【テサロニケの信徒への手紙1・2】忠実な教会【解説】#13

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教会は植物によく似ています。もし植物が生長しなければ、それは枯れてしまいます。言い換えるなら、変化することは神が植物に組み込まれた特性です。同じように、変化も成長もしない教会は死んでしまいます。しかし、ただ変化すればよいというものでもありません。変化は私たちを現在の状態から逸脱させる場合もあります。私たちに対する神の目的から離れさせることもあります。セブンスデー・アドベンチスト教会は特に注意する必要があります。なぜなら、この現代の真理のメッセージを宣べ伝えているのは私たちだけだからです!これは重い責任です。信徒であれ牧師であれ、それは私たちが決して忘れてはならないものです。

啓示と、聖霊に導かれた一致を通して、神は教会をさらなる光に導いてこられました。過去の光は、教会が変化という危険に満ちた水路を航行するのを助けてくれます。テサロニケの信者に対するパウロの最後の言葉は、この重大な局面にあって私たちに霊感に満ちた導きを与えてくれます。

神に選ばれた者たちの忠実な生き方(IIテサ2:13~17)

この部分の言葉遣いはテサロニケIの冒頭にある祈りを思い起こさせます。あたかもパウロが書き始めたところに戻って、二通の手紙の結語を書いているかのようです。パウロはここで、テサロニケの信者が自分の教えた道から逸れることがないように望んでいます。

問1

テサロニケIIの2:13~17を読んでください。パウロがテサロニケの信者に感謝しているのはなぜですか。これらの聖句の中で、パウロは彼らに何を求めていますか。どんな意味で、これらの言葉は終わりに臨んでいる今日の私たちにとって当を得た言葉ですか。

テサロニケの信者の生き方はパウロにとって、彼らが「救われるべき者の初穂」として選ばれたことの証拠でした。一部の翻訳では、彼らが「初めから選ばれた」となっています。救いは賜物ですが、信者は聖霊の清めと真理に対する信仰を通して救いを経験します。信者の生き方は単なる主観的な経験以上のものです。それは真理にしっかりと根ざしたものです。

パウロがテサロニケの信者に手紙と説教によって教えられた教理に留まるように勧めているのはそのためです。時の経過と共に、真理についての信者の理解は弱まっていきます。それゆえ、私たちはつねに説教や教えによって強められる必要があります。

初代教会の時代においては、書かれた伝承よりも語られた伝承を好む傾向がありました。語られた伝承は不注意によって歪められることがあまりありません。声の調子や身振りは紙に書かれた言葉よりも正確に意味を伝えます。意思伝達の手段としての説教が、決して廃れることがないのはそのためです。

しかし、パウロの手紙の場合のように、書かれた伝承は自分の目的のために福音を変えようとする者たちによって意図的に歪められることがあまりありません。書かれた言葉は説教によって語られた教えを試す、安全で変わることのない規範です。使徒言行録の中でベレアの信者が推賞されているのは、彼らが語られた教えに関心を払うと同時に、注意深く聖書を調べていたからです(使徒17:11)。

悪の中にあって確信を保つ(2テサ3:1―5)

今日の世界にあっては、多くの人が文字通りのサタンの存在を信じていません。彼らの心の中では、サタンは神話であり、迷信に満ちた、近代科学以前の時代の遺物にすぎません。彼らの考えによれば、善と悪は単に原因と結果によって生じた偶然の結果にすぎません。あるいは、善と悪は特定の時代と地域の文化によって形成された概念以外の何ものでもありません。

しかし、聖書ははっきりと、サタンが実在すると教えています。世界のある地域では、サタンは角の生えた赤い悪魔の姿をして自らを隠したり、茶化したりしています。それは彼を有利な立場に置くことになります。風刺漫画はわざとサタンを現実のものでないように信じ込ませようとします。それはまさにサタンの望むところです(「悪魔が私にそうさせたのだ!」。あるコメディアンがよくそのように言っていました)。

問2

テサロニケIIの3:1~5を読んでください。私たちの信仰に戦いを挑む数々の悪の中にあって、パウロはなおも希望を表明しています。

福音が速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように祈ってください、という願いをもって、パウロはこれらの聖句を書き始めています(Iテサ5:25参照)。彼はまた、自分が悪人どもから逃れられるように祈ってほしいと言っています(IIテサ3:2)。この表現は、彼が特定の個人を意識していたことを暗示します。それがだれであるかは、手紙の受取人たちでさえ知らなかったかもしれません。その後で、パウロは一種の言葉遊びをしています(IIテサ3:2、3)。すべての人に「信仰」(神への信頼、献身)があるわけではありませんが、主は「忠実な方」(信頼できる方―信仰と献身を与えてくださる方)です。この忠実な主は信頼できる方であって、彼らを悪い者、サタンから守ってくださいます。サタンは私たちよりも強力な存在ですが、幸いなことに、主はサタンよりも強力な方です。私たちは主によって平安と力を受けることができます。

パウロは改めてテサロニケの信者を推賞し、彼らのために祈りをささげることによって、これらの聖句を結んでいます(IIテサ3:4、5)。サタンと彼が吹き込む人々の反対の中にあっても、テサロニケの信者がパウロの命じたことを実行していること、またこれからも実行し続けることを、パウロは確信しています。パウロは「願望の祈り」の中で(IIテサ3:5)、主が彼らの関心を「神の愛」と「キリストの忍耐」に向けてくださるように祈っています。

聖書と伝承(IIテサ3:6~8)

イエスが地上におられたときには、新約聖書はありませんでした。イエスの聖書は「旧約聖書」でした。しかし、イエスの弟子たちが最初からイエスの語られた言葉に従ったのは賢明でした(マタ7:24~27)。イエスの言葉と行為はその後も、教会にとって権威であり続けました(Iテサ4:15、使徒20:35、Iコリ11:23~26)。使徒たちは聖霊の霊感によって、イエスの言葉とイエスの行為の意味を正しく解釈するように導かれました(ヨハ15:26、27、16:13~15)。第1世代のクリスチャンが舞台から去る前に、使徒たちの文書は旧約聖書の預言者たちのそれと完全に同等で、「聖書」と呼ばれるにふさわしいものと見なされました(IIペト3:2、16)。

テサロニケIIの3:6~8、14を読んでください。パウロがテサロニケに着いたときには、初代教会はイエスの言葉と使徒たちの教えを最高に権威のあるものと見なしていました。新約聖書の時代には、「伝承」は必ずしも否定的な言葉ではありませんでした。それはイエスの言葉と行為をさすもの、また使徒たちの口頭による教えと文書を含むものでした。彼らにとっての伝承は、私たちにとっての聖書とほとんど同じものでした。それは守るべきもの、従うべきものでした。

テサロニケの信者にとって、伝承はパウロの手紙以上のものでした。それは、パウロがテサロニケにいたときに彼らに語ったすべてのこと、また彼らの倣うべきパウロの行いを含んでいました。パウロがテサロニケで自活のために懸命に働いたのは、単に彼らに対して思いやりの心を示すためではありませんでした(Iテサ2:9)。それは、彼らが自分自身の生活に適用すべき「伝承」となるのでした。テサロニケにいたとき、パウロは怠惰な生活を送りませんでした。ただで人の食物を食べるようなことはしませんでした。彼は人に負担をかけないように、「夜も昼も」働きました。そのような生活をしないテサロニケ人はみな、「怠惰」な人でした。したがって、パウロの言う怠惰な人とは、教会や社会に問題を起こす人に限られたものではありませんでした。彼がここで言う怠惰な人とは、広く使徒たちの教えと行いに従わない人を含んでいました。

働くこと、食べること(2テサ3:9―12)

問3

パウロはテサロニケ教会でどんな特殊な問題に直面していますか。IIテサ3:9~12

これらの聖句の中で、パウロは自分の言葉と行為についての伝承を特殊な状況に適用しています。教会員の中に、ふしだらで、怠惰な生活をしている人たちが何人かいました(IIテサ3:6、11)。パウロは先の手紙の中でもこの問題に触れ、優しく勧めています(Iテサ4:11、12、5:14)。しかし、ここでは、ずっと強い言葉を用いています。

パウロは使徒として、教会に給与と住まい、食事を要求することもできました。しかし、パウロはテサロニケIの中で「夜も昼も働く」ことについて模範を示しています。教会員に負担をかけないためでした(Iテサ2:9)。これは愛の模範でした。しかし、テサロニケIIの3:8によれば、彼はまた「夜昼」働いています。人は可能な限り自分自身の必要を満たすべきであることについて模範を示すためでした。

もしパウロが模範だけを示していたなら、伝承がはっきりしないと言う人たちがいるはずです。しかし、パウロは言葉でもこの問題に言及していました。彼らと共にいた短期間の間に、パウロは(ギリシア語の未完了時制が示唆するように)しばしば、一般的な諺を用いて、「働きたくない者は、食べてはならない」と命令しています(IIテサ3:10)。

パウロはこれらの聖句の中で、困っている人たちや、自分で生活することのできない人たちの世話をすることを批判しているわけではありません。イエス御自身、人生のさまざまな境遇のために困窮や貧困の中にある人たちを憐れむことについて力強い模範を示しておられます。

パウロが言っているのはむしろ、故意に怠惰な生活を送っている教会員のことでした。彼らは自分のことを棚に上げて、人のことをとやかく言う、おせっかいな人たちでした(IIテサ3:11)。当時の有名な哲学者の中にもいたように、これらの信者は働くことよりも安楽に暮らすことを好みました。彼らは働く代わりに、一日中神学を論じたり、他人の態度を批判したりしていたのでしょう。パウロは「主イエス・キリストに結ばれた者として」彼らに命じています―何かを言う前に、パウロの模範に従い、自分自身の必要を満たすことに意を用いなさい(IIテサ3:12)。

厳しい愛(IIテサ3:13~15)

教会による懲戒の問題は、個々の教会が直面する最も難しい問題の一つです。道からそれた教会員は別の教会員の兄弟や母親、息子、従兄弟、あるいは親友である場合がよくあります。だれに対しても懲戒を望まない信者もいれば、厳しい処分を望む信者もいます。対立するさまざまな利害関係の中にあって、教会はどのようにして神の御心を求めたらよいのでしょうか。

マタイ18章は明確で、単純な方法を提示しています。第一に、過ちを犯した者と傷つけられた者が1対1で話し合うことです。文脈からもわかるように、この対話の目的は可能な限り赦しを与えることにあります(マタ18:21~35)。第二に、傷つけられた人はほかに一人か二人、一緒に連れて行くことです。当事者同士の話し合いの内容をめぐって誤解が生じるのを防ぐためです。これら二つの段階をふんだ後に初めて、問題を教会事務会にはかるべきです。そして、もし罪を犯した人が教会に従わない場合には、その人を「異邦人か徴税人と同様に」扱うことになります(マタ18:17)。

ここに、問題があります。だれかを異邦人か徴税人のように扱うとはどんな意味でしょうか。少なくとも二つの異なった解釈が考えられます。一つは、イエスの時代において異邦人と徴税人が社会から締め出されていたように、イエスが加害者を締め出すように教会に求めておられるという解釈です。もう一つは、イエスが異邦人と徴税人を扱われたように(憐れみと赦しをもって)、イエスが過ちを犯した人を扱うように求めておられるという解釈です。

マタイ18章とテサロニケIIの3章を現代の状況に正しく適用することは決して容易ではありません。人はみな異なりますし、状況もみな異なります。赦しが罪を犯した人の心を和らげ、教会に和解がもたらされる場合もあります。その一方で、対決し、責任を問うほどの厳しい愛に対してしか応答しない、かたくなな人もいます。世界総会がだれをも除名しない理由はここにあります。このような微妙な問題は、加害者のことを最もよく知っている個々の教会が処理するのが最善です。

とはいえ、厳しい愛は虐待を容認するものではありません。15節には、懲戒の対象となった人をなお家族のように扱うように教えられています。教会は、その加害者も「キリストが死んでくださった」兄弟であることをつねに覚えなければなりません(ロマ14:15、Iコリ8:11)。

今回のメッセージ

「テサロニケの信者たちは、狂信的な考えや教理を持ち込んでくる人々に非常に悩まされた。ある者は『怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわって』いた。教会は正しく組織されており、役員は牧師や執事として奉仕するように任命されていた。しかし中には身勝手で、衝動的で、教会の権威ある地位にいる人々に従うことを拒む者たちがいた」(『希望への光』1454、1455ページ、『患難から栄光へ』上巻283ページ)。

「パウロは、テサロニケにいたときに、全く彼の手仕事だけに依存していたのではなかった。……(ピリピ4:16)。彼は、この援助を受けたとは言っても、テサロニケの人々の前で勤勉のよい模範を示すことに注意した。それは、彼が貪ったなどといういわれのない非難を、だれからも受けることのないためであり、また、肉体労働について狂信的な意見を持った人々に、実際的譴責を与えるためであった」(『希望への光』1488ページ『、患難から栄光へ』下巻29、30ページ)。

「個人的な贈り物や教会のお金によって、怠けている人たちを支える習わしは彼らの罪深い習慣を助長することになるので、そのような行為は努めて避けるべきである。男も女も子どもも、実際的で有用な働きをするように教えられるべきである。すべての人が何らかの仕事を身につけるべきである。テント造りであってもよいし、ほかの仕事であってもよい。すべての人は何らかの目的のために自分の身体の各部分を使うように教えられるべきである。勤勉な習慣を身につけようとするすべての人の順応性を、神は喜んで増し加えてくださる」(『SDA聖書注解』第7巻912ページ、エレン・G・ホワイト注、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2012年3期『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ,Ⅱ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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