コヘレトの警告
「コヘレトの言葉」は、倫理の一般原則を述べるのに、これまでは第一人称で語って来ております。さて今や、著者は、不特定の聴衆に向かって、二人称単数で呼びかけ、さまざまな忠告を与える方向へと移動いたします。ここに与えられている忠告は、あるいは自分の下にいる学徒たちに、あるいは私たちすべての者たちに当てはまるのかもしれません。「コヘレトの言葉」の語り口が変わりました。彼は、10の命令的句を発しております。「神の宮に行く時には、その足を慎むがよい」(5の1、口語訳。共同訳では4の17①)。「近寄って聞く」がよい(5の1、口語訳)、「言葉を出そうと、心にあせってはならない」(5の2、口語訳)、「軽々しく口を」開いてはならない(5の2、口語訳)、「言葉を少なくせよ」(5の2、口語訳)、「(誓いを)果たすことを延ばしてはならない」(5の4、口語訳)、「あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ」(5の6、口語訳)、「使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない」(5の6、口語訳)、「神を恐れよ」(5の7、口語訳)、そして、「怪しんではならない」(5の8、口語訳)。
私たちは、何が正しいかを知ることだけでは十分ではありません。私たちはそれを生きてみなければなりません。カール・マルクスやフリードリッヒ・ニーチェやマイケル・フォーコーに先立つ時代までは、「コヘレトの言葉」は人生を動かす三つの動因、すなわち宗教と権力と金銭とを彼の精査の下で取り上げ、それらの動因に注意するようにと警告を発しておりました。
宗教の空しさ
まず、「コヘレトの言葉」は宗教の欺瞞性ということから、彼のお勧めを展開いたします。最初の命令は「慎め」(「シャモール」)です。この言葉は宗教用語で、通常は、十戒などの戒律に関係して用いられております(申命記6の17、11の22、27の1)これは安息日遵守令に結びつけられている動詞です(申命記5の12)。ここでは、その動詞は、「神の宮に行く」(5の1、口語訳)時にその「足を慎む」べきであると警告を発しております。私たちが神の御前に出で行く時、それは私たちが散歩に行くか、買い物に行く場合と同じような仕方で、出で行くわけにはいかないということは明らかです。この警告が即意味するところは、私たちをして行動におけるその神聖さに気づかせるべきであるということなのです。
知恵文学の中では、「足を守って」という表現は、躓かないように注意しなさいという意味です(箴言3の26〔新共同訳では「足を進める」。訳者注〕)。私たちは、宗教的行為を行っている時でさえも躓きを得ますし、「悪」の自覚もなく、「悪いことを」してしまう可能性があります。こういうことを、「コヘレトの言葉」は「愚か者の犠牲」と呼んでいるのです(5の1、口語訳〔新共同訳では4の17。5章全体が、口語訳と新共同訳では、1節だけ異なることに留意のこと。訳者注〕)。聖書はそのいくつかの例を記述しております。カイン(創世記4の1~9)や、サウル(サムエル記上13の1~15)や、ソロモン自身も(列王記上11の7~9)犠牲をささげる時に悪をなしました。
しかし、「コヘレトの言葉」は、邪悪な宗教とか、邪悪な犠牲に言及してはおりません。正統な教会に行き、すべての適切な行動をしている時でさえ、私たちは「愚かな犠牲」を捧げているかもしれません。「コヘレトの言葉」はこの不幸な出来事の二つの具体例を挙げております。
第一の事例は、私たちが神の御前で発する「言葉」(5の1、2)との関係です。祈りという行為についてです。「コヘレトの言葉」は、心をせかせて言葉を出さないようにと言っております。私たちは自分の用いる言葉を統御すべきです。言葉は心から出てきますが、私たちが御神に話をする時すべてが適切なわけではありません。祈りの言葉は思慮深く注意を払って為される必要があります。私たちの時代の猛烈な通信形態とマスメディア文化においては、言葉は映像に比しその重みを失って来ております。さほどの思慮なしで、しばしば多くの言葉は使われております。同様に、私たちの祈りはもはや真の祈りの力を施行しているのではなく、意味を失っております。余りにもしばしば、私たちの祈りの言葉はただ見せびらかすためであり、誰かに賞賛されるように計画されたりしております。私たちは「アーメン」と言った後で、誰かが「なんと素晴らしいお祈りでしょうか!」と言うのを聞いて喜ぶのです。
しばしば、私たちの祈りは考えることもなしに、機械的に暗誦している慣用句の言葉を繰り返しております。私たちは自分の言っている言葉の意味を理解していないことさえあります。従って、何を祈ったかもすぐ忘れるような祈りです。そして時々私たちの祈りは一貫しておらず、それは私たちが愚かであることのしるしでもあります。
「コヘレトの言葉」はこれらの問題の理由を示しております。私たちは、もはや神に祈っているのではないのです。私たちは、神との距離感を感じているのです。神は天におられ、私たちは地球の上にいるのです。従って、私たちは、自分たちの秤で考えている神に祈っております。それは、物言わぬ偶像に対してです。または、私たちはまさにひとりごとを言っているのです。そこで、「コヘレトの言葉」は助言するのです、「言葉を少なくせよ」と。天井を越えて行かないような、空しい無数の言葉を発するよりは、数少ない言葉であっても、注意深く考えて、選択された意味のある言葉を語る方が良いのです。「コヘレトの言葉」はこれらの無意味な言葉を「夢」と比較いたします。この夢は、古代中近東の文化圏、とりわけエジプトにおいては、飛ぶように過ぎ去り行くもの、架空のもの、欺瞞的でさえあるものの象徴と考えられておりました。②「コヘレトの言葉」にとって、夢とは「へべル」(「空しい」)のような何かです。5章6節ではこの夢と空しさという二つの言葉が同義語のようにして用いられております。③
多くの宗教人は、「コヘレトの言葉」が語る助言に耳を傾けるべきです。主イエスも同様の勧告をなさいました。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」(マタイ6の7)。それにもかかわらず、多くのユダヤ人も、多くのキリスト者も、共に、無限のロザリオの復唱文等でみられますように、彼らの祈りが長いほどその価値が高いと信じております。祈祷書から急ぎ読まれる1節、あるいは公同で用意された祈りの朗読等々、忍耐深く教会に出席している者たちに何を与えたかは別にして、「コヘレトの言葉」も主イエスも心配しているのは、これらの同じ症候群なのです。
第二の例は、「誓い」や「願かけ」(5の3、4)との関係についてです。神に対して、あるいは神の御前で誓約し、それにもかかわらず、その誓いを果たさないような誓いです。箴言はこのことに言及しております。「聖別されたものとしよう、と軽々しく言い 後にその誓いを思い直せば罠となる」(箴言20の25)。この警告の根底にある原則は、神とその民との間の契約に根ざしております。神への私たちのもろもろの約束を果たすように努めることは、すなわち神への応答です。しかし、私たちのその善意が私たちの弱さの故、躓きとなるのです。私たちの献身において、私たちは失敗するように定められているようなものです。それゆえに、ユダヤ人の伝統では、大贖罪日は、ただ私たちすべての者たちの罪が赦されることだけではなく、私たちのすべての誓いもキャンセルされることになるのです。ユダヤ人の祈りである「コル ニドレ」は、これを私たちに思い起こさせます。④聖書は神が私たちをお許しくださること、そして今や神に対して負っている私たちのすべての負債から解き放たれているのであることを確証づけるのです。このことは、主の祈りで示されている明白な御約束なのです、「私たちの負い目を赦してください」(マタイ6の12)。神の哀れみは、神の正義に打ち勝つのです。⑤
「コヘレトの言葉」の言うポイントは、私たちが誓いを果たさなかったというよりは、むしろ神への私たちの正直さがなしてしまう業であるとか、言葉の軽率さや、また神を厳密に受け止めていないという事実に由来しているというべきだとするのです。たとえ私たちが神は私たちを赦すのに十分に慈悲深いと信じても問題は残っております。深く考えることもなく、あわてるようにして誓いを立て、しかる後意味を考えたときそれを引っ込めるようになってしまうよりは、そんな誓いはむしろ初めからしない方が望ましいということなのです。また、ここで扱われている誓約は、神に仕えるとか、結婚式の時の自分の配偶者に誠実であり続けるといったような重大な誓約でもありません。これらの重要な献身は、「コヘレトの言葉」の言う誓いの範ちゅうには入っておりません。それらは、他の文脈の中で扱われることになります。
「コヘレトの言葉」の著者が心に思い描いていたことは、信心深い言葉の数々についてであり、神のために何かをなそうと熱心に願いながらも、結局はそれが少しも実現せず、結果的には嘘をついたと同じことになってしまっているといったことなのです。この「嘘」という考えは、その中に実際は、警告が内包されているのです。ヘブル語の「ハべル」(「滅ぼす」)(5の5)は、「嘘」という語と結びつけられております(イザヤ書32の7を参照)。同様の分類の中には、神との関係において私たちが犯してしまうあらゆる小さな嘘、偽りがあります。私たちが誇りながらも決してなし得なかったあらゆる高潔な行為、結果的には自分の信仰の優位性を告げてしまっている奇跡の体験に関する証、私たちが神を熱心に弁証しようとする余り用いてしまう敬虔な嘘等々。ソロモンにとっては、これらすべての神に対して為された誓い、神に関係して為されたこれらすべての偽りは、しばしばそれを語る信仰者自身の利益を図っており、恐らくそれは自分自身の栄光のために語られることになるのです。このようなことは空しい以外の何ものでもなく、破滅に導くこととなるのです。
「コヘレトの言葉」は、「近よって聞くのは……犠牲をささげるのにまさる」(5の1、口語訳)との訓戒を最初から勧めております。そこには、正に宗教の空しさが横たわっております。私たちは神に聞き、神から受けるよりは、神のために与えて働きたいのです。「コヘレトの言葉」が繰り返し指摘しているのはこの点なのです。その人間の与えて働く業はどこにも導きません、それらは無であると主張して来たのです。それが宗教生活や敬虔な業や私たちの願い事となりますと、更に悪しきものとなります。なぜなら、私たちは実に、こともあろうに万物を与えられた御方、すなわち創造主である偉大な神のためにそれをなしているのだと主張していることになるのですから。結果は、「愚か者の犠牲」であり、それらは馬鹿げていて、しかもそれは無の贈り物以外の何ものでもないのです。
私たちは自分自身を騙すことができるかもしれませんが、神を騙すことはできません。「コヘレトの言葉」でのこの部分が「神を畏れ敬え」(5の6)の命令で閉じられていることは重要です。同じお勧めが本書の全体の結論部分で与えられております。そこでは神が審判者として示されております。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう」(12の13、14)。神を畏れるとは、神が審判者であられることに気づくことであります。神はただ、私たちの宗教の空しさを裁かれるだけでなく、また、地球をも裁かれるのです。
権力の空しさ
さて、もしも私たちが地上に公道と正義を曲げることがあるのを見ても、それを驚くには及びません(5の7)。「コヘレトの言葉」によれば、その理由は、地球上では、すべてに勝る権力が存在し、常にどんな権力をも優越した他の権力というものがあるとの原理の内にあります。王でさえ土地に服さねばなりません。「土地からの益はすべての者たちのためである」(新英語欽定訳〔NKJV〕の5の9、新共同訳では5の8)の中で、「益」と訳出されているヘブル語の「イトローン」(5の8)は、「優越」を意味していて、闇に対する光の優越性(2の13)、あるいは愚かさに対する知恵の優越性(7の12、10の10)を意味するために使われております。この優越という意味は、ここでの文脈によく適合します。ここの文脈では、優越に向かってどんどん上昇して行きます。「位の高い人よりも、更に高い者」、そして「それらよりもなお高い者がある」(5の8 口語訳)のであり、そして、それらすべての者に対する、更に土地の「優越」(「益」)というようにです。王でさえ、「耕地によって仕えられる」(新英語欽定訳〔NKJV〕の5の9、新共同訳では5の8)⑥のです。
私たちが今見ている聖句は、他の二つの聖書の文脈へと関連づけられております。第一は、創世記の第2章と3章です。前者では、人間による土地の耕作であり(2の5)、後者には、土地が呪われたこと(3の17、18)が記されております。そして第二は、歴代誌上29章10節から15節です。そこには、ソロモンが王位に就任する前に捧げられたダビデ王の祈りが記述されております(21、22節も参照)。これらの聖句には、私たちが今考察していることの中で共有するたくさんの共通し、また関連した言葉が見られます。
「コヘレトの言葉」の5章と同じように、創世記の2章と3章には、「地」、「土」、「耕す」といった同じ言葉があるのに気づきます。創世記の二つの章は、土地の呪いと、土地に対する人間の依存という文脈へと私たちを誘います。著名なユダヤ人聖書注解者ラシは、次のように解説しております、「彼は王であるとはいえ、彼はその土地に服している。もしもその地が実を結ぶならば、彼は食べることができ、もしもそうでなければ、彼は飢えで死ぬことになる」。⑦このような地と人間との結びつきは、正義の欠如の理由を暗示しております。すなわち私たちは呪いの下にあり、従って、その悪の悲劇的な係わり合いを避け得る方法が全くないのです。
歴代誌上29章には「すべてのもの」(11、12)⑧、「地」(11、15)、そして「王」(22、23)といった、「コヘレトの言葉」5章と共通の言葉を発見いたします。この相関関係は、ダビデの祈りへと私たちを導きます。その中で、彼は、神の優越性を強調しております。「あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる」(11)、「あなたは万物を支配しておられる」(12)、「すべてはあなたからいただいたもの」(14)といったようにです。この祈りの中で「すべて」(「コル」)という語が10回も用いられていることは注目に値します。この強調は神の十全の支配を暗示しており、呪われた結果である悪のもろもろの「すべての」権力の上に、神の審判は及ぶのです。私たちはこのお方を肉眼で見てはおりませんし、神についての言及もありませんが、しかしすべての背後にこの神は臨在しておられるのです。たとえ不在のように思われようとも、このお方は現臨しておられるのです。
「コヘレトの言葉」は希望の言葉を語ります。同時に、神の絶対主権へのこの確証を離れては、権力の競争は、空以外のどこにも導くことはないということを覚えさせられるのです。皮肉にも、権力を好む野心的な人物は常に他者に従うことになるものです。この競争は果てることはありません。そして、王のように頂点に立ったと思った瞬間、そこでも、私たちは単なるしもべであったことに気づくのです。「私たちは耕地を耕す」のですが、しかし私たちの新しい主人は、盲目で、呪いの下にあります。このことは、最悪の空しさです。空しさから空しさへと、その権力レースは、究極的には「空の空」、すなわち、奈落の底へと導くのです。
金銭の空しさ
同様の理論づけが金銭にも当てはまります。ちょうど権力に飢えている人が、それに飽き足りることがありませんように、富への愛も決して満たされることはありません。権力と金銭とは共に空しいものなのです。ここでもまた、人間の努力は同様に空しいところに導くのです。前向きに始めたものがいつも否定的に終るということを組織的に示すようにして、六度にわたり(5の7、9〔2回〕、11、13、14)、ヘブル語の詩句は、否定のハンマーを振り下ろしております。
富によっては決して満足しないという第一の理由が、個人的な体験の論議として、最初に述べられております。「銀を愛するものは銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない」(5の9)。あなたは、決して満足の域には達しない。そして、満足を結実させるところには決して至らないというのです。⑨その目標は決して達せられないのです。
第二番目の論点は、取得するものが何であれ、他の人々によって取られその人々によって楽しまれることになるという(5の10)、実際上の観察に基づいております。富を増せば増すほど、それから利益を受ける者たちがますます増加する。あなたはそれから利益を得ない。あなたはただそれを見るだけである。
第三の論点では、富の価値さえも否定しております。なぜなら、それは幸せをもたらさないからと。「コヘレトの言葉」は、貧しい者の眠りを、金持ちのそれと比較しております(5の11)。貧しい人の生活の質は、金持ちのそれよりも良いというのです。ただ単に、金持ちの眠りに比し、貧しい者のそれはより良いだけではなく、「快い」のです。明らかに、貧しい者は心地よい夢を見ているのに、金持ちは、その贅沢な寝所で悪夢にうなされころげまわっております。貧しい人の睡眠が「快い」のは、彼がより幸せであることを暗示しております。
富の空しさの第四番目の理由づけは、最も劇的で、かつ最も現実的な論議です。この最後の状況は、その他のすべてより悪いのです(5の12~16)。ここの聖句では、(1)金持ちは富の増加を見ない、(2)彼の息子を含め誰もその富から益を得ない、(3)彼は人生を楽しまなかったのです。「その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない」(5の16)のです。これらすべての労力、すべての犠牲は、あたかも「風を追っ」(5の15)たようなものであったのです。
「コヘレトの言葉」は、誰かが突然全財産を失うシナリオを想像しております。彼には新しく生まれて来た息子に残す何ものもありません(5の12、13)。次いで、この新しく生まれた息子の話をしてから、その直後に、時宜に適った言葉を告げます。「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来たときの姿で、行くのだ」(5の14)と。それはあたかも、以前、裕福であった人が、裸で生まれてきた自分の子供を見ている内に、このような観察をするに至ったかのようにです。創世記の呪い、「土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3の19)の中に見られる用語を用いて、「コヘレトの言葉」は、死という究極の論議を推し進めるため、新生児のイメージを使います。更に「コヘレトの言葉」は、呪いということを、同じ呪いの文脈に属している(創世記2の25、3の7~12、21)アダムとエバの裸へのほのめかしでもって結びつけております。創世記の呪いは、空しさということの究極的教訓へと導いて行きます。すなわち、もしも私たちが塵に返るべく運命づけられており、その労苦の結果を何ひとつそこに持って行けないのであるなら(5の14)、一体なぜ富を蓄えようとするのか?
しかしながら、「コヘレトの言葉」は、裕福になることや、懸命に働くことや、人生を楽しむことに反対しているわけではありません。そうではなく、彼の議論は、富むことのためだけに金儲けに励んだり、蓄財しようとするそのような熱心に関わっているのです。彼はまた、これらすべての富は、自分自身の功績を通してのみ成し遂げられるとする誤った考え方に対して語っているのです。彼の言わんとしている要点は、このような考えに基づく人間のすべての業は空しいこと、正確には、その富の上に死という烙印が捺されている呪いの故、空しいのだということなのです。労苦したり人生を楽しんだりすることの唯一の骨折りとその合法性とは、創造者でいます神の賜物の範ちゅうにだけ存在しているのです。 5章の結論を述べている節(5の17~19)の中で、「コヘレトの言葉」はまさしく、私たちをこの見解の中へと導きます。創造の物語の中での「良い」(「トーブ」)、及び「与える」(「ナタン」)が、両方とも、「コヘレトの言葉」の5章の結びの部分に数回出てきます。「神に与えられた〔ナタン〕短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足すること〔トーブ〕こそ、幸福で良い〔トーブ〕ことだ。神からの財産や富や財宝をいただいた〔ナタン〕人は皆、それを享受し⑩……その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物〔マッタト〕なのだ」(5の17、18)。「コヘレトの言葉」は、すべてのこの飲み食いの楽しみ、すべての労苦、そしてすべてのこの富は、まさに良いことなのだ。なぜなら、創造時に関連して考えてみる時に、それらすべては、神よりの贈り物であるからだと、繰り返し強調するのです。この楽しみは、ただ受けた楽しみであるが故に、可能なのであり、私たち自身の業の結果なのではありません。このような仕組みの外側では、私たちは呪いの下にあり、実質的には、死と闇の内にあるのです。そして、「コヘレトの言葉」は、このような状況を「へべル」、すなわち「空しい」と言うのです。
参考文献
① 「コヘレトの言葉」の第4章と第5章は、諸訳で節の表示が、1節ずれていることがあるので注意を要する。新共同訳や講談社刊の聖書では、ヘブル語聖書の表記に倣い、4章は16節で終るのではなく、17節まであり、口語訳その他の日本語訳やNKJV等では、伝統的に、その節が5の1となっていて、以下、共同訳等の例えば5の1は他訳では5の2となっている。訳者注。
② Lichtheim, vol. 1, 116を参照のこと。
③ 口語訳の5の7を参照のこと。ヘブル語原文では、「夢」と「空しさ」とが関連づけられている。直訳では、「夢が多ければもろもろの空しさと言葉数も共に多くなる」。訳者注。
④ 贖罪日の儀式の始まりで、「コル ニドレ」(「私たちのすべての誓約」)の祈りが唱えられる。それは、神の御前で為されたすべての誓約、すなわちその年度の内に為されたあらゆる種類の誓い、たとえそれが無意識の内にであろうと、うっかりあわてて為されたものであろうと、そしてそれゆえに果たしえなかったものでもあるが、それらすべてが、無効で、ご破算にされたことを宣言する祈りである。
⑤ 出エジプト記20の5、6を参照せよ。そこでは、神の正義が「三、四代までにも」影響を及ぼすことが言われており、しかし他方、神の慈愛は「幾千代にも及ぶ」。マタイ18の21~23と比較せよ。また、この件に関するタルムードでの、神の祈りを参照せよ、「ラビ・ズートラは言います。『神の祈りとは何か?』『おそらくは、それはわたしの慈悲がわたしの怒りを抑え、わたしの愛の資質が、私の厳しすぎる性向を無効にし、そのようにして、母の愛の資質でわたしの子供たちを扱い、そしてわたしは常に律法の文字が要求するものよりも遥かに超えたところで彼らを遇して来ているようなわたしの生活態度のようなものであるかもしれない』」(バビロニアン・タルムード、ベラホート 7a)。
⑥ 新英語欽定訳(NKJV)の5の9を参照。ただし、日本語の口語訳も新共同訳もこのような訳文とは異なる。訳者注。
⑦ Miqraot Gdolothを参照せよ。イブン・エズラの次の言葉とも比較して見よ。 “even the king, who has no superior, is subject to the field for its maintenance, for he subsisits thereby”(「王でさえ、決して優越者ではなく、土地を維持するために土地に従う。なぜなら、それによって彼は暮らして行けるのであるから」)。
⑧ 12節でも原文には「すべてのものへ」という語があり、新共同訳での「いかなるもの」が、原文のそれに相当する訳である。訳者注。
⑨ ヘブル語の「テブア」は新英語欽定訳(NKJV)では、「増加」と訳出されており、それは土地からの「収益」を意味している。レビ記23の39とヨシュア記5の12を参照のこと。
⑩ ヘブル語では「ナタン」以外の言葉が用いられている。
この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。