あざ笑う蝶【コヘレトの言葉解説 〜ソロモンの虚しさ〜】#1

目次

ソロモンの伝説とコヘレトの言葉

言い伝えによれば、ソロモン王が庭を散歩しながら自分の成し遂げた偉大な業を考え巡らせしていた時(彼は丁度壮麗な神殿を建て上げたところでした)、ふと2匹の蝶がせわしげに交わしている会話を耳にしました。伝説では、ソロモンは自然科学にも秀でていて、生き物たちの神秘的な言語にも精通していたとのこと。ソロモンは「獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた」とみ言葉は記録しております(列王記上5の13〔口語訳では4の33、訳者注〕)。ですから、ソロモンがこれら2匹の虫のささやきを理解できたとしても不思議ではなかったというべきでしょうか。

「こんな神殿なんか、私の羽ばたきひとつで、ぶち壊すことができるんだ!」と、ミスター蝶は妻にあざ笑いながら語っています。いうまでもなく、ミセス蝶は感動しきりです。強靭な夫、そしてその力強い筋肉を尊崇しきっております。

しかし、ソロモン王はその言葉が気に入りません。ただちにそのミスター蝶を事務所に呼び出します。「君の言い分によれば、君は君の羽ばたきひとつで我が神殿をぶち壊すことができるというんだね」とソロモンは言います。

「いえ、いえ、とんでもございません」とミスター蝶は、全身を震わせて(この様相は、蝶の世界で今でも見られるあの体全身を震わせる習慣をよく説明している?)、口ごもりながら答えました。「私はただ、妻に対し自慢していただけです。ただ彼女の気を引くことができ、尊敬を勝ち得たいばかりにあのように語ったのです」。

ソロモン王は、わかったといわんばかりに微笑みを浮かべ、それからこの蝶を許し、無罪放免としたのです。ミスター蝶が宮殿を出てくると、彼はすぐそこで、震えているミセス蝶と出会います。自分の夫の運命はどうなるかと案じて待っていたのです。

「ソロモン王は何とおっしゃいましたか」と彼女は尋ねます。

彼は再び強力な羽を動かしながら、彼女の目をじっと見つめ、それから言いました、「彼は私に、どうか神殿を壊さないでくれと哀願したんだ」。

このありそうもない伝説を聞くと、私たちの表情は思わずゆるんでしまいますが、実はこの物語は、「コヘレトの言葉」が言わんとしている事の中枢に私たちを誘うのです。本書は、私たちの業の空しさに関する書です(私たちのなすいかなる業、それが壮麗なソロモンの神殿の造営といった、最も名誉あるそして聖なる業であるにせよ、すべては空しいというのです)。さてこの「空しい」という言葉は、大変気がかりな言葉です。私たちの安心感を脅かし、心地よくない状況に追いやりかねない言葉であり、そうでありながらも、尚も、「コヘレトの言葉」の中で見いだされる本質的真理の理解に、私たちを備えさせる言葉でもあります。

本書の読者に警告したい。「コヘレトの言葉」は決して、扱い易い内容ではありません。提示されているその思想は難しく、また必ずしも明示的ではありません。その上、別の文化に属しているのです。へブル語で書かれているのです。私たちは時々その言語を調べて見なければならないし、作者の意図により近く近づくため、ある場合には、直訳を試みたりする必要があるのです。著者は詩人であり賢人です。従って私たちは、彼の詩的感性とその微妙な複雑さとを考察しなければなりませんし、彼の尋常ならざる考えの深い洞察に思いをはせる必要があります。著者はまた預言者でもありますから、苦闘しつつある未来にも敢えて言及しようとしています。そこで、この聖書は、道筋に従って、しかも章ごとに、ゆっくりと、また繰り返し読まれるようにと、お勧めします。そのメッセージは、決して速読のような方式では把握できないでしょう。しかし、もし私たちが、彼の言葉に細心の注意を払い、矛盾しているように思えたり、当惑させられるような言葉ですら、すべての言葉を真面目に受け取め、その曲がりくねった進路をたどり従って行くなら、私たちは、空しさという辛い視界を越えて、神及び私たちの別の側面を発見するに至るでしょう。このようにして、私たちは、信じることや望むことや生きることを、再度学ぶに至るでしょう。

「コヘレトの言葉」という呼称について

「コヘレトの言葉」とは、21世紀に生きる私たちには奇妙にしか響いてきません。しかし、現代人には何の意味もないように思えるこの呼称ですが、聖書中の前後関係からして、特別な意味合いが内包されております。「コヘレトの言葉」に相当する英語の「エクレシアステス」は、ギリシャ語の「集会」とか「教会」を意味する、「エクレシア」に由来しています。そしてこのギリシャ語は、へブル語の「コヘレト」の訳語で、それはヘブル語の「カハル」から由来しています。①古いユダヤ注解書の一つは、「コヘレト」と呼ばれたことに関し、列王記上の8章でソロモン王が、集まったイスラエルの「会衆」である「カハル」に対し説教していたことにちなんで(それで通常の翻訳である「伝道者」すなわち「コヘレト」)、そのように呼称される用語が生じたのだと説明しています(Qohelet Rabbah 1:1)。実に、列王記上8章では7回も「カハル」という言葉が見られます(8の1、2、14、22、55、65)。

「コヘレトの言葉」と訳出されているヘブル語の用語「Qohelet」が、7回も用いられていることは重要です(1の1、5、3の7、9、11、8の11、12)。この7という文章上のリズムがです。

本書の中に、著者の名前「コヘレト」を、ちりばめる形になって出てくる、この7という文学的リズムは、偶然そうなったのではありません。ソロモンの名前が7回出てくる雅歌(1の1、5、3の7、9、11、8の11、12)の中で、これの別の例を見ることができます。②

聖書テキスト間に見るこのような関係は、特別なメッセージを伝えることを意図されていたことは明白です。第一に、本書の著者がソロモンであることを確証づけます。すなわち、列王記上8章との関係は、ソロモンの歴史的出来事と「コヘレトの言葉」とを、結び付けています。雅歌との関係は、文学上で、ソロモンと「コヘレトの言葉」とを、また関係づけます。ソロモンが著者であるという考えは、しばしば、批評的学者たちによって、疑問視され、挑戦を受けてきましたが、本書自身の証言は、伝統的著者説を支持しております。本書にはソロモン時代に関することや、ソロモン自身について語っていると見られる多くのほのめかしが内包されております。知恵を求めてやまなかったこと、神殿の造営を始めとする、その他の建築活動、その比類のない富、神殿の祭儀、その人生の終わりの出来事、老齢、後継者の政治的危機等々のようにです。これらのほのめかしの多くは、本書中で順次示されることになります。

ソロモンへの言及は本書の最初から断言されております。すなわち、冒頭で、本書の著者がソロモンであることを明示的に述べている表現、「エルサレムの王、ダビデの子」がそれです(1の1)。聖書中に「ダビデの子」という表現は、10回用いられており、その内の7回は、ソロモン王を指しております。本書の1章12節において、この表現は更に具体的です。そこでは、「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」として描かれておりますが、この表現は、ソロモンに限定できます。といいますのは、ダビデの子の中では、ソロモンだけが、エルサレムで全イスラエルを治めた唯一の王であるからです。

列王記上8章では、神殿建造に関連して、ダビデとソロモンの親子関係という主題が、7回も繰り返されている点(8の15、17~20、24、26)は注目に値します。「神殿を建てるのはあなたではなく、あなたの腰から出る息子がわたしの名のために神殿を建てる」(列王記上8の19)、などです。

近年、「コヘレトの言葉」の書に出てくる古事には、古代エジプトの文学的手法との類似性があると、指摘されてきております。③実に、ソロモン王はどのユダヤ人王にもまさって、積極的にエジプトとの関係を蜜にいたしました。本書の出だしの句、あるいは表題は、古代エジプトの代表的な知恵に関する教訓的作品(いわゆる指導書あるいは「セパイット」)に特有な表現です。「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。コヘレトは言う……」(1の1、2)。ソロモンの治世は、エジプトの第21王朝(紀元前1069~945)に相当するとは言え、「コヘレトの言葉」の序論は、文学的には、第5王朝(紀元前2510~2460)から第20王朝(紀元前1188~1067)までの期間の、初期の頃の作品に、より類似しているということは注目すべきです。同時代というより、より古代のエジプト作品に類似しているということは、ソロモンが本書の著者であるとするに妥当なオプションです。古代エジプトとの関連に気づく事は重要で、このことは、本書の執筆年代を決める手がかりを与えると同時に、聖書中で特にこの本に特有な、最も興味をそそるような考えや、諸表現のいくつかに光を投げかけてくれるようになるからです。

実際、ソロモン王は、エジプトのパロたちと政治同盟を結びました。ソロモン王は、彼の種々の建築工事のため彼らに助けを求め、彼らの風習に学び、彼らから馬を購入し(列王記上10の28、29)、また彼らの政治のやり方や建造物のモデルに従ったりもいたしました。④彼はエジプト王女との結婚もいたしました(列王記上11の1)。このことは、エジプト側から見ると、考えられないような妥協です。なぜなら、このことは、ソロモンをしてエジプト王位の潜在的な継承者としたからです。(古代エジプトでは王位の継承は母方であった)。この異常とも言うべき事態は、エジプト王朝の危機を反映しております。すなわち、当時、パロはその権力を喪失しており、他よりの助けを必要としている弱い王として振舞ったのです。

「コヘレトの言葉」に関して、更に重要なことは、ソロモンの知恵自身であり、彼の哲学的世界観が、エジプトの伝統と関わっていたという点です。聖書は、「ソロモンの知恵は……エジプトのいかなる知恵にもまさった」(列王記上5の10〔口語訳では4の30、訳者注〕)と告げております。知恵に関するエジプト人たちによる評判を考えるとき、この評価は無視し得る叙述ではありません。「あらゆる国の民が……全世界の王侯のもとから送られて来」るほどに(列王記上5の14〔口語訳では4の34、訳者注〕)、人々は彼の知恵の優越性を認め、その知恵に耳を傾けるため、彼の元にやって来ました。その当時、エジプトの影響下にあったエチオピア地方のシェバの女王の訪問さえも受けました(列王記上10の1~13)。ソロモンはエジプト語を語れたに違いありません。そしてエジプトの友として、更には潜在的パロとして、彼はエジプトの文学にも精通していたに違いありません。

本書にエジプトの文化が深く染み込んでいたとしても驚く必要はありません。内なる自分と、緊張のうちに討論するような同じスタイルの文書が、エジプトの知恵文書、『ひとりの人間と彼の霊魂との間の討論』⑤の中に見いだされます。もう一つの別の文書、『カークペレ・ソンブ(Khakheprre-Sonb)の愚痴』⑥の中で、一人の男が自分の心と対話しているのが読みとれます。ソロモンはまた、自分のメッセージを伝達するため、エジプトの文学で「セバイト」と呼ばれている様式を用いました。それは老齢化してきた王が、自分の息子に、教えをなし、その前途に横たわっている複雑な問題に対処できる備えを与えるために文書をしたためたものです。同様に「コヘレトの言葉」の著者ソロモンは、年を取ってきて、心を千々に乱すようにもしながら学んできた自分の人生からの教訓を、自分の息子に分かち与えたいと願ったのです。確かなことは、この本は、老齢ということの苦痛に満ちた状況や、死ということの悲劇に関するほのめかしや参照事項で、満ち満ちております。

このことが、聖霊の導きの下にあって、本書の見透している事柄です。高齢の王は、死期を迎えつつあるのを実感しております。そして自分の過去につきまとわれております。ソロモンは罪の結果として生まれてきました(サムエル記下12の1~25を参照)。しばしば彼は、いくつかの文化の緊張関係の中で生活しておりました。彼は、また、今はもう彼のものではない未来の確実性と、自分の後継者を取り囲んでいる不確実的要素によっておびやかされております。この特別な視点は、本書の気がかりな調子、それが書かれている方法、及びその声音のふるえや、皮肉っぽさを説明しております。本章の背景がわかるなら、私たちはよりよく、その衝撃的で狼狽させられるような意見やその繰り返される質問(「誰が知っているか」、「誰が知りえるか」、「誰が見いだせるか」、そして「その人にどんな得があるか」)を理解することができるようになるでしょう。

本書の設定を知れば、その多くの矛盾と見えるものを説明することになります。時々、ソロモンは、否定的で、懐疑的で、皮肉たっぷりで、また厳しくもあり、悲観的でもあります。彼は、すべてのことをあざけっています。財産も名誉も業も、知恵や宗教さえもです。彼はこの人生に何の道理をも見ておりません。人生は不公平であるとしております。しかし、ある場合には、彼は、人生の幸せや喜びを呼び求めております。仕事や知恵の探求を奨励しております。義を賞賛しております。人生にその意義や公正さを認め、その賞罰について語ります。

これらのもろもろの矛盾には当惑を感じます。タルムードは、古代ユダヤ教のラビたちが「『コヘレトの言葉』には自己矛盾があるので、これを取り消したいと願った」と告げております。初代教会の教父たちは、理性や通説で従いやすくするため、本書を寓話化いたしました。現代の批評的学者たちは、文学的解決策を提案しております。すなわち、本書は、二つの対立した見方をする者たちの間での対話か、あるいはいろいろな資料を寄せ集めて合成したものかのどちらかであろうとしております。

しかし、本書中に見られる矛盾と不協和音とは、間違いなく「コヘレトの言葉」の霊感を受けたメッセージの一部です。もし、私たちがその不協和音を取り除こうとするなら、私たちはその要点を見落とすことになります。矛盾と見えるところは、実のところ、それは人間の状態の症状を示しているのです。「コヘレトの言葉」は、実は、業や知恵や人生や幸せの価値を確信させてくれます。しかし、これらすべての善い価値であるもの、それには宗教や義をも含むのですが、それらはすべて、堕落と悪の可能性を内包しているのです。「コヘレトの言葉」は、ここにその明晰な観察を私たちに分かち与えてくれております。すなわち、自己満足することも、駆け引きすることもなく、彼は、至るところに、そして美徳の囲いの中にさえ見られる偽りを追求するのです。

誰でも、邪悪は明らかに悪であり、ネガティブであることを知っております。真の問題は、悪それ自身が善の中に隠れてしまっている時であります。業が虐待的になり、あなたや隣人を殺してしまうようになる時であり、宗教が偽善的になり他の人間に対し無頓着になる時であり、正義感が優越心や律法主義を生み出してしまうような所に陥る時なのです。一つの見方からすると、単に悪だけではなく、善と呼ばれているものでさえも、空しいのです。この点が、自己の人生の肉なる歩みの中で、苦渋をもって捉え確認した、老齢の王の霊感による視点なのです。「すべては空しい」。そうです、すべてはです。善であるものでさえもなのです。

「すべては空しい」がモットー

大事なことですが、「空しい」(ヘブル語では「へベル」)という語は、本書説話の冒頭語であり、また、本書全体のキーワードでもあります。ある注解者たちは、本書の構造を決定する上での目印として、使いたくなるほどに、この言葉は、本書中の戦略的に重要な場所に、38回も用いられているのです(聖書全体では、73回)。⑦この言葉は、第1章から6章までの内で、その大部分が用いられ、7章以降では稀になります。このことは、本書を二つの部分に分けることになります。冒頭にて、空しさが連発射撃のようにして語られた「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」が、12章にいたって再度、全く同様に語られるのは注目に値します。このことは、「空しい」という用語が、本書にとっていかに重要語であるかを示しております。

「ヘベル」という語は、理解に困難な言葉です。その主要な意味である「蒸気」(詩編62の10、イザヤ57の13)を基にして、聖書では、手で捉えることのできない事柄、過ぎ去るもの、捉えどころのないもの、実質がないものを表すのに用いられております。「ヘベル」は、否定や無、またはかなさなどを表現いたします(詩編78の33、イザヤ30の7、ヨブ9の25など)。消え去る影(詩編144の4)や夢(ゼカリヤ10の2)という思想をも表現いたします。この言葉はまた、倫理の領域にも適用され得るのです。それは嘘や詐欺を弾劾するために用いられるのです(エレミヤ10の15)。あるいはまた、偶像や偽りの神々を糾弾するために、宗教的領域にも適用されます(イザヤ57の13、エレミヤ14の22)。この言葉はまた、アダムの第二の息子であるアベルの名前でもあります。土地を所有し、偉大なやり手であった兄のカインとは対照的に、アベルは、ちょうど跡に何を残すこともなく消え去る、捉えどころのない蒸気のようなもので、無存在に肉体が与えられたようなものです。

同様に、「コヘレトの言葉」の中での「ヘベル」の意味を定義するのは簡単ではありません。ほとんどの注解者たちは、その意味を、空虚さとか、馬鹿げている、という考えを示す概念、あるいは隠喩として理解することに決めております。ですから、「空しい」という訳が最良の選択肢として考えられて来ております。それは、ヘブル語のあらゆる影であるものに適用され得るほどに、漠然としております。

「コヘレトの言葉」の説話は、「空しい」ということに対し、強力なアクセントをつけて、それをはじめております。その強調は、この韻文における言葉の繰り返しだけではなく、⑧「もろもろの空しさの中での空しさ」(「なんという空しさ」)といったような、最高度に誇張した表現によってもなされております。そしてもう一つ、より重要なことは、最後に「すべては空しい」という一句を付加することによって、更に強調されているという点です。この表現は、本書中に、7回も登場してくる、中心となるべき句なのです。⑨

実際、「空しさ」についてのこのメッセージは、この説話が開始される以前からすでに、響き渡っておりました。すなわち、「コヘレトの言葉」(1の1)という最初の言葉は、列王記上の第8章の場面へと私たちを導きます。そこでは、ソロモンは、神殿建造終了直後(列王記上7の51)に、会衆(「カハル」)に語りかけております。列王記上8章2節によれば、その出来事は第7の月〔テイシュリ(太陽暦の9月、10月)〕の祭り、すなわち、仮庵の祭り〔スコト(エゼキエル45の25、ネヘミヤ8の14、ヨハネ7の37)〕の最中に行われたと告げられております。スコトでは、イスラエルがかつて荒野で、テント生活をしていたその出来事を心に思い浮かべる時間を持たせられたのです。それは人生の転換期を特徴づけるような体験を味わう祭りでした。重要なことは、「コヘレトの言葉」というこの聖書は、仮庵の祭りの礼拝形式の流れに沿う形で、各テントで朗読されるようになっていた聖書なのです。聖書の世界での伝統では、「スコト」(仮庵の祭)と、神殿奉献祭とが関係づけられております。その祭りは、私たちの人生の虚無を思い出させます。そして、そのようにして、虚無を説教している「コヘレトの言葉」と、彼の神殿奉献祭とを結び付けているのです。皮肉なことに、ソロモンは、彼の建造した神殿の除幕式のために、仮庵の祭りというこの特別な場面を選んだのです。

そうです、ソロモンによる、最も偉大で最も神聖なる業の実である神殿でさえも、「空しい」ということに関わったのです。「コヘレトの言葉」という表現は、ソロモンの時代の神殿奉献という事柄に私たちの目を向けさせます。ソロモンは、その人生の始めとまたその思い出とに(さかのぼ)ります。それは、あたかも、自分の歩んで来た道を、もう一度引き返し、彼がたどってきた道がどのようなものであったかに気づいたかのようです。このちょっとしたほのめかしは、ソロモン王の悔い改めの中心に、この「コヘレトの言葉」を位置付けさせるのです。彼は、明瞭に、そして苦しそうに、神殿を含む、彼の成し遂げたすべての業績を顧みて、それらの「空しさ」を思い見ているのです。神殿に関する、あのミスター蝶のあざ笑いは、時宜を得ていたばかりではありません。それは、ソロモンの霊的で、情緒的な旅というその重要性にも適合するのです。

「太陽の下」のすべてがその視野

それでも、「コヘレトの言葉」は、ソロモンという歴史上の人物を超越しております。その地平線はこの世界です。多くの証拠は、この本の世界的視野を示唆しております。第一に、「コヘレトの言葉」は、暗に数多く、創世記に言及しております。創造の物語、堕落、呪い、罪、死、アベル(この名前の意味は「空しい」)、そしてカイン(この名の意味は「達成」とか「業績」)、また神の天使への言及もあります。「コヘレトの言葉」は、おそらくは、聖書の中で、最も創世記に言及もしくはそれを暗示している書ということができます。第二に、本書は世界共通語であふれております。例えば、「太陽の下」、「天の下」、「地の上」、「人間」(アダムと呼んでいる)、そして、イスラエルの聖四文字による神の呼称(エホバとかヤーウエ「YHWH」)ではなく、創世記的神の呼称(「エロヒーム」)を用いているなどです。この本が扱っている主題は普遍的です。すなわち、死とか、老齢とか、若者、人生、愛情、女性、悪、苦しみ、不正、神、幸福、仕事、及び倫理などです。この本は、また信仰、疑い、祈り、献身、献げ物、及び神の戒めなどの信仰生活の多くの面を扱っております。それは、創造、審判、行いによる義、恵み、罪、希望、霊感や啓示、死の状態、預言、及び黙示などのような多くの微妙で複雑な神学的な問題に対処しようとしております。

この本は、哲学の用語を使い、論理性と実際的な事柄にアッピールして、世俗的で宗教を持たない人々にさえ語りかけております。祭儀や神殿生活への言及がそうでありますように、神への言及はほとんどないか、暗黙裡になされております。実際、「コヘレトの言葉」は、神への言及よりも、人間へのそれが多いのです。本書は、神学的大冊というより、人間の状況の哲学的探求のような響きをもっております。その環境は、言わば市場です。働き、眠り、食べ、飲み、政治、都会生活、スポーツ、そして娯楽のある場です。

おそらく、私たちの時代以降に最も共鳴を覚えさせる聖書ではないかと思います。ホロコーストや、9月11日のテロ事件以降、私たちは、考えの楽天主義や、伝統的な価値観、及び首尾一貫した安定したシステムが、もはや適合しないものであることに、気がついて来ております。今や、私たちは、ますます人間のコントロールを超えた世界に直面しております。実に、すべては空しい世界、その世界自身にだけ残されていて、それ自身を超えることのない世に、私たちは対面しているのです。

参考文献

①        語形論的には「コヘレト」は専門家としての機能を持つ者であることを示しています。例えば、ネヘミヤ7の57を参照。そこでは同じ語が律法学者としての機能を有するものとして使われています(P.Joüon Muraoka, A Grammar of Biblical Hebrew [Rome: Pontifico Istituto Biblico,1991], 89b)。

②        「雅歌」でも「コヘレトの言葉」でも、いずれの本の中でも、名前の使用が、同様の戦略的分布(文の最初と中間と終り)となっているのは、興味深い。

③        ジャック・B・デュカーンのモントペリー大学に於ける修士論文、”Under the Sun” A Reading of Qohelet in the Light of Ancient Egypt (The Prologue,1:1-11), MA thesis in Egyptology, University of Montpellier, France, 2004,12を参照のこと(原文は仏語、訳者注)。

④        J.D.Currid, Ancient Egypt and the Old Testament (Grand Rapids: Baker Books,1997),167-171を参照せよ。

⑤        M.Lichtheim, Ancient Egyptian Literature (Berkley: University of California Press,1973), vol.1, 163-169を参照のこと。ここの文書は第12王朝(1990-1785BC)に属している。

⑥        同上145-149をも参照のこと。この文書は第18王朝(1550-1305BC)に属している。

⑦        A. Wright,  “The Riddle of the Sphynx: The Structure of the Book of Qoheleth” Catholic Biblical Quarterly 30 (1968), 313-334 を参照のこと。D. Miller, Symbol and Rhetoric in Ecclesiastes, the Place of Hebel in Qohelete’s Work (Atlanta: Society of Biblical Literature, 2002), 23とも比較せよ。

⑧        古のラビたちは、この言葉を7度次のように数えている。「空(2)の空(1)、空(2)の空(1)。いっさいは空(1)である」(1の2、口語訳)。T. A. Perry, Dialogues with Kohelet: The Book of Ecclesiates, Translation and Commentary (University Park, Pa.: The Pennsylvania State University Press, 1993), 24を参照のこと。

⑨        1の2, 14, 2の11, 17, 3の19, 11の8, 12の8。

この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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