【コヘレトの言葉】太陽の下、新しいものは何ひとつない【1章解説】#2

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こんな話が伝えられています。ギリシアの哲学者ディオゲネスがランプを持ってアテネの通りを歩いていました。目的は正直な男を捜し出すことでした。彼はやっと自分の目にかなう男を見つけ出しました。しかし、ディオゲネスは勘違いしていました。彼は男にランプを盗まれ、真っ暗な夜道を帰るはめになりました。

事実であると否とにかかわらず、この話は人生を冷ややかな目で見ることがいかに容易であるかを教えています。とかく人間は物事を否定的な目で見がちです。

もちろん、ある意味で、これは理解できないことではありません。この世は人間を冷笑的、否定的にし、意気消沈させがちです。『コヘレトの言葉』の冒頭に出てくるソロモンに尋ねてみてください。彼は自然界を眺めて、失望する理由を認めています。彼は知恵を求めて、落胆しています。彼は人生を眺めて、無意味さを悟っています。人生に意味と目的を求めながらも、人々はその答えを見いだすことができないでいます。豊かな富を持った工業国にあって、人々がなお貧困の中にあるのはそのためかもしれません。莫大なお金が坑鬱うつ薬に費やされているのはなぜでしょうか。人々が幸福だからでしょうか。

第1章は『コヘレトの言葉』の序論になっています。それは神を知らない人生のむなしさ・無意味さについて述べています。

エルサレムのコヘレト 

「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」(コヘ1:1)。

ここで一般的に「説教者」と訳されている“コヘレト”という言葉は、「召集する」、「集める」を意味するヘブライ語語根の“カハール” から来ています。ギリシア語では、“コヘレト” は「教会」を意味する“エクレシア” と類似した言葉に訳されています。[英語の]“エクリジアスティズ”(コヘレトの言葉、伝道の書)はここから来ています。ユダヤ人は著者と書名を、単にコヘレトと呼んでいました。

“コヘレト” という言葉の正確な意味をめぐっては、長年さまざまな議論がなされてきました。彼は自分の偉大な知恵を説明するために人々を集める人のことでしょうか。それとも、自ら示唆しているように、彼は知恵を集める人のことでしょうか(コへ1:13、16、17)。確かな答えは天国を待つしかありません。

問1 
コヘレト1 章を読み、ソロモンが言おうとしていることを簡単にまとめてください。各聖句の意味より全体の内容・調子に注目してください。クリスチャンの立場から、これらの言葉をどのように理解しますか。だれが、いつ、どんな理由で書いたかを考えながら読んでください。

表面的には、これらの言葉は恨みがましい人、皮肉な人、悲観論者の言葉に見えます。著者が見ているのは人生の繰り返し、むなしさ、無意味さだけです。それだけをとってみれば、彼の言葉は人生のむなしさと無意味さを嘆く現代の多くの無神論哲学者の言葉のように響きます。当然のことながら、これはソロモンには当てはまりません。この書を聖書全体の光に照らして考えるなら、そこに見られる悲痛さや悲観主義はむしろ、神の描写と救いの約束とは対照的に、神を逸脱した人生、反逆した人生、地上のことしか考えない人生から来るものです。このように考えるなら、ソロモンの言葉は、たとえ表現が異なっていても、聖書の全体的なテーマと完全に調和しています。

なんという空しさ

「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」(コへ1:2)。

ほとんどの聖書はこの聖句に「空しい」という言葉を用いています。ヘブライ語の“へベル” は文字通りだと「蒸気」または「息」という意味ですが、同時に空虚、無意味、空しさという意味も含んでいます。この言葉はコヘレトの言葉に何回も出てきます。

問2 
「蒸気」や「息」という言葉は何を連想させますか。ソロモンがこの言葉で人生全般を論じようとしたのはなぜでしょう。詩144:4参照

もう一度、ソロモンがこれらの言葉を書いた背景について考えてください。あらゆる可能性と約束に満ちた彼の人生の年月は、一時的なもの、永続的価値のないものによって失われました。あなたの人生の大部分が“へベル”、つまり蒸気によってできていると想像してください。人生の終わりを迎えるとき、すべてが蒸気のように思われることでしょう。人生があっという間に過ぎ去り、無意味なもので満ちているように思われるからです。

問3 
次の各聖句を読んでください。それらは上記の思想と同じ思想をどのように表現していますか。イザ52:3、マタ6:19、20、マコ8:36、ヤコ4:14

ソロモンの言葉が真に迫ってくるのは、彼がこの世の与えるあらゆるものを持っていたからです。彼は、おそらくほかのだれよりも、この世の楽しみを思う存分に味わっていました。後に言っているように、ほしいものがあれば、余さず手に入れました(コへ2:10)。しかし、最後に、それらすべてを無意味なもの、むなしい蒸気・息のようなものと言っています。これは、人生において何が大切で、何が大切でないかについての重要な教訓です。

日はまた昇る

若い頃のソロモンは自然界の熱心な研究者だったようで、彼は自然界から多くの霊的教訓を学んでいます(箴1:17~19、6:6~9、17:12、26:1~3、11、31:10 参照)。後年においても、彼はなお自然界を観察していました。しかしながら、彼の思想を見るかぎり、彼は観察したものからあまり教訓を学んでいなかったようです。

問4 
コヘレト1:4~11 を読んでください。ソロモンはここで何と言っていますか。彼の結論はどの程度、正確ですか。

ソロモンが学んでいたのは、いわゆる「自然神学」と呼ばれるもので、自然そのものから神や生命についての真理を知ろうとする試みです。それは有益なものです。自然界は神の「二番目の書物」と呼ばれています。詩編19:1 ~ 7、イザヤ書40:26、ヘブライ11:3 を読んでください。

問5 
自然界はどのようにして神について語りますか。堕落した世界のことを考えると、自然界の教えることにはどんな限界がありますか。

二番目の書物である自然界がどれほど強力なメッセージを伝えていようとも、どれほど素晴らしい聖句を提示していようとも、もし読者がそれを読むことができなければ何の意味もありません。また、どれほど素晴らしいメッセージが示されていても、もし読者の心がそれに対して開かれていないで、ほかの方向に向けられていたなら、読者はその聖句、あるいは自然界の教える教訓を受け入れないばかりでなく、ともするとそこから誤った結論を導き出すかもしれません。ソロモンはここで、自分の人生について不満を述べています。彼は自然界をながめ、必ずしも学ぶべき教訓とは言えない結論を引き出しています。彼は否定的で、冷笑的な態度をもって、自然界をながめています。

このような態度はよく見られるものです。18 世紀のある作家は、「人間が自然の衝動にしたがって、気ままに殺人を犯すのは」、飢き 饉きん、疫病、洪水などをもたらす自然界があまりにも破壊的であるからである、と言っています。言い換えるなら、自然界が殺すので、われわれ人間も殺してもよい、ということです。誤った結論はいくらでも引き出せるものです。誤った態度で周囲のものを見るのは容易なことです。

循環を超えて 

ソロモンは周囲の自然をながめ、そこに終わりのない、一見無意味な循環を見ました。太陽は昇り、沈み、風は吹き、川は流れ、いつまでも繰り返します。かつてあったことは、これからもあります。これからあることは、すでにあったことです。「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コへ1:9)。しかしながら、彼の言葉には、どこかおかしい、このままであってはならない、といった含みがあります。彼の態度は1 章の冒頭から続いています。

問6 
もう一度コヘレト1:1 ~ 4 を読んでください。ソロモンはこれらの冒頭の聖句において、自然界の終わりなき循環とは対照的な人間のはかなさについて何と述べていますか。

地上の営みはいつまでも続きます。人間はそうではありません。人間は、蒸気(ヘベル)にすぎません。このような思いは人間にこの上ないジレンマをもたらします。人間は永遠性、超越性、偉大な存在といった思想を理解することができます。しかし、それは人間の能力を超えたものです。太陽、川、風は今、私たちの前にありますが、私たちが塵ちりに帰った後も長く存続します。人間は生まれ、死にます。太陽、川、風は変わることがありません。シェイクスピアが言うように、人間の人生が「空騒ぎだけで、何の意味もない」物語に思われるのも不思議ではありません[マクベス5:5]。

問7
以下の聖句は、ソロモンがコヘレト1 章でふれているジレンマにどのように答えていますか。I コリ15:26、51 ~ 55、ヘブ2:14、黙21:4

多くの偉大な思想家、哲学者が、人生のあらゆる難解な問題を説明しようとしてきました。しかし、死の問題を解決しないかぎり、人生の問題に対する答えを見いだすことはできません。すべての生は死をもって終わるからです。しかも、だれひとりとして、この問題に答えていません(彼らはみな死にました)。イエスだけが、その死と復活をもって、この問題に答えられました。イエスが示してくださったように、死は終わりではなく、私たちはいつの日か、この堕落した地球上の終わりなき生命の循環がやみ、忘れられた後で、長く生きるのです(イザ65:17)。この希望がなければ、ソロモンの悲観論は正しかったことになります。

「太陽の下」の知恵 

コヘレト1:12~18 は著者の背景について知る上で助けを与えてくれます。著者は王としての自分について繰り返し、自分がかつてエルサレムにいただれよりも知恵があると言っています。これによって、著者がソロモンであることがいっそう明らかになります。ソロモンの治世は大いなる平和と繁栄の時代でした。侵略や反逆、経済的な崩壊を心配する必要のない王には、「太陽の下」で知識と知恵を求める時間が十分にありました。

問8 
「天の下」(13 節)という表現は「太陽の下」(3、9、14 節)と同じ意味で、コヘレトの言葉の中だけに20 回以上出てきます。この言葉は何を意味しますか。それはソロモンがここで言っていることを理解する上でどんな助けになりますか。

天の下、太陽の下という表現は、この地上で行われていることをさす別の表現です。地上の業もまた、この世の知識と知恵がむなしいことを教えています。世界とその中のすべてのものは人生の難題に答えることができません。それらはむしろ、多くの人生の難題を生じさせるだけです。答えはこの世よりも偉大なもの、この世を超越したもの、「世に勝っている」ものから来ます(ヨハ16:33)。もちろん、それはイエスです。そうでなければ、ソロモンがここで言っているように、世は不満と憤りと皮肉をもたらすだけです。人はあらゆる知恵を得ても、その知恵は悲しみと苦しみをもたらすだけです。

ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーの次の言葉は、どこかソロモンの言葉を思い起こさせます。「(太陽の下にある)人生のあらゆることは、地上の幸福が失望に終わる定めにあることを示している」。

問9 
もういちどコヘレト1:12 ~ 18 を読んでください。ソロモンは特に何を無意味で、むなしいと感じていましたか。これらの言葉はどんな点で、II テモテ3:7 にあてはまりますか。

まとめ

オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、かつてこんなことを言っています。「幸福な人の世界は幸福でない人の世界とは異なったものである」。『箴言』がソロモンの別の時期の考え方について何と記しているか調べてください。彼の考え方にはどんな違いが見られますか。このことから、神との正しい関係が人生を全体としてとらえる上できわめて重要であることがわかります。

「ソロモンは自然界の止むことのない循環について不平を述べているのでなく、むしろその中に人間の人生の循環に似たものを見ているのである(コへ1:4)。世代から世代への人間の人生は、それ以上に崇高な目的を持たない、単なる繰り返しなのであろうか。人間の人生には、最高点がないのであろうか。神は、一見世代から世代への終わりなき繰り返しに見える人間活動に最終的に取って代わる永遠の目的をお持ちにならないのであろうか。地表の周りの気団の動きに関する描写[コへ1:6]の科学的正確さは、古代の文学に類を見ないものであって、古代の人間の洞察よりもはるかに優れた自然の法則についての洞察を啓示している」(『SDA 聖書注解』第3 巻1064 ページ)。

「世の人間的な知恵においては、世は神を知らない。世の賢明な人間は神の被造物を通して神についての不完全な知識を集め、愚かにも自然と自然の法則を自然の神よりも高める。自然は開かれた書物であって、神を啓示している。自然に引きつけられる人はみな、その中に彼らを造られた神をながめることができる。しかし、キリストにおいてなされた神御自身についての啓示を受け入れることによって、神についての知識を持たない人たちは、自然の中に神についての不完全な知識しか得ることができない」(エレン・G・ホワイト『健康的な生活』293 ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2007年1期『コヘレトの言葉』からの抜粋です。

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