーローマの信徒への手紙』からの抜粋です。