【ローマの信徒への手紙】ほかはすべて注釈【解説】#13

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ある人が片足で立ったまま、有名な古老のラビに、律法全体の意味を説明してくれるように頼みました。「自分のいやなことを、人にもしないこと」と、老ラビは片足で立ったまま答えました。「これが律法のすべてであって、ほかはみな注釈じゃよ」

ラビの言葉に同意する、しないは別にして、彼が重要なことを教えていることは確かです。私たちの信仰のある部分は基本的なものですが、ある部分は単なる「注釈」にすぎません。今回は、この「注釈」のいくつかについて考えます。これまで学んだことはすべて、救いの基本的な原則に関するものでした。旧約聖書の制度全体であれ、十戒であれ、救いにおける律法の役割は何でしょうか。パウロは、神が何にもとづいて人を受け入れられるのかを明確に定義する必要がありました。たぶん、すべては異教徒の看守の次の質問によって要約することができます。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(使徒16:30)。

基本的な問題について説明した後で、パウロはいくつかの「注釈」にとりかかります。ある点については強く主張していますが、その一方で、ほかの点については、ずっと自由な態度を取っています。なぜなら、それらが本質的なものではなく、いわば「注釈」だからです。しかし、論題そのものは問題性が少なくても、クリスチャンがこれらの論題を論じるときの態度は非常に重要です。

信仰の弱い兄弟

ローマ14:1~3では、偶像に供えられたかもしれない肉を食べることの是非が問題になっています。エルサレム会議では、異邦人の回心者はそのような食物を避けるべきことが決められていました(使徒15章)。しかし、市場で売られていた肉が偶像に供えられた動物のものかもしれないという疑問がつねにありました(Iコリ10:25参照)。そのようなことを全く気にしないクリスチャンもいましたが、気にするクリスチャンは、少しでも疑問のあるときには、代わりに野菜を食べました。これは菜食主義や健康の問題と全く関係がありませんでした。パウロはここで、清い肉と汚れた肉の区別が撤廃されたと言っているわけでもありません。そのようなことがここで論じられているのではありません。「何を食べてもよい」(ロマ14:2)という言葉を、清いものであれ汚れたものであれ、今やどんな動物を食べてもかまわなくなったという意味に解釈するなら、それは誤りです。新約聖書のほかの聖句と比較するなら、そのような解釈はできないはずです。

信仰の弱い人を「受け入れる」ことはその人を教会員として認めることでした。彼は批判されることなく自分の意見を述べる権利を与えられました。

問1

私たちはローマ14:1~3からどんな原則について学ぶべきですか。

パウロは3節で、その「信仰の弱い人」を責めているのではありません。強くなる方法に関して、彼に助言を与えているのでもありません。神に関するかぎり、その過度に用心深いクリスチャンは受け入れられています(彼は神によってでなく、ほかのクリスチャンから過度に用心深いと見られているだけです)。「神はこのような人をも受け入れられたからです」

問2

ローマ14:4はここで学んだ主題をどのように拡大していますか。

はかり

問3

ローマ14:10を読んでください。パウロはここで、人を裁くことについて注意すべき理由としてどんなことをあげていますか。

私たちは自分も行っていることについて人を厳しく裁く傾向があります。神は次のように戒めておられます。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか」(マタ7:1~4)。

問4

パウロがここで旧約聖書から引用している聖句はどれほど意味深長ですか。ロマ14:11

「すべてのひざ」、「すべての舌」は、この召喚が個人的なものであることを示しています。つまり、各人が自分自身の生き方と行いに関して申し開きをしなければならないということです(12節)。他人のために申し開きをすることはできません。この意味で、私たちは兄弟の番人ではありません。

問5

文脈に従って解釈すると、ローマ14:14にあるパウロの言葉は何を意味しますか。

パウロが言っているのは、偶像に供えられたかもしれない食物を食べること自体が悪いのではないということです。結局のところ、偶像とは何でしょうか。そのようなものは存在しません(Iコリ8:4参照)。

たとえ良心が過度に敏感な人だったとしても、私たちは人の良心を犯すようなことをすべきではありません。「強い」兄弟たちは、「弱い」兄弟たちの敏感な良心を軽んじ、彼らの前につまずきの石を置きました。

人を誘惑しない

問6

ローマ14:15~23を読んでください(Iコリ8:12、13参照)。

パウロがここで述べていることの要点は何ですか。これらの聖句から、私たちの生活のあらゆる領域に当てはまるどんな原則を学ぶことができますか。

パウロはローマ14:17~20で、キリスト教のさまざまな側面を正しい視点から眺めています。食事は重要ですが、クリスチャンは偶像に供えられたかもしれない肉の代わりに野菜を食べる人たちの選択をめぐって争うべきではありませんでした。むしろ、彼らは聖霊による義と平和、喜びに心を向けるべきでした。私たちは今日、この思想を私たちの教会における食事の問題にどのように適用したらよいのでしょうか。健康のメッセージ、特に食事に関する教えがいかに私たちにとって祝福であろうとも、すべての人がこの問題について同じ考えを持っているとは限りません。

問7

人々を自分自身の良心に委ねることについて述べる途中で、パウロは非常に興味深い断り書きをしています。「自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」(22節)。パウロはここで何と警告しているのでしょうか。これは、彼がこの段落で述べているほかの部分とどのように釣り合いますか。

「私が何を食べ、どんな物を着、何を楽しもうと、人の知ったことではない」とだれかが言うのを聞いたことがありませんか。果たして、そうでしょうか。私たちはだれひとり、孤立状態の中で生きているのではありません。私たちの態度や言葉、行為、食事は、よい意味でも悪い意味でも、ほかの人に影響を及ぼします。考えてみてください。もしあなたを尊敬している人が、あなたが何か「悪い」ことをするのを見たなら、あなたの模範に習って、同じことをしないとも限りません。そのように考えるのが普通です。いや、自分がそうするように強制したわけではない、と言うのは、的はずれです。私たちはクリスチャンとして互いに責任を負っています。もし私たちの模範がだれかを迷わせることになれば、私たちは責任を問われます。

特別な日を守る

自分と異なる考え方をする人を裁いてはならないこと、またそのような行為によって人をつまずかせてはならないことについての議論の中で、パウロは人によって対処の異なる特別な日に関する問題を持ち出しています。

問8

ローマ14:4~10を読んでください。パウロがここで述べていることを、どのように理解したらよいですか。それは十戒の第4条のことを言っていますか。

パウロが論じているのは、何の日のことでしょうか。特定の日の遵守または非遵守をめぐって初代教会において何か論争があったでしょうか。ガラテヤ4:9、10を読むと、そのような論争があったことがわかります。パウロはここで、「いろいろな日、月、時節、年など」を守っていることに関して、ガラテヤのクリスチャンを厳しく非難しています。第2課でも見たように、教会の中には、ガラテヤのクリスチャンに、割礼を受けてモーセの律法を守るように勧める人たちがいました。パウロは、このような考えがローマの教会にも悪影響を与えることを恐れました。しかし、ローマでも、特にユダヤ人のクリスチャンが、もはやユダヤ教の祭りを守る必要がないということに確信が持てなくて困っていたはずです。パウロはここで、この件に関しては、自分の好きなようにすればよい、と言っています。重要なのは、自分と異なった考え方の人を裁かないことです。クリスチャンの中には、明らかに、安全策をとって、ユダヤ教の祭りの中のいくつかを守ろうとする人たちもいたでしょう。

ある人たちが言うように、週ごとの安息日をローマ14:5に含めることには、正当な理由がありません。パウロが十戒の第4条に関してそのような曖昧な態度を取ることは考えにくいことです。これまで見てきたように、パウロは律法を守ることを非常に重視しています。したがって、彼が安息日の戒めを、偶像に供えられたかもしれない食物を食べることに関して厳格な態度を取る人たちと同じ範疇で論じるようなことはありえません。第7日安息日がもはや拘束力を持たないことの例として、これらの聖句がどれほど一般的に用いられていようとも、これらの聖句にはそのような意味はありません。

祝福の祈り

問9

ローマ15:1~3を読んでください。これらの聖句の中に、どんな重要なキリスト教の真理が述べられていますか。

問10

手紙を締めくくるにあたり、パウロはどんな祝福の祈りをささげていますか。ロマ15:5、6、13、33

忍耐の神とは、神の子らが忍耐強く耐える力を与えてくださる神を意味します。

「忍耐」を意味する[ギリシア語の]“ヒュポモネー”は「不屈の精神」「、堅忍不抜」を意味します。「慰め」は「励まし」と訳すこともできます。励ましの神は励ましを与えられる神です。希望の神は人類に希望を与えられる神です。同様に、平和の神は平和を与えられる神です。私たちは神によって平和を持つことができます。

励まし、希望、平和──信仰による義を中心テーマとする手紙にふさわしい祝福の祈りです。それらは、いま私たちの世界が最も必要としているものです。

問11

長々と個人的な挨拶を述べた後で、パウロはどのようにその手紙を結んでいますか。ロマ16:25~27

パウロは神に対する輝かしい賛美の言葉をもって手紙を結んでいます。神は、すべてのクリスチャンが神の贖われた息子・娘として、また信仰によって義とされ、聖霊によって導かれる者として、心からの信頼を寄せることのできるお方です。パウロはそのような輝かしい知らせを伝える者となることに喜びを感じています。彼はこの知らせを「わたしの福音」と呼んでいます。それは、パウロが宣べ伝える福音を意味します。しかし、彼が宣べ伝える福音はイエスによる宣教、預言者たちのメッセージによって確証されたものです。福音が隠されていたのは、神がそれを人に知らせることを望まれなかったからではなく、人が天からの光を拒み、神がさらなる光を与えてくださるのを妨害したからでした。神がどのようなお方であるか、また人が神の力によってどのような者となることができるかを明らかにしてくださいました。そのような新しい生き方は「信仰による従順」にもとづいた生き方となるのでした。それは主を信じる信仰から湧き出る従順です。主は恵みを通して、求めるすべての者に与えられる義によって罪人を義としてくださいます。

まとめ

「神の民がホワイト夫妻を頼り、重荷を携えて夫妻のもとに行き、夫妻の勧告を求めねばならないと考えることの危うさを、私は示された。そのようなことをすべきではない。疲れ果て、重荷を負っているときには、彼らは憐れみと愛に満ちた救い主によって御自身のもとに来るように招かれている。救い主は彼らをいやしてくださる。……多くの者が私たちのもとに来て、次のように尋ねる。『私はこうすべきでしょうか。この事業にかかわるべきでしょうか。あるいは、着る物について、これこれを着るべきでしょうか』と。私は次のように答える。『あなたはキリストの弟子であることを自認している。あなたの聖書を学びなさい。細心の注意と祈りをもって、私たちの愛する救い主が地上で人間のうちに住まれたときどのように生きられたかを読みなさい。彼の生き方に倣いなさい。そうすれば、狭い道から逸れることはない。私たちはあなた方の良心になることを断固、拒否する。もし私たちがあなた方のなすべきことを告げるなら、あなた方は自分で直接、イエスのもとに行く代わりに、私たちに導きを求めるようになるだろう』」(『教会へのあかし』第2巻118、119ページ、英文)。

「自分の義務についての責任を他人におしつけて、彼らがわれわれにすべきことを告げてくれるのを待ってはならない。われわれは人の助言にたよることはできない。主はほかの人にお教えになるのと同じようによろこんでわれわれの義務をお教えになる」(『希望への光』1026、1027ページ、『各時代の希望』下巻150、152ページ)。

「教会の中には、絶えず、個人的な独立に走ろうとする傾向の人々がいる。彼らは、独立心というものが人を自己過信に陥らせ、兄弟たち……の勧告を尊重せず、また彼らの判断を高く評価しないで、自己の判断に頼らせてしまうということに気づかないようである」(『希望への光』1417ページ、『患難から栄光へ』上巻175ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2010年3期『「ローマの信徒への手紙」における贖い』からの抜粋です。

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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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