他者総論【コヘレトの言葉解説 〜すべてはむなしい〜】#5

目次

太陽の下にある空しさ

「コヘレトの言葉」は、今や神学から倫理の問題へと移動いたします。快楽とか業、人生、死、永遠、悪といった重大な形而上学的諸問題に関する抽象的思惟より、今や改めて、「太陽の下」(3の16)にある「空しい」世界の出来事に戻って考察を加えてみるのです(4の1)。

彼は再び悪しき事柄と対峙いたします。彼はもはや、自分の心との霊的対話をいたしません。ちょうど3章16節でのように、彼は悪を見ています。しかし今回彼が見ているのは、その3章16節から21節の時のように、一般的、抽象的概念としての悪ではありません。今や彼が見ている悪は、「他者」である人間による実際上の、そして歴史の中で起こった出来事からの検証です。害は他人によって与えられます。数字の「二」、あるいは「第二」という語が、本章では七度繰り返し用いられておりますが、それは、他者の存在を強調するための文体上の方法です。①

この小道具は、それ自体既に一つの教訓です。知恵の専門家、律法の学徒、神学者、哲学者たちは、彼らの書斎の静寂さや、高(まい)な理想を思いめぐらす世界を後にして、人間の現実界に、自らの身を置いてみることは重要です。人間性ということから離れていては、神聖ということも知恵も、どちらも聖でも賢明でもありません。その真理がいかほど高邁なものでありましょうとも、もしそれが霊的あるいは知的活動の範ちゅうを超えないようなものであるなら、それは無意味な提案、あるいは危険な熱狂に堕してしまう可能性があるのです。神聖も知恵も共に、私たちの人間らしさと人間性とに結びつけられていなければなりません。

「コヘレトの言葉」にとっては、知恵と人間性というこの二つの世界は、互いに触れ合い交流し合うのです。神学的レベルで「コヘレトの言葉」が展開した「空しい」という原理は、今や、他者との力動的関係の中に適用されることになります。「コヘレトの言葉」は、四組の別々の個人における四つの状況において、その空しさを見ております。すなわち、(1)他人の手中にある状況、(2)他人にライバル意識を燃やしている状況、(3)他者と共にあるかあるいは全く無関係な状況、そして、(4)他者の場所に取って代わる状況下の四通りです。それぞれの状況は、規則的に、しかも同じような句でしるしがつけられております。すなわち、「わたしは改めて……見た」(4の1)、「(わたしは)……分かった(見た)」(4の4)、「わたしは改めて……見た」(4の7)、「わたしは……見た」(4の15)の四つの句です。それぞれの状況で、「コヘレトの言葉」は、何が「良い」かの教訓を導き出しております。その教訓は、より覚え易く、より印象的にするためと、もっと一般的原理とするため格言的に与えられております。

虐げられている者の涙

他者として登場する最初の人の目には涙があります。これらは、悼む人の、または情緒的に感じ入る人の涙ではありません。それは他者の行為によって引き起こされた涙です。これは、ヘブル語における「虐げられる人の涙」と「虐げられる者の手にある」の、二つの句は互いにこだまし合っていて、これを読んだ時の音の響きの中にそれが読み取れるのです。②その上、「虐げられる」という言葉は受動形です。「虐げられる人」とは、彼自身に主導権を持ち合わせてはおりません。彼は自分でそうなっているのではなく、「虐げる人」の手中にあるのです。彼は、完全に犠牲者です。

犠牲者が誰であるか、その抑圧の内容が何であるかは示されてはおりません。意図的な匿名でもって、すべての犠牲者が包含されております。それは、政治的、経済的事由でガス釜で殺されたり、戦場で死んだような犠牲者たちだけではありません。これら顔の見えない犠牲者たちには、家庭や職場で虐げられている婦人たち、酒飲みの親の下や学寮内で犠牲になっている子供たち、刑務所で虐げられている囚人たち、また兵舎内で圧迫されている兵士たちなど、他人の手によって苦しめられているすべての人々を包含するのです。

虐げるという語は3回使われており、その語は、虐げが強度のものであることを暗示しております。これは、抑圧者がすべての権力を持っている完全な抑圧です。どの抵抗も記録されません。抑圧者の道に立ちはだかる何ものもありません。その犠牲者を助ける者は誰もおりません。このような観察は何にもまさって、「コヘレトの言葉」の著者に衝撃を与えております。「彼らを慰める者はない」(4の1)という句が二度繰り返されております。「コヘレトの言葉」では、ここで神の御臨在をほのめかしておりますので、この句には特別な意味が含まれます。この同じ句が、同様の意味を含むものとして、哀歌で用いられております。③そこでは、預言者エレミヤがイスラエルは慰めるものを全く有してないという事実を、嘆いております(哀歌1の2、9、17、21)。正確に言えば、イスラエルの慰め主であると考えられていた神がそこにはおられないということで、彼は嘆いているのです。

「それゆえわたしは泣く。

わたしの目よ、わたしの目よ

涙を流すが良い。

慰め励ましてくれる者は、遠く去った」(哀歌1の16)

聖書の伝統においては、神は「慰めるもの」(イザヤ書51の12、66の13)と呼ばれております。慰める者として神を示している一つの古典的聖句は詩編23篇です。「あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」(4節、口語訳)。

従って、「コヘレトの言葉」は、マルチン・ブーバーが「神の日蝕」と呼んだ、④神不在という耐え得ない現実的実感と対峙するのです。神が不在ですので、「コヘレトの言葉」は、むしろ空しさの方が幸いであると讃美しております。「幸いだ」(ヘブル語の「シャベッハ」)と訳出されている動詞は、聖書の他のところでの用法では、常に神に適用されているのですが⑤、ここでは、まさに「塵」(3の20)であり、無と認定された死人に、適用されております。それは、あたかも、「コヘレトの言葉」の著者の天空が空洞であったかのごとくにです。神は応答されないのです。

「コヘレトの言葉」の神学的全体がふるいにかけられております。彼は、神は苦しみの中にさえ臨在しておられると言わなかったでしょうか。喜びの時のみならず、苦しみの時でさえも、それは神の賜物であると彼は教えなかったでしょうか。今や、彼は全く反対のことを言おうとしているように見えます。虐げられている者たちの流す涙の映像が、彼の神学と彼の宗教的行動とに影響を与えております。彼の祈りさえも変わりました。彼は神に怒りを表し、空しさに向けて叫んでおります。

抑圧されることの恐怖と虐げられている者たちの涙を一度も見たことがないか、あるいは、それを知ることを拒んできている人々は、「コヘレトの言葉」の著者に共鳴することはないでしょう。そのような人々は、何事も起こらなかったかのように、知的ではあるが無神経に、通常通りの仕方で考え続けることでしょう。彼の神学、彼の聖書の読み方は、どんな悲劇によっても影響されないでしょう。しかし、このような無菌状態の神学は、果たして神学と呼ばれる価値があるのでしょうか。ドイツの神学者、ヨハン・バプテスト・メッツは、このことを心に感じて次の警告を発したのです。すなわち、「アウシュヴィッツの殺人者のため、キリスト教神学者は一体何を為すことができるか……これが課題である。つまり、アウシュヴィッツによって影響されないままになっているか、影響され得ないままになっている形で構築されるいかなる神学にも、今後二度と決して携わることはしないということがそれである」。⑥「コヘレトの言葉」の神学は、アウシュヴィッツによって影響されることとなったでしょう。それですから、彼が徹底した悪に遭遇した時、生きていることの道理を問うのです。神の賜物である人生そのものの意味を問うのです。そして死んだ人、生きている人の、「その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」(4の3)とさえ言います。

悲劇に直面してぐらついた神学を持つに至っているのは、聖書中では、コヘレトが唯一ではありません。ヨブ記の中のヨブがその一人です。賢い人物ではありますが、思いがけなくも犠牲者となってしまった彼は、神に挑戦し、人生の意味を問います。「わたしの生まれた日は消えうせよ」(ヨブ3の3)、「なぜわたしは……生まれてすぐに息絶えなかったのか」(同3の11)、そして「なぜ、労苦する者に光を賜り……生かしておかれるのか」(同3の20)と。

ヨブの神学は価値がありましたか? 確かに、当時の優秀な神学者(ヨブを尋ねてきた彼の三人の友人たち)たちにとっては否でありました。彼らは神を擁護していると考え、彼らの伝統的な神学体系を弁護しようといたしました。しかしながら、私たちが知っておりますように、その物語の終わりに至って、彼らの無菌状態の神学を、神は「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったのだ」(ヨブ記42の7)と評価しておられます。ここでの逆説は、人生の悲劇に直面して、神に叫び、生きることの意味に疑問を投げかけた人の方が、神を擁護し、穏健で理性的な神学を守ることに努めた人々より、より神に近くあったということです。

ヨブ記も、「コヘレトの言葉」も共に、これらの当惑させられ、また当惑を与えるような考えを含んでいるにもかかわらず、聖書の聖典の中に入れられたということは、重要です。このことは、この世での苦しみに当面して、神に向かって叫び、世の苦しみに際しこれに反感を抱くようになろうとも、そしてまた虐げる者に向かって立ち上がるようになろうとも、すべては許され得ることであり、むしろ、そのような生き方が要求されてさえおるのだと言うことを物語っております。なぜなら、そうした時にのみあなた方は、より神に近づくこととなるのです。

それは偉大な逆説です。「コヘレトの言葉」の著者が、虐げられている者たちの涙を見て、神に対し問題意識を持つに至った時、そして彼の見ている天が空っぽであるように感じ、明らかに神が不在であるように思われるその瞬間ほど、著者が神に近くあり、神も現臨しておられたことはなかったのです。

神不在の中におけるこの逆説的神の臨在は、微妙な文学的反響を通しても暗示されております。「彼らを慰める者はない……彼らを慰める者はない」(4の1)のような繰り返しは、劇的なもうひとつの繰り返しを思い起こさせます。「悪が(ある)……悪がある」(3の16)。これら二つの節は、互いにヒントを与え合っております。ちょうど、神の御臨在が期待されていたところに、その慰め主はそこにはいなかったと言う実感同様、正義が期待されているところに、邪悪がそこにあったということです。私たちは、3章16節の地平線上に、悪の世界的問題に対処し、正義を回復するに至るであろう全世界的審判の見通しが、ぼんやりとではありますが、見えてきていたことを思い起こします。「コヘレトの言葉」における二重のため息、私たちには「慰める者はない」は、逆説的に希望を生み出しているのです。著者は希望の構造について、たった今その教えを与えました。現実のあるがままに悪を見、この世界の苦痛を直視する時にのみ、私たちは希望を持つのであることを学んだのです。

愚か者の手

本章における「第二」の人、すなわち、もうひとりの人は、表情を見せません。その焦点は「手」に合わせられております。組み合わされたままでつかねている手、片手を握ってこぶしにしている手、両手を開いて物を満たしている手など(4の5、6 訳者意訳)などです。争いのシナリオがこれらの手を通して暗示されております。一方では閉じられている手と固く握り締められている手とを見ます。それは、組んでいる手から握り締める手に移行しております。他方では、開かれた手、ゆったりと安んじている手を見ます。それは、静かで穏やかな手です。そして、争いの原因は「競争心を燃やしているからだ」(4の4)と、この序論で指摘されております。

お話は、手をこまねいていると描写されている(箴言6の10)怠惰な人物についてです。彼は何もしないのです。彼の手は自分自身のことだけに占められております。それから妬みがやってきます。彼は望みを持っていて、しかも不当に切望し、その結果、最終的には自分が持っていないもの、すなわち他人の所有であるものを(つか)まえようとするので、このようにして怠惰な人は悪い者になって行くのです。互いに続いている箴言の言葉を通し、二段階のステップが示されております。これらの二つの言葉は箴言の中では、離れたところに置かれておりますが、⑦ここでは一緒に置かれており、この二つは関連づけて読まれるべきであることを示唆されております。実にここでは、6節は5節の明示的注解です。それは、怠惰から妬みに、それから邪悪に移り行くメカニズムを説明しております。

聖書の伝統においては、妬みは抑圧と邪悪さとに関連づけられております。ヨセフはその兄弟たちに迫害を受けましたが、それは彼らが、ヨセフを妬んだからでした(創世記37の11)。主イエスは、「妬みのため」(マタイ27の18)十字架に送られました。イスラエルの暴力的な衝突さえ妬みと関連づけられておりました(イザヤ書11の13)。箴言では、妬みは虐げる者や邪悪な者の隣に記されているのは注目に値します。「激情⑧は骨を腐らせる。弱者を虐げる者は造り主を嘲る……神に逆う者は……退けられる」(箴言14の30~32)。

怠惰な人間は、結局は「その身を食いつぶす」(4の5)ことを予告しながら、「コヘレトの言葉」は妬んでも何にもならないし、逆効果を生むだけであると告げております。他人に属するものを妬むということは、何と皮肉なことになるのでしょうか。それですから、「コヘレトの言葉」の教訓は、争って究極的には自己破滅とから手になってしまうことより、少ししか持たなくても、平和な生き方の方が遥かに良いというのです。

この観点から、「コヘレトの言葉」は「空しい」とする彼の教えを引き出します。ただ単に、怠惰な人間の動きは無駄であるばかりではなく、それは、また馬鹿げております。彼は頑強に怠惰であり続けたので、最後には致命的に働かざるをえなくなります。彼の怠惰は空しいことです。彼は、自分を与えたくなかったのです。そして、その結果は、自分自身を食べることとなります。彼は、他人を犠牲にして自分を楽しませるようにと欲しました。そして、その結果は自分自身が苦しみをこうむることになります。

預言者ナタンがダビデに語った、貧しい人の持っている小さな雌の子羊についての話(サムエル記下12の1~15)を思い出します。ちょうど金持ちが自分の群れからではなく、その貧しい男の羊を取り上げましたように、ダビデ王は、ヒッタイト人ウリヤの妻を取り上げ、その夫ウリヤを殺してしまいました。ダビデ王はこの重大な不義の故、高い代価を支払いました。彼の治世は、絶え間ない不幸で苦しめられ、そして不義の実である子も死にました。

確かにこの話は、ソロモンの記憶にも生き生きと残っていたに違いありません。貧しい男の小さな雌の子羊とはソロモンの母バテシバのことでした。この痛ましい出来事を、「コヘレトの言葉」がほのめかしていることの可能性は極めて高いのです。妬みということは、他人の妻を切望した王のことをソロモンに思い起こさせております。両手を満たすと言うことは、彼自身の群れから取ることをしなかったその王を私たちに思い起こさせます。握りこぶし(虐げるものの手)と貧しい者からの暴力的な追いはぎとは、婦人を盗み取り、その夫を殺した王のことを思い起こさせます。風をつかむと同様の悲劇的結果は、不義な結合の結果生まれた子が死ぬという出来事に思いを至らせます。「コヘレトの言葉」の風刺は、ソロモン王自身にあてはめることができるということです。彼は人を「奴隷として労役に服させ」(列王記上9の21)、自分の特権を乱用したのです(列王記上12の4)。

しかし、「コヘレトの言葉」の例え話は、ただ単に過去の記憶を辿ったり、自伝を事例問題として扱っているわけではありません。そこには時代を超えて捉えられるべき人の倫における一連の教訓を内包しているのです。第一は、妬みの持つ不毛の特性についてです。あなたのものでないものに、あなたの手を置きたいというその願いは、あなたの手を空っぽにするのです。第二に怠惰の愚かさという点です。もしもあなたが仕事をすることが嫌いで、怠惰でありたいと願うなら、あなたは、過酷に、そして空しく働かねばならないことになります。第三は貪欲の持つ苦悩についてです。すなわち、持ち物が少なくとも、平和であることの方が、多く物を持っていて悲惨なことよりもずっと良いということです。そして、最後は、誤りを犯した時の実についてです。ブーメランのように、遅かれ早かれ、私たちの犯した不義は、私たちのところに戻って来ます。まとめてみますと、すべてこれらの教訓は、他人を利用して自分の利益を得ようとすることは、何も益することはないということを教えているのです。それは空しいのです。

友がいる人とひとりぼっちの人

前の二つの事例は、イタリアの格言、「悪い者と共にいるよりは、一人でいる方が良い」という言葉の真実性を確認いたしました。これらの経験を基にしますと、私たちは、実に人間界から逃げ出したいとの誘惑にかられるでしょう。ひとりのユーモアに富んだ人が言いました、「人間を見ていればいるほど、ますます私は、私の犬を愛するようになってしまうのだ」と。

しかしながら、「コヘレトの言葉」はそこまでは行きません。このような考え方も、また空しいことなのだと、「コヘレトの言葉」は言うのです。「これもまた空しく、不幸(厳密には「悪い仕事」)なことだ」(4の8)と。ですから、「コヘレトの言葉」は、反対の見方を弁護します。「ひとりよりもふたりが良い」(4の9)。本章では、「ふたり」という言葉に最大の注意が注がれていて、五度登場して参ります。もっとも、「ひとり」という語は六度登場しております。「コヘレトの言葉」は二つの体系的ステップの中で、その言わんとしていることを証明しようとしております。まず第一は、一人でいることは不便であることを示します(4の8)。第二に彼は、仲間がいることの有利さを指し示します(4の9~12)。

ひとりぼっちであることは空しい、と「コヘレトの言葉」は論じます。なぜなら、そこには分かち合う誰もいないからです。友も、兄弟も、息子もいないのです。私たちの人生を空しくするのは、本質的には、他者の不在です。この他者不在ということにおいて、私たちは無生物にだけ専念するようになるのです。私たちは物だけを見るのです。しかし、私たちの目は決して「富に飽くことがない」(4の8)のです。万物創造の時の「良い」(「トーブ」)物を退けていながらでは、人生の真の価値や喜びを決して知ることはないのです。「コヘレトの言葉」はこのような状態を「良い」ことと反対物の「悪」(「ラー」)であると考えているのです。

それ故、それは反創造に属しております。「へべル」なのです。それは存在していないのです。8節には、否定的言葉で満ちております(四度)。利己主義は、私たちの存在を無にし、私たちの人間性を失わせます。ひとりぼっちでいるということは、私たちが誰であるかを見失わせ、私たちが生きているという意識も喪失させます。

創世記第2章には、人祖の創造に関する話が記されておりますが、そこには、生き生きと、この教訓が示されております。人祖アダムの前をすべての動物が過ぎて行く時、聖書は彼がその各々に名前を付けたと告げております。しかし、創世記のこの場所では、アダムの口から出ている言葉を全く報告してはおりません。神が心配され、「人が独りでいるのは良く〔「トーブ」〕ない」(18節)と診断されたのは不思議でも何でもありません。「コヘレトの言葉」がひとりぼっちの人間の中に欠けているものがあると見ていたのは、この同じ「良い」ものの欠落です。

アダムが最初に真に発声したのは、エバが彼に紹介された時でした。

「そしてアダムは言った

『これこそわたしの骨の骨

わたしの肉の肉。

彼女は女(イシャー)と呼ばれるであろう。

なぜなら、彼女は男(イシュ)から取られたものであるから』」 (創世記2の23 新英語欽定訳〔NKJV〕)

この出会いより前では、アダムは、彼が一体誰なのかを知ることができなかったと思われます。彼の唯一の結びつきは、雄牛とか山羊などということでありました。「一体わたしは誰でしょうか」といった、実存的な問いに対し、アダムは答えることができなかったでしょう。もうひとりの他者が現れるに至って、はじめて彼は人となったのです。この決定的な瞬間が訪れる前では、そんな質問を彼がなし得たかどうかさえ疑わしいのです。「コヘレトの言葉」にとっては、その答えは明確です。彼は「言わない」⑨のです。彼は余りにも働きにとらわれていて、その対象物に心が奪われているので、彼は自分の存在を忘れているのです。

一方「二人」でいるという状態は、「ひとりよりもふたりが良い〔トーブ〕」と認定されております。この序論である9節において、「トーブ」という語が二度繰り返されております。8節での「ひとり」という存在とは対照的に、今や「ふたり」の存在が示されます。ひとりの男の場合は、「際限もなく〔エイン〕労苦し」(4の8)というのに対し、ふたりについては、「共に労苦すれば、その報い(がある)〔「イエシ」〕」(4の9)のです。

「ひとりよりもふたりが良い」という主張をサポートするために、三つの逆境が示されております。すなわち、私たちが倒れた時(4の10)、「寒い時」(4の11)、そして、「戦う時」(4の12)です。その主張をするために、「コヘレトの言葉」は、ふたりの間の友情関係の美しさや、その価値、あるいはその間にある愛といったことに目を向けさせてはいないのは興味深いことです。彼は、感情や抽象概念でもって、自分自身を困惑させてはおりません。彼の焦点は、現実の生活にあります。三つの状況は全くもって共に生き残りの問題です。私たちが倒れる時は互いに助け合います。夜寒い時は互いに暖め合います。そして共通の敵に遭遇する時には、私たちは共に立ち向かいます。このような公平無私な響きを与えているのは、「コヘレトの言葉」では、一般的用語で考えようとしているからです。この観察は、ふたりが恋人同士であるか、友人同士であるか、または同僚であるかどうかに関わらず、どのようなふたりにもあてはめるべきなのです。

その詩は、「三つよりの糸は切れにくい」(4の12)という格言でもって結論づけております。いろいろな注解書は、数字の3ということに関し、それにとらわれるべきではないと警告しております。それは単に、複数ということを暗示しているのであって、ふたりの友人について述べているというのです。しかし、ここでの3対2はおそらく意図的なものでありましょう。私たちがふたりである時、私たちは互いに励まし合いますし、私たちの力は倍加いたします。その結果は私たちが三人と感じるほどです。そしてまた、ふたりがいるということは、三番目の人を生み出すかもしれません。子供であるとか、友の友であるとかです。友の友は私の友でもあるのですから。

ともかく、考えは、私たちはひとりぼっちであるべきではないということです。人は本質的に社会的な存在であり、共同体の中や関係を構築している中でのみ、私たちは生き残ることができますし、自分自身が何であるかを学ぶのです。ヘブル語の「人」に対する言葉は「イシュ」⑩であり、この語は創世記の第2章の文脈の中で使われており、この言葉は社交性を暗示しております。聖書の中では、神の契約と救いとは常に、社会的次元と関わっているという点は興味深いのです。例えば、アブラハムとかヤコブといった個人が救われているように見えるときでも、常に、民との関係において語られており、アブラハムの場合は、あらゆる民族に関連づけられており、また、後者の場合は、イスラエルというその未来の民族に関連づけられているのです。

神はシナイにおいて、一つの民に御自身をあらわされました。新約聖書では、契約の一部を構成するものとして、神は「エクレシア」、すなわち「教会」を呼び出しておられます。ユダヤ教では、共同体は礼拝のための必要条件です。祈りのためには、「ミンヤン」、すなわち10という最小単位の人が必要です。神の究極的御業である、平和の御国をもたらす終末における救済ですら、共同体ということが重大関心事です。神の御国、それは決して私的な別荘を持つとか、個人的出会いを体験するというようなものでもありません。それはユニークな都市なのです。「新エルサレム」と呼ばれる、特に優れている共同体なのです(黙示録21の2)。私たちが存在し、私たちが救われているのは、この共同体内においてであり、それから離れた形では決してあり得ないのです。救いとは個々人のこと、私事ではないのです。それは宇宙的、全世界的性格のものなのです。

実に、詩人ジョン・ドンが言うように、「誰もが孤島にいるのではない」のです。⑪アブラハム・ヘッシェルがそれに呼応して語りましたように、「宗教は孤島ではない」のです。⑫そのようなわけで、他者との関わりの広がりを求める宣教は非常に重要です。そこには人と関わるという首尾一貫した意味が内包されているのです。聖書の視点からすると、啓示や神と共なる冒険は、独りで進むことはできません。他者との接点を持ったり、共同体に加わるということは、宗教的献身に引き続いて起こることなのです。

貧者と王の優劣

四番目に登場してくる他者は、生身の人間としては見えて参りません。最初の人には涙がありました。第二の他者には手が、そして、第三の他者には目がありました。第四の登場人物は、彼が今どのような人間であるかによってその登場資格が与えられています。貧しいが賢明な若者とか、愚かになった老齢の王といったようにです。一方では、シナリオの個々の詳細は余りにも特例的でありますので、普遍的状況には適用できません。ひとりの貧しい若者が、非常に才気に長けていて、また一般受けする人物となり、この人が老齢でもうろくした王に取って代わって王位に即くため、幽閉されているところから出てきます。この人物が後継者となった時には、彼が、賢くかつ若者であるとはいえ、「後に来る代」の民を満足させることができません(4の16)。「コヘレトの言葉」はこのことを「空しい」と結論づけております。

ここに描かれている人物は、ソロモンの後継者の物語によく合致いたします。「コヘレトの言葉」のこの事例で取り上げられているソロモンの後継者となった人物は、やもめの息子であったヤロブアムです(列王記上11の26)。やもめの息子であった故、おそらくは、彼は貧しかったのです。ヤロブアムは若者でありましたが、早くから有能な人物として認められていたと記されております(列王記上11の28)。この人物は、また王に反逆したことでも知られております。そのため彼は逃げなければならず、エジプトに逃亡し、そこに寄留したのです(列王記上11の29~40)。この拘束状態から、ソロモンの後の王になるため彼は帰還するのですが、それはイスラエル十二部族の内の十部族という民衆の大部分を支配することとなるのです(列王記上11の35)。そして、例話の中の王とは、ソロモンに相当し、この時には、王位についたばかりの頃の知恵と神への忠誠心とは共に失せ去っていたのです(列王記上9の4~8)。

ソロモンが自分を描写するのに、他の箇所でも用いられているのと同じ愚か者という語を用いて(1の17、2の3、9、10)描写しておりますのは興味深いことです。このような自己批判はソロモンが悔い改めるに至っていたこと、そして自分の愚かさからその教訓を彼が学び取っていたことのしるしです。王の悲しい結末と、この事例の「後に来る代にも……喜び祝う者はない」(4の16)といった更なる結末は、ヤロブアムに適合します。彼はその後、幾世代にもわたって、神とその民とに対する罪の象徴となったのです(列王記上15の34、16の2、19、26、22の52)。

ソロモンは未来を予測するのに、彼の鋭い洞察力を用いたのでしょうか。ともあれ、ソロモンは個人的にヤロブアムを知っておりましたし、既に将来のダメージの可能性を視通していたと考えられます。あるいはソロモンは預言したのでしょうか。いずれであれ、「コヘレトの言葉」におけるこの場所は、あたかも預言者の託宣のような響きを持っております。「すべて」(「コル」)という鍵となる言葉や、しばしば預言の文脈中で用いられております「限り」(「クェツ」)といった専門用語⑬や、更には動詞の未来形をも用いて語られております。

たとえどの場合でありましたにせよ、空しいという教訓は、同様に残っております。この物語は、誰も反対し得ない金言で始められております。「貧しくても利口な少年の方が 老いて愚かになり 忠告を入れなくなった王よりも良い」(4の13)。たとえ貧しかろうとも、若くて聡明なヤロブアムの方が、たとえ王であろうと年老いて愚かになってしまった人物よりも良いのです。「そんなに早く過ぎ行かないように!」と、年老いた愚かな人は皮肉にも言います。しかしもし、あなたがその後に訪れたものが何であったかを検証するなら、良い結果を残さなかったことを知るでしょう。確かに「これもまた空しく、風を追うようなこと」(4の16)なのです。

未来こそ、あらゆる出来事の中での最大のテストです。ただその結末のみが、そしてその道の終わりだけが、私たちの歩んで来た道が空しかったか否かを告げることになるでしょう。このことが、「コヘレトの言葉」の著者が、虐げられている人の涙に触れ、手をつかねて何もしない愚かな人を見、ひとりぼっちの人、そして今や王座に取って代わろうとしている若者を見た時の、彼の視点なのです。すべてのシナリオは、試みられ、未来という光の下に照らして見た時、これらすべては空しいことを見いだしたのです。そしてこのようにして、実は「コヘレトの言葉」は希望を教えるのです。

前章においては、希望の教訓は、永遠という世界のひらめきと、わずかながらの喜びから形づくられました。これらのことから、私たちは、来るべき国を瞑想し、より良いものを感じ取り、その国の味わいを先取りすることを学びました。私たちは望みを抱くことを学びました。本章では、希望への教えは、悪や虐げや妬みや利己主義や失敗などと人生の否定的な側面に直面してみることから描き出されたのです。それらの教訓から、現在の人生の空しさを判別し、新しい御国の必要を感じ取って来たのです。このように、希望は、それが良きにつけ悪しきにつけ、両者の教訓の組み合わせから湧き上がって来ております。「良い」ものは私たちにとっては何かを感じさせます。そして悪いものは、私たちに他の何かの必要性に目覚めさせるのです。

参考文献

①        「2」(「シナイーム」)が4度(3、9、11、12)、「第2」(「シェニー」)が3度(8、10、15)用いられている(新共同訳聖書では、前者については、「両者」とか「ふたり」と訳出、後者についてはもう一人の者、第2の者である「友」とか、正統の者に「代わって」の第2の者のように訳出している。訳者注)。

②        ヘブル語における聖句では、子音の繰り返しが観察される。「ディムアット ハ・アシュキーム」(「虐げられる人の涙」)と「ウミヤッド オシュケーヘム」(「虐げられる人の手にある」)。この文章の仕組みは、頭韻法と呼ばれるもの。また、両句の統語的平行関係にも留意せよ。2つの句ともヘブル語では「涙」とか「手」のように、集合体の単数で始まり、複数形の「虐げるものたち/虐げられる者たちで」終わっている。

③        表現上の同じ文法形式(但し、他の動詞と共に使用されてはいる)が、詩編22編の中で、神から見捨てられたことの表現として用いられている。「助けてくれる者がいないのです」(12節)。この句は、ダニエル書の中でも、同じ考えを現す句として用いられている。ダニエル書11の45を参照し、その8の4、7、並びに9の26とも比較して見よ。そこでは、救い主なる神によって見捨てられていることに、この句を適用している。Jacques Doukhan, The Mystery of Israel (Hagerstown, Md.: Review and Herald, 2004), 36-38を参照せよ。

④        マルチン・ブーバー The Eclipse of God: Studies in the Relation Between Religion and Philosophy (NY: Harper, 1952) を参照のこと。

⑤        詩編117の1、106の47、147の12、歴代誌上16の35を参照。

⑥        J. B. Mets, “Christians and Jews after Auschwitz,” in Holocaut Reader: Responses to the Nazi Extermination (NY: Oxford University Press, 2001), 246を参照。

⑦        箴言6の10(24の33)と15の16、17(16の8)を参照のこと。

⑧        「激情」と和訳されているヘブル語の原語は「キヌア」で、「激情」の他、「妬み」「熱意」の意味もある。訳者注。

⑨        口語訳。4の8の新英語欽定訳(NKJV)では、「しかし、彼は決して尋ねない」の一句が入っている。訳者注。

⑩        この語はおそらく「インシ」(その意味は「弱い」とか「依存」)という語から由来した。

⑪        Meditation XVII.

⑫        「どの宗教も孤島ではない」Union Seminary Quaterly Review 21, no. 2, pt. 1(1966).

⑬        ヘブル語の「クェツ」(「限界」、「目的」などの意)は、ダニエル書の中で最も使用されている(全聖書中で67回の内15回)。

この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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