エステル記のあらすじと概要|聖書の解説

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目次

エステル記のあらすじと要約

ワシュティが廃妃となる
クセルクセス王が7日間の宴会を催す(エステル記1章1ー9節)

ギリシャと戦争状態に入ったペルシャ帝国は、ギリシャへの遠征前に大規模な宴会を催します。

王妃ワシュティが廃妃となる(エステル記1章10ー22節)

宴会の最中、王妃ワシュティがクセルクセス王の命令に背いたために、その地位を剥奪されてしまいます。

エステルが王妃に選ばれる
新しい王妃探し(エステル記2章1ー11節)

ワシュティのことを後に後悔したクセルクセス王は、新しい王妃候補を探すために、女性たちを王宮へと集めます。

エステルが王妃に選ばれる(エステル記2章12ー19節)

謙虚なエステルの姿は、王を含むさまざまな人の好感を得て、彼女は王妃に選ばれることになりました。

クセルクセス王の暗殺計画(エステル記2章21ー23節)

クセルクセス王の暗殺計画がエステルの育ての親であるモルデカイに伝わり、エステルを介して、王にそれを伝えました。これにより、暗殺計画は未遂で終わるのでした。

ハマンとモルデカイの対立
ハマンに逆らうモルデカイ(エステル記3章1ー6節)

大臣たちの上の地位についたハマンに対して、モルデカイがひざまずかなかったことから、二人の溝が深まります。

ユダヤ人の虐殺計画(エステル記3章8ー15節)

怒ったハマンは、モルデカイがユダヤ人であることを知ると、ユダヤ人虐殺計画を考案し、王にその許可をもらいます。

嘆くモルデカイ(エステル記4章1ー17節)

モルデカイは虐殺計画を嘆き、その様子はエステルにも伝わりました。モルデカイはエステルを励まし、王に働きかけるように促します。

エステルの計画とハマンの没落
祝宴でもてなすエステル(エステル記5章1ー14節)

エステルは祝宴でもてなして、王との関係を確かめていきます。その祝宴にはハマンも呼ばれ、そのことに有頂天になったハマンはますますモルデカイのことを憎み、彼を殺すための器具を用意するのでした。

ユダヤ人の虐殺計画(エステル記6章1ー14節)

ある夜、眠れない王は記録日誌を読ませ、先の暗殺計画を防いだモルデカイになんの栄誉も爵位も与えていないことに気づきます。そして、王はモルデカイに最大の栄誉を与えるのでした。

ハマンを訴えるエステル(エステル記7章1ー10節)

再び、祝宴で王とハマンをもてなしたエステルは、そこでハマンをついに訴えます。ハマンは命乞いをしますが、逆にエステルに危害を加えようとしたと王に勘違いされ、すぐに処刑されてしまうのです。

ハマンの法令に対抗する命令(エステル記8章1ー14節)

王は、すでに発布されていたユダヤ人虐殺の命令に対抗した命令を出し、ユダヤ人たちを保護します。そして、このことを祝ってプリムの祭りを制定するのでした。

モルデカイの昇進(エステル記8章15節ー10章3節)

モルデカイはその後、クセルクセス王に次ぐ地位にまで登りつめます。

王冠を被ったポーンのイメージ画像

エステル記の著者

エステル記の著者は不明です。ただ確実に言えることは、エステル記の中に記録されている出来事が起こった頃、著者はスサに住んでいたモルデカイやエステルに近い人物であった、ということです。

また、ペルシア語の記述が多く、ペルシアの事情や習慣に精通していることから、ペルシア帝国の辺境ではなく、ペルシア本国の住民であったことが示唆されている。

最近のスサ(シュシャン)の発掘調査によって、この著者が宮殿やペルシアの宮廷の習慣や規則に非常に精通していたことが確認されている。

このような考古学的発見に感銘を受けたさまざまな学者たちは、この本の著者は当時、あるいはその後すぐに、少なくとも下級官吏としてペルシア宮廷に所属していたか、あるいはそのような人物を通じて、直接これらの情報を入手したに違いないと考えるようになったのである[1]

Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, pp. 454–458). Review and Herald Publishing Association.

また、民族として存亡の危機に瀕していたユダヤ人に関心を寄せて、エステル記を記していることから、著者はユダヤ人と考えられるでしょう。また、モルデカイを「ベニヤミンびと」(エステル記2章5節)とわざわざ読んでいることから、著者自身もベニヤミンである可能性があります。

エステル記の著者の可能性として浮上する名前は、2つあります。ひとつはエズラもしくはネヘミヤで、もうひとつはモルデカイです。

1. エズラもしくはネヘミヤ

アルタクセルクセス1世の7年(紀元前457年)にエルサレム遠征を指揮したエズラは、著者である可能性があります。

エズラは博学なユダヤ法の権威であり(エズラ記7章1ー14節参照)、王室書記官として、おそらく王の法律顧問として仕えた可能性があります(PK607参照)。いかなる状況下でも、アルタクセルクセスは彼に大きな信頼を寄せていたことが明らかです(エズラ記7章25ー28節参照)。ハマンの引き起こした危機は、おそらくエズラのエルサレムへの出発より、16、17年前の紀元前474ー473年に起こったと思われます[2]

Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 458). Review and Herald Publishing Association.

若いときのエズラが深い関心を示していたとしても、なんら不思議でもありません。もしくは同じような人物としては、ネヘミヤの名前をあげることもできるでしょう。

2. モルデカイ

また、二つ目の可能性はモルデカイです。彼は宮中の官吏から宰相となった経歴の持ち主で、宮中の習慣や法律に精通しており、さらに聖書の中で唯一、さまざまな勅令の公式文書と記録に触れることができた人物であると考えられています[3]

モルデカイという名前、また著名で裕福なユダヤ人のことが、アルタクセルクセス1世およびダリヨス2世の時代の記録に見られますが、これはユダヤ人モルデカイの実際の成功と史実性を示すものと考えられます[4]

第二次世界大戦中、A. ウングナド教授がベルリン博物館で発見した楔形文字の石板には、モルデカイにあたると確信できるマルドゥカという人物が、クセルクセスの時代にスサの政府高官の一人として記されています。彼の肩書きのシピルは、彼が有力な相談役であったことを示しています。

この文章の発見は、多くの学者が疑っていたモルデカイが歴史上の人物であることを証明するものとして受け入れられているのです。モルデカイが自分の民に慕われ、尊敬されたことは(エステル10:3)、ニップルの「ムラシュ・サンズ」という古い商家の古文書から判明したように、次代のユダヤ人の多くに彼の名がつけられていることからも明らかでしょう[5]

Horn, S. H. (1979). In The Seventh-day Adventist Bible Dictionary (p. 759). Review and Herald Publishing Association.

エステル記の歴史的背景

フラオルテス王がメディアを支配していたとき、彼はアッシリア帝国に抵抗して、連合軍を形成し、ペルシアの支援を受けて、BC653年にアッシリアを攻撃しますが、敗退します。

このメディアの敗退後、ペルシアは独立していくことになりました

フラオルテス王がアッシリア帝国との戦いで戦死すると、息子のキュアクサレス2世が王位を継承。ネブカドネツァルの父ナボポラッサル王と連合して、アッシリア帝国を攻撃し、BC612年に首都ニネベを征服します。

その後、キュアクサレス2世の王位はアステュアゲス王に継承され、アステュアゲス王の娘とペルシアの王カンビュセス1世との間に、後の「キュロス大王」が誕生したのです。

このキュロス(クロス)にダニエルやエズラなども仕えていきました。

キュロスはペルシアの全部族を配下に加えると、ネブカドネツァルの父ナボポラッサル王と友好関係を築いていきます。その後、キュロスはメディアの王アステュアゲスに対して反旗を翻し、メディアを征服。メディアはペルシア帝国の中に取り込まれていくことになりました[6]

そして、キュロスの手によってバビロン(新バビロニア王国)もまた滅亡へと追いやられていきます

興味深いことに、ここでキュロスはバビロンのときに要職にあったものをそのまま取り込んでいきます。そのため、ネブカドネツァルの治世からずっと仕えていたダニエルは、キュロスの治世になっても要職に登用されたのでした[7]

また、キュロスはライオンの穴から奇跡的に救われたダニエルの姿を見て(ダニエル書6章25ー27節)、預言者ダニエルが伝えた聖書の預言に耳を傾けていき(エズラ記1章1ー4節)、エルサレム神殿の再建を命じていきました。

これはユダヤ人だけに適応されるものではなく、キュロス王はバビロンに敗北し、捕囚となっていた諸民族の宗教の自由をゆるし、故郷に帰ることを許していきました[8]

神はダニエルがししの穴から救い出されたことを、クロス大王の心に好感を抱かせるためにお用いになった。先見の明を備えた政治家として、神の人ダニエルはすぐれた特質を持っていたので、ペルシャの王は彼に非常な敬意を表して、彼の判断を尊んだ。

そして今、エルサレムにある神殿を再建させると神が言われたちょうどその時に、神はご自分の代理者としたクロスに働きかけて、ダニエルがよく知っていたクロス自身に関する預言を彼に認めさせて、ユダヤ民族に自由を与えさせようとなさった[9]

エレン・ホワイト『国と指導者』「第45章 バビロン捕囚から帰る」165ページ

このエルサレム神殿再建計画はダレイオス王へと受け継がれていきます。

ダレイオスは、エクバタナの古代書庫の中を調べさせた。問題の文書が見つかると、ダレイオスは、神殿の再建作業を続け、ユダヤ人の希望どおり必要な措置を講じ、そしてエルサレムにおける祭儀を促進するように命令を発した。これらの文章の信頼性は、疑う余地がない[10]

D.J.ワイズマン『旧約聖書時代の諸民族』日本基督教会教団出版局、437ページ

ダレイオス王もまた、帝国の拡張に力を注ぎ、ギリシア諸都市近くまで拡大していきます。そのために、ペルシアとギリシアの争いはその後200年も続くこととなったのです。

この思想はダレイオス王の息子であり、エステルの夫であるクセルクセス王にも受け継がれていきます。

ペルシア帝国支配下で反乱がおこり、これをアテネが支援したために、ペルシア帝国はギリシャと戦争状態に入っていきます。アテネは、BC490年のマラトンの戦いでペルシアを退け、BC480年にはテミストクレスの指揮下で、ペルシア軍をサラミスの海戦で打ち破り、翌年にはプラタイアイの陸戦で破ったのでした。

このサラミスの海戦とプラタイアイの戦いの直後に、クセルクセス王はエステルを王妃とします[11]

クセルクセスの治世の時には、反乱が相次いで起こり、ギリシア遠征の前でさえ、バビロニアにおける反乱鎮圧に力を削がれていました。だからこそ、ハマンのユダヤ人鎮圧の提案が魅力的に思われ、ハマンの偽りに惑わされてしまったのでしょう(エステル記3章8ー9節)

また、ユダヤ人に対する敵意を向けたのはハマンだけではありませんでした。サマリア人も敵意を向け、クセルクセス王に告訴状を書いています(エズラ記4章6節)

エステルの物語はそのような政治的駆け引きの中、進んでいくことになります。

長引くギリシアとの戦いと騒乱の中で、クセルクセス王は力を失い、ペルシア帝国も傾いていきます。クセルクセス王の死後、その息子アルタクセルクセスが王位につきます。

そして、アルタクセルクセス王はネヘミヤをエルサレムに遣わして、再建をさせていくのでした。この一助に、おそらくは宰相となったモルデカイとエステルの働きもあったことでしょう

ナクシェ・ロスタムにあるクセルクセスの墓の画像
ナクシェ・ロスタムにあるクセルクセスの墓(引用元:Wikipedia

エステル記のテーマ

1. 神はご自分の目的を遂行される。

エステル記のテーマはいくつかありますが、2つ挙げてそれぞれを見ていきましょう。

エステルも完璧ではありませんでした。彼女は自らの身分を隠していきますが(エステル記2章10節)、これは理想的な信仰者の姿ではありませんでした[12]

邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。

マルコによる福音書8章38節

「恥じる」は原語では、「ある特定の出来事や活動のために、つらい気持ちや地位の喪失を体験すること、恥をかくこと」という意味があり[13]、まさにエステルとモルデカイの恐れそのものともいえるでしょう。神はそのような彼らを用いて、目的を成し遂げるのです。

興味深いことに、エステル記には「神の名」が出てきません。しかし、神の導きはエステル記全体を通して明らかです。

エステルが王妃に選ばれたこと(エステル記2章17節)、モルデカイがクセルクセス王の暗殺計画を知り、密告したこと(エステル記2章21ー22節)、クセルクセスが眠れない夜を過ごしていたとき、たまたま記録を見て、モルデカイの功績を知ったことなど(エステル記6章1ー3節)、数えきれない導きの中でユダヤ人たちは救われていくのです。

神の名がないことは、関与がないことを意味してはいません。神は実際に非常に関与し、近くにおられるのです。神から遠く離れていると思っていた人たちが、神の監視と配慮の下にあることに気づき、行動を起こさざるを得なくなるのは、神がその愛情の対象が不誠実であっても、忠実であり続け、主権を握っていることを証明しているのです[14]

Rubin, B. (Ed.). (2016). The Complete Jewish Study Bible: Notes (p. 1228). Peabody, MA: Hendrickson Bibles; Messianic Jewish Publishers & Resources.

また、ルツ記に出てきたボアズがキリストを思い起こさせたように、エステル記ではエステルがキリストを思わせる人物として描かれます

ルツ記においてもエステル記においても、その行動が真の救い主イエスを思わせる一人の救出者が登場します。ボアズはルツのゴーエール(買い戻しの権利を持つ親戚)であり、エステルは当時の神の民の救出者でした[15]

ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯(ルツ記・エステル記)』安息日学校部

2. 神への服従

ハマンが権力を握ったのは束の間のことでした。この世の権力や繁栄がはかないものであることが痛感されます。ここからも一時のものに従うのではなく、神に従う大切さを学ぶことができますが、それはエステル記全体からもいえるでしょう。

ハマンの危機の前に、すでにエルサレムに帰るために動きは起こっていました。さらにその最初の法令を出したキュロス王によって、エルサレムに上ることが神の御心であることをはっきりと示されるのです。

1:2「ペルシャ王クロスはこのように言う、天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに下さって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。 1:3あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。彼はエルサレムにいます神である。

エズラ記1章2―3節(口語訳)

しかし、多くのユダヤ人は従わず、結果として迫害の危機にさらされることになったのです。

プリムの祭り

プリムの祭りの起源

プリムの祭りのイメージ画像

エステル記はプリムの祭りの起源を明らかにしています。

ユダヤ人虐殺の決行日を、ハマンがプルすなわちくじによって決めたことから、「プリム」という名前がつけられました(エステル記9章24ー26節)

ハマンの策略からの救出と勝利を記念したこの祭りは、毎年アダルの14日と15日に感謝の祭りで祝われ、これは現在でも続いています[16]

祭では、このエステルの知恵と勇気の活躍を描くエステル記がシナゴグで子供たちと一緒に朗読され、 音の出るオモチャを持った子供たちは、悪大臣ハマンの名前が読まれるとハマンの名前が聞こえないように騒ぎたてます。プリムの祭は、子どもたちが仮装をしたり、街ではパレードをしたりと、大変陽気に楽しみます[17]

「シオンとの架け橋」、https://www.zion-jpn.or.jp/israel_culture02.html、2022/08/25閲覧

プリムの祭りのメッセージは、神の民との約束を神は忠実に守ってくださるということです。

古代におけるくじーウリムとトンミム

古代の人々がエステル記にあるような方法でくじを投げていたことがわかっています。エール大学の考古学収蔵品のなかに六面体のかたちをしたさいころが収められていますが、それにはプル、つまり「くじ」という言葉が二回、刻まれています。それはシャルマネセル三世(紀元前八五八年から同八二四年にかけて支配したアッシリヤの王)の高官「イァハリのさいころ」と呼ばれるもので(す)[18]

ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯』96ページ(括弧書きは筆者注)

ある学者は旧約聖書に登場するウリムとトンミムも、このくじと同じような働きをしていたのではないかと考えていますが(箴言16章33節)[19]、このウリムとトンミムは単なるくじや占いとは異なる使われ方をしていました。

胸当ての左右には特に輝いた二つの大きな宝石があった。これはウリムとトンミムと呼ばれていた。これによって神のみこころが大祭司を通して知らされた。決定すべき問題が主の前に持ち出されたとき、右の宝石の周囲に光輪がかかれば、これは神の是認もしくは認可のしるしとなり、左の宝石にかげりができれば、これは拒否もしくは認可されないしるしとなった[20]

エレン・ホワイト『人類のあけぼの』文庫版、中巻、141ページ

通常、くじや占いは人間からのアクション(サイコロを投げるなど)を必要としていましたが、このウリムとトンミムは、人間からのアクションを必要とせずに使用されていました。

また、くじ引きが行われた記録は聖書の中で何か所か登場しますが、現代においてくじで神の意志を確かめ、物事を決めることについては賛否があります。

主はでたらめなやり方で働かれることはない。最も熱心な祈りをもって、主を求めなさい。彼は思いに印象を与え、語る言葉を与え、話し方を導いてくださる。……私はくじ引きに信頼しない。我々は聖書の中に、教会のすべての義務に関し、「主はこう言われる」と明確に書かれた言葉を持っている。……多くの祈りをもってあなたの聖書を読みなさい[21]

エレン・ホワイト、Letter 37,1900年

旧約聖書の中において、くじが引かれている場面は大きく分けると、聖所の儀式や奉仕に関係するケースと嗣業の分配です。特に嗣業の分配は、争いを避けるために、あえてくじにしたのかもしれません。

加えて、サウル王の選出やアカンの罪を明らかにする際などにもくじが引かれていますが、すでに主によって決められていたことを考えると、くじによって「決めた」とは言えません。

また、士師記にあるギベアとの戦いの記録にも、くじが出てきていますが、これはウリムとトンミムのことを指している可能性があります[22]

これらのことを踏まえると、人間の手が介入する手段において、物事を決めていくことが日常的であったとは考えにくいです。

サイコロのイメージ画像

使徒言行録1章21節―26節には、くじを引いて使徒を選ぶ場面が出てきますが、これも無作為に選んだわけではありません。2人まで彼らは候補者をしぼりますが、最後の決断を下すことができなかったのです。

もしかすると、これはイスカリオテのユダの件が影響しているのかもしれません。

イエスが弟子たちを按手礼のために準備しておられたとき、召されていないのに仲間に加わりたいと強要したものがあった。それはイスカリオテのユダという男で、自らキリストの弟子と名乗っていた。……弟子たちは、イエスの働きに大きな助けになる人物として、彼をイエスに推薦した[23]

エレン・ホワイト、『各時代の希望』上巻、378―381ページ

彼らは自分の人間的な決断が、ユダの裏切りとキリストの十字架を招いたと考えたのかもしれません。だからこそ、最後の決断を下せずに、くじを引いたのではないでしょうか。

この場合、どちらの候補者も使徒となる条件は満たしていました。ただ、彼らは最後に神に委ねたいと考え、くじを引いたのです。考えて考え抜いた結果、神に最後の決断を委ねたともいえるでしょう。

これらのことを考えると、聖書を通じて一から物事を決めるときに、人間の手が介入する曖昧な手段を用いて、物事を決めたケースはほとんどないのです。

エステル記の登場人物

クセルクセス王とアハシュエロス王

アハシュエロスとクセルクセスは同一人物で、一方はペルシャ語からギリシャ語を経て、他方はヘブライ語とラテン語の両方を経て来たものです[24]

歴代のペルシア大王は、被支配地域の文脈におうじて、自己の呼び名や見せ方を変えていた[25]

阿部拓児. アケメネス朝ペルシア 史上初の世界帝国 (Japanese Edition) (pp.36-37). Kindle 版.

クセルクセスは古いペルシャ語のギリシャ語訳で、「彼は人/英雄を支配する」という意味です[26]。またクセルクセス王(アハシュエロス)は側近や妻に影響されやすい側面を持ち[27]、また直情的な人物でもありました。

彼の性格を象徴しているエピソードとして有名なのが、ヘレスポントス海峡に橋をかけようとする話です。

海峡を渡って軍隊を移動させようとしたところ、完成直前に嵐によって崩れてしまいます。すると、その知らせを受けたクセルクセスは、家臣に海を300の鞭打ちの刑に処することを命じ、監督者の首を刎ねさせたのでした[28]

このクセルクセス王の行動には、2つの解釈がされてきました。神をも恐れず、怒りを抑えきれないクセルクセル王の性格が露呈してしまった、というのが1つ目の解釈。

2つ目は、それとは正反対で、クセルクセス王はここでペルシャの宗教的また伝統的な世界観にのっとって行動したのだという説です。この説を取るならば、冷静な判断に基づいた行動ということになりますが、聖書に描かれているクセルクセス王はどちらかといえば、前者の直情的な人物でした[29]

ギリシア遠征後のサラミスの戦いに敗れたばかりのクセルクセス王は、エステルとの結婚が執り行われた時、30代後半から40代前半であったと考えられています[30]

また、クセルクセス王は非常に女性に弱く、影響されやすい側面を持っていました。サラミスの戦いの前後にも、女官アステメシスの助言を求めていることがヘロドトスの『歴史』の中に記録されています[31]

ヨーロッパに住むギリシア人とペルシャ人やアジアに住むギリシア人の間でクセルクセスの評価は分裂している。……ヨーロッパに住むギリシア人は偉大な支配者に相応しい人格も魅力も、そして判断能力も欠いていると見なしていたのである。確かにクセルクセスには涙もろい所があるし、自然美を愛し、道徳心に富み、思いやりに満ちているが、同時に残忍であり、臆病であり、怒りっぽく、色に溺れ易いと言うのが彼らの意見であった[32]

中井義明『クセルクセス』「文化學年報」(59号) 同志社大学文化学会、8頁

王妃ワシテ(ワシュティ)

王妃ワシテ(ワシュティ)も、クセルクセス王に合わせて酒宴を設けましたが、慎み深かったとされています[33]

ワシテは「望まれる者」「最高の者」[34]もしくは「美しい女性」[35]を意味する古ペルシャ語の名前で、クセルクセスがギリシャと戦っていた時の王妃であるアメストリスではないかとも言われており[36]、もしそうであれば残虐な独裁者として知られている人物となります。

ただ、今のところ、ワシテとアメストリスが同一人物であるとは証明されていません[37] 

王妃のイメージ画像

モルデカイ

モルデカイとエステルとの関係は、エステル記2章15節で明らかにされていて、「モルデカイのおじアビハイルの娘、すなわちモルデカイが引きとって自分の娘としたエステル」とされています(エステル記2章15節)

2:5さて首都スサにひとりのユダヤ人がいた。名をモルデカイといい、キシのひこ、シメイの孫、ヤイルの子で、ベニヤミンびとであった。 2:6彼はバビロンの王ネブカデネザルが捕えていったユダの王エコニヤと共に捕えられていった捕虜のひとりで、エルサレムから捕え移された者である。

エステル記2章5ー6節(口語訳)

キュロス王の第一年にエルサレムへの帰還と神殿の再建命令が下りました(エズラ記1章1節)。この時がBC537/536年とすると[38]、エステルがクセルクセスの宮殿に連れていかれたときはおよそ57年後となり、バビロン捕囚から127年もの歳月が流れていました。

この後、23年後にアルタクセルクセス王の下、BC457年にエズラによって2回目のエルサレム帰還が、BC444年にネヘミヤによって3回目のエルサレム帰還が行われます[39]

1回目の帰還ではわずか42,360人だけが帰還していき(エズラ記2章64節)、すでに生活基盤があるユダヤ人たちは動くことを嫌がりました。その中の1人におそらくモルデカイやエステルの両親たちはいたのではないかと考えられています。

1893年に、バビロンの南東100キロにあるニップルで発見された多数の模(くさび)形文字の銘板には、ユダヤ人捕囚たちの成功と繁栄が暗示されています。それらの銘板は、おもに中央および南バビロニアの地主や農民と取り引きのあったムラシュ一族の経営する会社の記録でした。

ムラシュ家の顧客の多くがユダヤ人名を持つことから考えると、彼らがその地方の経済活動に深くかかわっていたことがわかります。バビロニヤにおけるユダヤ人捕囚たちは栄え、その社会は次第に大きくなっていきました。やがて、ユダヤ人がペルシャ帝国の一部の地区の人口の大半を占めるに至ります。

彼らはパレスチナの外に散らされたユダヤ人のなかでは最大のユダヤ人社会を形成していました。彼らはキリスト教時代に至るまでその財力と献金をもって聖地のユダヤ人社会と神殿を支えました。ローマによって神殿が破壊されてからは、パレスチナの外の、近東のユダヤ人社会がイスラム教の台頭するまでユダヤ教を支配しました。

捕囚の地における彼らの成功を見れば、彼らがなぜすべてのものを捨ててまで未知の国に行く気にならなかったのかが理解できます[40]

ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯』安息日学校部、83ページ

エステル記2章5節から6節はややこしく、6節の「彼」が仮に「モルデカイ」だとすると、129歳ということになりますが、その一方で、エステル記からはこのような結論を導き出せないとして、「彼」は「キシ(キシュ)」のことを指しているとする意見もあります[41]

また、エズラ記2章2節に出てくるモルデカイは、エステル記のモルデカイとは別の人物であるという見方がされています[42]

結論からすると、エステルとの関係やエステル記のストーリーから、老齢であったとは考えにくく、モルデカイの父が1回目の帰還には参加しなかったために、モルデカイもバビロンの地に残っていたという説が有力でしょう。

ハダッサとエステル

エステル記の主人公であるエステルの名前は、ペルシャ語の釈用語であるとも考えられ、「星」を意味する現代ペルシャ語の単語に酷似しています。

モルデカイが、エステルというペルシャ名を選んだのは、エステルのユダヤ人としてのルーツを隠そうとしたためかもしれないという説があり、この根拠としてエステル(星)とイシュタル(金星)の類似性と、バビロンで金星は神聖化されていたことがあげられています[43]

エステルは自分の民のことをも、自分が同族のことをも人に知らせなかった。モルデカイがこれを知らすなと彼女に命じたからである。

エステル記2章10節(口語訳)

この時、すでに反ユダヤ感情がペルシア帝国内で高まっていたのかもしれません。エズラ記4章6節では、クセルクセス王(アハスエロス)の治世の初めに、敵対勢力がユダとエルサレムの住民を訴える告訴状が王に送られました(エズラ記4章6節)

ただ一方で、文脈的にエステルがヘブライ語と非ヘブライ語の両方の名前を持っていたという意味に解釈するのが最も適切であるという説もあり、その説ではイシュタルとの結びつきは否定されています[44]

いずれにしても、エステルは自らの出自が明らかになると危うい情勢の中で後宮に入って行ったのでした。

ハマン

エステルやモルデカイと敵対するハマンもおそらくは、低い地位から昇進した人物でした[45]。ハマン自身か、彼の両親が戦争で捕らえられ、捕虜としてペルシャに連れてこられたのです[46]

王がハマンに敬礼することを命じていることから、ハマンの人徳がない人物であり、また低い身分からの成り上がりであったことが垣間見えます。

まとめ

権力を一時握ったハマンの例やエズラによるエルサレム帰還についていかなかったことで降りかかった困難を思うと、一時のものに従うのではなく、神に従う大切さを痛感します。

その上、なお神の導きがあることをエステル記は伝えているのです。

興味深いことに、エステル記には「神の名」が出てきません。しかし、神の導きがあることはエステル記全体を通して明らかなのです。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会口語訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

参考文献

[1] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, pp. 454–458). Review and Herald Publishing Association.

[2] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 458). Review and Herald Publishing Association.

[3] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 458). Review and Herald Publishing Association.

[4] S・H・ホーン『ビブリカル・リサーチ』9(1964年)、14―15ページ

[5] Horn, S. H. (1979). In The Seventh-day Adventist Bible Dictionary (p. 759). Review and Herald Publishing Association.

[6] D.J.ワイズマン『旧約聖書時代の諸民族』日本基督教会教団出版局、426―437ページ

[7] D.J.ワイズマン『旧約聖書時代の諸民族』日本基督教会教団出版局、430ページ

[8] Easton, M. G. (1893). In Illustrated Bible Dictionary and Treasury of Biblical History, Biography, Geography, Doctrine, and Literature (p. 174). New York: Harper & Brothers.

[9] エレン・ホワイト『国と指導者』「第45章 バビロン捕囚から帰る」165ページ

[10] D.J.ワイズマン『旧約聖書時代の諸民族』日本基督教会教団出版局、437ページ

[11] Horn, S. H. (1979). In The Seventh-day Adventist Bible Dictionary (p. 341). Review and Herald Publishing Association.

[12] Reid, D. (2008). Esther: An Introduction and Commentary (Vol. 13, pp. 50–51). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.

[13] Arndt, W., Danker, F. W., Bauer, W., & Gingrich, F. W. (2000). A Greek-English lexicon of the New Testament and other early Christian literature (3rd ed., p. 357). Chicago: University of Chicago Press.

[14] Rubin, B. (Ed.). (2016). The Complete Jewish Study Bible: Notes (p. 1228). Peabody, MA: Hendrickson Bibles; Messianic Jewish Publishers & Resources.

[15] ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯(ルツ記・エステル記)』安息日学校部

[16] Easton, M. G. (1893). In Illustrated Bible Dictionary and Treasury of Biblical History, Biography, Geography, Doctrine, and Literature (p. 567). New York: Harper & Brothers.

[17] 「シオンとの架け橋」、https://www.zion-jpn.or.jp/israel_culture02.html、2022/08/25閲覧

[18] ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯』96ページ(括弧書きは筆者注)

[19] Rubin, B. (Ed.). (2016). The Complete Jewish Study Bible: Notes (p. 1232). Peabody, MA: Hendrickson Bibles; Messianic Jewish Publishers & Resources.

[20] エレン・ホワイト『人類のあけぼの』文庫版、中巻、141ページ

[21] エレン・ホワイト、Letter 37,1900年

[22] Nichol, F. D. (Ed.). (1976). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 2, p. 415). Review and Herald Publishing Association.

[23] エレン・ホワイト、『各時代の希望』上巻、378―381ページ

[24] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 463). Review and Herald Publishing Association.

[25] 阿部拓児. アケメネス朝ペルシア 史上初の世界帝国 (Japanese Edition) (pp.36-37). Kindle 版.

[26] Reid, D. (2008). Esther: An Introduction and Commentary (Vol. 13, p. 62). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.

[27] Horn, S. H. (1979). In The Seventh-day Adventist Bible Dictionary (p. 23). Review and Herald Publishing Association.

[28] ヘロドトス『歴史』7.35

[29] 阿部拓児. アケメネス朝ペルシア 史上初の世界帝国 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1472-1479). Kindle 版.

[30] 中井義明『クセルクセス』「文化學年報」(59号) 同志社大学文化学会、6ページ

[31] ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯』安息日学校部、76ページ

[32] 中井義明『クセルクセス』「文化學年報」(59号) 同志社大学文化学会、8ページ

[33] MS29,1911年

[34] Horn, S. H. (1979). In The Seventh-day Adventist Bible Dictionary (p. 1147). Review and Herald Publishing Association.

[35] Reid, D. (2008). Esther: An Introduction and Commentary (Vol. 13, p. 66). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.

[36] Reid, D. (2008). Esther: An Introduction and Commentary (Vol. 13, p. 66). Downers Grove, IL: InterVarsity Press.

[37] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 465). Review and Herald Publishing Association.

[38] ジリ・モスカラ『エズラ記・ネヘミヤ記から学ぶ』セブンスデー・アドベンチスト教団安息日学校部、11ページ

[39] ジリ・モスカラ『エズラ記・ネヘミヤ記から学ぶ』セブンスデー・アドベンチスト教団安息日学校部、11ページ

[40] ジェラルド・ウィーラー『平凡な人々、非凡な生涯』安息日学校部、83ページ

[41] Easton, M. G. (1893). In Illustrated Bible Dictionary and Treasury of Biblical History, Biography, Geography, Doctrine, and Literature (p. 475). New York: Harper & Brothers.

[42] Horn, S. H. (1979). In The Seventh-day Adventist Bible Dictionary (pp. 758–759). Review and Herald Publishing Association.

[43]  Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 469). Review and Herald Publishing Association.

[44] Bush, F. W. (1996). Ruth, Esther (Vol. 9, pp. 363–364). Dallas: Word, Incorporated.

[45] Nichol, F. D. (Ed.). (1977). The Seventh-day Adventist Bible Commentary (Vol. 3, p. 472). Review and Herald Publishing Association.

[46] Easton, M. G. (1893). In Illustrated Bible Dictionary and Treasury of Biblical History, Biography, Geography, Doctrine, and Literature (p. 307). New York: Harper & Brothers.

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