【申命記】覚えよ、忘れてはならない【解説】#10

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聖書全体を通して見られる、「覚える」と「忘れる」という二つの言葉は、両方とも人間の特徴であり、人の心の中で起きることです。どちらも動詞で、反対の意味があります。覚えることは忘れないことであり、忘れることは覚えないことです。

神はしばしばその民に、神が彼らのためにされたすべてのことを、そして彼らのために示された主の恵みと慈しみとを覚えるようにお命じになります。旧約聖書の多くは、主が、主の民ヘブライ人のためにされたことを忘れてはならないとの預言者たちによる訴えから成っています。また、最も重要なことは、彼らが主から召されていることと、その召しに応えて、彼らがどのような民にならねばならないかということを忘れてはならないということでした。「わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け」(詩編77:12、〔口語訳77:11〕)。

この事実は今日も同じです。組織としてもそうであり、個人としてはなおさらそうです。神が私たちにされたことをいとも簡単に忘れてしまうのです。

私たちは、申命記に示されているように、この重要な原則、すなわち神の私たちの人生への関与を忘れず覚えることについて学びます。

虹を心に留めること

聖書で最初に「覚える」〔新共同訳では「心に留める」、口語訳では「思いおこす」〕という言葉が出てくるのは創世記9章です。全世界に及んだ洪水の後に、主はノアに、全地との間の契約のしるしとして空に虹を置き、二度と洪水で全地を滅ぼすことはないと宣言されます。

問1

創世記9:8~17を読んでください。ここで「心に留める」、「思いおこす」という言葉はどのように使われていますか。

もちろん、神はご自分の約束と契約を覚えるために虹を必要とされません。神は人が理解できる言葉で語られたのです。どちらかというと、人が神の約束を忘れず、神は二度と水で世界を滅ぼされないという契約を心に留めるために、虹が必要だったのです。虹を見るたびに、人はこの神が結ばれた特別な契約を思い起こすのでした。神の民は、彼らの罪のゆえに下る神の裁きだけでなく、世界を愛される神の愛と二度と洪水で滅ぼさないとの約束をも思い起こすのでした。

このように私たちはここに「覚える」ことの重要性を見ます。私たちは神の約束を覚え、神の警告を心に留め、神の世界に対する行為を思い起こすのです。

空に架かる虹は、今日さらに重要な意味が加わりました。多くの科学者たちは自然界の法則は不変であると考え、世界規模の洪水があったことを否定します。このことに関して、エレン・G・ホワイトは興味深い記述を残しています。彼女は、今日多くの人が考えているのと同様、洪水前の人々も「自然の法則は堅く定められたものであり、神ご自身もそれを変更することはできないものであると考えた」(『希望への光』49ページ、『人類のあけぼの』上巻94ページ)と書いています。洪水前に人々は自然界の法則に基づいて洪水はないと論じ、同じように洪水後も人々は、自然界の法則に基づいて洪水はなかったと論じているのです。

しかしながら、神は、み言葉によって洪水と世界に与えられたしるしについて語っているだけでなく、二度と洪水によって滅ぼさないという約束についても語っておられるのです。ですから、私たちが虹の意味を思い起こすなら、神のみ言葉は確かであるという、空に美しい色で書かれた確証を得ることができます。そして、私たちがこの約束のみ言葉を信じるなら、神が私たちに語られたすべてのみ言葉を信じることもできるのではないでしょうか。

過ぎ去った日々を顧みること

私たちは申命記4章から、主がモーセを通して選民に与えられた大いなる特権についてのすばらしい勧告を学びました。「エジプトにおいてあなたの目の前でなさったように、さまざまな試みとしるしと奇跡を行い、戦いと力ある御手と伸ばした御腕と大いなる恐るべき行為をもって」主なる神は、彼らをエジプトから導き出されたのでした(申4:34)。言い換えれば、神は彼らのために大いなることをしてくださっただけでなく、彼らがそれらのことを心に留め、忘れることのない方法でしてくださったのです。

問2

申命記4:32~39を読んでください。主は彼らに何を心に留めるようにお命じになりましたか。そしてそれは彼らにとってなぜ重要なことなのでしょうか。

モーセは、天地創造までさかのぼってすべての歴史を振り返り、神が自分たちのためにしてくださったことは、他に例があるかどうか考えてみるよう、大げさに民に尋ねています。このようにしてモーセは民に、主が彼らのためになさったことがどれほどのことであったかを理解させようとしたのです。最終的には、神が彼らに示された力ある御業は、どれほど感謝すべきかを教えようとしたのです。

それらの御業の中心はエジプトからの救出でしたが、おそらく出エジプトを超えてさらに驚くべきことは、シナイで神が彼らに直接語られたことだったでしょう。彼らは「火の中から語られる神の声を聞」くことを許されたのですから(申4:33)。

問3

申命記4:40を読んでください。モーセは、神が彼らのためにされたすべてのことを語った後に、そこから民がどのような結論を引き出すことを望んだでしょうか。

主は、何の目的もなくそのようなことをなさったのではありません。神は、神の民を贖い、民と結ばれた契約の神の側の責任を果たされたのでした。彼らはエジプトから解放され、約束の地を目前にしていました。神は神の分を果たされたのですから、今度は民が彼らの分を果たす番でした。そしてそれは、ただ従うことでした。

注意して、……忘れず

問4

申命記4:9、23を読んでください。主はここで民に何をするように命じておられますか。この勧告はなぜ彼らにとって非常に重要なのでしょうか。

これらの聖句に共通する二つの動詞、「注意する」と「忘れる」に注目してください。主は、注意しなさい、そうすれば忘れないと語っておられます。神があなたにされたこと、あなたと結ばれた契約を忘れてはならないということです。

「注意する」という言葉は(申命記4:9にも「あなた自身に十分気をつけ」と訳され、異なる形で出てきますが)、旧約聖書全体に見られ、「守る」、「見張る」、「保護する」、あるいは「用心する」という意味があります。興味深いことに、この言葉が聖書で最初に使われているのは、アダムが罪を犯す前に、主がお与えになった園を彼に「守る」ようにお命じになったときです。

しかしここでは、主は民の1人ひとりに(単数形の動詞を用いて)、忘れず、自分自身を守るように命じておられます。この「忘れる」は、記憶を失うことを意味しているのではなく(時が過ぎて、新しい世代ではそうなるかもしれませんが)、彼らが契約の義務を怠るという意味です。つまり、自分が何者であるかを心に留め、神の前、ほかのヘブライ人の前、彼らの内にいる寄留者たちの前、そして周辺諸国の前で、どのように生きるべきかを心に留めておく必要があったことを意味していました。

問5

「子や孫たちにも語り伝えなさい」と教えている最後の部分に注意して、申命記4:9を読んでください(申6:7も参照)。この教えは彼らが忘れないためにどのような助けとなるでしょうか。

モーセが彼らに「目で見たことを忘れず、生涯心から離すこと」のないように命じた直後に、子や孫たちにも語り伝えなさいと命じたことは偶然ではありません。子どもたちがそれを聞く以上に重要なことは、神が自分たちにしてくださったことを語り伝えることによって、彼ら自身がそれらのことを忘れないようにするということでした。神が彼らにしてくださったことを忘れないために、これ以上の方法があるでしょうか。

主から受けた恵みを人に語ることで、自分も祝福された経験がありませんか。主の導きを思い返し語ることは、それを忘れないためにどのように役に立ちますか。

食べて満足する

34年間セブンスデー・アドベンチストの世界総会で働いた元教会指導者から聞いた話です。かなり以前のこと、彼と妻がある空港に着いたとき、荷物の一つが見つかりませんでした。彼と妻はベルトコンベアーの横にひざまずいて、荷物が戻るよう主に祈りました。数年後、同じことが起きました。その時、彼は妻にこう言ったそうです。「大丈夫。保険がカバーしてくれるよ」

問6

この話を頭に置いて申命記8:7~18を読んでください。ここで主は民にどんな警告を与えておられますか。この警告は今日の私たちに何を意味しているでしょうか。

彼らが主に忠実であるときに、主が彼らにお与えになる物を見てください。彼らはすばらしく豊かな約束の地、「不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地」(申8:9)を手にするだけでなく、その地で大いに祝福され、牛や羊、金や銀、そして立派な家まで手にします。すなわち、彼らはこの世で得られるすべての物質的な快適さを与えられるのです。

しかしその時、彼らは、富と物質的繁栄に常につきまとう危険に直面します。それは、それらの「富を築く力をあなたに与えられたのは」主であることを忘れることでした(申8:18)。

おそらく初めからそうであったのではなく、彼らがすべての必要な物質的な快適さを手に入れ、年月の経過とともに、主が「あの広くて恐ろしい荒れ野」の中で彼らをどのように導かれたかを忘れ、実に、彼らの成功を可能にしたのは彼ら自身の賢さと能力だと考えるようになったのです。

これこそが、主が彼らに事細かに警告されたことであり、不幸にして、後の預言者たちがイスラエルに起こると預言したことそのものなのです。

こうして、繁栄の最中にあってモーセは彼らに、それらの繁栄を与えることができるのは主のみであることを心に留め、主が与えてくださった物質的祝福に惑わされないようにと伝えているのです。幾世紀後には、イエスご自身も種まきの譬えの中で「富の誘惑」について同じように警告しておられます(マコ4:19)。

奴隷であったことを思い起こしなさい

問7

申命記5:15、6:12、15:15、16:3、12、24:18、22を読んでください。主はどんな具体的な事実を決して忘れないように彼らに命じておられますか。そしてそれはなぜですか。

これまで学んできたように、主は続けて旧約聖書全体を通して民の心を出エジプトに、神によるエジプトからの奇跡的な救出劇に向けさせています。数千年が過ぎた今日でも、ユダヤ人は主が彼らにされたことの記念として、「過越し」を祝います(出12:25~27)。

今日の教会にとって「過越し」は、キリストによって与えられた救いのしるしです。「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(1コリ5:7)。

問8

エフェソ2:8~13を読んでください。これらの異邦人の信者たちは何を心に留めるように命じられていますか。これは、申命記でヘブライ人たちが心に留めるように命じられたことと、どのように重なりますか。

パウロは異邦人の信者たちに、神が彼らのために何をされたか、神は彼らを何から救い出してくださったか、神の恵みのゆえに今彼らは何を手にしているかを心に留めるよう求めました。イスラエルの子らがそうであったように、彼らには神に対して誇れるものは何もありませんでした。救いは神の恵みによって彼らに与えられたのです。彼らは「約束を含む契約と関係なく」(エフェ2:12)生きていたのに、キリスト・イエスにある者とされたのでした。

荒れ野のユダヤ人であれ、エフェソの異邦人の信者であれ、あるいは世界のどこにいるセブンスデー・アドベンチストであれ、神がキリストによって私たちにしてくださったことを常に忘れず心に留めることは、私たちにとってどれほど重大なことでしょうか。

疑いなく、次の言葉は私たちにとって真実です。「われわれは、キリストの一生について毎日瞑想する時間を持つがよい。イエスの一生の要点を一つ一つとらえ、各場面ことに最後の場面を想像のうちにとらえるべきである。このようにして、われわれのために払われたイエスの大犠牲を心に思いめぐらす時、キリストに対するわれわれの信頼はもっと堅固になり、われわれの愛は目覚めさせられ、われわれはもっと深くキリストの精神を吹きこまれる」(『希望への光』704ページ、『各時代の希望』上巻80ページ)。

さらなる研究

「神は、このようにして、雲のなかに美しい虹をかけて、人間との契約のしるしにされたということは、あやまりやすい人々に対する神の何と大きな恵みと慈悲の表現であろう。主は、虹を見るときに、彼の契約を思い起こすと言われた。これは、神がお忘れになるという意味ではなくて、われわれが神をさらに深く理解するために、人間の言葉でお語りになったのである。後の時代の子供たちが、天にかけられた美しい虹をながめて、その意味を聞くときに、親たちは、洪水の物語をして聞かせ、いと高き神が、水が再び地をおおうことがないしるしとして、虹を雲のなかにかけられたことを告げるのが神の目的であった。こうして、各時代を通じて、虹は人間に対する神の愛をあかしし、人間の神に対する確信を強めるものとなるのであった」(『希望への光』54ページ、『人類のあけぼの』上巻107ページ)。

キリスト教が始まって以来、今日、ある国々の教会が享受しているほどに、富と人の満足を共にした時代はなかったでしょう。このような豊かさは確かに私たちの霊性に影響を与えます。そしてそれは良い影響ではありません。富と物質的な豊かさが、クリスチャンの自己否定や自己犠牲といった徳を育んだ時代もあったかもしれません。しかし多くの場合、そうはなりませんでした。人々は富を手に入れれば入れるほど、自己を満足させればさせるほどに、彼らの信仰は益々弱まったのです。富と繁栄は良いものですが、そこに多くの危険な霊的な罠も潜んでいるのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2021年4期『申命記に見る現代の真理』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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