戦いは現実のもの
「最後に言う。……」。彼の書簡を書き終わるに当って、パウロは、信者たちの未来に待ち受けていることに備えさせています。「最後に」という言葉は、「今から後は」という意味です。「これから先は」という言葉は、パウロがこれまで述べてきた事柄から、彼が今から述べようとしている事柄に移行する道となっています。これまでに使徒は、贖いの計画の感動的なドラマと、それが要求しているクリスチャンの相応しい歩みを描いてきました。そして使徒は今、クリスチャンの生き方の締めくくりとなる側面について紹介しようとしています。
エフェソの信徒への手紙6章10~16節は、サタンに率いられる宇宙の勢力に対するクリスチャンの戦いについて語っています。サタンの照準は、「兄弟たち」(英語欽定訳エフェソ6の10には、「最後に、わたしの兄弟たちよ、……」となっている。――訳者註)――福音の神秘を受け入れた人々、イエスによってもたらされた和解を受け入れた人々――に向けられています。使徒がこれらの最後の警告と勧告の言葉を与えているのは、「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする」(12節)戦いに直面している兄弟たちに対してです。
この戦いは現実のものでしょうか? それはこの地上ではどのように戦われているのでしょうか? 勝利は確かでしょうか? この戦いにわれわれはどのように従事するのでしょうか? この戦いにおいてわれわれが用いる武器は何でしょうか?
この戦いが現実のものであることを、聖書は一つの文章で強調しています。「天で戦いが起こった」(黙示録12の7)。天の聖なる場所において、神の神聖な御座の前で、創造者の御前において、天で戦いが起こったと述べられている出来事が勃発したのです。「戦い」という言葉は、天において神の御心に反対し、神の役割や御品性や支配に疑問を抱く何者かが出現したことを示しています。このような反逆は天においては存在することができません。それについては処理される必要がありました。従って、「天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」(黙示録12の7~9)のです。
神対サタンのこの宇宙戦争は、サタンとその使いたちが投げ落とされたときに、天から地上に移行しました。それ以来この戦いは、人類の忠誠をめぐって戦われてきたのです。われわれはいずれの側につくでしょうか? 神の側でしょうか、それともサタンの側でしょうか? この争闘の背後にある争点は沢山ありますが、主に神の御品性に関連しています。神は独断的なお方でしょうか、それとも愛に満ちたお方でしょうか? 神の律法は被造物の服従の能力を越えたものなのでしょうか? 神は義であると同時に愛であり得るのでしょうか? 神はどのようにして罪人に死を要求し、尚克つ神の恵みによって罪人を救うと主張できるのでしょうか?
サタンは、神の宇宙の支配権と世界を創造する権利に対して挑戦しました。彼は神の権威を奪おうと望みました(イザヤ14の13、14、エゼキエル28の12~17、ユダ6参照)。利己心が高慢心に、高慢心が欺瞞に変わり、こうして天使たちを神への忠誠から引き離したサタンは、神に対する不服従と反逆の戦いを開始したのです。神がルシファーを天から投げ落とされたのは、この反逆のゆえでした。
宇宙戦争の舞台である地球
天から投げ落とされたサタンは、彼の作戦を地上に移動しました。「サタンは、もはや天において反逆を扇動することができなくなったので、神への敵意を、人類の滅亡をはかるという新しい方面にむけてきた。エデンの清い家庭の幸福と平和は、彼が永遠に失ってしまった天上の喜びを思い起こさせるのであった。サタンは、彼らをねたみ、彼らを不服従に誘って、罪のとがと罰とをこうむらせようとした。彼は、彼らの愛を不信に、賛美の歌を創造主に対する非難に変えようとした」1
サタンの最初の標的はアダムとエバでした。完全がアダムとエバのしるしでしたが、神は彼らに選択の自由をお与えになりました。サタンはこれを利用し、人類の最初の両親の忠誠心を試す彼の誘惑を開始しました。神に従い、神の御言葉に信頼しないで、アダムとエバは悪魔の策略の犠牲となり、神に背きました。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5の12)。
アダムとエバの堕落と共に、全人類はサタンの餌食となり、善対悪の大争闘に加わる者となりました。人類の歴史は、地球を中心とするこの宇宙戦争の歴史となりました。アベルとカイン、大洪水、ヨセフとポティファルの妻、ファラオとイスラエルの子ら、エリヤとイゼベル、バビロンによるエルサレムの崩壊、赤子イエスを亡き者にしようとしたヘロデの企て、荒野の誘惑、ゲッセマネと十字架、初代教会への迫害、中世の暗黒時代、これらは皆宇宙戦争の一里塚であり、われわれの時代にまで及んでいるのです。これらやその他多くの物語の一つひとつは、その時代と歴史における神の御手を証ししています。神は決して御自身の計画を失敗させたり、御業を挫折させたりはなさいません。神は人間の噐に神の御心を行い、御自身の御業に立ち、御言葉を高く掲げ、悪魔に抵抗するようにと招いておられます。
われらの主の御生涯の最後の場面は、サタンの執拗さと御業と天父に対するキリストの変わらない忠誠心の不朽の証しです。ゲッセマネは大争闘における重要な戦場の一つでした。サタンとその全軍は、世の罪を負うキリストに対抗して結集しました。もしサタンがイエスを贖いの杯から遠ざけることさえできておれば、この宇宙戦争は悪の軍勢の勝利に向かっていたことでしょう。宇宙の運命を担って、神の御子は天父の御心をお選びになられたのでした。
サタンはゲッセマネで敗けても、彼の敗北を認めませんでした。彼は再び試みました。そこで十字架の場面となり、そこにおける御子の苦悩と勝利は、悪魔を打ち砕く神の御計画の中心となりました。十字架の上で流されたイエスの血は、悪人たちの手による人間の苦しみの結果ではなく、その一滴一滴は、悔い改めた罪人にとって、神の恵みの泉となりました。十字架の上で流された血は、神と人間との和解を完成しました。この血の力を、その驚くべき力を受け入れるすべての人には、この宇宙戦争における和解と勝利とが存在するのです。
われわれは戦いの最中にいる(エフェソ6の10~12)
エフェソの信徒への手紙第6章における使徒のメッセージは明白です。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(12節)。われわれの戦いは現実の戦いです。われわれの戦いは霊的な戦いです。われわれの戦いは、この世ばかりではなく、永遠をも含む戦いです。われわれの目的は明らかにされています。もしわれわれが勝利者なる主の側にいるならば、われわれの勝利は既に保証されています。
大争闘の規模や宇宙的争点がいかに大きいものであっても、キリスト対サタンの目に見えない戦いが人間の心と思いの忠誠をめぐって、今戦われているのです。あなたの心や思いの中においてでです。「キリストとサタンとのこの戦いを、自分自身の生活に特別な関係がないもののようにみている人が多い。彼らにとってこの戦いは興味がない。だがどの人の心の領分でもこの争闘がくりかえされているのである。人は、悪の隊列から離れて、神の奉仕に加わろうとするとき、必ずサタンの攻撃に遭遇する。キリストが抵抗された試みは、われわれが抵抗するには非常に困難にみえる試みである」2
サタンは、われわれを欺き神の愛と力からわれわれを引き離そうと常に構えています。彼は、彼の堂に入った欺瞞の業を用いて、地上にいるすべての人々の心に戦いを挑んでいます。従って、使徒は次の心を揺さぶる招きをわれわれに与えているのです。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)。
「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10節)。われわれが悪魔との戦いに従事する時に身に着けるクリスチャンの武具について述べる前に、パウロはわれわれの霊的忠誠心がどちらの側に置かれているかを確かめるようにと望んでいます。「主……の偉大な力によって強くなりなさい」という言葉が、彼の命令の出だしです。われわれがどこに立っているのか、われわれの力がどこから来るのかを確かめないでは、霊的戦いの出発点にさえ至っていないことになります。われわれの力は主から来るのです。われわれ自身からではなく、われわれがなしてきたいかなる業績からでもなく、われわれの知力や、クリスチャンの生き方や義務に関する教理の知識からでさえないのです。これらすべてのものは重要ですが、われわれが第1に知らなければならない最も大切なものは、主を個人的に、親密に、絶えず知るということです。
この手紙の冒頭で、パウロは次のことを信徒たちが心に留めておくべきだと祈りました。「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェソ1の19~21)。
神から流れ来る偉大な力に注目してください。キリストのうちに働き、キリストを死者の中から復活させたのは神の力です。キリストを罪とサタンの勝利者として天に昇らせたのは神の力です。イエスを天父の御座の右に就かせられたのは神の力です。もしわれわれがわれわれの力の源としてこの力を持っているならば、いかなる悪の勢力も、われわれの霊の戦いにおいてわれわれを捕らえることはできません。イエスの力は非常に偉大なので、イエスにより頼む者は、サタンのどのような策略をも恐れる必要はありません。
サタンは試みるでしょうが、彼の誘惑は神の力のうちに宿る者には何の力もありません。ヨセフのことを考えてみてください。彼の正直さ、知力、問題の洞察力、道徳的正しさ等が、彼をポティファルの家の管理を任せられる地位にまで高めました。奴隷からこのような高貴な地位にまで到達したことは、まさに偉大な業績でした。しかしヨセフは彼の業績が自分の力や能力によるものだとは、一瞬たりとも考えたことはありませんでした。彼は、彼の地位や人格は、彼がその中に住むことを選んだ神から来たものであることを常に自覚していました。
しかしサタンは、ヨセフを捕らえようと身構えていました。その罠は、美しく、気心を持った一人の女性の姿でやって来ました。彼女は「毎日」禁じられた境界線を越えて来るようにと彼を誘惑しました。その気がある女性の美しさ、禁じられた床の安全性、強力な誘惑者の囁き、これらすべてがヨセフに向けられました。しかし何ものも彼の意志を打ち破って彼を誘惑し、エジプトの美に委ねさせることはできませんでした。彼の力は神のうちにあったのでした。「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(創世記39の9)。
ヨセフにとっては、争点は単なる不倫ではありませんでした。その問題は神を選ぶかサタンを選ぶかの選択でした。それは高価な選択でした。なぜならその選択が彼を牢獄に追いやったからです。真の弟子であることには常に犠牲が伴います。しかし主の力によってその弟子は勝利者として出て来るのです。ヨセフは善良な人物でした。しかし彼は善良である前に、敬虔な人物でした。主により頼む時に――常に、絶えず――あなたも悪に抵抗し、サタンに勝利することができるのです。
「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」。この偉大な力を身に着けている信者に対抗できる敵は一つもありません。
「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11節)。ここでしばらく、パウロの論旨と霊的重荷に沿って考えてみましょう。われわれの戦いは、血肉を相手にするものではありません。われわれは未信者を含む人間を相手にするいかなる争いにも加わるべきではありません。事実われわれは、「すべての人と平和に暮ら」(ローマ12の18)すようにと、招かれています。われわれの戦いは、悪の諸霊を相手にするものです。
パウロは「格闘」という言葉を用いて(12節の「われわれの戦いは……」は、英語欽定訳、日本語の新改訳では「われわれの格闘は(wrestle)……」となっている――訳者註)、あたかもわれわれが悪魔とその群れを相手に、取っ組み合いの戦いをしていることを強調しているかのようです。サタンはわれわれを大っぴらに攻撃して来ないかもしれません。この可能性もなきにしもあらずですが、彼はもっと巧妙な方法で攻撃してきます。彼は「光の天使」(コリント二 11の14)を装って来るかもしれません。彼は良い羊飼いから群れを奪うために、自らを羊に装っている恐ろしい狼です(ヨハネ10の12)。
サタンの罠が「悪魔の策略」と呼ばれています。策略は狡猾さを表しています。サタンは闇を光として表し、誤謬を真理と混ぜ、結果は何も変わらない事柄として真理への無関心を誘い、神の御言葉の学びと祈りを怠るようにわれわれを導いています。彼は恵みの役割を何事でもできる自由として表し、神の律法は廃されたとさえ主張します。われわれは、これらの策略が教会の内外に存在しているのを見ます。神のみ言葉に固く根ざし、神の御霊の力を求めないならば、どのクリスチャンもこれらの欺瞞に負かされないとは言えません。
そこでパウロは、霊の戦いに直面するに当って、信徒たちに行動せよと呼びかけています。立て! 武器を取れ! 武具を身に着けよ! 強くあれ! 優柔不断の時ではありません。主に依り頼み強くなり、神の御言葉によって力づけられるべき時です。「われわれがどこにいようと、われわれの境遇がどのようなものであろうと、われわれの業績が何であろうと、何をすべきであろうと、霊の領域には決して休日は存在しないのである」3
使徒ヤコブの勧告は時宜を得ています。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ヤコブ4の7~10)。
われわれが直面している霊的状況は深刻です。われわれは事を軽率に扱うことはできません。それゆえに、使徒は「神のすべての武具を身に着けなさい」(エフェソ6の11 新改訳)と警告しているのです。「すべての」という強調点を見過ごしてはなりません。この戦いはすべてを包含しています。われわれの体も、心も、霊も、魂も、われわれの人間関係も交わりも、われわれの現在も未来も、すべてを包含しているのです。それゆえに、われわれの備えも、われわれの武具も十全でなければならないのです。
パウロは武具を構成している少なくとも六つの武器を述べています。その一つをもおろそかにしてはなりません。すべての武器は一式のまとまった武具として神によって装備されています。一つの武器でも欠けると、全体が弱くなってしまいます。「クリスチャンには、傷つき易い多くの個所がある。その特徴があるので、自分の最も強い長所だと考えていることが、誘惑に会うと、最も弱い弱点と変わる。鎖が、その最も弱い鎖の輪以上に強くはならないように、クリスチャンも品性の最も弱い要素以上に強くはないのである。遭遇しなければならないさまざまな敵や、肉のさまざまな弱さを考える時、すべての武具の一つでも欠けておれば、十全とは言えない」4
参考文献
1 エレン・G・ホワイト著『人類のあけぼの』上巻、37頁
2 エレン・G・ホワイト著『各時代の希望』上巻、124頁
3 Martin Llyod-Jones, The Christian Soldier (Grand Rapids: Baker Books,1977),p. 175.
4 The SDA Bible Commentary, vol.6,p.1044.
この記事は、ジョン・M・ファウラー(山地明・訳)『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。