中心思想
旧約聖書の中でイスラエルになされている約束の多くは、終末時代において霊的イスラエルに成就します。彼らの直面した誘惑に、今日の私たちも直面します。彼らの受けた助けを、今日私たちも受けることができます。彼らがカナンに入るためになしたあらゆる備えを、約束の地めざして進んでいる私たちもしなければなりません。
序言
今回は、ヨルダンを渡るに先だってイスラエルに要求されたいくつかのことがらについて学びます。
イスラエルは四十年にわたる荒野の経験を通して多くのことを学んでいましたが、彼らののちの歩みが示しているように、彼らはまだ完全からほど遠い状態でした。しかし神は、彼らがカナンの地に入る前に学ばなければならないいくつかの教訓を教えておられました。三十八年前の先祖たちとは異なり、二度目に約束の地の境界にたどり衝いた彼らは、神に従う用意ができていました。彼らはエジプトの奴隷からあがなわれ、天の神を自らの指導者と認める特別な国民になっていました。約束の地に入る期待を持ってヨルダンをながめる彼らは、自分たちの必要を満たしてくださる神に信頼していました。
今日の神の民も弱さや欠点がないわけではありません。しかし私たちは、終末時代に直面するときにキリストの義を与えてくださる神を信仰をもって仰ぎ望むべきです。私たちもまた罪の奴隷からあがなわれ、キリストのからだなる教会になったのです。それは、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである」(エペソ5:27)。私たちは信仰と愛にもとづいた従順によってカナンに入るための最後の備えをする必要があります。
二回目の人口調査(民数記26 : 1―63)
最初の人口調査はイスラエルがエジプトを出て二年目の二か月目にシナイで行われていました(民数記1:1、2参照)。 それから約三十八年たった今、最初の人口調査で数えられた人たちはすべて(カレブ、ヨシュア、モーセを除く)、 死んで荒野に葬られていました。成人男子の人数に従って土地を各部族に分配するために、正確な人口調査の必要が生じたのでした。
質問1
新しい調査結果は四十年前のそれとどこが違っていましたか。民数記1:46、26:51
イスラエルの成人男子の数は荒野における四十年のあいだほとんど変わっていませんでした。しかしながら、各部族のあいだには箸しい違いがあります。ルベン、シメオン、ガド、エフライム、ナフタリの各部族は減少しています。
質問2
レビ族の数は前回のそれと比べるとどうなっていますか。民数記3:39、26:62
レビ族の数がほとんど増えていないのは、コラの反逆によって多くの人が死んだためである、とある人々は説明しています。
モーセの後継者となるヨシュア(民数記27:12―22)
質問3
神はなぜ、モーセがイスラエルをカナンに導き入れるのをお許しにならなかったのでしょうか。民数記27:12―14
モーセは深い失望を味わいましたが、神の決定に不平をこぼしたり反対したりするようなことはありませんでした。ものごとが自分たちの思い通りにいかないとき、イスラエル人はつぶやきと反逆によってその失望を表しました。しかしモーセは、不平を言わずに神のみこころを受け入れました。同胞に対するモーセの関心は、その無我の品性の表れでした。
モーセは神の命令に従って自分の死ぬべき山に登ります。彼はそこでカナンと未来についての幻を見せられました。約束の地が神の祝福のもとで第二のエデンになるのを見ます。イスラエル人がカナンに入り.そこに定住する歴史を見ます。彼らの背信とその結果としての捕囚(ほしゅう) を見ます。イエスの誕生とその働きを見ます。へフル民族がイエスを拒むのを見ます。彼はまたイエスについてゲッセマネとカルバリーに行きます。彼はイエスのよみがえり、天国への勝利の入城、御使いたちの歓迎を見ます。終末時代にいたるまでの弟子たちとキリスト教会の歴史を見ます。イエスの再臨、地球の天のカナンへの再創造を見ます。それはイスラエルがやがて入ろうとしている約束の地についての幻よりもはるかに美しい光景でした(「人類のあけぼの』下巻90-95ページ)。
解説
「罪の結果、モーセはサタンの権力のもとに置かれていた彼自身の功績によっては、彼は当然死の捕虜であった。だが彼は、贖い主のみ名の権威によって、永遠の命によみがえった。モーセは、栄光のからだで墓から現われ出て、救い主と共に神の都にのぼった」(「人類のあけぼの」下巻97ページ)
質問4
モーセの後継者としてのヨシュアはどんな資格を備えていましたか。民数記27:18、出エジプト記24:13、申命記34:8、9
再び強調された聖日(民数記28:16―29:40)
カナンに入る直前にイスラエルに与えられた教えのなかには、彼らがカナンを征服してそこに定住したときに守るべきいくつかの重要な祭りについての規定がありました。へブルの宗教暦には六つの年ごとの祭り—ここで再強調されている五つの祭りと種入れぬパンの祭り—がありました(これらの祭りに関する詳しい規定、またそれらに続く七つの年ごとの安息日についてはレビ記23章を見てください)。
種入れぬパンの祭りは民数記28章と29章では省略されているように思われます。過越の祭りと密接に関係していたからです。実際的な意味においては.両者は一つとみなされていました。それらは連続した日に行われ、イスラエルがエジプトを出た夜の出来事と関連がありました。これらの六つの祭りは春の祭り(最初の三つ)と秋の祭り(最後の三つ)に分けられていました。春の祭りはキリスト教の時代が始まるイエスの死の前後の出来事において成就しました。秋の祭りは終末時代および罪の終わりにおける出来事を表していました。
1.過越の祭り(28:16―25)
質問5
受難週の出来事は過越の祭りにおいてどのようにはっきりと予示されていましたか。レビ記23:5-12、ルカ23:46―24:6
「過越の祭りに関する規定はキリスト教の重要な中心的真理を強調している。過越はキリストの死の象徴である。過越の小羊が死んだように、キリストも死なれた。小羊の血は昔のイスラエルを滅びの天使から守った。キリストの血は今、信仰をもって彼に来るすべての人を和解させる。過越はまた、揺祭によって象徴されるように、よみがえりの象徴でもある。小羊はアビブの十四日の夕に死んだ。先に刈り取ってあった初穂は、『安息日の翌日』の十六日に主にささげられた。キリストは金曜日の午後に死に、安息日を墓の中で休まれた(ルカ23 : 53―56)。安息日の翌日(ルカ24: 1)、初穂であるキリスト(1コリント15 : 20)は死からよみがえり、天の父なる神のもとにのぼられた(ヨハネ20: 17)」 (「SDA聖書注解」第1巻804ページ)。
質問6
天のカナンに入ろうとしている私たちのために、過越に代わるどんな儀式が定められましたか。ルカ22 : 13―20
2. 七週の祭り(28 : 26―31 )
質問7
この祭りはどんな名前によって親しまれていましたか。新約聖書には、この日に特別な意味を与えるどんな出来事が起きていますか。使徒行伝2:1―4
ペンテコステ(五旬祭)という語は五十を意味するギリシャ語から来ています。初穂をささげてから五十日目にあたるところから、この名がつけられました。ペンテコステは、ユダヤ暦の三j1の第六日目(五月下旬か六月上旬)にあたり、五十日前に初穂をもって始まった穀物の刈り入れが終わったことを示していました。キリストが「眠っている者の初穂」(1コリント15:20)として死からよみがえったとき、彼は来たるべき収穫の象徴としてご自分の死のときよみがえらされた者たちを天に連れて行かれました(マタイ27:52,53、エペソ4:8参照)。 このように、ペンテコステは使徒たちを収穫に備えさせる聖霊の降下を表していました。
解説
「キリストは天の門の中に入って行かれて、天使たちのさんびのうちに王座につかれた。この儀式が終わるとすぐ、聖霊は豊かな流れとなって弟子たちの上にくだり、キリストは永遠の昔から父と共に持っておられた栄光をお受けになった。ペンテコステの聖霊降下は、あがない主の就任式が完了したことを知らせる天からの通報であった」(「患難から栄光へ』上巻34ページ)。
3.ラッパの祭り(29:1―6)
今日ユダヤ人がローシ・ハッシャナーとして祝うこの祭り(九月下旬か十月上旬」)は、一般暦の元旦でした。その日にラッパが吹き鳴らされました。ユダヤのタルムードによれば、各自はこの日に前年度の行為に対するさばきを受けますが、彼の運命は九日後の贖罪の日まで決まりませんでした。
質問8
ラッパの祭りは贖罪の日によって象徴されるさばきと密接な関係がありましたが、それは終末のどんな出来事を示していますか。黙示録14:6、7
ラッパの祭りが人々を来たるべき年ごとのさばきに備えさせたように、第一天使の使命は人々の心を永遠の福音とその福音に対する各自の関係を決定する終末のさばきとに向けるのです。
4.贖罪(しょくざい)の日(29:7―11)
質問9
贖罪の日のあいだ、会衆は何をしましたか。レビ記23:27―29
解説
「私たちは告白と悔い改めによって自分の罪に対するさばきに備える大いなる贖罪の日にいる。……贖罪の働きが地上の聖所の至聖所において大祭司によって執り行われた予型的儀式において、人々は自分たちの罪があがなわれ取り除かれるために、神の前に身を悩まし、かつ自分の罪を告白することを要求された。キリストが天の聖所でご自分の民のために執り成し、すべての罪に対して最終的で取り消すことのできない決定が下されるこの対型的晴罪の日においても、これと全く同じことが私たちに要求されているのではないだろうか」(「セレクテッド・メッセージズ』第1巻124、125ページ)。
5.仮庵(かりいお) の祭り(29:12―40)
この祭りは荒野の放浪を記念するものでした。七日間の祭りのあいだ、人々はシュロやヤナギの枝で造った仮小崖に住み、荒野における仮住いを回顧するのです(申命記16 : 12―15、レビ記23 : 39―41参照)。 それはまた農業年の最後の祭りでもありました(十月に催された)。 それは最後の収穫の祝いでした。
「それは友人・隣人が親交を深め、愛と交わりのうちに共に過ごす、一年で最も楽しいときであった。その意味で、この祭りは神の民の集められるとき、また『多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につく』ときを予表していた(マタイ8:11)」 (『SDA聖書注解』第1巻805ページ)
二部族の要求(32:1―42)
質問10
ルベンとガドのどんな要求が、モーセに四十年前のカデシバルネアでの失敗をまた犯すのではないかという不安を抱かせましたか。民数記32:1―5
これら二部族がヨルダンの東に領地をほしいと言ってきたとき、モーセは非常に悩みました。ほかの部族も彼らの影響を受けてヨルダンを渡らないと言うのではないかと、モーセは恐れました。
質問11
二部族のどんな約束がモーセの不安を和らげましたか。彼らはその約束を守りましたか。民数記32:16-19、ヨシュア記22:1―6
のがれの町(民数記35 : 1―34)
質問12
過失殺人の罪を犯した者を守るために、カナンにどんな町が設けられることになりましたか。民数記35:6、11―15
これらののがれの町は無条件の保護を与えるためのものではなく、裁判が開かれるまで殺人者の生命を保護するためのものでした。それらはカナンのどこからでも半日の距離の場所に設けられました。
質問13
この規定は今日のクリスチャンにとってどんな霊的意味がありますか。ヨハネ10:27―30
天のカナンの境界に立つ私たちの前には、多くの困難や戦いがあるかもしれません。しかし、私たちは神に信頼することによって約束の地に入ることができます。再臨連動は勝利するでしょう。神の恵みによって、私たちは救われるでしょう。しかし、自分だけの救いで満足してはなりません。今こそ、私たちは周囲の人々、愛する人々を天のカナンに同伴する努力をすべきです。
まとめ
イスラエルがカナン入国に備えてとった態度は、彼らの先祖が四十年前に示した不信仰とは対照的なものでした。このことは、天国に入る備えをする私たちに多くのことを教えてくれます。霊的イスラエルとしての私たちは神の約束を受け入れ、ヨルダンを越え、カナンにいたる残りの道を神に導いていただく必要があります。
*本記事は、安息日学校ガイド1998年1期『約束の地をめざして』からの抜粋です。