クリスチャンの人間関係(エフェソの信徒への手紙5の21~6の9)

目次

妻と夫(エフェソ5の22、23)

結局のところ、キリスト教は、一つの教理体系や一連の神学的な公式ではありません。それは、贖われた者たちの関係に関する良い知らせに基づく生き方なのです。それは、十字架のキリストの和解の御業によってなされた新しい創造なのです。それは一方においては人類を神と結びつけ、他方においては、人間を人間から、共同体を共同体から、国家を国家から引き離した溝に橋渡しをします。キリスト教は、愛が建てた家庭であり、神が支配し、人類社会のすべての贖われた人々が調和と交わりのうちに住む場所です。

パウロは調和と善意のこの主題を取り上げ、それをクリスチャンの最も親密な人間関係に適用しています。エフェソの信徒への手紙5章21節から6章9節において、使徒は、福音が人生の三つの重要な分野――結婚関係、親子関係、及び職場における人間関係――に及ぼす強力な影響を強調しています。パウロがここで述べていることは、天や天の事物に限られたことではなく、台所や寝室、家や学校、職場と仕事等にも及んでいます。

しかしこの主題に入る前に、服従と権威の重要な原則を理解する必要があります。妻たちへの勧告を始めるに当り、パウロは、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(21節)と述べています。ファリサイ的ユダヤ教からキリストの福音へのパウロの回心は徹底していたので、人類学や社会学についてのパウロの理解は全く変わりました。ユダヤ人が異邦人より優れているとか、男性は女性よりも価値があるとか、自由な身分の人は奴隷よりも価値があるといったユダヤ人の立場を、彼は受け入れることはできませんでした。また、ローマ人やギリシア人は、他の民族よりも優れているという高慢な態度にも彼は同意できませんでした。

従ってパウロが服従について語るとき、奴隷のように追従するなどと考えることもできませんでした。また後に述べますが、妻たちが夫より劣る者として描いているのでもありません。パウロにとって服従とは、他者に対する謙遜と親切な心使いの表れなのです。贖われた人々の共同体における人間関係の特徴は、相互に対する尊敬であるべきです。しかしこのことに関してさえ、使徒は「キリストに対する畏れをもって」という重要な基本姿勢を置いているのです。宇宙的な和解をもたらすという天父の御心と目的を実現するために、キリストが謙遜と服従をまとわれたように(フィリピ2の5~8)、神の御計画がわれわれの中に、またわれわれを通して実現されるように、神の子らも互いに謙遜と服従のうちに生きるべきです。

この長い聖句は、クリスチャンの結婚観に関する美しい証言となっています。使徒が書いた事柄は時宜を得たもので、あの時代に適切でした。これは結婚の制度が四方から攻撃されている今日でも、劣らず時宜を得たものです。パウロの時代には、ユダヤ人、ギリシア人、ローマ人は共に、結婚についての貧弱で狭い考えしか持っていませんでした。特に女性の役割についてはそうでした。

壮大な創造物語の遺産が与えられているにもかかわらず、ユダヤ人は女性がほとんど価値を有しないという社会学を育んでいました。当時、正当なユダヤ人の男性たちは、彼らが奴隷や異邦人や女性でないことを毎日神に感謝したといわれています。ユダヤ人男性にとって、離婚は容易に行われるごく通常の出来事でした。彼がなすべきことは、離縁状を書いて、それを妻に手渡すことだけでした。それだけで結婚は終局したのです。離婚の根拠も単純でした。「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった」(申命記24の1)からでした。

シャンマイ学派のラビたちは、この聖句は姦淫を意味すると解しましたが、自由主義寄りのヒルレル学派のラビたちは、それにもっと広い意味を持たせました。「気にいらなくなったとき」とは、妻が食物に塩を入れ過ぎたり、妻が外出の時にかぶりものをしなかったり、街頭で他の男性と話していたり、義理の両親に対して失礼な言葉を語ったなども要因となり得るとしました。いずれの派のラビの伝統が優勢であったかは想像に難くありません。

ギリシア人やローマ人の社会の状況も、これに優るものではありませんでした。売春はギリシア人の生活の一部として容認されていました。それは異教の神々にはつきもので、神殿において自由に行われました。男性は自分の財産を相続する正当な子供たちをもうけるために妻を持っていました。快楽のために情婦やめかけも持っていました。ローマ社会は、ふしだらな行いにふけってとどまることを知らない状況を生み出しました。有名なローマの詩人セネカは、女性は離婚するために結婚し、結婚するために離婚すると書いたことがあります。男女にとって複数の結婚は珍しいことではありませんでした。ジェロームは、23人目の夫と結婚した一人の女性のことについて言及しています。その夫自身もそれ以前に既に20回結婚していました。これが当時の性的放蕩状況であり、混沌とした結婚関係でした。

腐敗した社会のこのような背景に対抗して、イエスは結婚の神聖さを確認なさいました。イエスは、離婚の不貞と薄弱な弁解に反対してお語りになりました。イエスは、姦淫だけが離婚の唯一の根拠である、という旧約聖書の教えを確認なさいました(マタイ19の9)。使徒は、更に次の革命的な真理を紹介しました。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3の28)。その結果として、結婚及び夫や妻の役割に関する新しい理解が、クリスチャンの共同体に出現し、それが結婚の制度及び女性の社会的地位の両者の向上に役立ったのです。

しかし、教会の女性信者のある者たちは、この公平と自由の新しい精神を祝うあまり、クリスチャン家庭における人間関係の特徴となるべき、相互の愛と支えと服従の秩序を乱すまでに、その自由を極端に用いたのです。妻に対しては従順であれ、夫に対しては愛せよ、とのパウロの勧告を、われわれはこの文脈の中で読まなければなりません。服従は奴隷のような盲従を意味しません。パウロは女性が夫の奴隷であるとみなしていません。女性は結婚の神聖なる制度のもとに、夫と同等なパートナーです。妻は自由の名のもとに、夫に対して反抗するのではなく、夫を支え思いやるべきです。同様に夫は、妻を抑える権利など持ってはおらず、ただ愛すべきであると認めなければなりません。愛と服従と理解と支援の責任は、家庭における、特にクリスチャン家庭における力と一致を保つための相互に認められるべき原則なのです。

使徒は、結婚及び夫と妻の役割に関する教えを強化するために、四つの議論を用いています。第1点は、創世記の議論です(エフェソ5の31、創世記2の21、22)。結婚は、人間の人類学や社会学の結果ではありません。それは神の創造の御業の一部です。天と地を造られたお方は、男と女をお造りになり、結婚という最も親密な関係に彼らを共にお導きになりました。2人の人間は一つの肉となり、それによって一方の興味は他方の興味となり、一方の関心事と喜びは、他方の関心事と喜びとなるのです。「これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉」(創世記2の23)という言葉は、聖書が描く結婚の結合と一致の姿です。

創造の記述は、この一致を支配する愛の至高性を一層強調しています。一つの肉の神秘を経験することにおいて夫と妻は、彼らの両親を離れることに至るほどに、彼らが一体であることを最優先します。事実、夫と妻の関係は非常に親密で良く知られているので、何も2人の間を隠すものは存在しないのです。「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(25節)。愛が関係の土台にあるとき、優劣や権威や服従の問題は起こらないのです。

第2点は、キリストと教会の議論です。キリストが教会の頭であるように、夫は妻の頭です(エフェソ5の23)。キリストはどのようにして教会の頭となったのでしょうか? パウロは同じ聖句の中でその答を与えています。「自らその体の救い主であるように」です。キリストが十字架のいけにえとして御自身をお与えになられたので、キリストは教会の頭なのです。その行為によって、キリストは贖われた者たちの共同体を創造されました。そしてこの共同体の頭となられたのです。御自身の驚くべき犠牲により、罪人に対する無限の愛により、キリストは信者の共同体を御自身に引き寄せることができました。この共同体はキリストの体であり、キリスト御自身がその頭です。頭としてキリストは、教会がすべての機能を果たすことができるように、機能的な責任を持ち、その源泉であるのです。キリストの体である教会は、頭なるキリストがなければ機能しませんし、存在することすらできません。ジョン・ストットは次のように述べています。「体がその健康を引き出し、成熟に向かって成長するのは、頭なるキリストに由来する。キリストが頭であることは、支配よりも奉仕、統治よりも責任を表明している。この真理は、『自らその体の救い主であるように』という付加された驚くべき言葉によって、承認された。体の頭は、体の救い主である。キリストが頭であることの特徴は、キリストが主であることよりも、救い主であることである」1

パウロは、キリストが教会の頭であるというこの比喩を結婚に適用しています。理想的なクリスチャンの結婚は、夫が自己追求を犠牲にして、彼の深い愛から、妻を自分と同じ体と考えます。一致、愛、交わり、無我、犠牲の精神等が結婚の結合のしるしです。このような完全な結合は、夫が頭であること――専制的権威主義や男性の熱狂的性差別主義ではなく、犠牲愛と創造の理想という意味において――及び、妻が服従すること――奴隷のような盲従ではなく、主に仕えるように「互いに仕え合う」という意味において――を共に認めます。そしてこの両者共にキリストが手本です。服従することによって、妻は自らの尊厳を失いませんし、愛することによって、夫は自分の男らしさを失いはしません。

結婚に関するパウロの議論の第3点は、キリストが教会を愛されたように、夫も妻を愛すべきであるということにまで及んでいます(25節)。教会に対するキリストの愛は、無条件で、犠牲的で、無限の愛です。教会を清め、その体を御自身のものとして聖別し、輝く活き活きとした体として維持させるのは、甦られた救い主のこの献身によるのです。この比喩がクリスチャンの結婚に適用されるとき、その意義は膨大かつ驚異的です。そのような種類の愛に直面するとき、心を動かされて親切に応え、その伴侶に完全に身を捧げないような妻が果たしているでしょうか?

妻に対する夫の責任を理解する鍵は、御自身の花嫁である教会に対するキリストの犠牲的な姿の中に見いだされます(25~28節)。「わたしはあえて次のように言い換えようか?」とロイド・ジョーンズは尋ねます。「専門の美容師として主は、教会に対する最後の手当てをなさる。そのマッサージは完全で一つのしわも残ってはいない。彼女は若く見える。青春真っ盛りで、頬は紅潮し、その皮膚は完全でしみも皺しわもない。彼女はそのような姿を永久にとどめるのである」2

これが教会の頭としてイエスが、教会のためになさることです。夫は妻に対し、彼女の頭として同じようにすべきなのです。それゆえに、「仕える」という言葉から、男性の熱狂的性差別主義を構築しようとする者は、この聖句を何度も繰り返し読むべきです。ここに男性優位、女性劣位の姿を見ることはありません。むしろわれわれは無条件の愛の肖像画を見るのです。「妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです」(28節)。

第4点は、キリストが教会を養い、いたわるように、夫は妻を養い、いたわるべきであるということです(29節)。キリストと教会のこの関係を、パウロは「この神秘は偉大です」と表現しています。パウロは先に「神秘(秘められた計画)」という言葉を、キリストにある一つの体として宇宙を和解に導き(1の9)、一つの体としてユダヤ人と異邦人とを結びつける(3の3、4、9)神の大いなる御計画を指すために用いました。今彼はこの言葉を、キリストと教会との間に存在する一致を語るために用いています(5の32)。この言葉は、その都度、多くのものを一つにすることを指すために用いられています。贖いを通してなされる和解を示す「福音の神秘」について語るために彼は、この書簡を終わる前にこの言葉をもう1度使います。

使徒は、この「神秘」という言葉を、結婚における夫と妻の結合に適用してはいませんが、もししようと思えばできました。結婚関係の神学は、夫と妻との間に存在する筈の神秘的結合を含まないでは、十分ではあり得ません。2人が一つの肉となることは、神の恵みの行為です。この恵みが欠けるとき、結婚に不一致が見られます。従ってパウロは彼の結婚に関する証しを双方への訴えで結んでいます。すなわち、夫に対しては、妻を愛しなさいと述べ、妻に対しては、夫を「敬いなさい」と言っています(33節)。

親と子(エフェソ6の1~4)

わたしはおおよそ46年前、教団の働きを開始した月のことを覚えています。カルカッタの北西170マイルの小さな寒村、カルマタルの静かな墓地にわたしは立っていました。その墓地には、インドにおけるアドベンチスト教会の働きを最初に正式に指導した、ドレス・A・ロビンソン師の遺骨が納められていました。彼がインドに到着して5年の間に、彼は一つの学校を建設し、一つの教会を組織し、一つの孤児院を開設し、一つの文書計画を始めました。彼はまた一人のインドの少女を養女として迎え、福音の勝利は一個人の救いに優るという象徴的メッセージを流布しました。そのメッセージは、社会を区分けしている隔ての壁を打ち破らなければなりませんし、王国の扉を広く開けなければなりません。孤児や貧者の世話は、イエス・キリストの福音の説教者としての彼の燃えるような情熱の一部でした。

ロビンソンが連日ほとんど休む暇なく働き続けていた頃、この村に天然痘が発生しました。その地域の本部にいるイギリスの役人たちは、すべての外国人にその地域から撤退し安全な都市に行くように伝えました。当時このような死の風潮はめずらしくはありませんでした。多くの政府役人や幾人かの宣教師たちは政府の勧告に従いました。しかしロビンソンは従いませんでした。このような時こそ、彼の孤児たちや貧しい村人たちが、彼を一番必要としていた時でした。そこで彼はそこに留まり続け、最善を尽くしてできるだけ多くの人々を助けました。しかし数週間の内に死の影は、遂に彼を捉えたのです。彼はこの恐ろしい病の犠牲者として倒れました。彼の墓は、子供たちに対するクリスチャンの愛と支援の記念碑として立っています。

キリスト教ほど、子供たちに対して多くのことをなして来た宗教や思想は、他にありません。一人の敬虔なクリスチャン、ウイリアム・ウイルバーフォースは、英国における児童労働を終わらせました。キリスト教伝道の先駆者、ウイリアム・キャーレィは、インドにおける幼児結婚や寡婦殉死の制度を廃止するために活動しました。今日インド南部のある田舎の地域では、女の幼児は、窒息死させられたり、毒殺されたりしています。キリスト教の病院や牧師たちは、獰猛な死から彼らを救うために、女の幼児の捨て子を受け入れようとドアの外にゆりかごを置いています。使徒パウロの時代のローマ文化は、不幸な子供たちに対する残酷な価値観を持っていました。バークレーは有名なセネカの言葉を引用しています。「われわれは獰猛な雄牛を殺す。狂犬を絞殺する。病気の家畜にはナイフを刺し、群れに病気が及ばないようにする。虚弱で障害を持って生まれた子供たちをわれわれは溺死させる」3

ローマの一つの市であるエフェソにいるクリスチャンの両親と子供たちに、パウロが書いたのはこのような状況のもとにおいてでした。偉大な使徒からの手紙の中で、自分たちのことが述べられているのを聞いて、子供たちは大いに喜んだに違いありません。彼は子供たちは両親に従うようにと望んでいて、そのようにする二つの理由を挙げています。第1は、それが正しいことであるからです。両親に従うことは、子供たちにとって適切なことです。社会のすべての文化はそれを望んでいます。第2に、神の道徳律はそのような服従を要求しています。使徒は第5条の掟を引用し(エフェソ6の2、3)、それが子供たちが両親を敬い、両親に従う根拠だと主張しています。

子供たちは両親に従うようにとのパウロの勧告には、「主に結ばれている者として」という一つの条件がついています。使徒は、しばしば両親が必ずしも神の期待通りの手本ではない現実を知っていました。仮にもし父親が子供に不正な薬物を買い手に渡して来るようにと命じたとしたら、子供はそれに従うべきでしょうか? もし父親が彼の経済的必要のためか、また家族を支えるために娘に売春を強制したとしたら、娘は父親の指示に従うべきでしょうか? 使徒は「主に結ばれている者として」という力強い言葉で線引きしています。これらの言葉は、子供たちばかりではなく、すべての人々の行動の手引きです。神の御心は永久不変であり、すべての人間の行動の倫理的規範です。

ジョンとチャールスの母親であるスザンナ・ウエスリーは、17人の子供たちを育てました。彼女は子育てに関して次のように述べています。「子供たちに自律を学ばせる親は魂を新たにし、救う働きを神と一緒にしているのである。この点で子供を放任する親は、悪魔の業を行っているのであり、宗教を実際的でないものとし、救いを到達できないものとしているのである。このような親は、子供をその魂も体も永久に駄目にするために自分の内にあるすべてのことをしていることになるのである」4

子供たちに対するパウロの勧告は、両親の大切な責任へと続きます。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」。(エフェソ6の4)。両親はどのようにして子供たちを怒らせるのでしょうか? 一つのことは、子供たちの間での親の偏愛によってです。ヤコブはその顕著な実例でした。ヤコブのヨセフに対する偏愛によって、彼は年上の息子たちの間に、弟及び間接的に親に対する怒りを植えつけたのでした。

子供たちを怒らせるもう一つのことは、子供の実力以上のことを両親が期待することです。親が子供に実力以上の良い成績を取るように期待する時、子供は怒ったり、憤慨したりします。自分の子供を隣人の子と、それよりも悪いことは、子供の友だちと比較することは、子供を低い自己価値の思いに導き、ついには怒らせます。

子供に対する身体的な虐待は、子供の一生に影響を与えるかもしれない怒りと敵意の傷を残すことになります。マルチン・ルターはかつて、「鞭を惜しむと子供が駄目になる」という諺は、その通りかもしれないが、子供のためにリンゴを残しておくことは良いことだ、と言いました。換言すれば、訓練と虐待とは大きな違いがあるということです。

子供を怒らせるもう一つ重要な状況は、両親の側で偽善や二重の標準があることです。わたしはマルチン・ジョージのことを考えます。彼は非常に信心深い人だと言われていましたし、父親として子供たちを従順に躾けていました。ある日彼が帰宅した時、家は静まりかえっていました。彼の妻は黙っていましたし、息子のロンの姿もどこにも見えませんでした。マルチンはいつもは賑やかな家に、何事が起こったのかを知りたいと思いました。

やがて妻は事の次第を彼に話しました。ロンの学校の先生が彼女を先程呼び寄せたのでした。実はロンが他の生徒から鉛筆を一本盗み、それが見つかった時、彼が嘘をついたらしいのです。後にロンは盗んだことを認めました。

マルチンは大層動転していました。彼と彼の家族について周りの人々は何と考えるでしょうか? 彼の7才の息子が家族の名に傷をつけてしまったのです。その罪は当然罰せられなければなりません。そこで父親はロンを正義の場に立つように呼びつけ、鞭を取り、4回彼を打ちました。少年は泣きました。息子が泣いている時、父親は彼に説教したのです。「お前はなぜその鉛筆を盗んだのか? 鉛筆が欲しいなら欲しいと言えば良かったのに。そうすればわたしの事務所からお前が必要なだけ持って来ることができたのに」

泣いていた少年ロンの顔は、怪訝な目に変わりました。パウロの言葉によると、マルチンは彼の息子を怒らせたのです。「家族をうまく治める両親は、まず自分自身を治めなければならない。もし彼らが家庭の中で快活な言葉だけを聞きたいと願うならば、彼らの口から出る快活な言葉だけを子供たちに聞かせなければならない」5

奴隷と主人

奴隷制度は恐らく、罪が人間の共同体にもたらした最悪の悲劇の一つでしょう。世界のすべての地域のほとんどすべての社会は、奴隷制度から生じた罪悪に苦しみました。現代でさえ、この社会悪はさまざまな形で広まっています。奴隷制度が年季奉公の労働形態で存在している国々、金持ちで搾取する人々の農場で、担保付きの労働者として幾世代にわたって生活している人々がいる国々が存在しています。子供たちは自由な身になる希望もなく、下賤な僕として働くために売られています。発展途上国では、製作所や工場や大会社の強欲な所有者が、安価な商品を作るためにわずかな賃金で子供たちを雇い、それを売って大きな利益を上げています。ある社会では女の子たちを遠方の都会に連れて行き、売春のために彼らを売ることは珍しいことではありません。奴隷制度はいかなる形態であれ、どこにおいてであれ、神に対する罪です。

説教と執筆によって、パウロは社会の問題に関する彼の立場をわれわれに明らかにしています。彼はエフェソの信徒たちやその他の人々に、キリストにおいては、隔ての壁は存在しないことを書きました。福音は、自由な身分の人と奴隷との間に何らの相違も認めていません。すべての人々は罪人であって、救い主を必要としています。しかしパウロは、われわれがこの罪に汚れた地上に生きている限り、人間関係における問題が存在することも知っています。民族、性、国籍、経済的身分等の違いや、罪に由来するその他の分裂の要素は、これからも人類社会を悩まし続けるでしょう。これらの相違を信仰の共同体の中にさえ注入しようとすることが、サタンの考え抜かれた計画です。何とかしてサタンは、信仰の共同体の特徴であるべき一致を破壊しようとしているのです。

パウロはこれらの危険について十分に知っていました。そこで彼は大層気遣いながらエフェソの信徒たちに書いているのです。ある人々は、エフェソの信徒への手紙6章5~9節にある奴隷と主人へのパウロの勧告を誤解しました。彼らはパウロが奴隷制度の悲劇を支持していると言いました。とんでもないことです。これほど間違っていることはありません。特に兄弟皆一つと説くパウロの真実からは、ほど遠い主張です。では、パウロは実際に何と主張しているのでしょうか?

パウロはエフェソにいる奴隷たちに、彼らの主人に従い、キリストに対してするように自分の仕事をしなさい、と勧告しています(5節)。われわれはパウロがこれを書いた時の彼の思いに注意しなければなりません。使徒は、罪の結果がすべて消え去り、われわれが新天新地の市民となる、イエスの再臨が近いことを絶対的に確信していました。キリストはまもなく来られる。この世界の不都合は終わる。それはもう時間の問題だ。

キリストの来臨が間近であるとき、クリスチャンは、現在の生活を今のところ支配している罪の痛みと悲劇を受け入れて、その栄光の日に重点を置いて生きることが重要です。従って、社会的、経済的革命を煽ることではなく、信仰の交わりの安定を守ること――間に壁を置かない――が使徒の目的でした。「既成の社会制度を独断的に、あるいは急にくつがえすことは使徒パウロの仕事ではなかった。これを試みようとすれば、福音の成功が阻まれるであろう。しかし彼は、奴隷制度の根本にある原則、しかも、それが実行されれば奴隷制度全体を揺るがせること必然であろうと思われる原則を教えた」6

更にパウロの勧告は、主人も奴隷も存在しない社会的関係に関する福音の計画の全体像という文脈の中で、捉えられなければなりません。それは理想です。そしてこのような理想がすべての教会に行きわたるようにというのが使徒の希望です。そのことを念頭に、パウロは主人たちに、彼らの奴隷たちに対して親切であるようにと書いています。「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」(9節)。

パウロの時代、これ自体が革命的な勧告でした。主人たちに対するパウロの勧告には、現在の状況ばかりではなく、彼らの将来の運命まで含まれています。主人たちも天の大いなる主の僕たちなのです。そしてそのお方の目には、何の分け隔てもありません。神の救いと裁きは、この地上の主人たちと彼らの奴隷とに同じように臨みます。神の御前には主人も奴隷もなく、すべての者は罪人として、彼らが人生の大いなる問題といかに関わったかによって、救いにあずかるかそれとも裁かれるかのいずれかに直面するのです。主人たちへの使徒の勧告の重要点は、彼らが異教徒ではなく、クリスチャンとして奴隷たちと関わる義務があるという厳粛な警告であるということです。

パウロの勧告は、労働についてのクリスチャン哲学の表明でもあります。われわれは皆奴隷ではないかもしれませんが、われわれは皆いろいろな意味における労働者です。われわれは雇用主のため、賃金のために働きます。たとえどのような条件下であろうと、クリスチャンは高い労働倫理を持っているべきです。パウロはこの倫理に関して幾つかの原則を述べています。キリストのために働くように、真心を込めて働きなさい。「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い」(6節)なさい。仕事が何であれ、それが神の御心であるものとして、働くべきです(6節)。喜んで働きなさい。主から報いを受ける者として、正直に働きなさい(8節)。

パウロは奴隷を擁護してはいませんし、また反抗を擁護してもいません。彼の招きは、一方では十字架の文脈の中で――平和な和解のうちに――生きるべきであるということであり、もう一方では、切迫している再臨の文脈の中で――世界のすべての悪が最終的に解決される希望のうちに――生きるべきであるということでした。パウロは、奴隷たちが彼らの境遇を変えることはできないが、それに勝利することはできるということを知っていました。

ここに素晴らしいクリスチャン哲学が存在しています。すなわち、われわれは今は悪を打ち破ることはできませんが、悪にわれわれを打ち破らせてはならない、ということです。

パウロの調和のとれた巧みなクリスチャンの勧告と働きは、確かな実を結びました。多くの奴隷所有者たちは、彼らの奴隷と共に熱心なクリスチャンとなりました。フィレモンはその良い実例です。パウロは、フィレモンの手から逃亡した奴隷である、オネシモをフィレモンの元に送り返し、オネシモを「もはや奴隷としてではなく、……愛する兄弟として」(フィレモン16節)受け入れて欲しいと頼みました。奴隷の身から、愛する兄弟となる。これこそが、本質的に、関係の福音なのです。

参考文献

1         Stott, p.225.

2         D.Martyn Lloyd-Jones, Lifein the Spirit: in Marriage, Home and Work (Grand Rapids: Baker Books, 1973), pp.175,176.

3         Barclay, p.176.

4         The Journal of John Wesley, quoted in John MacArthur, Jr.,The MacArthur New Testament Commentary: Ephesians  (Chicago: The Moody Bible Institute,1986),p.319.

5         White, Mind,Chraracter,and Personality p.156.

6         エレン・G・ホワイト著『患難から栄光へ』下巻、152頁

この記事は、ジョン・M・ファウラー(山地明・訳)『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。

ジョン・M・ファウラー
インドで生まれ、10代の頃に預言の声ラジオ放送を通してアドベンチストとなる。スパイサー・カレッジで神学学士を取得後、32年間、インドで牧師、教師、教会行政、編集に携わる。1990年、『ミニストリー』誌副編集長として世界総会に招聘される。1995年より世界総会教育部副部長。ニューヨーク・シラキュース大学よりジャーナリズム修士号、アンドリュース大学より博士号を授与される。教会誌および専門誌に300以上の記事を寄稿。『キリストとサタンの宇宙的争闘』ほか、数冊の著書がある。妻メリーとの間に2人の子供がいる。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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