イエスが愛されたように愛する
カルバリーの少し前に,イエスは「新しいいましめ」を与えられました。彼はそれによって私たちに最も大切なことを印象づけようとされたのです。「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハ15 : 12)。この戒めは私たちの生活に欠かすことのできないもの,つまりこの世の人間関係と神との関係を扱っています。
イエスは人間を愛されました。彼は人々を教え,励まし,いやし,彼らのうちに神のかたちを回復し,神と人とに対する関係を新しくされました(ヨハ13:35参照)。イエスの御霊は|日約時代においても活発に働いておられました。雅歌は神と人との関係についての,神の大いなる教科書です。その調子の美しい聖句の中に,「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい」という神の言葉がくりかえし響いています。
私たちはもちろん,人類のためのイエスの働きと犠牲にあらわされた無限の愛を持ってはいません。しかし,私たちはイエスの愛を見習い,反映すべきです。
I. 日常生活のための真理
人間の言葉によって表現された神の言葉 「聖書は霊感を受けた人々によって書かれたが,それは神の思想・表現の様式ではない。それは人間の様式である。神は著者として(直接的には)そこに現されてはいない。人間はしばしば,そのような表現は神にふさわしくないと言うだろう。しかし神は,聖書が神の言葉であることを示すためにはご自身をその言葉や論理や表現の中に入れてはおられない。聖書の著者たちは神の筆ではなく,神の筆記者なのである。……霊感は人の言葉や表現に対してではなく,人自身に対して働く。彼は聖霊の影響力のもとで思想を吹きこまれる。しかし,言葉はその人自身の心の特徴を残す。神のみ心は行きわたっている。神のみ心や意志は人の心や意志と結合する。こうして人の言葉は神の言葉となる」(『セレクテッド・メッセージズ』第1巻21ページ)。
人生のあらゆる経験に対する真理 神についての知識と私たちに対する神の愛は,神のみこころにかなった生き方に関する教えと結びついて聖書の中に出てきます。「義の訓練」(㈼テモ3 :16,新改訳)という言葉は,「正しい生き方の訓練」(新英語聖書)あるいは「善良な生き方の訓練」(フィリッフ°ス訳)とも訳すことができます。「神を信ずる従順な子らは,その中に,恵みと誠とに満ちた,神の力の栄光を見るのである。
神は,みことばを通して,救いに必要な知識を人間にお与えになった。われわれは,聖書を,神のみこころについての権威ある,まちがいのない啓示として受けとらねばならない。聖書は品性の規準であり,教理を示すものであり,経験を吟味するものである」(『各時代の大争闘』上巻序3ページ)。
◆あなたは毎日の生活において,マスコミ・友人・社会と神のみことばとのどちらからより多く影響を受けていますか。実際的な面について考えてください(たとえば,祈りの習慣,お金の管理,友人の選択など)。
Ⅱ. 人間関係は信仰をあらわす
生き方についての教科書 聖書は愛と思いやりをもって書かれた,豊かな人生についての神の教科書です。私たちはその光によって自分自身を正しく認識し,自分の心の思いや意図を理解することができます。聖書は神に対する関係の次に,私たちの他者に対する関係を重要視しています。聖書は,私たちが自分のまわりの人々,たとえば政府,隣人,教会員,配偶者,家族,敵,貧しい者などに対してどのように接するべきかを教えています。
「すなわち,わたしにしたのである」神に対する奉仕と人に対する奉仕とは互いに関係があります。聖書は私たちの霊的生活と他者に対する実際的な務めとを区別していません。人言関係を維持すること, あるいは傷ついて人間関係を回復することは、祭壇に供え物をすることと同様の、神に対する宗教的奉仕の行為なのです。神を礼拝することと同じく,他者に対する私たちの態度・行動は私たちの霊的生活の基本をなすものです。目に見えない神を愛する方法のひとつは,目に見える隣人を愛することです。
イエスを見習う「善に対するあなたの努力が99回,失敗に終わり,中傷と非難と憎しみだけを受けたとしても,もし100回目に成功し,ひとりの魂が救われたなら,何とすばらしい勝利であろうか。ひとりの魂をサタンの支配から解放すること,ひとりの魂を救うこと,ひとりの魂を力づけることは,あなたの努力に1000倍,報いることになる」(『教会へのあかし』第2巻31ページ)。
◆「わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい」という新しい戒めは,クリスチャンの生き方をどのように変えますか。このような愛は私たちの傷ついた感情や人間関係をどのようにいやしてくれますか。
Ⅲ. 人間の愛情を理解する
社会的な存在として造られている人間は他者との関係を必要としています(創世2:18参照)。それは,社会学者が親交と呼ぶ,ほかの人々との交わり,つき合いに対する願望です。親交とは,十分に知られ,十分に受け入れられ,十分に愛されることです。
神が6日目に創造されたものはすべて「はなはだ良かった」と宣言されています。したがって,男女を特徴づけている特性や特質もまた,そのときは,「はなはだ良かった」わけです。
人間の性質が堕落したのは罪の侵入後です。しかし,神はその計画を中止されたのではありません。人間の魂を回復し,「神ご自身のかたちを再び魂に押して,ただしく,聖なるものに」することは福音の目的です(『キリストの実物教訓』174ページ)。結婚における人間の愛は,今も神の民に対する神ご自身の愛の象徴です。
私たちはみな友人を持っています。しかし,結婚において特別な愛を分かち合おうとする男女に対しては,神のみことばが結婚の契約を守るように要求します(マラ2:14参照)。完全な親交の経験は結婚において特別な約束をかわす男女にのみ許されるものです。
内住のキリストが心と生活を変える「キリストから発散する天来の愛は人間の愛情をこわすことは決してなく,かえってそれを包含する。人間の愛はそれによって洗練され,きよめられ,高められ,高潔にされる。人間の愛情は天の性質と結合し,天に向かって成長するように訓練されなければ決して尊い実を結ぶことはできない」(『アドベンチスト・ホーム』100ぺージ)。
Ⅳ. 雅歌の貢献
この女性はソロモンとの関係をどのように描写していますか(雅5:16)。ソロモンは自分の花嫁に何と呼びかけていますか( 雅1 :9 ,4 :7 ,5 :2 ,6 :4 – 同1 : 1 5 , 2 : 1 0 , 1 3 , 4:1比較)。
友情についての手引き 雅歌にはお互い関係を深めていく二人の人物が登城します。二人は結婚した夫婦ですが,初めは親しい友だちでした。妻は自分の従者に,「これがわが友なのです」と言っています。この「友」は,「性的な相手という含みのない交わりと友情を表している。彼女は率直に自分の恋人を『友』と呼んでいる。友情は単なる性的和合や興奮以上のものである。自分の配偶者を友とする夫また妻はさいわいである」(G・ロイド・カー『雅歌』144ページ)。
回復された結婚 イエスが死なれたのは, 個人としての夫と妻に対する,また結婚によって特別な関係にある夫婦に対するサタンの絶えざる攻撃から彼らを救い出すためでした。しかし、クリスチャンは結婚生活の与える幸福についてあまり語りたがりません。神は思いやりに満ちた夫婦の親密な愛をお喜びになりますo「人類の保管にゆだねられたその他のあらゆる良い神の賜物と同じに,結婚も罪によってゆがめられましたが,その純潔と美しさを回復するのが福音の目的です」(『思いわずらってはいけません』83ページ)。
雅歌のメッセージは,「この罪の世にある私たちに与えられている。それは,いたるところに欲望と情欲があり,激しい誘惑が襲いきて,私たちを神から与えられた結婚の標準からそらそうとする世界である。雅歌はとりわけ美しい言葉によって,真の愛がいかに純粋で高潔なものであるかを私たちに教えている。……この世に汚れがあるかぎり,私たちは雅歌を必要とする」(E・J・ヤング『旧約聖書序説』336,337ページ)。
◆あなたは雅歌に示された率直な愛情の描写についてどう思いますか。このことはそれを与えられた神について何を教えていますか。
V. 大いなる結婚のリハーサル
人間の愛と神の愛との共通点 「人間に対する神の関係は親密なきずなであって, ……あらゆる人間の親交は創造主に対する人間の最終的な結合の『リハーサル』である」(ドナルド.M・ジョイ『きずな ― 神のかたちにおける人間関係』9ページ)。
私たちは自分自身の結婚,他人の結婚,親しい友情から,自らの神に対する関係について学ぶことができます。親しい人間関係は神の恵みを私たちに示し,人々に恵みを施す機会を与えてくれます。愛する者との親しい関係は私たちを成長させ,力づけ,品性を育ててくれます。
「小羊の婚姻の時」(黙示19:7)とは,神のしもべたちの勝利をもって終わるさばき(2節)をさしています(『各時代の大争闘』下巻145ページ参照)。この再臨前審判のあいだに,キリストの花嫁,つまりキリストを信じる「聖徒たち」(8節)は,キリストの恵みによって再臨に対する備えをします。彼らはキリストの義を身につけているので,「正しい行い」をすることができます。それは信仰によってなされるゆえに神に受け入れられるものです。
キリストとの新生の関係を維持する者たちだけが,神に受け入れられるわざをすることができます(Iヨハ2 :29参照)。彼らは,「彼が義人であると同様に,……義人である」と言われています(Iヨハ3:7)。キリストが聖霊によって彼らの心に住まれるので,彼らは心に義を持っています(ロマ8 :9, 10参照)。これが黙示録19:8に述べられている「麻布の衣」, すなわち私たちの心を満たし、支配し、力付ける私たちの義、キリストなのです。「子羊の婚宴」にあずかることのできる聖徒はこの世においてきよめられた人たちです。彼らは天の花婿であるキリストにお会いするとき, キリストの義という完全な礼服を着て, 汚れのない者として立ちます。
◆あなたの人間関係はキリストとの関係を反映していますか。キリストの臨在はあなたの人間関係の助けとなっていますか。あなたは小羊の結婚式(再臨)に出席することができると思いますか。
まとめ
雅歌は神から出て,神に至ります。それは人間の心にある優しいきずなを描写することによって,私たちの魂を神に向け,神に強く結びつけます。雅歌において,またほかのところにおいて描かれた,人の心と心を結びつける愛は,人間のきずなを強め,愛のみなもとである神に導くための天の案内人です。
*本記事は、1992年第4期安息日学校教課『雅歌 愛の歌』からの抜粋です。