信仰を解き明かす
「だからどうだというのでしょうか」。この問いかけは、いつでも神学における重要な問いかけです。神学的専門用語が語られたところで、実際生活の中にいったいどんな違いが生じるというのでしょうか。ローマの信徒への手紙5章においてパウロは、「だからどうだというのでしょうか」と読者に問いかけるため、しばし立ち止まります。パウロは、私たちが信仰によって義とされると述べてきましたが、それによってどんな違いが生じるのでしょうか。私たちは信仰によって義とされている。だからどうだというのでしょうか。
パウロは牧師でした。彼は理論上の沈思黙考それ自体に関心があったのではなく、日常の実生活に関心を寄せていたのです。そういうわけで彼は、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから……」という言葉を用いて5章を始めています。この後には、彼があらましを述べたばかりの救いの賜物を経験することの意味について、すばらしい説明が続いています。言い換えると、「だからどうだというのでしょうか」という問いに、パウロが答えているのです。
第一に、義認を経験するというのは、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和」(ローマ5章1節)を得ることだ、とパウロは言います。彼は、ローマの信徒への手紙において「平和」という言葉を11回用いています。彼の時代、この語は広い意味で使用されていて、戦争がないことにとどまらず、諸々に関して幸福な状態を意味していました。神と平和な関係にあるというのは、神と正しい関係にあるということ、神と心地よく一緒にいられるということ、神を怖がらずに生活できるということです。言うまでもなく、これが義というもの、すなわち、正しい関係にあることなのです。
パウロは、神が私たちと反目しておられるというようなことを、一切ほのめかしていません。パウロが「神の怒り」でさえ、神が目をつぶっておられるもの、私たちの選びに委ねておられるものとして見ているということを、思い出してください。パウロの論点は、私たちがかつて神に敵対して生きていた、すわわち、神を怖がり、しかも神に敵意を抱きつつ生きていた、ということです。今や私たちは神との平和を得ており、私たちへの神の恵み深い愛を知っています。
第二に、義とされている私たちは、新しい環境の中で生活を送ります。二節においてパウロは、「今の恵みに……導き入れられ」ていると語っています。恵みとは、神が私たちを受け入れてくださる霊妙なる業であり、この恵みが、私たちが生活し、呼吸をしている大気を生み出すのです。
現在、執筆中の私は南カリフォルニアにいます。過去数週間、周囲で火災でも起きているかのように、煙がたちこめる環境の中に住んでいるのです。目や肺にとって理想的な環境ではありません。私たちは澄み切った空気の中で呼吸することを切望しているのです。恵みは、霊的な生活のための理想的で澄み切った雰囲気をかもし出します。この恵みという空気を胸いっぱいに吸い込む時、私たちは喜びと自由を謳歌できる人生を歩めます。それは、まったく新しい世界に立つようなことです。
義認の経験の三番目の実際的な結果は、驚くべきものです。新国際訳を含む多くの英訳聖書がそれを隠しているのは、不思議でなりません。信仰によって義とされる人たちは、なんと誇るのです! パウロがわずか2章前で、信仰はすべての誇りを取り除く(ローマ3章27節)と言っているので、驚かざるをえません。そのパウロがここでは、信仰によって義とされる者は誇る、と言っています。
そこに一貫性のなさを見る多くの翻訳者は、「誇る」という言葉の代わりに「喜ぶ」という言葉を使用しています。しかし、「誇る」という語が、パウロが用いたギリシア語の最善の訳語です。パウロが「喜ぶ」という意味の語を使用する時は、別のギリシア語を用いました。パウロはこの箇所であえて「誇る」という言葉を選んだのです。この単語が「喜ぶ」と訳されると、読み手は3章27節とのつながりを見失ってしまいます。パウロは同じ言葉を意図的に3章と5章で使用したのです。パウロがそれを用いたのは、一貫性をなくすためではなく、私たちの古い状況と私たちが生きているこの新しい環境との対比を強調するためだったのです。
3章の取り除かれる誇りとは、救いを自分の手柄にするような、自分の善行を自画自賛するようなたぐいの誇りです。他方、5章でパウロが認め、実際には称賛している誇りは、焦点がまったく異なります。それは神にある誇りです。この誇りは、神と、神が私たちのためになしてくださったことへの熱列な賛美であり、この世的な見地から見て物事がうまくいっていない時でさえ、私たちを誇らせるものなのです。パウロは5章で、「誇る」という言葉を三度使用しています。
*2節 「(わたしたちは)神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」
*3節 「(わたしたちは)苦難をも誇りとします」
*11節 「わたしたちは神を誇りとしています」
私たちは神を誇りとし、神の栄光にあずかる確かな望みを誇りにしているので、苦難でさえも誇りとすることができると、パウロは言っています。私たちは苦難を楽しんだり、苦難を選び取ったりするわけではありませんが、次のことも知っています。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない」(ローマ5章3~5節/口語訳)。
パウロが、希望は「失望に終ること」がないとつけ加えて言う時、「失望に終る」と翻訳された原語は、英語の訳語(disappoint)が示しているよりも強い意味を持っています。パウロの使っている原語は、「希望が私たちに恥をかかせることはない」という意味なのです。[訳者註/新共同訳では、「希望はわたしたちを欺くことがありません」]パウロが住んでいた世界では、恥と名誉が重要な概念となっていました。私たちの個人主義的な社会では、他の人たちがどう考えるかを気にかけることもなく、自分の好きなようにする傾向があります。しかしながら、共同体指向が強い一世紀の社会では、共同体があなたを見て恥を感じることほど、みっともないことはありませんでした。あたかも、誰も彼もが恥という仮面をつけて、お互いを見合うような社会だったのです。希望は恥をかかせないと、パウロは言っています。希望はむしろ信頼をもたらします。こうして恥と名誉という通常の概念がひっくり返ります。パウロの時代の人々は、自分の功績を誇りとすることで恥をかくことがない、と考えていました。しかしパウロは、恥をかかない唯一の方法は神を誇り、神に望みを抱くことである、と言っているのです。
神との平和、恵みに満ちた環境、望みを抱いて生きているので何が起ころうとも神を誇りとすること、これらすべては、信仰による義の経験についての「だからどうだというのでしょうか」という問いに対する答えなのです。けれども、その答えはさらに明解になります。パウロは続けて、神がキリストにあって私たちにしてくださったことを要約しています。
聖霊によって、神は神の愛を私たちに注いでくださった(5章5節)のです。次の三つの節(6~8節)において、この愛が私たちのためのキリストの死に表されていることを、パウロは強調しています。イエスは定められた時に死なれました。「時」を表すのに、パウロは二つの言葉を意のままに使い分けています。一つは単純に「時計が刻む時」であり、もう一つは時の質を表すものです。パウロはここでは二番目の意味の言葉、「時宜を得た時」を使っています。
人間がなしてきたいかなることとも無関係に、神のご意思においてキリストは死なれました。パウロは人間の無力さを強調するために、これら三つの節の中で三つの言葉を用いています。私たちが「弱(く)」、「不信心」で、「罪人であったとき」、キリストは死なれたと、パウロは言っています。言い換えると、私たちの心が混乱していて、あまりにも弱く、その状態を自分で変えることのできなかった時、ということです。
パウロはこの弱さを、宇宙的なレベルと個人的なレベルで理解させようとしています。この世は罪に満ちており、キリストはこの世と全人類のために亡くなられました。しかしキリストは、私たちめいめいのためにも死んでくださったのです。しかも私たちが弱く、罪人であった時に。この行為は、通常の人間の行為とは本質的に相反するものです。私たち人間は、罪人はおろか、正しい人のためにさえ死のうとしません。それでも、善い人(たぶん魅力的でカリスマ性のある人)のためなら死ぬことがあるかもしれない、とパウロは言います(7節)。しかし、「わたしたちがまだ罪人であったとき……わたしたちのために死んでくださった」キリストの比類なき行為の中に、福音全体が要約されているのです(8節)。
なおさら
15世紀のスペインにおいて、ジブラルタル海峡を象徴するヘラクレスの柱を描いた硬貨が登場しました。「それ以上のものはなく(No more beyond)」という文字が刻まれていたその硬貨は、コロンブスや他の探検家のおかげで、珍しい物ではなくなりました。1537年頃、同じ絵模様の別の硬貨が出回りましたが、そこに刻まれている文字は、「はるかにそれ以上(Much more beyond)」というものでした。
ローマの信徒の手紙5章において、パウロは、恵みによる救いの結果として生じる「なおさら(much more)[はるかにそれ以上のもの]」を挙げています。パウロはこの表現を4回用いています。最初の2回では、現在の良い経験と将来のさらに大きな約束とが対比され、後の2回では、アダムから受け継いだ悪しき過去の遺産とキリストにある私たちの可能性に対する良い約束とが対比されています。これらの対比は以下の図の通りです。
節 | 現在 | 将来 |
9 | 今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、 | キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 |
10 | 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、 | 和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 |
アダム | キリスト | |
15 | 一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、 | なおさら、神の恵みと一の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 |
17 | 一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、 | なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。 |
9節と10節の最初の2つの対比には、パウロの救済観と終末観についての重要な要素が含まれています。パウロにとって、イエスの再臨は、将来に期待する出来事ではなく、現在神から与えられているものを根拠として確約され、保証されているものなのです。私たちの現在の救いの経験は、すでに、私たちが希望するすべてのことの頭金となっています。既に義とされ、神との平和を経験しているのであれば、神が私たちを永遠に救いたもうことを私たちは知っています。私たちがまだ敵であった時でさえ、キリストを通して私たちを和解へと導かれるほど神は私たちを愛してくださっているのなら、友であられる今は、救いをもっと確信できるでしょう。私たちが享受している現在の喜びは、私たちの将来の希望を確かなものにするのです。
この和解の主体となる、和解の行動を起こされたお方は神であることに留意してください。私たち自身から神と和解することは不可能でした。神が私たちを愛し受け入れてくださるのです。八節に明らかなように、キリストが私たち罪人のために死んでくださった時、私たちに神の愛を証明してくださったのは神御自身です。神が主体なのです。神が最初から私たちを愛してくださり、キリストにあって私たちを救うために働いておられます。パウロはコリントの信徒への手紙二・5章19節においても、「神はキリストによって世を御自分と和解させた」と言っています。
キリスト教会に根強く残存する古くからの異説があります。どういうわけか、私たちは神を残酷で厳しい父親、すなわち、イエスが「人間を裁かないで愛してください」とお願いしなければならないような父親のように見る傾向があるのです。しかしそれは、イエスの中保が意味していることではありません。イエスは、私たちへの神の想いを変える必要はないのです。神は最初から私たちを愛しておられ、キリストにあってこの世を御自身に和解させておられるお方です。しかしそれでも、安息日学校の分級の時間に、子どもたちに父なる神とイエスの絵を描いてもらうと、たいていイエスの絵のほうがずっと親しみやすい感じを与えます。父なる神がイエスと同じほどに私たちを愛しておられるということを、何とかして私たちは伝える必要があります。
このような和解の概念は、4章で注目したリストに加えるべき別の隠喩です。救いの経験は、裁判官によって無罪放免とされること、奴隷状態から自由になること、神殿の犠牲を通して赦されることのみならず、大使の執り成しを通して敵と和解すること、そのような経験なのです。
アダムとキリスト
アメリカの文化の中で人間について考える時、私たちは自律的な人間をまず思い浮かべます。人間は個々人の集団からなっていて、人間の基本単位は個人です。しかし聖書の時代、人々が人間について考える時、彼らは集団とか共同体を思い浮かべました。確かに集団は個人からなっていましたが、人間の基本単位は共同体だったのです。この違いが、ローマの信徒への手紙5章12節でパウロが始める比喩を支えているのです。
パウロは人間を、アダムかキリストにつながる共同体、あるいは団体と見ています。私たちは生来、アダムの種族に属し、アダムの特徴を備えた罪人の共同体の中にいます。しかし私たちがキリストを受け入れる時、キリストの特徴を持った新しい共同体に属するのです。これらの二つの共同体には、大きな違いがあります。
現代のスポーツ・チームへの忠誠について考えるならば、たぶんもっとよく理解できるかもしれません。野球といえば、私はドジャーズのファンです。同僚の若い牧師はエンジェルスのファンです。ドジャーズ対エンジェルス戦を見に行く時、私たちの差異は明瞭です。ドジャーズのファンは青を身にまとい、エンジェルスのファンは赤を身にまといます。私たちはそれぞれ別の時間に声援を送るので、容易に違いがわかります。
アダムの系図に生きている人々とキリストにあって生きている人々も、容易に違いがわかります。パウロは以下のような違いを列挙しています。
節 | アダムを通して | キリストを通して |
12、15 | 彼によって罪が入り、その罪によって多くの人が死んだ。 | 彼を通して神の恵みが注がれる。 |
16 | 彼を通して有罪の判決が下される。 | 彼を通して無罪の判決が下される。 |
17 | 彼を通して死が支配した。 | 彼を通して生き、支配する。 |
18 | 彼の罪によってすべての人に有罪の判決が下された。 | 彼の正しい行為によってすべての人が命を得る。 |
19 | 彼の不従順によって多くの人が罪人とされた。 | 彼の従順によって多くの人が正しい者とされる。 |
パウロは「多くの人」と言っていますが、これは「すべての人」という意味です。私たちは皆、罪人としてアダムに結びついているか、信仰の民としてキリストに結びついているか、そのどちらかです。一方の共同体に属することは死を意味し、もう一方の共同体に属することは命を意味します。アダムにおいて支配的なものは死であり、死は私たちから最善のものを奪い去ります。しかし、キリストにおける事実上の支配者はであり、私たちの希望は失望に終わることがないと確信して、神の恵みの環境の中に住むことができます。パウロは既に、私たちがアダムにある生き方からキリストにある生き方へ、どのように移るかについて述べましたが、それを可能にするのは信仰なのです。
原罪
ローマの信徒への手紙5章全体で繰り返されている議論の一つは、原罪の概念です。私たちが罪人であるのは、私たちが罪を犯すからなのでしょうか。それとも、アダムの罪を受け継いでいるからなのでしょうか。ここでその疑問に答えることが、パウロの意図していることではありません。にもかかわらず、神学者たちはこの疑問に答えるため、五章を利用しようとしてきました。論争の多くは五章一二節の訳を中心としてなされてきました。パウロがこの手紙を記しているギリシア語では、この節の最後の句が「前置詞+代名詞」で始まっており、それは文字通り、「そこにおいて」とか「その人において」という意味です。教父アウグスティヌス(354~430年)の時代以来、ある人たちは、「アダムにおいて罪を犯してきた」という意味にとってきました。したがって彼らは、アダムからすべての彼の子孫にいたるまで原罪が続いている、と主張します。アダムが罪を犯したので、私たちは皆、罪人なのだ。私たちはアダムから遺産として罪を受け継ぐので、罪人として生まれてくるのだ、というわけです。
ほとんどすべての現代の翻訳者を含む他の人たちは、この「前置詞+代名詞」を「ゆえに」という意味にとっています。この読み方だと、アダム「において」ではなく、私たちが罪を犯した「ゆえに」罪人なのだ、ということになります。パウロはこの特別な「前置詞+代名詞」の構文を少なくとも三回、他の箇所で用いており(二コリント5章4節、フィリピ3章12節、4章13節)、いずれの箇所でも意味は「ゆえに」です。おそらくここでも同様に訳すべきでしょう。
しかしこれでは、どのように私たちが罪人になるのか、という質問には答えていません。生まれてくる時は純粋であり、その後、律法を破って初めて罪人になるということでしょうか。あるいは、最初に律法を破る前から、生来罪人なのでしょうか。パウロはそれについては説明しないで、私たちが神の恵みによってとらえられ、神を信頼するまで、私たちを罪人という範疇の中に入れるのです。
幼子たちが高慢、利己主義、わがままをあらわにするまでに、長い時間はかかりません。こういったものが罪でないとしても、まもなくそれは罪へと開花します。この夏、最年少の孫の中にこれを目撃しました。私たち夫婦は、娘とその夫である義理の息子、孫二人と一緒に、メキシコのユカタン半島で休暇を過ごしていました。それは猛暑の日で、私たちはトゥルムにあるマヤ遺跡を訪れてから、涼むために浜辺へ降りて来ていました。砂まみれでよごれていた一歳半になる孫のコンランは、おなかをすかしていました。この子の父親がグラノーラの棒菓子を取り出し、割って言いました。「お口をあーんと開けて。砂がついているお手てでは、さわれないからね」。ところが、父親が口に入れてやろうとした時、コンランは抵抗し始めました。自分で口に入れたがっているのは明らかでした。結局、父親はコンランを抱きかかえ、その口にグラノーラを入れました。けれども父親が数歩離れたところで、コンランはよごれた、砂だらけの手でグラノーラを口から取り出し、父親に向けてそれを見せびらかし、「やったじょー!」と言わんばかりに偉そうな笑みを浮かべました。それから、グラノーラの棒を口に押し戻し、食べてしまったのです。最後には勝たなければいけないと、私たちが考えるようになるまでに、さして年をへる必要はありません。あの子の態度は、私たち人間とはどういうものなのか、ということの核心を突いているように見えます。パウロにとって、それこそが「アダムにおいて」という意味なのです。
罪の問題はアダムと共に始まったと、パウロは信じていました。最初の人アダムは、神が与えられた具体的な戒めに違反しました。罪の結果は死です。罪が「アダムからモーセの間にも……支配しました」(ローマ5章14節)という事実は、神が律法を与える前でさえ、罪はこの世にあったということを示しています。神が律法をお与えになると、律法は罪の性質と範囲をあらわにしました。罪はすでに世界に満ち、害悪をもたらしていましたが、律法が罪を定義するまでは、罪を見る視点や罪についての理解は不明瞭でした。律法はこのようにして、罪を「増し加」(ローマ5章20節)えたのです[1]。しかしパウロは、アダムのもたらした罪が律法によって増し加わった時、「恵みはなおいっそうみちあふれました」(ローマ5章20節)と結論づけています。私たちはアダムと連帯して罪の指向性のある生活を送る必要はありません。キリストにおいてすべての人に与えられる神の恵みは、罪の問題をはるかにしのぐのです。
もし恵みが実際、どんな量の罪をもおおうことができるなら、恵みがなお一層増し加わるために、私たちはなぜ罪を犯し続けるべきではないのか、という問題が生じてきます。そういった考えには、ある種の論理的必然性があるようです。次において見るように、パウロはローマの信徒への手紙6章でこの問題を取り上げています。
罪に勝利する
避けることができないのは次の点です。わざによらず、神の恵みによって救われると教える者は誰でも、罪への態度が甘すぎるといって非難されるでしょう。パウロとて例外ではありませんでした。ローマの信徒への手紙3章を覚えていますか。そこでは、「パウロは罪を犯しても大丈夫だと教えている」と主張する敵対者がいることを、パウロが認めていました。敵対者はパウロの立場を以下のようにみなしていたのです。「神の恵みが私たちの罪を引き受けてくれるというのであれば、気楽に遊び暮らし、好き勝手に罪を犯すほうがましではないか。罪を犯せば犯すほど恵みが増し加わるのであれば、どんどん罪を犯したほうがいいではないか」
パウロは3章において、彼に対するこのような非難に言及していますが、それに対する解答は述べていません。パウロは、彼をこのように非難する者たちが罰を受けるのは当然だ、と言って水に流しています。「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です」(ローマ3章7、8節)。
しかし、その質問は答えるに価するものです。結局パウロは、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と言って五章を終えています。それでは、私たちは恵みが増すのであればいつまでも罪を犯し続けてもかまわないのだ、という論理的帰結を持ち込んでもいいのでしょうか。
パウロは六章でこの質問に答えています。6章全体が罪と恵みについての基本的な問題に取り組んでいます。しかしパウロは二つの表現方法で質問し、二つの違った実例を用いて答えています。二つの質問は以下の通りです。
*1節 「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」
*15節 「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」
いずれの問いにおいても、パウロは「決してそうではない」と答えています。この表現は新約聖書で15回使用されていますが、1回を除いて全部パウロ書簡で記されているものです[2]。ローマの信徒への手紙では10回出てきます(3章4、6、31節、6章2、15節、7章7、13節、9章14節、11章1、11節)。パウロは仮想敵対者との論争においてこの表現を用いる傾向があります。パウロは、自分が信じていないことを明らかに示すためにこの強い否定的な言葉を用いています。彼は、クリスチャンが恵みのゆえに罪を犯し続けてもよい、とは思っていません。
彼はなぜそう思わないのでしょうか。その理由は以下の二つの実例で明らかになります。
最初の実例─バプテスマ
パウロは最初の実例としてバプテスマを用います。バプテスマを受けた時に身に起こったことを本当に理解しているなら、安易に罪を犯すことはできない、とパウロは論じています。バプテスマにおいて、私たちは古い生き方に死に、すなわち、罪に死に、新しい生き方によみがえりました。バプテスマはキリストと共に死に、葬られ、よみがえる経験です。クリスチャンが古い生き方に死んだのならば、古い生き方を続けることは考えられません。六節において、パウロはこの古い生き方を罪の奴隷と呼んでいます。パウロは六章の後半においてさらに詳述していますが、それを待つまでもなく、罪が罪人を奴隷にする力であるということはここで明らかです。
12節において、パウロは同じ考えを示すのに別の類推を用いています。パウロはクリスチャンたちに、自分の身を「罪に支配させ」ないようにしなさい、と伝えています。ここには臣下を支配する王のイメージがあります。罪が主人として私たちを奴隷にするにせよ、王として私たちを支配するにせよ、罪というのは神の律法を破る個々の決断以上のものである、とパウロが信じていることは明らかです。
罪の聖書的定義を考える場合、私たちは普通、「罪とは、法に背くこと」(一ヨハネ3章4節)という聖句を思い浮かべます。その表現から、罪とは律法を破る決断を時々することにすぎない、と思うかもしれません。しかしパウロにとって、罪はそれ以上のものです。罪は、私たちを支配し、神と良好な関係を持てないようにする力です。罪は私たちを、必然的に死に至る道へと押しやります。罪は、私たちが征服できない破壊的な力なのです。ローマの信徒への手紙7章を研究してわかることですが、この力は律法と密接に関連しています。罪は律法を巧みに利用して、私たちをどこまでも拘束していきます。罪の問題を解決することは、単により正しい決断をすることではありません。むしろ、死に至る生き方をさせようとする力の支配から抜け出すことなのです。
その意味で、罪はいつでも破壊的です。罪は関係や命そのものを破壊します。神が律法で禁じているすべてのことは破壊的です。しかし、罪のその破壊的な力が私たちを支配する時、私たちは自力で逃れることができません。罪に満ちた古い生き方から逃げ出す唯一の道は死ぬことだけです。私たちは霊的に調整すること以上のもの、つまり、死を必要とするのです。
そして私たちを支配し、破壊へと導くこの罪の力である死の力を終わらせることこそ、バプテスマの象徴なのです。それゆえ、パウロはこう言っています。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています」(ローマ6章6、7節)。
この箇所でパウロが実例としてバプテスマを用いていることに注目してください。彼の主題はバプテスマではなく、神の恵みのゆえに、罪を犯し続けるべきかどうかということです。バプテスマという実例から、罪を犯し続けるべきでないことがわかります。私たちのバプテスマは、私たちのためのイエスの死と復活を受け入れる経験です。バプテスマにおいて、私たちはキリストと共に死に葬られました。罪の力によって支配されていた古い生き方は消え去ったのです。今や罪の力から解放され、新しい命によみがえっています。この良い知らせを踏まえて、パウロは11節から14節においていくつか訓戒の言葉を与えています。
*あなたがたも自分は罪に対して死んでいる……と考えなさい。
*あなたがたも……神に対して生きているのだと考えなさい。
*あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて……はなりません。
*あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。
*自分自身を……神に献げなさい。
*五体を義のための道具として神に献げなさい。
これらの訓戒はみな、神の恵みの良き知らせを想定しています。信じる者はすでに罪に死んでいるので、これらに従うことができます。この訓戒を述べたあと、パウロは六章の前半部の終わりで次のように結びます。「罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(14節)。
このように、「律法の下ではなく、恵みの下にいる」というのは、望むままに罪を犯すという意味ではありません。まったく正反対です。罪はもはや私たちの主人ではないということです。私たちが生きている恵みの新しい環境の中では、神との平和を保たせず、兄弟姉妹と調和して生きられなくさせてきた罪の破壊的な力から解放されています。これは、クリスチャンが罪もなく、過ちを犯しもしない、ということではありません。もはや罪の破壊的な力が私たちの主人ではない、という意味です。
バプテスマは6章のこの前半部の実例であって、主題ではありませんが、パウロのこの実例の用い方からバプテスマについて多くを学べます。信じる者にとって、バプテスマがキリストと共に葬られ、よみがえることの象徴であるなら、沈めのバプテスマ(洗礼を受ける者が実際に水に漬かり、全身を水で覆われること)は、この経験の唯一適切な象徴ということになります。信じる者にとって、バプテスマがキリストの死と復活に自分を重ね合わせ、キリストと一つになることを選ぶ決断の象徴であるということも、パウロが言っていることから明らかです。バプテスマが選びや決断を表しているので、それにあずかる者は充分な年齢に達していて思慮深い決断ができる成熟さを必要とします。
バプテスマにおいて、私たちは完全にキリストと一体になっているので、実際上、二千年前に十字架で亡くなられたのはキリストだけでなく、私たちもキリストと共に死んだのです。罪に支配されていたかつての私たちは、もはや生きていません。バプテスマにおいて、私たちは復活の望みとも一体化しているので、罪と死のこの世に生きているにもかかわらず、既に罪の世の終わりを信じて生きています。こういうわけで私たちは、自分自身が罪に死んでいると考えることができ、キリストがただ一度すべての人のために罪に対して死に(10節)、よみがえり、もはや死ぬことがない(9節)ので、私たちはキリストと共に生きるであろうという確信を持つことができるのです。バプテスマに象徴される、キリストとの一体化というイメージは、新約聖書の中に見いだされるバプテスマの意味の神学的考察のための素材として、おそらく最も豊かなものでしょう。
二番目の実例─奴隷
6章の後半部において、パウロは前半部で提起した問題である奴隷について詳述しています。まずパウロは言葉を変えて、再度尋ねています。「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」(15節)。またもや、その答えは断固としたものです。「決してそうではない」。今回の理由は、罪を犯し続けることは罪の奴隷であることだ、というものです。パウロによれば、私たちはみな奴隷であり、罪の奴隷か、神の奴隷かの、どちらかなのです。彼は、私たちが奴隷でない可能性についてはいっさい考えていません。究極的に二つの選択しかないのです。いずれの奴隷を選ぶかということです。
このような着想は、現代に比べると、パウロの時代にはさほど意外ではなかったでしょう。ローマの人口のおよそ三分の一が奴隷だったからです。奴隷との関わり合いはごく日常的なことでした。ローマの教会の何人かは奴隷であったようです。手紙の結びの箇所で、「ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく」(ローマ16章11節)とパウロは挨拶していますが、これはおそらく奴隷について言っているのです。しかも、コリントでパウロがこの手紙を書いている時に、どうやら彼と一緒に奴隷たちがいたようなのです。この手紙を口述筆記した書記のテルティオ(16章22節)と、教会への挨拶を送っているクアルト(23節)は、その名前が奴隷の呼び方である「三号」「四号」を意味するので、おそらく奴隷であったと思われます。
パウロの時代、奴隷の処遇はピンからキリまでさまざまでした。ある奴隷は信頼される執事や養育係であり、他の奴隷は一番身分の低い状況に置かれていました。ローマの哲学者の一人セネカ(彼の兄弟ガリオンはアカイア州の地方総督で、コリントにおいてパウロは彼の前に出頭した[使徒言行録18章12~17節])が書いた道徳的な書簡の以下の抜粋から、哲学者たちが、奴隷は敬意をもって扱われるべきであること、また豪奢な生活をする富者によっていかに奴隷が虐待されているかを論じていたことがわかります。
貴殿から送られてきた者たちを通して、貴殿が奴隷諸君と友好的な関係にあることを知って満足至極である。これは貴殿のように分別ある教育を受けた人にふさわしいことである。人々は「彼らは奴隷だ」と言うが、いや彼らは人間である。「奴隷だ!」と言うが、いや同志である。「奴隷だ!」と言うが、いや彼らは慎み深い友だちである。なおかつ「奴隷だ!」と言うが、奴隷と自由人に平等に幸福が与えられる権利があると考えるならば、彼らは私たちの奴隷仲間なのである。[3]
私たちが宴会でもたれかかっている時、ある奴隷は吐き出された食物を掃除し、別の奴隷はテーブルの下でかがみ込み、ほろ酔い気分のお客の残飯を集める。別の奴隷はすばらしい狩猟鳥の彫刻を作る。熟練した正確な手さばきで、その胸部や臀部を少しずつ彫り刻む。肥えた雄鶏を正確に刻むためだけに生きている不運な奴隷は否応なくそれを学ぶだけであって、娯楽のためにこの工芸技術を教える他の奴隷よりもさらに不幸である。ブドウ酒を給仕する別の奴隷は、婦人の装いをして寄る年波をごまかさなくてはならない。彼は少年であることから逃れられず、少年であることへ引き戻されるのだ。すでに兵士のような体つきなのに、剃ったり、根こそぎ抜かれたりしてひげを生やさずにいる。夜中の間ずっと、まんじりともできず、主人の酔いと肉欲の相手をしなくてはならない。寝室では男であり、宴会では小姓である。……主人はこのような奴隷と食事を共にするなどとても我慢できない。主人は、同じ食卓で奴隷と交わることはこけんにかかわることだと考えるであろう。そんなことがあってはならない、と。[4]
パウロのメッセージを聞いた者が奴隷に詳しいからといって、誰一人奴隷になりたいとは思っていませんでした。しかしパウロは、私たちはみな奴隷であり、それを選択しなくてはならないと告げています。私たちが選ばなければならない奴隷とは、途方もなく異なるものです。最初の選択肢は、「死に至る」(ローマ6章16節)罪に仕える奴隷です。それは罪に関わるすべてのことであり、破壊的であり、人生を台なしにします。パウロにとって「罪が支払う報酬は死」(23節)です。ここで「報酬」と訳されているパウロの言葉は、元々、最も難しい仕事に与えられる最もおそまつな報酬のことを指し、戦時中、兵士に与えられる分け前を意味していました。普通の兵士には法外に支払われることはありませんでしたから、これ以上に厳しい仕事が他にあるでしょうか。このように、罪の奴隷になるというのは、命を賭けて働いて死を得るにすぎないということなのです。
もう一つの奴隷はまったく異なるものです。この奴隷に与えられる無償の「神の賜物は永遠の命」(23節)です。パウロは「報酬」と「賜物」を意味するいくつかの言葉を自由に使うことができましたが、ここで用いられている言葉はまったく無償の賜物です。ギリシア語の「恵み」を意味する語と同じ語根を持っており、この手紙の中でとても重要な概念です。奴隷として神に仕える見返りとして得るものは、結果的に永遠の命をもたらすまったく無償の賜物なのです。何という違いでしょうか。いったい誰が罪の奴隷のままでいたいと思うでしょうか。
さらにパウロは、私たちが恵みの下にある時、罪の生活を送っていない、と言っています。恵みを強調することは罪に甘くなることではありません。恵みの下にあるというのは、死に至らせる罪の破壊的な力から自由であることを意味するのです。
ある19世紀の自称詩人がこう書きました。「律法から解放され、何と嬉しい状況か。好きなように罪を犯すことができ、しかもなお罪を容赦していただけるのだ」。この詩人は完全に誤解していました。罪の真の性質とその破壊的な力を理解するなら、「罪に」とどまることに魅力はありえません。
現代的な実例
ここでのパウロの教えを理解するために、現代的な実例を用いてみたいと思います。結婚したばかりの二人のことを考えてみましょう。二人は愛し合い、相思相愛の仲です。ところがしばらくすると、夫がよそよそしくなってきたように見えます。妻は、夫の思いやりが欠けてきていることや、夫が大切な約束を忘れたり、頻繁に外出したりすることに気づきます。
ついに妻はとんでもない事実を知ります。夫は浮気をしていたのです。しかも単なる浮気ではありません。妻の親友と関係を持っていたのです。妻は自暴自棄になります。二人の親友から裏切られたのです。どうしたら二人を赦すことができるでしょうか。
当初、彼女は、赦すことはできないし、離婚しなければならない、と思いました。しばらく彼女と夫は別居していましたが、彼女は彼を心から愛していたのです。そこで、彼女は深く苦しんだのち、彼が愛を誓いなおし、家庭を再建したいかどうか尋ねます。容易なことではありません。心が深く傷ついているのですから。しかし彼が前向きな返事をしたので、彼女は約束しました。能力の限りをつくして彼を完全に赦し、浮気がなかったかのように振る舞う、と。こうして、彼らは元の関係に戻ったのです。
その夫が、今こう言ったとしましょう。「これはすばらしい! 妻が赦してくれるものとわかっていたんだ。だから、浮気の限りをつくしても赦され続けるだろう。さあ、大いに楽しむぞ!」すると、あなたはおそらくこう言うでしょう。「こいつは何もわかっていない。奥さんが赦そうとした気持ちは、そんなにたやすいものではなかったのに。この男が与えた傷は深く、浮気によって二人の関係は壊れてしまったのだ。それなのになぜ、同じ痛みと破壊を引き起こしたがるのだろうか」
これが私たちの状況です。私たちは自分自身の中にある破壊的な力、パウロが「罪」と呼ぶ力の奴隷であり続けています。神は私たちを赦し、私たちが神と新たにうまくやっていけるよう、無尽蔵の犠牲を払われました。神はご自分の子を私たちに与えてくださったのです。神が恵み深いので私たちは罪を犯し続けても当然だと言うならば、それは罪の破壊的な性質を誤解し、神がどんな犠牲を払って無償の恵みを私たちにお与えになったかということをはき違えることになります。私たちは恵みの下にあるからと言って、罪を犯し続けていくのでしょうか。決してそうではありません!
この記事は、ジョン・ブラント(村山晴穂・訳)『信仰による従順──信じる者すべてに救いをもたらす神の力』からの抜粋です。