【ミカ書】神のみこころを行う力【6章解説】

目次

中心思想

神がいかに私たちを愛し、その愛によって私たちを罪から救おうとしておられるかを、ミカは強調しています。しかしながら、私たちは神の愛を当たり前のことと考え、神を愛することによってその愛に応答するのを拒む危険があります。今回は、神が私たちのために何をしてくださったか、また将来、何をしてくださるかについて学びます。

アウトライン

  • 神の申し立て(ミカ6:1~3)
  • 全的な献身(ミカ6:4~7)
  • 黄金律(ミカ6:8)
  • 神の民の霊的失敗(ミカ6:9~15)
  • 神は私に心をとめられる(ミカ6:16)

神はわがままな民に力を与えられる

現代は多くの人が裁判によって問題を解決しようとする時代なので、ミカ書6章の法廷のたとえは私たちにとってよく見慣れたものです。ミカ書6章において、神はイスラエルを告訴しておられます。神はここで3回、ご自分の申し立てに耳を傾けるように求めておられます(1、2節)。ミカ書6章の冒頭において、神は預言者を通じて、「主の言われることを間(け)」と言われます。この部分を私たちの現在の状況にあてはめるとき、神が教会全体に対してだけでなく、私たちひとりひとりに対しても語りかけておられることがわかります。

イスラエルは神の霊的力と純潔を拒み、わがままな生活を送ることによって神を失望させました。しかし、神はそれでも彼らに嘆願し続けられました。もし彼らが神の勧告に耳を傾け、その力に従うなら、神は彼らを罪から救い出してくださるのでした。

神の申し立て(ミカ6:1~3)

神はご自分の民に対して、もし神が悪いと思うならその訴えを述べるように、またもし神が正しいと認めるなら神に積極的に応答するように求めておられます。

質問1

もしあなたが、山や丘に対して神と神の民との争いをさばく陪審員になるように求めるミカの言葉を初めて聞いた人たちの中にいたなら、どのように応答していたと思いますか。ミカ6:1、2参照

山と丘はイスラエルに対する神の扱いと彼らの忘恩を目撃してきました。このように、象徴的な意味において、山と丘は公正かつ賢明な陪審員となることができるのです。

質問2

神は何と言って、イスラエルにご自分に対する申し立てを述べるように求めておられますか。ミカ6:3

イザヤ書5章には、イスラエルがよく手入れされたぶどう畑として描かれています。神は民に対して、ご自分とそのぶどう畑とのあいだをさばくように求めておられます。イザヤ害5:4を読んでください。

質問3

ぶどう園についてのキリストのたとえによれば、神はご自分のぶどう園のためにほかにどんなことをされましたか。マタ21:37

「ユダヤのつかさたちは、神を愛していなかった。だから、彼らは神から離れ、正しい解決をお求めになった神の申しいれを拒絶したのであった。神の愛する子キリストがぶどう園の領主の権利を擁護するためにこられたが、農夫たちは……彼を侮辱した態度をとった。彼らはキリストの品性の美しさをしっとした。キリストの教えかたは彼らよりはるかにすぐれていて、彼らはその成功を恐れた。主は彼らの偽善をあばき、その行為の結果を示して、彼らに抗議なさった。このことが彼らを狂気のようにした。彼らは否定することのできないその非難のことばに激怒した。彼らはキリストがいつも示される義の高い水準を憎んだ。彼らは、その教えが自分たちの利己心をあばくものであることを知り、彼を殺そうと決意した」(『キリストの実物教訓』271、272ページ)。

全的な献身(ミカ6:4~7)

質問4

神はご自分の民のためになされたどんな力強いわざにとくに注目するように求めておられますか。ミカ6:4、5

バラクのような悪い王、バラムのようなにせ預言者がいたにもかかわらず、主はご自分の民に祝福を宣言しておられます(民数23:8~11参照)。

シッテムは、イスラエル人がヨルダンを渡る前に宿営した最後の場所でした(ヨシ3:1)。ギルガルはカナンの地における最初の宿営地でした(ヨシ4:19)。彼らはシッテムとギルガルのあいだで主の驚くべき奇跡を経験し、それによってヨルダンを渡ることができました(ヨシ3、4章参照)。

質問5

ミカ書6:6、7には、神の要求に対するイスラエルの応答が述べられています。彼らは神の要求をどのように理解していましたか。それが最小限のもの、つまり燔祭から、最大限のもの、つまり自分の息子・娘をささげることへと発展していることに注目してください(イザ1:11~15、レビ18:21参照)。

イスラエル人は、神が彼らに求められるものがささげ物ではないということを理解していなかったようです。神が求めておられたのは彼ら自身でした。

質問6

宗教的儀式をはじめとする単なる人間的なわざが、私たちを神に和解させる手段とはなりえません。それはなぜですか。ロマ3:20~24

道徳律、礼典律、民事律のような律法のわざは、私たちを神に和解させることができません。救いは神の恵みによってのみ可能です。イスラエルが神の不興を買ったのは、彼らが自分自身の努力に頼ることによって神と和解しようとしたからです(ロマ9:30~33参照)。

黄金律(ミカ6:8)

次の引用文を読んでください。

そして、救いを得るために自分の力で何かをしようとしていないか反省してください。善行は救いの計画においてどんな意味を持ちますか。

善行は救いの手段ではなく、本質的な結果

「私たちはただ神の愛する御子を通してのみ神に受け入れられるのであって、良いわざ

は神の罪をゆるす愛の働きの結果にすぎない。それは私たちに何ら功績をもたらすことはない。私たちは自分の良いわざに何かをつけ加えることによって、魂の救いにあずかるのではない。救いは信じる者に対する神の無償の賜物であって、それはただキリストのゆえに彼に与えられるのである。悩める魂はキリストに対する信仰によって平安を与えられる。彼の平安はその信仰と信頼に比例する。彼は自らの善行を口実にして魂の救いを要求することはできない。では、良いわざは何ら真の価値を持たないのであろうか。毎日、罪を犯しながら罰せられることのない罪人は、キリストに対する信仰によって誠実に働こうとする者と同じ恵みにあずかるのであろうか。聖書は答えている。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである』。主はその不相応な恵みによる聖なる取り計らいにより、良いわざが報いられるように定めてくださった。……私たちの良いわざが神に受け入れられるのはキリストの功績によるのであり、私たちが神に報いられるわざをなすことができるのは恵みによるのである」(「SDA聖書注解』第5巻1122ページ、エレン。G・ホワイト注)。

質問7

ミカ書6:8には、クリスチャンに対する神の真の期待が述べられています。私たちはどうしたらこの聖句を自分の生活の中に生かすことができますか。

イエスは最高の模範

イエスはいつでも公正で、あわれみ深く、謙虚で、慎み深くあられました。彼ご自身、「わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしている」と言っておられます(ヨハ8A:29)。彼はミカ言6:8の最高の実践者でした。イエスは私たちに対してご自分の模範に従うように教えておられます(ピリ2:5~11参照、マタ7:12比較)。

神の民の霊的失敗(ミカ6:9―15)

質問8

イスラエルに対する神の叱責をあなた自身の言葉で要約してください(ミカ6:9~12)。

ミカは神ご自身が自分を通してエルサレムの民に語りかけておられると述べることによって、そのメッセージの重大性を強調しています。真に賢明な人々は、自分たちの悪行と、悔い改めなければ下るであろう確かな刑罰を明示する神の声に耳を傾けます。

質問9

罪を犯し続けるときに下る神の刑罰について、ミカはどのように教えていますか。ミカ6:13~15

神は私に心をとめられる(ミカ6:16)

質問10

イスラエルがオムリやアハブによって始められた偶像崇拝に従い続けたために、どんなことが起こりましたか。ミカ6:16(列王上16:25、30比較)

さばきについての神の警告は怒りから出たものではありません。神はご自分の民を愛し、心にとめておられます。神が求められることは、彼らが自分の行為の誤りに気づくこと、またそれが神を悲しませることであると悟ることです。神は彼らに悪を離れるように嘆願されます。

神は心をとめられる

ある若い歌手が重荷でおしつぶされそうになっていました。でも、彼女は信仰を持っていたので、神が問題を解決する力を与えてくださると信じていました。しかし、神が祈りを聞いてくださるほど自分を愛しておられないのではないかという気がして、祈ることができなくなってきました。

悩んだすえに、彼女は友人に電話をしました。そして、友人が答える前に叫んでしまいました。「もう耐えられないわ。私はもうクリスチャンではないのよ。すべてを捨ててしまったのよ」。

それから、受話器をおきました。そのとき、ゲッセマネのキリストを描いた一枚の絵が目に入りました。思いがけなく、目に涙があふれてきました。そのうち、彼女はふたたび次のような歌を歌いだしました。

「私を愛するゆえにゲッセマネに行かれたのだから、彼は私に心をとめてくださる。私に心をとめてくださる。私を救うためにカルバリーの十字架につかれたのだから、彼は私に心をとめてくださる。私に心をとめてくださる」。

この歌は彼女のすべての悩みに終止符を打ってくれました。この歌をうたいながら、なおも神の愛を疑うことはできませんでした彼女は主の足もとに身を投げて、泣き、心から祈りました。

イエスが私たちを心にかけてくださらないなどと考えてはなりません。イエスは私たちを今も愛しておられるゆえに、今もなお十字架の傷跡をとどめておられるのです(Iペテ5:7、詩71:1、参照)。

まとめ

イスラエルの民に対する神の申し立ては明確で、具体的です。彼らは神の非難にこたえることも、神の律法を犯す正当な理由を見い出すこともできません。それでも、神はあわれみをもって彼らの過去の失敗をゆるし、神のうちにある平安と喜びを与えてくださいます。

*本記事は、安息日学校ガイド1992年1期『今は備えの時である』からの抜粋です。

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