【ローマの信徒への手紙1章、2章、3章の解説】信仰による従順

目次

すべての人は罪を犯している【ローマの信徒への手紙1―2章解説】

ローマの信徒への手紙は見事な書き出しで始まっています。少なくとも最初の17節はすばらしい書き出しです。その17節は、神の義が啓示されたという福音で終わっています。「義」という言葉は、私たちが普段の会話で毎日使う言葉ではありませんが、何か前向きな印象を与えます。義については、次の章でいくらか時間を割いて検討しましょう。

しかしながら、神の義の啓示に至る17節の後、パウロは手紙の語調を変えます。彼は前向きとは思えない方向へ、もっとはっきり言えば、まったく否定的な方向へ向かっていきます。ローマの信徒への手紙1章18節から3章20節で語られているのは、神の「怒り」の現れについてです。とても福音とは思えません。私たちの多くはむしろ神の怒りを忘れたいのです。私たちは、「怒れる神の手にある罪人」として終始しなければいけないのでしょうか。ただしパウロの場合、その福音のメッセージには、神の怒りについてのかなり長い議論が含まれているのです。

私たちはまず、義の啓示へと導いてくれる最初の数節から始め、その後はパウロに従って、神の怒りについてしばらく考えていくことにしましょう。

義の啓示

私たちが書く手紙では、手紙の最後に送り手の名前を添えますが、ギリシア・ローマ世界では、手紙の冒頭に書き手の名前があり、その後に受け取る人の名前が続き、通常、それから「挨拶文」となりました。それゆえパウロは、自分の名前を最初に出して手紙を書き始めています。けれども彼は、通常の方法と違って、自己紹介用に2、3語つけ加えています。自分は「キリスト・イエスの僕(あるいは奴隷)」で、「神の福音のために選び出され」、「召されて使徒となった」者である、と。次にパウロは、この福音を短く述べることによって、典型的な手紙の導入部分を若干膨らませます。その福音とは聖書(パウロにとっての聖書は旧約聖書)に預言されていたメッセージであり、死から復活することで神の御子と宣言されたイエス・キリストについてのものです。

パウロはそれから、「異邦人を信仰による従順へと導くため」(ローマ1章5節)に召されている自らの使命に言及します。ここでは信仰について具体的に述べていません。彼にとってこの考え方は15章18節にも再度出てきますが、ローマの信徒への手紙全体をひとまとめにして言い表すほど重要なものなのです。こうしてパウロは、手紙の最初と最後において「異邦人を信仰による従順」に至らせる神の願いを伝える彼の使命を明確にしています。

普通なら一言、二言ですむ手紙の導入部分に6節も用いたパウロは、ようやく二番目の部分へと移ります。パウロの手紙の受取人は、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同」(ローマ1章7節)です。パウロが言う「聖徒」というのは、大聖堂のステンド・グラスの窓に描かれている人々ではなく、神によって召され、神に仕えるために選び出されたすべての人のことです。

次に、「挨拶(greeting)」(7節後半部)を述べる箇所にやってくると、パウロは「挨拶」という言葉の代わりに「恵み(grace)」という言葉を用いて語呂合わせをしています。二つの言葉は響きが似通っており、「恵み」はパウロの神学用語の中で最も重要なものであるため、彼がこれを「挨拶」の代わりによく用いたことには意味があるのです。他の書簡を書いたクリスチャンたちも同様のことをしました。

パウロは1章8節から15節で、私たちが先の記事で注目したように、ローマの教会を訪問する願いについて語っています。そして16節と17節に、この手紙の主題となる文が出てきます。パウロは神の義、すなわち、神から与えられ、徹頭徹尾信仰によって到達しうる義の啓示について書いており、この主張を通すためにハバクク書2章4節を引用しています。この義は救いに至らせるものであり、ユダヤ人であれ異邦人であれ、全人類のためのものです。しかしパウロは、この義の意味をこの場では説明していません。パウロの説明は後半に出てきますので、その議論は待ってください。

怒りの啓示

義の啓示について触れてから、パウロは怒りの啓示について論じています。一八節においてパウロは、神の怒りが「人間のあらゆる不信心と不義に対して……天から……現されます」と述べています。ここに二つの疑問が浮かんできます。神の怒りとは何か、不信心と不義な人々とは誰を指しているのか、という疑問です。

その後に続く節で、パウロは神の怒りの性質を明らかにしています。パウロの言い回しは、他の聖書記者の言い回しと同じではないかもしれませんが、彼にとって神の怒りとは、人間に自由をお与えになる神のご決断の裏の面を指しているのです。神は人間に、ご自分を受け入れる自由と退ける自由をお与えになっておられますが、人間の行動には結果が伴います。神の怒りというのは、人間が自分の選択の結果を受け入れつつ生きるように、神が許されているということです。神は、人間をその選びと行為に「まかせられ」(24節)、あるいは「渡され」ます。神の怒りとは、人間に対する神の直接的行為ではなく、むしろ、人間を彼らの選びの結果に委ねることなのです。古い諺を引用するなら、神は、人間が自分で作ったベッドに眠るままにしておかれる、ということです。

「神は……まかせられ(る)」と訳されている動詞は、興味深い言葉です。それは新約聖書において重要な形で数回用いられています。この言葉は、伝承や口伝が他の人に「譲り渡される」こと、戦時下に降伏して自分の身を「委ねる(投降する)」こと、ある物を誰かに「託す」こと、ある人を権威当局の捕縛や処刑のために「引き渡す」ことなどを意味するのです。

人間を思うままに「まかせられ(た)」、あるいは「渡され(た)」という表現を、パウロは神の怒りという文脈のわずか数節の中で三度使用しています。1章24節から32節の間です。

そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。

神は彼らを悪い選びをするに「まかせられ(た)」、あるいは「渡され(た)」と、パウロは三度にわたって強調しています。これは諸々の罪を犯している人間に対する積極的な刑罰を意味するものではありません。むしろ、神と神の道に背を向けた結果を刈り取るよう、人間をなすがままにされた神の受動的な許可を意味するのです。 それでもパウロは、神の怒りの別の面、最後の裁きの日についても指摘しています。「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」(ローマ2章5、6節)。

しかしながら、この神の怒りの啓示は、神の最終的な言葉ではありません。神は自由を重んじられるゆえに、人間を彼らの決定の結果に委ねておられます。ですが神はそれ以上に人間を愛されるゆえ、イエス・キリストを通して恵みをもって介入し、人々の選びにもかかわらず、赦しと救いをお与えになるのです。ローマの信徒への手紙のこの後の章において二度、パウロは「まかせられ(た)」(あるいは「渡され(た)」)という言葉を前向きな意味で用いています。その箇所において彼は、人間の邪悪さにもかかわらず、神は、私たちの罪と私たちの救済のためにイエスを渡された、と言っています。しかしこれは先の方で扱う内容ですので、後日検討しましょう。

異邦人─とユダヤ人─の罪

ここで第二の質問に入ります。不義なる人々とは誰のことでしょうか。先に引用された1章24節から32節に挙げられた罪は、異邦人世界でユダヤ人が繰り返し糾弾していた罪です。異邦人に対するユダヤ人の激しい非難の言葉は、たいてい、性の不道徳と偶像崇拝に向けられていました。確かにギリシア・ローマ世界では、これらの二つは相伴っていました。というのも、異教の寺院はかなりの数の神殿娼婦を囲っていたからです。ローマの信徒への手紙1章の後半部分についてユダヤ人は、このように言ったことでしょう。「パウロ兄弟、そのとおりだ。実に的を射ている。罪をふさわしい名で呼び、異邦の罪人たちを非難している君の洞察は優れている。彼らはまさにそう言われるのにふさわしいのだ」と。

異邦世界についてのパウロの記述は正確でした。家庭や寺院や王宮での宴会の様子を描写したローマの歴史家や道徳家の文章を読みさえすれば、一世紀のギリシア・ローマ文化の中でそのような行為が広く行き渡っていたことがわかるでしょう。

しかしパウロは2章で形勢を逆転させています。ユダヤ人たちが「然り」と叫んでいる矢先、パウロは彼らに鋒先を向けてこう言います。「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(ローマ2章1、2節)。

 パウロにとって、諸々の罪を挙げて他者を裁くことは、自分が犯している罪と同じように悪いことでした。神のみが裁き主です。他人を裁くことは神の役割を侵害することであって、ある種の神への冒瀆になります。加えて、ユダヤ人も、つまるところ異邦人が堂々と犯していたのと同じ罪を密かに犯していました。それゆえ、一章における異邦人に対する態度と同じように、2章においてパウロは、ユダヤ人に対しても厳しい態度をとっています。2章17節から24節で彼が言っていることに注目してください。

ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです[i]

パウロは、ユダヤ人が異邦人の間で神の御名を汚すおそまつな証しをしていると指摘しています。

普遍的な罪

パウロは、ローマの信徒への手紙2章11節において、「神は人を分け隔てなさいません」という基本原則を述べています。神の怒りは、どこまでも「機会均等」であり、ユダヤ人も異邦人も共に罪人なのです。このことが、ローマの信徒への手紙三章における「正しい者はいない。一人もいない」という結論に結びつきます。「既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」と、パウロは言っています。

 こう述べた後、パウロはおもしろいことをしています。彼は旧約聖書に戻り、彼の主張を支持する一連の聖句(大部分は詩編から)をまとめているのです。そうすることにおいてパウロは、見いだすことのできる人間の罪深さに対する最も厳しい非難を選りすぐっています。3章10節から18節に含まれる多くの聖句を順に挙げていくと、詩編14編1~3節、53編2~4節、コヘレトの言葉7章20節、詩編5編10節、140編4節、10編7節、イザヤ書59編7、8節、詩編36編2節などがあります。

正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、
彼らは舌で人を欺き、
その唇には蝮の毒がある。
口は、呪いと苦味で満ち、
足は血を流すのに速く、
その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には神への畏れがない。
(ローマ3章10~18節)

私たちはこのように尋ねてみたくなるかもしれません。「パウロ先生、本当にそれほど希望がないのですか。もう少し表現を和らげたいと思いませんか。私たちを絶望させるつもりですか」。それでもパウロは、できる限り希望のない状況を説明し、こう確認させようとしています。「パウロは邪悪な人たちに向かってそのように言っているのでしょう。でも嬉しいことに、私はそのような人間ではないので」と言ってこの糾弾から逃れられる者は一人もいないという確認です。昔、有名なレンタカー会社の宣伝文句に、「ハーツが運転席にご案内致します」というのがありました。運転手の席ではなく、パウロは、私たちが罪ある者の席に案内されていることを自覚しているかどうか、確認したいと思っているのです。その要点は、「そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」(ローマ3章22、23節)いるということです。

パウロは、「罪」の普遍性を証明することによってのみ、彼の真の関心事である、「救い」という無償の賜物の包括性へと論理的に進むことができます。パウロが伝えようとしているメッセージは、怒りではなく、義であり、すべての者を不義にまかせることではなく、恵みなのです。しかしこういったパウロのメッセージは、まず普遍的な罪という基礎を築く時にのみ、意味をなしてきます。私たちが全員、破滅に向かう罪の船に乗り合わせる時にのみ、恵みという救命ボートが私たちを救出できるのです。

周辺的な問題

ローマの信徒への手紙のこの箇所は、幅広い議論、論争、討論を引き起こしてきたいくつかの問題を提起しています。しかし、たいていの場合パウロは、私たちが討議したい問題を論じていないので、この論争に決着をつけようとするのは危険です。例えば、1章18~20節と2章14、15節においてパウロが提起しているように見える自然法の問題は、多くの論争を巻き起こしてきました。これらの箇所においてパウロは、律法の命じるところを自然に行っている異邦人について語っています。パウロはここで、キリストを知ることはさて置き、救いに見合う自然法を肯定しているのでしょうか。それとも、キリストを知るようになった異邦人、すなわち、新しい契約を通して律法の要求する事柄が今や心に記されているので、それらを行っている異邦人について言っているのでしょうか。

アドベンチストは、キリストの御名を聞いたことのないまま、心の中で神の声に応答していた人々が神の王国にいるであろうことを、エレン・G・ホワイトの書き物を根拠に信じています。それは事実です。しかし、これと同じことをパウロはここで述べているのだ、と確信をもって結論づける充分な証拠はありません。ローマの信徒への手紙のこの箇所の論題は、救済の方法ではなく、罪の普遍性である、ということを覚えている必要があります。パウロは、異邦人も良いことをしており、ユダヤ人だけが善や美徳を独占しているわけではない、ということを単に指摘しているのかもしれません。しかし彼の要点はなお、すべての人は罪人である、ということなのです。

多く論争の的となったもう一つの点は、性的耽溺、特に同性愛の問題です。先と同様に、これもパウロが論題としていることではありません。パウロは、同性愛指向と同性の性行為の違い、その違いをどのように扱うべきか、といったような、現代人にとって見過ごせない問題を取り上げているわけではありません。社会で目の当りにしている同性愛の性行為は世界の罪深さを物語っているということを、パウロは単に示しているにすぎません。

神の怒りと罪の普遍性についての検討が終わりましたので、神の解決法、信仰による義についての恵み深い福音に移って行きたいと思います。

ローマの信徒への手紙1章29~31節の文学的特徴についての覚え書き

ローマの信徒への手紙1章29~31節の元のギリシア語には、翻訳では現れてこない文学的工夫がいくつもなされています。例えばパウロは、「ねたみ」と「殺意」に相当するギリシア語、「フソヌー」と「フォヌー」(二九節)を連結させています。また、「イア」という音で終わる三つの語、「アディキア」「ポネリア」「プレオネキシア」を一緒にまとめています。「不義」「悪」「むさぼり」と訳されているものです。元のギリシア語において、「無知」「不誠実」に相当する語は「アスネトゥース」と「アスンセトゥース」(三一節)です。パウロはまた、擬声語(意味している対象のように聞こえる語)も用いています。例えば、「陰口を言う人」に相当するギリシア語は、文字どおり「ささやく人」(二九節)を意味します。そのギリシア語「プシスリスタス」を声に出して発音してみると、ささやき声が聞こえてくるでしょう。

パウロは自ら筆を執ってローマの信徒への手紙を書いたのではありません。そのことを覚えておいてください。16章22節によれば、パウロはテルティオという書記に口述筆記してもらったのです。テルティオは「三番目(の人)」という意味であり、彼はおそらく奴隷だったのでしょう。奴隷は一番、二番、三番……などと呼ばれていたからです。パウロが、似通った音の言葉や頭韻を踏む言葉を楽しみながら、書き取るテルティオのために朗々と語っているのが聞こえてくるようです。

信仰によって義とされる【ローマの信徒への手紙3章】

ローマの信徒への手紙1章18節において、パウロは神の怒りが現されることについて語りました。しかし3章21節では、神の義が示されたことについて語っています。ここに問題から解決への進展を見ます。すべての人は罪を犯しているという問題に対する神の答えは何でしょうか。それは、神から示され、律法とは別に存在し、信仰によって与えられる義の啓示です。これは良い知らせです。しかし信仰による義認が良い知らせであるという事実は、それがいつでも受けの良いアイデアであったということを意味しません。

これを執筆していたころ、幼児を誘拐し、拷問し、虐殺した男の公判のニュースが、テレビで何度も繰り返し報道されていました。この男は有罪と決まり、仮釈放なしの終身刑を言い渡されました。彼が死刑にならなかったので、ある人たちは承服できない様子でしたが、判決が厳しすぎるという意見は聞こえてきません。誰一人としてこの男の無罪放免を望まないでしょう。幼子を持つ誰かがこの男の隣の家に住まなくてはならない状況を、あなたは思い浮かべることができますか。

あるいはまた、著名な傑出した市民が判事のところに来て、「私がこの男の代わりを務め、彼の刑罰を引き受けます。彼の代わりに私を獄に入れ、彼を放免してください」と言ったとしたら、それがどれほどの不法行為になるか想像できますか。どこの判事がこの代理志願者の申し出を受け入れるでしょうか。たとえ誰かが喜んで犯罪人の告訴を引き受け、罰を受けるとしても、不義の男を放免し自由にさせることによって、正義は果たされるでしょうか。

旧約聖書からわかることですが、神はそのような取り決めをお喜びにならないでしょう。「悪い者を正しいとすることも 正しい人を悪いとすることも ともに、主のいとわれることである」(箴言17章15節)。不義なる人が無罪放免になるのを誰が見たいと思うでしょうか。それゆえ、ローマの信徒への手紙3章21~31節においてパウロが提示している信仰による義認という考え方を疑問視する人が多くいるというのも、驚くべきことではありません。もし「義認」という言葉が法廷での無罪放免と同義であるなら、神が恵みによって自由に罪人を放免するというのは(3章21~24節)、どういう意味でしょうか。

義認に関するそのような疑問から起こる神学的な議論が、アドベンチストの中でも、より広範囲のキリスト教コミュニティーの中でも続けられています。義認というのは、イエスの身代わりによって、不義なる罪人が義と宣言されるという、純粋に法律的な事柄なのでしょうか。その種の義認は法律上の擬制[訳者註/実質は異なるが同一のものとみなすこと]のように見えます。他方、ある人たちは義認を「義とすること」と解釈します。神が人々を義とお認めになるとき、実際に神は人々を変えてくださるので、彼らはもはや罪人ではない、というのです。単に義と宣言されるのではなく、彼らは義の状態にあるというわけです。

「義」とはどういう意味なのか?

これらの立場はおそらく両方とも、義(あるいは義認)の問題を単純化しすぎています。この用語が持つ意味は複雑で、かつ深いのです。この語が法律上の文脈から来ており、基本的には無罪放免と同義であるというのは事実です。しかし、義の意味を決定する前に、四つのことを理解しておく必要があります。

第一に、これらの語を翻訳する際には、混乱が生じることがあります。いくつかのギリシア語は同じ語根「ディク」からなっており、それらはさまざまな形で英語に翻訳されています。形容詞「ディカイオス」の訳は、「正当な」あるいは「正しい」。名詞「ディカイオシュネー」の訳は、「正義」「義認」あるいは「義」。動詞の「ディカイオー」の訳は、「正当化する」「正当であると宣言する」「義を宣告する」あるいは「義とする」です。

さまざまな聖書翻訳の間で一貫性がほとんどないばかりか、いずれか一つの翻訳版の中においても、これらの用語はさまざまに訳されています。例えば、ローマの信徒への手紙3章21節から31節において、パウロは「ディカイオシュネー」という用語を四回用いているのですが、新国際訳(The New International Version)は21節と22節において「義」、25節と26節において「正義」と訳しています。翻訳者が行う訳語の選択は、翻訳作業を開始するときの彼らの神学をたいてい反映しているのです。

第二に、これらの用語の複雑さは、今日とはかなり違った聖書時代の法制度から来ています。正義についての私たちのイメージは、天秤ばかりを持って目隠しされている女性[訳者註/ギリシア神話の正義の女神テミスのこと]のようなもので、私たちは裁判官を、偏見のない判決を下す客観的な熟考者だと考えます。しかし聖書時代の裁き司は、彼らが仕える人々の暮らしに対して、はるかに積極的に関わっていました。裁き司は調停役として、また虐げられている人たちの擁護者として責任を負っていたのです。

この良い例は、イエスが不正な裁判官について話しておられる(ルカ18章1~8節)福音書の中に見ることができます。イエスは、祈りのお手本として裁判官に苦情を言った人の執拗さをまねるように、と話されたのですが、このたとえ話は、当時の人々が裁判官に抱いていた期待について、何がしかを私たちに伝えてくれています。この話に出てくる裁判官は神も人も畏れぬ男でした。相手を裁いてくれるように頼むために、ひどい扱いを受けた一人の女が、裁判官の所にしつこくやってきました。その裁判官は正義には関心がなかったので、彼女を追い払い続けたのです。しかしついには、あまりにもしつこく頼まれるので降参して、彼女を擁護してやったのでした。当時の裁判官は、訴訟を取り上げ、出かけて行って、事態を収拾するように期待されていました。裁判席に着座して判決を言い渡すだけではなかったのです。

第三に、「義」という用語は、厳密な意味での法的背景を超える旧約聖書の幅広い背景を持っています。神の義は、ご自分の民との契約に対する神の忠実さです。神の義は、人々が不忠実であっても彼らを何度でも赦し、回復させる、神の決して尽きることのない、揺らぐことのない愛を表しています。

第四に、「義」という用語は、人間の罪の問題解決を伝えるためにパウロがこの箇所で用いている唯一の語ではありません。他に「贖罪」(’redemption’)や「罪の償い」(’expiation’  英語聖書ローマ3章25節「なだめの供え物」’propitiation’ 欽定訳、 ‘a sacrifice of atonement’ 新国際語訳、 ‘mercy seat’)といった語があります。これらの言葉は、パウロの時代には具体的イメージを思い浮かべさせる言葉でした。残念なことに、パウロの手紙を聞いていた人たちの心の目にこれらの語が映し出した日常的なイメージを、私たち現代人は失ってしまっています。

これらの背景を考慮するとき、パウロの手紙を最初に聞いた人たちは、どのように「義」という概念を理解したのでしょうか。彼らは、単に法律用語としてこれをとらえなかったでしょう。かといって、「素行が良い」というような意味の倫理的な用語としてもとらえなかったでしょう。彼らはたぶん、「神様というのは、乗り出して行って事態を収拾してくださる裁判官のようなお方」と思ったことでしょう。さらにまた、旧約聖書において神の忠実さがどれほど繰り返し示されていたかを考えたことでしょう。そういうわけでパウロは、すでにこの義は律法と預言者によって立証されていた(ローマ3章21節)と言っているのです。言い換えると、パウロの手紙を聞いた人たちは、現代人よりも比喩的に考えたでしょう。

神は、不義な人たちを無罪であると宣言しようとなさったのでもなければ、罪人を瞬時に罪のない状態になさろうとしたのでもありませんでした。神はご自分に背いた人々に近づいていき、神との新しい契約関係に彼らを戻そうとなさったのです。彼らにとって、「義」は関係を表す用語だったでしょう。神が友人となり、救い主となられた新しい救いの関係において、神との正しい状態に置かれることが、「義」の意味するところでした。基本的に、聖書の文脈における「義」という用語は、法律的、行為的なものというよりも、むしろ関係的なものなのです。裁判官が壊れた関係を修復し、正しい状態に戻したとき、義は結果として生じたのでした。

しかし、この概念は実に独創的なものでした。なぜなら、神との正しい状態に置かれるこの新しい関係は、人間の功績によって得られるものではないと、パウロが言っているからです。義は律法とは関係がありません。「律法……によって」という言葉で、パウロはおそらくユダヤ教全体を意味しているのですが、そこには確実に十戒も含まれていたことでしょう。人間はいかなる行動によっても、十戒や他の戒めを守ることを通しても、自分を神に推奨したり、義をもたらしたりすることができません。義はただ神の恵みによってのみ、神が分不相応にも私たちを受け入れてくださることによってのみ与えられます。私たちは義を報いとして得ることも、自分の手柄にすることもできないのです。こういうわけで、「人の誇りは……取り除かれました」(27節)。どんなクリスチャンも自分をほめて、「義とされるために私のしたことをごらんなさい」と言うことはできません。義は神がお与えくださる無償の賜物なのです。

このような文脈において、神への全的信頼である信仰により、私たちはこの無償の賜物を受け取ります。聖書学者は、ローマの信徒への手紙3章22節「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義(新共同訳)」という聖句にある「イエスの信仰(faith of Jesus)」(欽定訳)という表現の意味を論じています。その意味は「イエスを信じる信仰」(「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである」口語訳)である、と言う人もいます。新国際訳(The New International Version)はそのような訳になっています。また、その意味は「イエス御自身の信仰(あるいは忠実さ)」である、と言う学者たちもいます。しかしいずれが正しいとしても、イエスの信仰とは神に信頼する人たちのためであることを、この聖句が明らかにしています。この義という無償で恵み深い賜物を受け取るためには、神に信頼しなくてはなりません。信仰、すなわち神への全的依存、信頼、献身が、神の恵みへの唯一適切な応答なのです。しかしこの信仰においても、クリスチャンは神のおかげをこうむっています。神への信頼は、義を得るための働きではありません。神への信頼は、何をもってしても義を得ることができないゆえに、神に全的に頼らなければならないことを認めることなのです。

これまでの要点を整理しておきましょう。全人類は罪を犯し、失われ、希望のない状態にあります。神はご自分の恵みによって自ら手を差し伸べられ、罪人を救うために御子イエス・キリストを遣わし、死に渡されました。この恵みに適切に応答する方法はただ一つ、神に全的に依存することです。それによってすべての誇りが排除され、人間は救われるために何もできないことを認めるようになるのです。

贖罪の隠喩

多くの神学者は、どのようにして神がキリストの死と復活によって私たちを救われるのか、正確に説明する贖罪の理論、すなわち、身代わり、買い戻し、道徳的影響などを生み出そうとしてきました。パウロは贖罪の理論を提供していません。むしろパウロは、神が私たちのためになしてくださったことを想い描くことができるように隠喩を用いています。隠喩というものはどれも、何かしら大切なことを教えてくれますが、話の全体を伝えてはくれません。聖書のこの箇所においても、それはあてはまります。残念なことに私たち現代人は、これらの隠喩の裏側にあるイメージ、パウロの手紙を最初に読んだ者たちが習慣的に思い浮かべたであろうイメージを失ってしまっています。

既に注目したように、「義」はこの箇所において最も顕著な隠喩です。義という言葉の中に、決然と出て行って、キリストを通して望みのない罪人と新しい関係を築くことで正しい状態を取り戻す忠実な裁判官としての神のイメージが、具体的に表されています。しかし神のイメージは、忠実な裁判官のイメージだけではありません。パウロはまた、「贖い」(24節)の隠喩も用いています。この言葉は、一世紀のクリスチャンたちに、解放される奴隷を連想させたことでしょう。それは当時の世界ではよくあることでした。人口の約三分の一を奴隷が占めていましたから、多くの奴隷がしょっちゅう解放されたのです。しばしば奴隷の持ち主は、亡くなる時、自分の奴隷を解放する旨を遺言に書き残しました。また誰かが現在の持ち主以上に高い値をつけて、その奴隷を解放することもありました。こういった「自由民」は、ローマ社会で大きな階級を形成しました。パウロの時代のローマの風刺作家たちは、このような自由民の多くが裕福になり、その社会的身分以上の暮らしをしている事実を酷評したほどです。いずれにせよ法廷でおこりうる例のみならず,私たち信仰者も無罪放免され、正しい状態に復帰できるのであり、それのみならず奴隷市場でも多く見かけるように私たちも自由の身となることができるということです。

他の隠喩として、ローマの信徒への手紙3章25節の「罪を償う供え物(新共同訳)’sacrifice of atonement’ (新国際語訳)」[訳者註〈なだめの供え物(新改訳)、あがないの供え物(口語訳)、犠牲死(柳生直行訳)、’a propitiation’(欽定訳)〉]という言葉があります。新約聖書でこの語が出てくるのは、ヘブライ人への手紙九章五節の「償いの座(新共同訳)’the mercy seat’ (英語訳)」[訳者註〈贖罪蓋(新改訳)、’the atonement cover’(新国際訳)、贖罪所(口語訳)、恵みの座(柳生直行訳)、’the mercyseat’(欽定訳)〉]の一箇所だけですが、これは元々、契約の箱の上の空間を意味していました。しかし、ローマの信徒への手紙においては、おそらくそれ以上の意味があります。神はイエスを犠牲として十字架においてささげられました。これはさらにもう一つの隠喩であって、神殿でささげられた犠牲によって罪が象徴的に償われたように、キリストは私たちの罪を本当に償ってくださるということを意味しているのです。ここでのイメージは、神殿と、そこでささげられる犠牲です。私たちは誰も、神殿に行って子羊を犠牲にしたことがないので、たぶんローマの人たちほどこの隠喩の意味を切実に受け取っていないのかもしれません。

これらの隠喩はどういう働きをしているのでしょうか。パウロはここで、抽象的な神学者として単に話しているわけではありません。説教者かつ牧師として話しているのです。パウロは、聞いている者の心にイメージを生み出す実例を用いています。法廷で無罪放免され、奴隷市場で自由の身とされ、神殿でキリスト御自身の血によって罪の償いがなされる、といった実例です。私たちはこういった用語をあまりにも抽象的に扱ってきたために、パウロが、この手紙の朗読を聞く人たちの霊的幸福に関心を寄せる牧師として書き送っているという点を見落としてきたのです。

すべての人のための義

神の義が示されたとするパウロの宣言には、もう一つの独創的な観点があります。神の義は信じるすべての人のものであって、ユダヤ人と異邦人との間に何ら区別はない(ローマ3章22節)という点です。けれどもユダヤ人は、神が区別をなさったのだ、と信じていました。神はそのようにすると言われました(出エジプト記8章18、19節)。神がエジプト人の心に打撃を与える疫病を送られたとき、イスラエル人は命拾いしました。これは、イスラエルの民と他の民を区別していることを示すためであると、神は言われました。しかしパウロはここで、神はいかなる区別もなさらない、と言っています。どういうことなのでしょうか。

パウロはユダヤ教の中心的な確約を引用することで、その質問に答えています。もし今日、あなたがユダヤ人の会堂に行ったなら、それがどういう儀式であれ、「シェマー」(申命記6章4節~5節)を耳にするでしょう。それは申命記6章4節の「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」に始まる朗読文です。パウロは、ユダヤ教の中心的なこの確約を真剣に受け止めるなら、神はユダヤ人だけの神ではありえない、神は「異邦人の神」(ローマ3章29節)でもなければならない、と論じたのです。そして、もし神がユダヤ人と異邦人双方の神であり、両者が罪を犯し、回復のための義が恵みにより神御自身の自発性によって無償で与えられるとしたなら、神がユダヤ人と異邦人を同様に扱われるということは、筋が通らないことだろうかと主張したのです[ii]

ですから、この恵みの賜物は、及ぶ限りの範囲にまで及び、すべての人を包含します。この無償の賜物は、信仰をもって適切に応答するすべての人に与えられるのです。本書の2章で注目したように、信仰による義は、個人がいかに救われるかについての単なる教義ではありません。パウロの使命はユダヤ人と異邦人を結びつけることです。私たちはすべて同じ罪の船に乗り合わせていますが、もし神を信じることを選ぶならば、私たちはすべて同じ救いの船に乗ることになります。ユダヤ人と異邦人の区別もなければ、人間を分け隔てるいかなる階級間の区別もありません。義はすべての人のためのものだからです。

私たちは、神がすべての人に与えられる義が「律法とは関係な(い)」(ローマ3章21節)ことを既に見ましたが、パウロは二八節において同じことを再び述べています。「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」。

どれほど従順さや、善行や、功績があったとしても、それらが私たちを神に推奨することもなければ、私たちに救いを得させることもありません。それゆえ、律法は単なる犠牲と化し、律法は廃された、という結論を導き出す人もいるでしょう。パウロは、そのような結論づけが可能かも知れないことを承知していたので、3章の終わりのほうで、「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか」(31節)と尋ねています。パウロがこれまで論じてきたことと照らし合わせてみると、「そうだ」という答えが聞こえてきても驚くことはないかもしれません。しかし、答えは違います。実のところ、「そうだ」という答えに近い答えですらありません。「決してそうではない。むしろ、律法を確立するのである」(ローマ3章31節)、これが答えなのです。

パウロはこのことに肉付けをしますが、それは6章と7章においてのことです。パウロはその2章の中で、救いはただ神の恵みの賜物であるという事実に照らして、律法の継続的な機能の問題や人間の行為の問題を論じています。しかし彼はこの3章において、既にいくつかの手がかりを与えてくれています。律法は「罪の自覚」(20節)を生じさせると、彼は既に述べました。律法は、罪の問題を解決するものではなく、単に罪の存在を指し示すものなのです。

もう一つの手がかりが3章の最初のほうに出てきます。3章の最初の数行で、パウロは多くの修辞疑問を提起しましたが、それらに答えてはいませんでした。質問の一つは、神の恵みが悪の面倒を見てくれるというのであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないか、という質問です。言い換えると、恵みが諸々の罪の面倒を見てくれるのであれば、面白おかしく暮らし、好きなように罪を犯すことで、パウロの恵みの教義に応答する人がいるかもしれないということです。パウロは、そのようなことは彼の教えから出てくる結論として理論的にありえないとしています。パウロの手紙を聞いた人たちの中には、揚げ足をとって、これこそ実際に彼が教えていることだ、と主張した者もいたのです。しかしパウロは、恵みをあなどっている人たちが「罰を受けるのは当然である」と言って、彼らを見限っています。

パウロはこの問題を6章、7章において詳細に論じていますので、私たちも後の章で検討しましょう。

ある物語

昨年のクリスマス、我が家で三人の孫息子(5歳、4歳、1歳)と過ごしました。クリスマス・ツリーの下には、彼らが開けるための、きれいに包装された贈物がたくさん置かれていました。実際、あまりに数が多くて、孫たちはすべての包みを開き切る前に飽きてしまったほどでした。ところが、たくさんの素敵な高額の贈物よりも、一つの小さくてすごく単純な贈物、ロケット風船が、4、5歳の孫たちの興味を引きつけたのです。膨らますと細長くなる風船で、空気を入れてから離すと飛んでいくのを見て楽しむことができます。私が子どもの頃、ロケット風船はありませんでした。普通の風船を膨らませてよく飛ばしましたが、たいして遠くまで飛んで行きませんでした。空気の吹き入れ口が小さいロケット風船は、どんどん飛んで行きますが、その口に笛をつけると音が出て、さらに面白くなります。

我が家にはロケット風船を打ち上げるのに申し分ない場所があります。我が家の二階にはバルコニーがあり、そこに立って風船を飛ばすと、階下の玄関へ続く通路に着地させることができるのです。

孫息子たちはしばらくロケット風船を飛ばしていましたが、風船の一つが壁に当たり──おそらく壁面の湿気に吸いとられ──、くっついてしまいました。風船はバルコニーにいる男の子たちの手には届かない所にありました。そこで、想像力に富む我が孫息子たちは階下に駆け下り、ぴょんぴょん飛び上がってそれを取ろうとしましたが、風船は玄関の床から3メートル60センチほど上の所にくっついています。背の高い方でも一メートルをちょっと超えるくらいの二人の男の子が、風船を取るために3メートル60センチも飛び上がろうとしている様子を思い浮かべてください。言うまでもなく、無駄な努力でした。

それでも二人はあきらめませんでした。収納室に行って、妻が食器棚の上の方の物を取る時に使う小さなはしごを持ってきました。かろうじて90センチぐらいの高さです。その上に1メートルの背丈が乗り、腕を伸ばしますが、3メートル60センチには達しません。しばらくして男の子たちは、そのはしごでは風船に届かないことがわかると、以前見たことがあるもっと大きいはしごを取りに、車庫へ行くことにしました。ところが、小さなはしごを折りたたみ、大きなはしごを持ってくることができる時になって、風船は──どうやら乾いたのでしょう──二人の頭の上に舞い降りて来たのです。

その時、二人はまったく違う反応をしました。一人は小躍りして喜び、「やったー」と叫び、もう一人は、「僕らの手で風船を取りたかったのに」と言って泣き出してしまいました。

パウロの良い知らせは、神が惜しみなく恵みを私たちに注ぎ、私たちを救ってくださった、というものです。それにふさわしい応答は、喜びのあまり叫び出すことでしょう。なぜなら、それは私たち自身ではまったくなしえなかったことなのですから。

参考文献

[i] 最後の文はイザヤ書52章5節とエゼキエル36章22節に基づいています。

[ii] パウロは、ローマの信徒への手紙9章から10章において、さらに詳しくこのテーマを論じています。神が異邦人をも対象とされることで、ユダヤ人に対して真実な神の約束が無効になることは決してないと、パウロは論じています。

この記事は、ジョン・ブラント(村山晴穂・訳)『信仰による従順──信じる者すべてに救いをもたらす神の力』からの抜粋です。

ジョン・ブラント
米国カリフォルニア州グランドテラスのアザル・ヒルズ・セブンスデー・アドベンチスト教会牧師。ローマ・リンダ大学宗教学部教授。博士。

主な研究文献:
A Parable of Jesus as a Clue to Biblical Interpretation, in Adventism in America, ed.Gary Land, 1986.
Now and Not Yet, 1988.
Good news for Troubled Time, 1993.
Romans: Mercy for All, 1996. ジョージ・ナイト共著
Introducing the Bible, Vol.I, II, 1997. ダグラス・クラーク共著
Decisions: How to use Biblical Guidelines when making decisions, 1999.

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