時と永遠【コヘレトの言葉解説 〜すべてはむなしい〜】#4

目次

すべて時にかなって美しい

ヒッポの聖アウグスチヌスは、かつて言いました、「時とは何か? もしも、誰もこれを私に訊ねる者がいないとしても、私はそれが何であるかを知っている。しかしもしも、私がその質問者にそれを説明したいと願ったとしても、私にはそれはできない」。①コヘレトも、時というものを説明はしないでしょう。彼にとっては、時とは説明を必要とするような混み入った概念ではありません。時とは、人生そのものです。それは、もろもろの出来事が生起する場です。時を死と結びつけるギリシア思想とは異なり、へブルの思想では、時を生と結びつけております。ヘブルの思想では、それですから時はもろもろの出来事と関係づけられております。すべてのことには、時があるというのです(3の1)。

「コヘレトの言葉」によれば、私たちの人生のもろもろの出来事が展開する、「時」という神の最初の賜物を私たちが受けるのは、この地上においてであり、私たちが存在しているこの生身の人生の範囲内においてです。「神はすべてを時宜にかなうように造」(3の11)られたのです。同じ節の中で「コヘレトの言葉」は、更に言います、「永遠を思う心を人に与えられる〔ヘブル語では「ナタン」〕②」と。現今という時点にて、私たちは永遠という時の感覚も与えられているのです。しかしながら、「へべル」の陰影がこの賜物を台無しにしつつあります。すなわち、悪と死が与える問題が、その調和を破壊しております。

すべての事象には、肯定と否定の両面があります。すなわち、人生は死との緊張関係上に成り立っております。ですから、私たちの限られた人生の中にあっては、この神の賜物は、命と死との間ということと、今の時と永遠の世界との間という、二重の緊張関係を考慮して行くべきことを私たちに強いるのです。

時間という賜物

前章の最後の部分において、天地創造の文脈の中で、神よりの賜物のことについて語りました。時間は、あの創造の時に与えられた最初の賜物です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった……第一の日である」(創世記1の3、5。このようにして一日が生じました)。聖書中で「与える」という動詞が最初に用いられたのは、時を支配する光りの創造を語っている部分においてであるのは重要です。「神はそれらを大空に置いて〔ヘブル語では「ナタン」(与える)〕、地を照らさせ、昼と夜とを治めさせ、光と闇を分けさせられた……第四の日である」(創世記1の17~19)。

神の賜物に関する教訓からの、「コヘレトの言葉」における最初の適用は、私たちの人生の「すべて」の時に関係しております。「すべて」(ヘブル語では「コル」)という言葉が再び用いられております。しかし、ここでは、(「すべては空しい」のように)空しいという言葉と結びつく形ではなく、時と関係づけられております。「何事〔コル〕にも時があり、天の下の出来事にはすべて〔コル〕定められた時がある」(3の1)という句は、人生におけるすべての出来事には、それぞれに、特有の時があることを指し示しております。この聖句は、しばしば考えられておりますように、倫理について教えているわけではありません。「コヘレトの言葉」はまた、人が活動するにふさわしい時があるのだと言っているのでもありません。これらの時は、人間によっては操作されてはいないということなのです。私たちは、誕生したり、死んだりを決定いたしません(3の2)。ここの聖句は、また、人の意志やそれに反する思いにも関わらず、見透しのきかない不運が、ふいに人を打つことを暗示している決定論③を論述しているわけでもありません。

そうではなく、この聖句に含まれているメッセージは、人生におけるすべての出来事は神の賜物であるということなのです。「何事にも時があり」(3の1)④なのです。

この真理は、その聖句に続く七つの節(3の2~8)で、展開されております。それは見事な歌であり、⑤七つの特別なリズムで⑥、反意語をバランスさせております。

1 生まれる/死ぬ⑦ ・ 植える/抜く(3の2)
2 殺す/癒す ・ 破壊/建てる(3の3)
3 泣く/笑う ・ 嘆く/踊る(3の4)
4 投石/集石 ・ 抱擁/抱擁を遠ざける(3の5)
5 捜す/失う ・ 保つ/捨てる(3の6)
6 裂く/縫う ・ 黙する/語る⑧(3の7)
7 愛する/憎む ・ 戦う/平和(3の8)

これらの思想関連の、「生まれることと死ぬこと」、「植えることと抜くこと」という1番目の句に注目しますと、これらは共にただちに私たちをして、創世記第3章に描かれている、オリジナルな呪いの文脈へと導き行きます。

「しかし、見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷をつけ、またいやす」(申命記32の39)。

多くの神々、良い神々、悪い神々、光の神々、暗闇の神々などを信じ込むように、誘われてしまう人々がおります。このような信仰を持つ人々は、多神教の中へと引きずられて行くことでしょう。そして、彼らは暗闇の「力」を拝むでしょう。そのような人々に対し、聖書の神は、御自身を、唯一の神として提示されるのです。

「日の昇るところから日の沈むところまで人々は知るようになるわたしのほかは、むなしいのだ、と。わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」(イザヤ書45の6、7)。

「コヘレトの言葉」は、聖書のこのような伝統の中で語っております。

現今でさえ、そして私たちの宗教である一神教の集団の中にあってさえ、自分たちの献身を分割し、他の神々、すなわち、快楽の神、金銭の神、成功という神々などと妥協的に協定を結んでいる多くの人々がおります。時折、彼らは、自分たちのなす、物の売り買いや、横になって休んでいたり、食べたりしている時、そしてまた、誰も見ていないと考えたりしている時に、実は、神がその場に現臨されているということを忘れているのです。更にまた、悪の、そしてサタンの力を余りに恐れているので、絶えずそれについて語り、苦しみに満ちた警戒や厄除け、更には呪文のような式文で一杯の迷信的宗教を織り混ぜながら、戦々恐々と暮らしている人々もおります。これらすべての人々にとって、神が「すべて」の中に、支配的に御臨在しておられるのだという、この確信は重要です。その背景が、東洋であるかユダヤ教であるかキリスト教であるかどうかにかかわらず、私たちすべての者にとっても、この確信は最も重要です。今日の私たちのような、混乱した時代においては、多くの人々は、すべての人々の要望を満たしたいと願いますし、あらゆる神を味わって見たいのです。それはまた、興味深い大事な何かを、もしかして見逃してはいないかと心配し、それを確認しておきたいためでもあります。

神が「へべル」の領域にも御臨在しておられるということは、きわめて重要な慰めであり、すばらしい保証です。詩編23篇は、「死の陰の谷を行くときも」(4節)、主がそこにいてくださるのであることを私たちに思い起こさせてくれます。神御自身が、賜物そして具体的なプレゼントとしてそこにいましてくださるというのです。そして、彼の鞭は物理的に私に触れ、私を慰めます。神は、その御臨在を私が感じない時であっても、また見ることができなくとも、苦しみをこうむっている時でも、更には神の沈黙を苦痛の内に体験している時であっても、そこに現臨しておられるのです。イザヤ書は言います、可視的で予測し得る偶像とは対照的に、この二律背反性は、まさに、生ける御神そのものの、しるしであると。

「まことにあなたは御自分を隠される神

イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる……

偶像を造る者は辱めの中を行き

皆共に恥を受け、辱められる」

                                (イザヤ書45の15、16)。

私たちの人生の空しさの最中にいます神の、この受肉は、インマヌエル、すなわち、「神がわたしたちと共にいます」の具体的体験なのです。私たちがどこへ行こうと、何をなしておろうとも、このお方は私たちと共に歩まれる神、私たちと共に語られる神であられるのです。

プラスとマイナスや、幸せと苦痛の間の、いつもながらの揺れには、人生に対する二重の教訓を含んでおります。一方では、喜びが来れば、その後には悲しみもまた来るのであることを知ることは、幸せの今の瞬間を活用して、完全にそれを楽しむ誘因です。それが過ぎ去って行くものでありますので、私たちはそれを逃したくありません。他方では、苦しみの後で、楽もあると知ることは、私たちをして、苦痛に耐えさせる助けを与え、その後に来るべきものを待ち望む手助けをいたします。苦痛は続かないでしょう。私たちは、待ち望むことを学ぶのです。

どちらの種類の時も、神の御手の内にあるのであり、「神は〔悪しきことも良いことも〕すべてを時宜にかなうように造」られたのであることを信じることは、私たちがいずれの時にも神を信じる助けとなります。それは、それらの状況に特別な意味を与えます。善なる幸せな瞬間にとって、それは賜物を喜ぶことが、霊的励ましとなります。ここには、それを喜ぶべきもう一つ別の理由が付け加えられます。ただ単に、それが好ましく、それを利したいと願い、また自然にそれに引き付けられると感じているからだけではなく、それが神から与えられているものであり、特別に私たちのために計画されているものでもあるからです。神からの良い贈り物を楽しむことは、神に対する私たちの感謝の表明です。

私がおいしい果物を味わっている時、私が花の良い香りを感じている時、私が日向でリラックスしている時、私が真実の愛情に反応する時、私が突然笑い転げる時、私が美しい物を発見し、それによって、私の感覚と私の魂を楽しませる時、私はそれらにおいて、神への感謝を表明しているのです。

悪しき時にも同様です。悲しみや、苦しみの瞬間に、信仰は私を助け、私の悲しみには必ず意味と目的とがあることを信じさせてくれます。私はヨセフのようになることができます。彼はその苦難に際し、その悲しい出来事を、神がこれを「善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださった」(創世記50の20)のだと言っております。あるいは、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」(エステル4の14)と言われた、エステルのようになることができます。あるいはまた、その信仰のゆえ、「ガム ゾ レ トヴァ」(「これでさえ善のためです」の意)と呼ばれた古代のラビのようにさえなることができます。問題に当面した時、彼は常に次の言葉でそれに対応しました。「これでさえ善のためです」と。悲劇に当面した時、この一句が、多くのユダヤ人たちによって、繰り返されて参りました。使徒パウロが言いましたように、「万事が益となるように共に働く」(ローマ8の28)ものなのです。

悪であるという問題

前述のような、楽観的信仰は、あらゆる時に適切な場所で、人生のもつ田園詩的で調和のある映像を示唆しております。しかしながら、このように明瞭な原理にもかかわらず、人生とは必ずしもそのようには展開しないことを私たちは知っております。人生が馬鹿げて見え、この世は圧倒的に不公平であるように思われてしまう時があるのです。すべてのことにはその目的があるとするさわやかな信仰とは対照的に、「コヘレトの言葉」はまた、この世が狂っていることを観察いたします。

「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを」(3の16)。

神の意図を信頼することによって、自分の苦難に耐えている信者の秀れた信仰が擦り切れはじめる時があるのです。あらゆることの中に意味を見、すべての悲劇を説明していた、秀れた神学者たちの明晰で安心感を与えていた論理体系が突然揺さぶられるのです。

「コヘレトの言葉」が、自己矛盾しているというのではありません。信仰の働きを否定させるような、他の見方を伝達する別の文学上の資料があるというのでもありません。「コヘレトの言葉」は両者につき証言しているのです。真の信仰は、私たちがはっきりと人生の不正と不合理とを見据えるのを妨げません。そうです、私たちは神がこの世を支配しておられ、暗闇の奥深い谷間にさえ神はおられるということを信じております。しかし、同時に、この世界の中に存在する悪を認めて、そのようなものとして、それに立ち向かうべきなのです。信仰は盲目ではありません。それどころか、信仰があるということは、世にあって、悪に対しては、本質的な明晰さと敏感さとを有していることを意味しております。そうでなければ、それは信仰ではありません。信仰は見ていないからではなく、見ているにもかかわらず信じるのです。世には、神の名において、悪の現実を否定し、いつもハレルヤを歌い、無菌の保護膜の中に住んで、その唇には永遠の微笑みをたたえ続けている人々がおります。これらの敬虔な人々は、信仰というものを示してはおりません。代わりに、弱い良心、あるいは知性の不足を示しているのです。

「正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」(3の17)。「コヘレトの言葉」は、この言葉を、悪の存在という問題を観察した直後に語っております。審判というものが、唯一の適切な応答であることを示しております。「コヘレトの言葉」においては、しかしながら、その問題は、彼の生涯の間では、この地上では、それが対処されないのです。17節の中に審判の場所を示す「そこ」⑨が、神という言葉と一緒に位置づけられております。次の、韻を踏まえた直訳が示しておりますように、ヘブル語原文の17節の中では、「そこ」(シャム)という語が「神」という語と並行関係に位置付けられているのは特筆に値します。

「正義を行う人も悪人も裁かれる*〔神が〕。
 すべての出来事に定められた時がある。
そしてすべての行為にも〔そこで〕」 (3の17 直訳)。

(*ヘブル語では、主語は動詞の後に位置づけられます。従って、これは、「神は裁かれる」という文章です)また、裁くという動詞が、原文では、未来形の時制(「神は裁くでしょう」)ですので、明瞭に「コヘレトの言葉」の著者は、それは彼の生存中ではない、未来のある時点なのだと、示しているのです。

「コヘレトの言葉」によれば、裁きは全世界的出来事となります。この審判は「すべて」(コル)に影響を及ぼすこととなるでしょう。「コル」という語は、創造の物語の中においては、主要な用語の一つであったことを思い出してください。「コル」は全世界を指しており(創世記1章を参照)、それ故この言葉は、全世界的適用性を有しております。「コヘレトの言葉」が示している裁きは、心の中だけで感じ取られるようなただの内在的なものといったものではありません。そして、私たちは、私たちが存在している現時点での解決策を望むべきではありません。「コヘレトの言葉」にとって、世界悪の問題の唯一の解決策は、全世界的解決です。悪の問題の解決がその性質上(「コヘレトの言葉」では、それを「太陽の下」〔16節〕のことと観ている)、全世界的レベルで、対処される必要があるのです。

神が超然たる御存在であることの感覚と、この世界の問題の背景にあるのは世界的枠組みであるとの自覚を失ってしまった多くの人々によって、この視点が無視されてまいりました。神による審判をして、時間的にも空間的にも、特別な出来事であり、それが全世界を包み込む全世界的出来事であるとして語るのは、受けがよいことではありません。むしろ私たちは、悪の問題は、自分自身だけで処理すべきであり、神がそうなさるのを待つ必要はないのだと考えたいのです。しかしながら、歴史の痛ましい検証による限り、私たちは、今なお問題の内にあるのであり、解決に至っていないのです。

確かに、私たちは自分たちの責務を直視し、この世を修復し、その苦痛を和らげるため、熱心に努力してみるべきです。飢え、不正、犯罪は処理されるべきです。それは、私たちの問題です。しかしこの必須な義務の他に、私たちは自分たち人間とこの世界の状態の悲劇的事実を直視すべきです。「コヘレトの言葉」と共に、私たちは「ゆがみは直らず」(1の15)という事実に気づかなければならないし、たとえどんなに立派な意図と善意とが私たちにあろうとも、悪の問題の真の解決は、私たちの手の内にあるのではなく、神の御手の中にこそあることに気づかなければならないのです。

私たちがこの教えを理解していることを確かめるため、「コヘレトの言葉」は私たちをして、私たちには、まったく解決不可能な問題に直面するようにいたします。それは、死です。残酷で、明瞭で、必ずやって来るもの、話し合いの余地のないもので、それは常にここにあるのです。死への言及は、裁きへの言及と同様の思想の流れの内にあり、二者共、「わたしはこうつぶやいた」という、同じ導入句で語り出されております(3の17、18)。

18節の「神〔ハ・エロヒーム〕が……試される」という句は、17節の「神〔ハ・エロヒーム〕は……裁かれる」という句を思い出させます。両者共にその句は、人間に当てはめられております。死ということと裁きとは、悪という問題に付随しております。死は私たちが、私たちの現実の状態を「見極めさせる」助けとなります。このことが18節の、当惑させられるような次の論述において、示されている事柄なのです。「神が人間を試される〔バラル〕のは、人間に、自分も動物に過ぎないということを見極めさせるためだ」と。同じ動詞の「バラル」が、9章1節でも用いられていて、そこでも、悪い人にも善人にも同じ運命が訪れるという悪「ラー」の問題に関係しております。「太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、誰にでも同じひとつのことが臨む〔カーラー〕こと……その後は死ぬだけだということ」(9の3)。3章19節では、悪は、人間にも動物にも共通に臨む「カーラー」死です。彼らは、共に死に赴きます(2の15、16)。そこでは、また死が空しいものとして描かれております。賢い者も愚かな者も(2章)、邪悪な者も義なる者も(9章)、そして、人間も獣も(3章)、すべて死に至るのです。しかし、本章では悪の愚かしさはもっと劇的です。といいますのは、人間も動物も同じ運命下にあるというのです。私たち人間は、鶏や山羊と同様みな共に死ぬのです。この審判に対する上訴は全くありません。異論もありません。

さて、「コヘレトの言葉」が考えている死は、欺瞞的な死ではありません。人の内に宿っている「霊」は、獣に宿っているそれと同じ性質のものです。彼らはどちらも、皆「同じ霊〔ルーアッハ〕を持っている」(3の19)に過ぎないのです。ヘブル語での「ルーアッハ」は、「息」とか「空気」の意味を持っております。実際、「コヘレトの言葉」においては、「息」とは空しい(へべル)蒸気以外の何ものでもないのです。著者は、言葉のあやでもってこの結びつきを見せてくれております。すべては、「同じ霊をもっているに過ぎず……すべては空し」(3の19)いと。ここには、霊魂が永遠であるとするポピュラーな思想が入り込む余地は全くありません。「すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る」(3の20)のです。そして、「コヘレトの言葉」が、「人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう」(3の21)と質問するとき、その著者は人間の方を偏重して取り扱うように提案しているわけでもありません。

それどころか、彼は多分、死の後である種の霊的存在(「バ」と呼ばれているもの)が神々のところに飛んで行ったという古代エジプト人たちの信仰を思い描いていたのです。それから、彼は、両者に同じ運命が訪れることをほのめかしつつ、修辞的質問をもって尋ねているのです。これは、まさに、彼がすぐ前の節で問うたことです、「死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう」(3の22)。

「コヘレトの言葉」にとって、死の袋小路は、私たち人間の状態の空しさを示す重要な論議なのです。死の後には何もないのです。それ故、「すべては空しい」のです。

人の持つ永遠を思う心

この悲劇的で絶望的な状態から逃れる唯一の道は、もう一つの神からの賜物です。すなわち、「神は……永遠を思う心を人に与えられる」(3の11)のです。「時」という賜物、すなわち、空しさの中で存在しているこの賜物に付け加えて、神は「永遠を思う心を人に与えられます」。「ナタン」(「与える」の意)という同じ語が、これら二つの賜物付与の表現に用いられております。永遠という贈り物は、実際には、時の賜物を強化したものです。永遠は、決して時間の外側に私たちを連れ出すものではなく、むしろ私たちをより優れた時間へと高めるのです。永遠とは時間の終わりではありません。そうではなく、むしろ、それは終わりを持たない「時」なのです。このことは永遠では、いつも新しい出来事が供給されるであろうことを意味します。聖書の希望は、絶対的に新しいものを暗示しております。それは新しい天と新しい地の創造です(イザヤ書65の17。黙示録21の1、2と比較のこと)。永遠という概念は、新しい時を強化するということによって特徴づけられております。従って、永遠では、時はこれまでよりも更に現臨いたします。

しかし、量と質とにおいて絶対である永遠という体験は、私たちの現状にとっては異質です。むしろ、「コヘレトの言葉」では、永遠は、心にのみ与えられていると言っております。それは、私たちの空しい時の間、ここで生き得るような実際上の体験ではありません。私たちには永遠という感覚だけがあります。それは、人間理解を超えた体験です。⑩永遠とは、本質的には、神性が所有する資質であり、私たち人間性にとっては、全くの異質のものなのです。

神は永遠の神(「エル オーラム」)と呼ばれております(創世記21の33)。「コヘレトの言葉」では、特別に、神と永遠とは結び付けられております。「すべて神の業は永遠に不変」(3の14)であると。神の御業は永遠という本質を有しています。それは破壊されることはありません。「付け加えることも除くことも許されない」(3の14)のであると。

このことは、人間界の道理とは反対です。人間界の道理は、永久に壊れていますので、私たちはそれを修復できません。一方、神の世界では、それが永遠に完全でありますから、私たちはそれを修正できません。このことを3章15節は語っております。「今あることは既にあったこと これからあることも既にあったこと」。神の御業は、完全でありますから、従って、それは永遠なのです。それは過去においてそうでありましたし、また未来永劫にもそうであります。時に対する人間的力の無力さ、何か新しいものを成就するに当たってのその無能さを説明するため、同様の様式が1章10節で用いられておりましたが、それがここでは、神が時間を支配しておられることを確証づけるために適用されております。過去も未来も神の御手の内にあります。神は「追いやられたもの」⑪を尋ね求められます(3の15)。ヘブル語の「ラダフ」は「追いやられる」と訳出されていますが、これは、いつも捉えることが不可能な、何か逃げていってしまうものを暗示しております。それは、永遠に捉えどころのない資質のものを指しております(私たちの存在が今正にそうなのですが)。一方、この同じ動詞が、詩編23篇では、神の御国における恵みと慈しみが、永遠に存在していることを描写するため用いられております。「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う〔ラダフ〕」(詩編23の6)。永遠は神と共にあります。人間の心の思いの中にある永遠という賜物は、神から発していて、神は、その御自身の所有であるものを与えておられるのです。

そうであれば、神が人に永遠を思う心を与えたということは、人間にはなかった他の秩序、道理、すなわち、神にとって真実であり道理であったものを、私たちは受けているのだということになります。このことは、まず第一に、人間として私たちは、私たちが実際に今知っているもの、あるいは私たちが今有しているもの、あるいはまた、私たちが今存在していること以外の何かを感じ取っている、ということを意味しております。有限の死すべき本性の私たちであるにもかかわらず、無限ということや永遠の神について考える能力を有しているのです。そして、ただ神のみが、この微妙なる心の働きをなさせ得るのです。

皮肉なことに、神の御存在を疑う人たちでさえ、他の何かに関する大胆な感性を所有しております。彼らが、正義も平和も一度も知ったことのない世界に生活していながら、これらの正義と平和を夢見たり、平凡な世界にあっても、何か崇高な世界に憧れを持ったり、言葉では表現できない何かを歌にしてみたり、心に隠されていたイメージから芸術的な傑作を具体化したりもするのです。

実に私たちはみな、空しい惨めな時の流れの中で、永遠を思うのです。時という障壁を超えて彼方の世界に私たちを連れ出してくれるのは、このような特別に付与されている、幸せな思いの瞬間においてなのです。自由について、そして充実した人生について語る時間でもある、永遠という味わいをもたらすのは、特に、特別に神聖な時間である安息日においてです。しかし、それはただの感覚に過ぎず、いわば火花なのです。私たちは、永遠を所有してはいないのです。私たちは、ただそれを考え、夢見ることができるだけです。私たちは、ただ望むことができるだけなのです。

参考文献

①        Confession, XI, sec. XIVを参照のこと。

②        ヘブル語の「ナタン」は、「与える」を意味。

③        人間の意志・行為は何らかの原因によって規定・制約されるという説。研究社新英和大辞典、1960年版、476頁参照。訳者注。

④        この聖句は、ビートルズの歌、”turn, turn, turn” に影響を与えたと言われている。

⑤        この対句は2行で1組を形成し、完全な意味を与えるようになっている。

⑥        死の対局が生ではなく、生誕であることに注目せよ。人間存在の両極を示している。生誕は、生命の出発であり、死は反対にその終焉である。

⑦        投石や石を集めるとは、古代中近東では性に関係する概念を有している。L.Levy, Das Buch Qohelet (Leipzig: Hinrich’s, 1912), 81を参照せよ。出エジプト記1の16、エレミヤ書2の27、マタイ3の9とも比較せよ。また、古いユダヤ人注解書、Qohelet Rabbahも参照のこと。この注解書では、石を集めるとは性交を、石を投げるとは禁欲を意味するとしている。そうすると、「抱擁の時、抱擁を遠ざける時」と並行関係となる。

⑧        裂くことと繕うことへの言及は、喪に服していることを暗示している。故に、この言及は、「黙する時、語る時」に並行していることとなる。Qohelet Rabbahを参照。

⑨        ヘブル語では「シャム」。訳者注。

⑩        「永遠」のヘブル語は「オーラム」で、隠すという意味の語根から派生している。興味深いことには、ヨブ記28の21を見ると、この語は、英語の「神秘」という語が派生した原語と平行的にそこでは登場している。

⑪        新英語欽定訳では、これを「過去となったもの」と訳出している。しかし、この動詞は、字義通りには、「追いやられたもの」である。

この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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