【申命記】命を選ぶ【解説】#8

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22歳の若い女性が脳腫瘍のような死に至る病を宣告されるというのは、悲しい話です。そして、すばらしい現代医学をもってしても、どうすることもできません。しかし、この若い女性「サンディー」は生きる方法を模索しました。

そこで、彼女は一つの計画を立てました。それは彼女の死後、頭部を液体窒素の容器の中て凍結し、彼女の脳細胞を保存するというものでした。いずれ科学技術が進歩した未来に、神経の連結である脳をコンピューターに取り込み、彼女は永久に「生きる」という計画でした。

この話の悲しさは、彼女のような若者が死んでゆくこと以上に、彼女が生きる望みをかけた方法にあります。多くの人々がそうであるように、サンディーは命を求め、生きたいと思いました。しかし彼女は、結局のところ、自分の望みをかなえられないであろう方法を選んだのです。

今回私たちは、命の選択について、命を選ぶ機会について、申命記から引き続き学びます。命を与えて養ってくださっている主なる神が、恵みによって与えてくださった条件のもとで命を選ぶのです。

命の木

誰もこの世に生まれることを願った人はいないはずです。私たちは誰も、生まれる場所も時も、どの両親のもとに生まれるかも選んだわけではありません。

アダムとエバも同じでした。彼らは神によって、葉や岩や山に造られることを選ぶことはできませんでした。私たちは単なる(岩のような)存在や、(アメーバのような)生命体としてではなく、人類として存在と命を与えられ、理性による選択の自由を持ち、神の御像に造られたのです。

しかし私たちは、理性による選択の自由を持った神の御像として生まれることを選んだわけではありません。それにもかかわらず、神は私たちに、生き続けるかどうかの選びをお与えになっています。すなわち、イエスとその十字架の死によって命を得、主にあって永遠の命を得るかどうかの選択です。

問1

創世記2:8、9、15~17と同3:22、23を読んでください。神はアダムに、生きることに関してどんな二つの選択肢を提示されましたか。

「エデンの中央にいのちの木が生えていて、その実には、生命を永続させる力があった。もしアダムが神に従っていたなら、この木に自由に近づくことができて、永遠に生きたのである。しかし罪を犯した時に、彼は、いのちの木の実を食べることができなくなり、死ぬべきものとなった。『あなたは、ちりだから、ちりに帰る』との神の宣告は、生命が完全に断たれることを示している」(『希望への光』1856ページ、『各時代の大争闘』下巻279ページ)。

このように、その始まりから、聖書は私たちに二つの選択肢を提示します。それは、私たちが本来持つはずであった永遠の命か、単に私たちが生まれる前の何もない状態に帰る永遠の死のどちらかでした。

聖書の言う「命の木」がどのように不死をもたらすのかは興味深いですが、聖書の最初の書と最後の書に命の木が出てくるのも興味深いことです。黙示録2:7と22:2、14を読んでください。私たちは、罪のために命の木に近づけなくなりましたが、最後に罪の問題が最終的かつ完全に終わるとき、イエスと救いとの計画のおかげで、命を選び、贖われた者たちは、当初からの予定通り、命の木に近づくことができるのです。

中立の立場はない

聖書はその全体を通して、私たちに二つの選択肢のうちの一つを示しています。私たちの前には二つの選択肢があるのです。

問2

次の聖句を読んでください。明らかにまたは暗に、どんな二つの選択肢が示されていますか。ヨハネ3:16、創世記7:22、23、ローマ6:23、ローマ8:6、1ヨハネ5:12、マタイ7:24~27

結局のところ、私たち人類に中立の立場はありません。大争闘が完全に終わる前に、罪、サタン、悪、不服従、そして反逆は根絶されます。その後、私たち1人ひとりは、神が世界の創造の前に、元々私たちのために計画しておられた命である永遠の命を得るか、あるいは、「彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」(2テサ1:9)と書かれた永遠の死に直面するかのどちらかです。聖書はこの二つ以外の選択肢を示していません。

どちらの運命が私たちのものになるのでしょうか。その答えは最終的に私たち自身の選択にかかっているのです。私たちの前には生か死かの選びしかないのです。

命と幸い、死と災い、祝福と呪い

申命記の終盤で、民が主に従わず、契約の約束を破ることによって彼らに起こることを長く語った後で、申命記30章は、彼らが背き、荒れ野をさまようことになったとしても、神は彼らを約束の地に導かれるという約束で始まっています。

それは、彼らが悔い改め、その罪を離れるときに実現する約束でした。

問3

申命記30:15~20を読んでください。ここに古代イスラエルに対するどのような選択肢が示されていますか。それらは、聖書全体を通して示されている真理をどのように反映していますか。

主の選択肢は非常に明白です。ヤハウェの神は、基本的にエデンでアダムとエバに提示されたのと同じ選択肢を彼らの前に置かれます。申命記30:15で用いられているヘブライ語の「幸い」〔善〕と「災い」〔悪〕は、創世記で「善と悪を知る木」に用いられているヘブライ語と同じです。聖書全体がそうであるように、善と悪の中間の立場はないのです。主に仕えて命を得るか、死を選ぶかのどちらかなのです。この事実は今日の私たちにとっても変わりません。

命、幸い、祝福の反対は何でしょうか。死、災い、呪いです。最終的に、神は幸い、命、祝福だけを与えてくださると正しく主張することができます。しかし人が神から離れれば、神の特別の守りが取り去られてしまうため、これらの悪いことは当然の結果となります。

どう考えても、イスラエルの人々には選択肢が提示されています。そして、彼らが自由意志、自由な選択を持っていたことも明白です。これらの聖句は、旧新両約聖書の多くの箇所と同様、自由意志、選択の自由という聖なる賜物から離れてはまったく意味を成しません。

主が彼らに言われた真意は、「与えられた自由意志を用いて命と祝福と幸いを選びなさい。死と災いと呪いを選んではならない」ということでした。

何が正しい選択であるかは明白だったのではないでしょうか。しかし、私たちはその結果を知っています。大争闘は、その時に現実であったと同じように今も現実です。だからこそ、私たちはイスラエルの失敗から、自分自身を完全に主に明け渡さず、命を選ばなければ、どうなるのかを学ばねばなりません。

この戒めは難しすぎるものではない

申命記30章は、民が悔い改め、悪の道から離れるなら何が起きるかを主が彼らに語られる場面から始まります。なんとすばらしい約束でしょう。

問4

申命記30:1~10を読んでください。この約束は、もし民が神に従わないとどうなるかという文脈の中で語られていることを考えるとき、この約束は神の恵みについて何を教えていますか。

この約束は確かに慰めに満ちたものですが、それは民が、神がお命じになることに背いても構わないという意味ではありません。神は安価な恵みを提供してはおられません。何であれ、そこに神の愛が示されているなら、彼らはその応答として神を愛し、主がお命じになったことに従うことを通して彼らの愛を示すのでした。

問5

申命記30:11~14を読んでください。ここに示されている基本的な約束は何ですか。同じ約束を思い起こさせる新約聖書の聖句がありますか。

ここに訴えられている言葉の美しさ、完璧な論理に注目してください。神は彼らに到底できないことを求めておられるのではありません。神のご命令は彼らが理解するに「難しすぎる」ものでも、彼らが手を伸ばしても「遠く及ばぬもの」でもないのです。それは天にあって手の届かないものでもなく、海のかなたの行き着けない所にあるのでもないのです。主は言われます。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申30:14)。あなたはみ言葉を暗唱するほどよく知っており、それらはすでにあなたの心の中にあるのだから、それを行えないはずはないというのです。従えない言い訳はないのです。「神のお命じになることはどんなことでも、成しとげることができるのである」(『希望への光』1315ページ、『キリストの実物教訓』307ページ)。

事実、使徒パウロはキリストにある救いという文脈で申命記のこの部分を引用し、信仰による義について述べています(ロマ10:6~10参照)。

このように語られた後、イスラエルの子らは、命と幸いか死と災いを選ぶよう命じられます。恵みと信仰によって彼らが命を選ぶなら、彼らはそれを得ることができるのでした。それは今日も同じです。

礼拝における問題

主とイスラエルの契約関係の中心は礼拝でした。イスラエルの民を、周囲の世界のすべてと異なる民としていたものは、神でも何でもない異教世界の偽りの神々や女神たちを礼拝せずに、唯一、真の神を礼拝していたということでした。「しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない」(申32:39)。

問6

申命記4:19、8:19、11:16、30:17、18を読んでください。これらの聖句に共通する警告は何ですか。イスラエル民族にとって、この警告はなぜ非常に重要なのでしょうか。

今日と同じように、数千年も前に神の民はほとんどの場合、彼らの信仰と相反する基準、伝統、考えが浸み込んだ文化や環境の中にありました。したがって神の民は常に周囲の世界の慣習、偶像、「神々」が彼らの礼拝の対象になることがないよう警戒していなければなりませんでした。

私たちの神は「熱情の神」(申4:24、5:9、6:15)であり、主だけが私たちの造り主、贖い主であり、私たちが礼拝するに値するお方なのです。命、幸い、祝福をもたらす主を礼拝するか、災い、呪い、死をもたらすほかの神を礼拝するか、ここにも中立の立場はありません。

問7

黙示録13:1~15に示されている礼拝と同14:6~12に示されている礼拝を比べてください。黙示録には、申命記(実は聖書全体を通して)の偽りの礼拝に関する警告がどのように反映されていますか。

文脈は違っても問題は同じです。すなわち、民は真の神を礼拝し命を得るか、圧力に屈して公然と、あるいは気づかずに、いずれにせよ、神への忠誠を捨てて死に向かうかなのです。究極の答えは1人ひとりの心の中にあります。神は、神に従うように古代イスラエルを強制されませんでしたし、私たちを強いることもなさいません。黙示録13章を見ると、強制は獣とその像の用いる方法です。神は、対照的に、愛によって行動するお方です。

気づかずにであっても、私たちの忠誠がイエスから離れて何かほかの「神」にゆっくりと移ってしまうことがないようにするには、何が重要でしょうか。

さらなる研究

というわけで、私たちはすべてのことに選択の機会が与えられています。ここで重要なのは選択という言葉です。ある特定のキリスト教が理解するように、神は、ある人は滅びるだけでなく永遠に地獄で焼かれるように、人類誕生の前から定めておられるわけではありません。聖書は、私たちは生と死、祝福と呪い、幸いと災い、どちらの組(命・幸い・祝福/死・災い・呪い)を決めるか、選択の自由を持っていると教えています。さらには、誤った選択をした場合、その結果は、決して尽きることのない火の池での永遠の苦悶ではなく、死、永遠の死であることを知っていることは、なんと幸いなことでしょうか。

「『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである』(ローマ6:23)。義人の嗣業は生命であるが、悪人が受けるものは死である。モーセはイスラエルに次のように宣言した。『見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前においた』(申命記30:15)。この聖句の中で言われている死は、アダムに宣告された死ではない。なぜなら、全人類が彼の罪の報いを受けているからである。永遠の生命と対照されているのは、『第二の死』である」(『希望への光』1862ページ、『各時代の大争闘』下巻294ページ)。

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