今回の記事のテーマ
詩人T・S・エリオットは、「わが始めに、わが終わりあり」という1行で一つの詩を書き始めました。簡潔ながらも、彼のその言葉には力強い真理が伴っています。起源の中に終わりが存在します。この事実は、私たちの名前、「セブンスデー・アドベンチスト」にも当てはまります。そこには聖書の基本的な二つの教えが含まれているからです。「セブンスデー」は十戒の安息日に相当し、地球上の生命が6日間で創造されたことの週ごとの記念です。そして「アドベンチスト」は、イエスの再臨を指し示しており、その再臨において、永遠の命の約束を含む、聖書のあらゆる希望と約束が成就するのです。
時間的に、この世の創造(私たちの始まり)がイエスの再臨(私たちの終わり、少なくともこの罪深い存在の終わり)とどれほど離れていようと、これら二つの出来事は結びついています。私たちを創造された神(ヨハ1:1〜3)と、戻って来て、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに」(Iコリ15:52)私たちの究極の救いをもたらしてくださる神とは、同じお方です。確かに私たちは、私たちの始めの中に私たちの終わりを見いだすのです。
私たちは今回、あらゆる終末の諸事件の中でも最後の事件、少なくとも現在の世界が関係する限りにおいて最後のことである主イエスの再臨について語ります。
主の日
どれほど私たちがイエスの再臨を新約聖書だけの教えだと思いがちであるにしても、それは正しくありません。言うまでもなく、イエスの初臨、死、復活、昇天があって初めて、再臨を取り巻く真理は十分かつ豊かに啓示されました。しかし、新約聖書におけるほかのことと同様、旧約聖書は、それが起こるずっと前から、この極めて重要な真理の手がかりや前兆を明らかにしています。新約聖書の記者たちは、イエスの再臨の教理によって新しい真理を啓示したのではありません。そうではなく、彼らは旧約聖書の中にすでに啓示されていた真理を大いに深めたのでした。今だからこそ、十字架につけられ、復活された救い主を踏まえて、再臨の約束はもっとよく理解され、評価されうるのです。
問1
次の聖句を読んでください(イザ13:6、9、ゼカ14:9、ダニ12:1)。これらの聖句は、イエスの再臨について、どのようなことを教えていますか。
疑いの余地なく、「主の日」とは、失われる者たちにとって、破滅、悲しみ、悩みの日でしょう。しかしその日は、すべての神の民、つまり「あの書に記された人々」(フィリ4:3、黙3:5、13:8も参照)にとって、解放の日でもあるのです。この主題、すなわち「主の日」が悪い者たちに対する裁きの時であるとともに、神の忠実な者たちが守られ、報いを与えられる時でもあるという主題は、旧約聖書の中に見いだされます。例えば、ある者は「主の激しい怒り」(ゼファ2:2、口語訳)に直面するが、「正義を求めよ。謙遜を求めよ」(同2:3)という召しを聞き入れる人たちは、「主の怒りの日に……隠される」(同)だろう、とあります。
問2
マタイ24:30、31を読んでください。これらの聖句は、イエスの再臨の際に失われる者と救われる者とに大きく二分されることを、どのように示していますか。
ダニエルとイエスの再臨
イエスの時代の多くのユダヤ人は、メシアがローマを倒して、イスラエルをあらゆる国々の中で最も強い国として確立することを望んでいました。が、それは、(初臨であれ、再臨であれ、)イエスの来臨のあるべき姿ではありませんでした。そうではなく、神は、この罪深い、堕落した古い世界を単に手直しするのではなく、御自分の忠実な民のためにはるかに大きなものを用意しておられました。
ダニエル2章ほど、新しい世界が古い世界から生じるのではなく、まったく新しい、根本的に異なる創造物であることを明確に啓示している箇所は、たぶん旧約聖書の中にないでしょう。
ダニエル2章は、四つの偉大な世界帝国(バビロン、メディアとペルシア、ギリシア、最後にローマ)の盛衰と、ローマがやがて現代ヨーロッパの国々に分裂することを示しています。しかし、ネブカドネツァルが夢で見た(これら四つの世界的列強の連続を象徴している)像は、この世と私たちの主イエス・キリストの再臨後にあらわれる世との大きな断絶を示す劇的な形で終わります。
問3
ダニエル2:34、35、44、45を読んでください。この世の運命と新しい世界の性質について、これらの聖句はどのようなことを教えていますか。
これらの聖句は、イエスが戻られるときに起こることに関して、曖昧さを少しも残していません。イエスはルカ20:17、18において、この世を木端微塵に砕いたこの石に御自分を重ね合わせられました。ダニエル2:35のアラム語は、金、銀、青銅、鉄、陶土が砕かれたあと、それらが「夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました」と読めます。つまり、イエスが戻られたあと、この古い世界は何も残らないということです。
その一方で、この古い世界の痕跡をすべて破壊した石は、「大きな山となり、全地に広がったのです」(ダニ2:35)。そして、再臨の結果として生じたこの王国は、「永遠に滅びることなく、……永遠に続きます」(同2:44)。
二つの終わりのうちの一つだけが、この地球という惑星にこれまでに生きたすべての人間を待ち受けています。私たちは、永遠にイエスとともにいるか、それともこの古い世界の殻とともに無へ消え去るかです。いずれにせよ、永遠が私たち全員を待っています。
長期的見通し
テトス2:13を読んでください。私たちにはすばらしい希望があります。私たちの宇宙の起源について自らの信条を述べた際に、ある講師がこう説明しました。およそ130億年前、「一つのものすごく高密度の小さな塊が無から突然あらわれ、その塊が爆発し、その爆発から私たちの宇宙は出現したのです」と。この「ものすごく高密度の小さな塊」がいかにして無から突然あらわれえたのかについては、その講師は何も言いませんでした。彼は信じることによって、そうなったのだ、と思い込んだのです。
さて、今週の研究の「安息日午後」で述べたように、私たちは自分の起源の中に終わりを見いだします。ですからこの講師に従えば、私たちの終わりは、少なくとも長い目で見ると、あまり希望にあふれていません。この「ものすごく高密度の小さな塊」から生じた宇宙は、その中に存在する(言うまでもなく、人間を含む)すべてのものとともに、最終的に消滅するように運命づけられたからです。
それとは対照的に、私たちの起源に関する聖書の考えは、ずっと論理的であるばかりか、ずっと希望にあふれています。起源なる神に感謝すべきことに、私たちの長期的見通しは、とても良いものです。私たちには未来に期待を寄せることがたくさんあります。そしてその希望は、イエスの再臨にかかっています。
問4
IIテモテ4:6〜8を読んでください。パウロはここで何について語っていますか。また、彼は何に希望を託していますか。
パウロはまもなく処刑されることになっているのですが、救いの確信と、彼が「主の出現」(IIテモ4:8、口語訳)と呼ぶキリストの再臨の望みの中で生きています。「義の冠」がパウロを待っていますが、その義は決して彼自身の義ではなく(Iテモ1:15)、イエスの義です。パウロは、再臨の約束に対する彼の望みがイエスの義にかかっていることを知っています。(牢獄の中で処刑を待つという)ひいき目に見ても憂鬱でしかない眼前の状況にもかかわらず、パウロは、彼の長期的見通しがとても良いことを知っているのです。そしてそれは、彼が目の前の状況に目を向けるだけでなく、広い視野で見ていたからでした。
天の雲に乗って
聖書によれば、再臨は極めて重要であるにもかかわらず、すべてのクリスチャンがそれを文字どおりの出来事、キリスト御自身が戻って来られる出来事だとみなしているわけではありません。例えば、イエスの再臨は、キリスト御自身が地球に戻られるときではなく、彼の霊が地上の教会の中にあらわれるときに起きることだと、主張する人たちがいます。言い換えれば、キリストの再臨は、キリスト教の道徳的原則が神の民の中にあわわれるときに達成されるというのです。
しかし感謝すべきことに、この教えは間違っています。もしそれが本当なら、私たちにはどんな長年にわたる望みがあるでしょうか。
問5
再臨に関する新約聖書の次の聖句を読んでください。キリストの再臨の性質について、それらはどのようなことを明らかにしていますか。マタイ24:30、Iテサロニケ4:16、マタイ26:64、黙示録1:7、IIテサロニケ1:7〜10
「大空は、開いたり、閉じたりするように見える。神のみ座からの栄光が、ひらめき渡るように見える。山々は、風にゆらぐ葦のように揺れ、ゴツゴツした岩があたり一面に飛び散る。嵐が近づいているようなうなり声がする。海は荒れ狂っている。強風のかん高い音が、破壊行為に従事している悪鬼らの声のように聞こえる。
全地は海の波のように隆起し、揺れ動く。地の表面は砕け散る。地の基そのものが崩れつつあるように見える。山脈は沈下していく。人々の住んでいる島々が消えていく。罪悪に満ちてソドムのようになってしまった海港は、怒った水にのまれてしまう。神は大いなるバビロンを思い起こし、『これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられ』る」(『希望への光』1909、1910ページ、『各時代の大争闘』下巻414ページ)。
イエスの再臨はこのように壮大な出来事であり、私たちが知っているこの世に、文字どおりの終焉をもたらします。イエスが初臨の時に私たちのために成し遂げてくださったことが、再臨の時に完全に明らかにされるのです。
生きている者と死者
イエスは友人であるラザロを墓から復活させる前に、このような言葉を口にされました—「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハ11:25)。しかしイエスは、このような途方もない主張を信じるようにと人々に求めただけでなく、それに続いて、死体が臭い始めるほどかなり前に亡くなったラザロを死から復活させられたのです(ヨハ11:39)。
確かに、イエスを信じる者たちも死にます。しかし、イエスが言われたように、彼らは死ぬかもしれませんが、再び生きるのです。これが死者の復活にほかなりません。そしてこの死者の復活のゆえに、イエスの再臨は私たちのあらゆる希望の中心なのです。
問6
次の聖句によれば(ロマ6:5、Iテサ4:16、Iコリ15:42〜44、53〜55)、イエスが戻られるとき、キリストに結ばれて死んだ人たちにどのようなことが起きますか。
再臨の大いなる希望は、イエス御自身が体験された死者の中からの復活を、あらゆる時代のイエスの弟子たちも体験することです。イエスの復活の中に、彼らは自分自身の復活の希望と確信を持っています。
問7
イエスが戻られるとき、生きている者たちにはどのようなことが起きますか(フィリ3:21、Iテサ4:17)。
イエスが戻られるときに生きている忠実な者たちは、肉体を持ち続けますが、それは現在の状態においてではありません。その体は超自然的に、死者の中から復活させられた者たちが持つのと同じ朽ちることのないものに変えられるでしょう。「生きている義人たちは、『またたく間に、一瞬にして』変えられる。彼らは、神のみ声によって栄化された。今や彼らは不死の者とされて、よみがえった聖徒たちとともに、空中において主に会うために引き上げられる」(『希望への光』1914ページ、『各時代の大争闘』下巻424ページ)。
さらなる研究
イエスの再臨は、この堕落した世界における人間の罪と苦しみの物語の結末、付録、あとがきなどではありません。そうではなく、再臨はキリスト教信仰の最大の山場、最大の希望です。それなくして、いったい何でしょうか。人間の物語は、すべて死によって終わるまで、次から次へと惨めな場面、悲劇がひたすら続きます。キリストの再臨が私たちにもたらす希望を別にすれば、人生は、ウィリアム・シェークスピアが書いたように、「たかが白痴の語る一場の物語だ。怒号と狂乱にあふれていても、意味などありはしない」(マクベスより、大場建治訳)のです。それにもかかわらず、私たちにはこの再臨という希望があります。神の言葉が繰り返しそれを確証しているからです。私たちにこの希望があるのは、イエスが御自分の命と私たちを引き換えにしてくださり(マコ10:45)、その支払った額に見合うものを受け取りに必ず戻って来られるからです。
天の星々は、再臨について語りません。木々でさえずる鳥たちも先触れをしません。これらのものそれ自身は、現実について何か良いもの、何か希望にあふれるものを指し示すかもしれません。が、いつの日か、イエスが戻られるとき、「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられ(る)」(Iコリ15:52)ことを私たちに教えません。それらは、ある日私たちが目を上げると、「人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マコ14:62)ことを教えません。私たちがこういったことを知っているのは、それらが聖書の中に語られており、御言葉が約束することを私たちが信じるからです。
*本記事は、『終末時代への備え』からの抜粋です。