中心思想
神はご自分の民の利益のために、彼らが神と協力して神の目的を達成するように望まれます。しかし、成功を与えてくださるのは神であって、神の民は神の御手にある器にすぎないことを、彼らは覚えるべきです。
逆境に勝つ
神はしばしば人間の目に不可能と思われる障害を克服することによって、ご自分の力を明らかにされます。300人のイスラエル人をもって13万5000人のミデイアン人とその同盟軍と戦う—これは考えられないことです(士師7:12、8:10参照)。五個のパンと二匹の魚をもって、女と子供を除く 5 0 0 0 人に食べさせる—道理に合いません(マタ14:15〜21参照)。一握りの人間をもって、処刑された大工についての「福音」で帝国を揺り動かす—途方もない考えです(使徒言行録参照)。一人のユダヤ人女性が処女のままで神の御子を出産する—不可能です(ルカ1:37、38—ガブリエルは言いました。「神にできないことは何一つない」。マリアは言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」)。
不利な状況において孤独と無力感に襲われる時(列王上19:9、10)、マリアに対するガブリエルの言葉とマリアの応答を思い出してください。神はしばしば不可能と思われることを行うことによってご自分の民に愛を示されます。もし私たちの目が開かれるなら、天の無敵の軍勢が私たちを守り、導いているのを見ることでしょう。
Ⅰ.少数精鋭(士師記7章1節〜8節)
ミデイアン人とその同盟軍に対する最初の攻撃に際して、神が必要とされたのは少数の精鋭でした。3万2000人のイスラエル人がギデオンの角笛による召集に応答しました(士師6:34、35、7:3)。2段階の選抜によって、神はそのうちの3万1700人を帰宅させられました。
敵の軍勢は数え切れないほどでした(士師7:12、8: 10)。そのような勢力と戦う意志のあるイスラエル人は、心から主を、そしてまた主がギデオンに与えられた勝利の約束を信じていたはずです(士師6:16)。人間的に見れば、彼らの冒険は無謀でした。しかし、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」のです(Iコリ1:25-ロマ8:31比較)。ヨナタンも言っているように、「主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない」(サム上14:6)。主に従って、霊の戦いに自発的に参加する者たちにとって、勇気は絶対に欠かすことのできないものです。神が勇気を求められるのは、それを与えてくださるからです(申命20:1〜4、ヨシ1:6、7、9)。
Ⅱ.夢見る軍勢(士師記7章9節〜15節)
ギデオンはなおも恐れていました。主の御使いは彼に現れ、奇跡的な印を行い(士師6:21)、神は羊の毛によって二重の印を与えておられました(36〜40節)。戦いの時は目前に迫ったというのに、ギデオンに与えられているのは300人の兵士だけでした。羊の毛によって二度目の印を神に求めるのさえ気がひけたというのに(39 節)、さらに印を求めることなどとてもでき神はギデオンの不安を察知して、御自ら彼の必要としている印をお与えになりました(士師7:9〜11)
その夢は忠象徴的なものでした。敵の兵士の見た夢によると、(イスラエル人のように窮乏した民が食べる)大麦のパンがミデイアン人の陣営に転がり込み、こともあろうに天幕を倒してしまいます。これと同じように、ギデオンと彼の仲間たちも神の奇跡によってミデイアン人の軍勢を打ち破るのでした。
この夢はまた皮肉を含んでいました。ミデイアン人はイスラエル人の食物を盗んでいました。夢の中で、ミデイアン人の支配を脱した一つのパンが彼らの天幕を倒し、その悪事への報復をしています(士師9:57比較)。彼らはまた、ギデオンの兄弟を含むイスラエル人を殺していました(士師8:18、19)。ギデオンは今、ミデイアン人の支配を脱して、イスラエル人の食物を盗んだことと自分の兄弟を殺したことに対して彼らに刑罰を下すのでした。
夢とその解釈について聞いた時、ギデオンは直ちに神に感謝し、その場で神を礼拝しました。彼は勇気に満たされてイスラエルの陣営に帰り、勝ちどきの声を上げました(士師7:15)。
敵がイスラエルの勝利についての作り話をするはずがないので、敵の語る夢とその解釈は真実でした。イスラエル人は、神から与えられた夢が将来を正確に予告することを知っていました。自分の聞いた夢とその解釈が主の御使いの言葉と一致するのを知った時(士師6:16)、ギデオンの疑いは消えました。
Ⅲ.光と音のショー(士師記7章6節~25節)
ギデオンは夜のうちに300人を三つの小隊に分け、ミデイアン人の陣営の端に待機させました。
眠っていたミデイアン人は、砕ける水がめの音、鳴りわたる角笛たいまつの音、突然、周囲に輝く松明の光で目をさましました。あたかも大軍によって包囲されているように見えました。パニックに陥った彼らは自分の安全しか考えませんでした。敵が陣営に入り込んだと思い込んだ彼らは、暗やみの中で互いに相手を確認することができず、自分自身を守ろうとするあまり同士討ちになってしまいます。「主は、敵の陣営の至るところで、同士討ちを起こされ〔た〕」(士師7:22)。ミデイアン人が敗走すると、ギデオンは残りのイスラエル
人に敵の追撃を命令します。ギデオンは3万1 700人を帰宅させていましたが、それはこの時のためだったと思われます。
この時の光景を、神が週末の民を圧倒的な反対勢力から救出される時に見られる光と音のショーと比較してください(Iテサ4: 16、17、マタ24:27参照)。
この物語は人間が神と協力した典型的な例です。神は人間の努力を最大限に利用し、その努力の結果を祝福することによって、戦いに勝利されました。主の導きがなかったなら、ギデオンは最初に志願した3万2000人全員をもって13万5000人の敵兵を攻撃していたことでしょう。神はそのような不利な状況においても勝利を得ることができましたが、もっとすばらしい方法をお持ちでした。それは、13万5000人の軍隊に同士討ちをさせるということでした。そのためには、気づかれずに敵の陣営に侵入し、光と音のショーをもって敵を驚かすことによってパニックを引き起こすことのできる、少数の勇敢な兵士たちが必要でした。神は人間の努力の結果を増し加え、敵の陣営を混乱に陥れられました。
神が少数の献身した人々を用いて大勝利を得られたのは、これが初めてではありませんでした(創世14:14〜16参照)。
Ⅳ.頼りにならない友人たち(士師記8章1節〜9節)
敗走するミディアン人を追撃するために、ギデオンはなるべく多くのイスラエル人の協力を必要としました。しかし、一部の同国人が彼を悩ませます。
エフライムの人々はミデイアン人を浅瀬で食い止めることによって協力しましたが(士師7: 24)、後になって、北部の他の部族を召集していながら、なぜ自分たちを召集しなかったのかと言って、ギデオンを責めました(士師6 : 35)。
エフライムは北部のイスラエル部族の中で最も力のある部族でした。彼らはギデオンをねたみ、ギデオンがミデイアン人を攻める前に自分たちに相談しなかったことに屈辱を感じていたようです。「よくあることだが、エフライムの人々は、敵が敗走するのを待って戦いに参加しようと考えていた。同じように今日も、賞賛に値する計画を勇敢に始める者を批判する人が多い。彼らは冒険の成功が明らかになるまで何ひとつ手を貸そうとしない。その後で、手柄を求めたり、計画の指導者に加わろうとしたりする」( ISDA聖害注解』第2巻351ページ)。
ギデオンは最初に敵を攻撃する責任と危険を受け入れました。神によって立てられたイスラエル人の指導者として、彼はエフライム人を責めることもできました。しかし、もしそうなれば、彼は外国人の他に、彼らとも戦わねばならなくなったことでしょう(士師12:1〜6比較)。そのような時間はありませんでした。エフライムの成功を賞賛するという、賢明で、礼儀正しく、謙虚なギデオンの外交的手腕は、この場にふさわしいものでした。聖書の『箴言』はまだ書かれていませんでしたが、ギデオンは、「柔らかな応答は憤りを静め傷つける言葉は怒りをあおる」ということを知っていました(箴言15:1)。
ギデオンと300人の勇士たちは、空腹のあまり倒れそうでしたが、なおもミデイアン人を追撃していました。しかし、スコト(スコテ)とペニエルの人々は先のメロズの人々と同じく、無情にも援助を拒みました(士師8:4〜6、8-5:23比較)。ギデオンはエフライム人の場合とは異なり、彼らを裏切り者と見なし、報復の誓いをもって彼らの侮辱に答えました(士師8:7、9)。
Ⅴ.裏切りに対する報復(士師記8章10節〜21節)
約1万5000人のミデイアン人がまだ残っていました。ギデオンと彼の勇士たちは彼らを驚かせ、恐怖に陥れ、これを打ち破り、ミデイアンの王、ゼバとツァルムナ(ザルムンナ)を捕らえます(士師8:10〜12)。戦いはすぐに終わりました。主とギデオンの迅速な行動は完全に不利な状況に勝利しました。しかし、ギデオンはすぐには家に帰りませんでした。「士師」にはまずなすべき裁きがありました。
スコトとペヌエルの人々は、ギデオンは残っている数多くのミデイアン人を破ることはできないと言って、彼を侮辱していました。これらの人々がギデオンを助けなかったのは、ギデオンがまだ戦いに勝ってミデイアンの王たちを捕らえていなかったからであり(士師8:6)、またおそらく、ギデオンが戦いに敗れると考え、その場合、彼を助けたことでミデイアン人から報復を受けることを恐れたからでした。これに対してギデオンは、主が王たちを自分に渡される時(もし渡してくださるなら、ではない)、私は戻って来て、お前たちを罰すると答えました(7、9節)。
ギデオンは王たちを捕らえ、彼らをスコトとペヌエルの人々に見せ、主が確かに自分をイスラエルの士師また救助者とされたことを証明します。しかし、ギデオンがスコトとペヌエルに与えた裁きは救いではなく、反逆と裏切りに対する神の報復でした(13〜17節)
イスラエル軍の指導者であるギデオンがミディアンの王たちを殺すのは当然と言えば当然です。彼らは悪の頂点に達していました。その上、ギデオンは個人的な報復をする理由がありました。詳しいことはわかりませんが、先のタボルでの戦いの折、王たちはギデオンの兄弟たちに憐れみを示していませんでした。したがって、王たちもまた憐れみを受けることがありませんでした。
この物語はある程度、主がギデオンを選ばれた理由を説明しています。ギデオンは信仰の人であると同時に、ミデイアン人に報復することにおいて強い個人的な関心を持っていました。彼は初め、ミディアン人と戦うことにあまり乗り気ではありませんでした。ミデイアン人の力と戦いの危険性を知っていたからです。しかし、神によって励まされた時、彼にはその用意ができました。
まとめ
ギデオンと彼の勇士たちはイスラエルを救うための神の器でした。成功は神に依存していました。神がおられなければ、人間の努力は失敗していたはずです。しかし、神が用いてくださったゆえに、人間の努力も重要でした。神は今日、ご自分の御心を達成するために喜んですべてを犠牲にする人々を用いてくださいます。
*本記事は、アンドリュース大学旧約聖書学科、旧約聖書・古代中近東言語学教授のロイ・E・ゲイン(英Roy E. Gane)著、1996年第1期安息日学校教課『堕落と救いー士師記』からの抜粋です。