【ローマの信徒への手紙8章の解説】キリストにある自由の約束

目次

キリストにある自由の約束

約束について皮肉る言葉として、「いつも約束するだけじゃないか!」という言い草があります。皮肉る理由というのも充分あります。選挙演説からテレビのコマーシャルまで、信じられないとわかっている約束を耳にたこができるほど聞いています。いつか見た風刺漫画を思い出します。新しい大統領が選ばれてホワイトハウスに入ると、政権移行チームが新政府の準備を手助けします。しかしこの漫画では、この「政権移行チーム」が選挙公約をなし崩しにする集団なのです。

ローマの信徒への手紙8章は約束に満ちた章です。信じられないような、とてつもない約束ですが、信頼に値する約束です。7章では、罪、罪責感、死のサイクルのむなしさが襲ってきますが、8章では、勝利、自由、命、希望の約束が示され、それに圧倒されそうです。これらの約束を一つひとつ調べていきましょう。

罪に定められることのない約束

パウロの8章の冒頭の言葉は以下の通りです。「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(1、2節)。ここの「法則(law)」という用語は、「体系」とか「方式」という意味で用いられています。パウロは二つの異なる生活体系を対比しているのです。一つは罪と死の法則に閉じ込められている奴隷状態です。先の二章にわたって、この生活体系の輪郭を考えました。パウロは今ここで、対照的な体系、命をもたらす聖霊による自由の生活体系、を提示しています。この体系においては、罪に定められることがありません。八章では一連の約束によって、この新しい自由の生活体系の輪郭が示されています。約束について概観し終えるまでには、なぜキリスト・イエスにある人たちは罪に定められることがないのか、私たちは理解できることでしょう。

この約束は、「キリスト・イエスに結ばれている者」のためのものです。パウロにとってこれは、キリストの体の一部、すなわち、ユダヤ人と異邦人を包含するキリストの新しい共同体の一部になることを意味しています。パウロの関心事は単に個人の救いに留まらないということを思い出してください。義認というのは、個人がただ罪から解放されるということではありません。義認というのは、すべてを正しい状態に戻す神の方法なのです。修復を必要とする問題は、単なる個人の罪の問題ではなく、人間同士の、そして人間と神との間の、排他と疎外の問題なのです。神は、ユダヤ人も異邦人も、すべての人々が神との交わりに入る新しい共同体を創造したいと望んでおられるのです。

このことはすべて、神が聖霊をお遣わしになるので可能となります。たぶんこの時、パウロは頭の片隅にエゼキエルを思い浮かべていたことでしょう。エゼキエルはこのように書いています。「主なる神はこう言われる。……わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となり わたしはお前たちの神となる」(エゼキエル36章22、26~28節)。パウロはエゼキエルの大いなる約束をさらに広い範囲に適用しているのです。これは次の約束である神の霊の約束と関係してきます。

霊による命の約束

この第二の生活体系における基本的な相違は、内住する神の霊です。律法がなし得なかったこと、すなわち、私たちを救い、死から解放することをキリストは私たちの内や私たちの間に住まわれる聖霊をお遣わしになることによって成し遂げ、かつ、その業を継続しておられます。肉によらず、霊に従って生きる時、私たちの内に律法の要求することが成就する、とパウロは言っています(8章4節)。これは、クリスチャンには罪がないという意味ではなく、律法が真に要求していること、すなわち、神に信頼し、神に焦点を合わせた生活は、内在する聖霊の働きの結果である、という意味なのです。

この約束を理解するには、この章の前半部における「肉」と「霊」という言葉の継続的で重要な対比を理解する必要があります。この対比を見えにくくしているのは、近代の翻訳者が、パウロが使用している文字通り「肉」を意味するギリシア語を翻訳するために、「肉欲の」(’carnal’ 欽定訳八章七節)とか、「罪深い性質」(’the sinful nature’ 新国際訳)とかいった多くの異なる用語を使用しているからです。七章で注目したように、パウロは「肉」という言葉によって身体を意味しているのではなく、自己中心的で、罪の力によって支配されている人間の生き方を意味しているのです。

パウロは3節から13節までに、「肉」という言葉を13回使用しました。以下のチャートを見て、パウロが肉について言っていることに注目してください。「肉」にあって生きるとはいかなる意味なのか、よくわかるはずです。新標準改訂訳(New Revised Standard Version)だけが、一貫してギリシア語の「サルクス」を英語の「肉」(flesh)という語に訳していることに注目してください。新標準改訂訳を見れば、パウロがこの言葉を何回用いているか、一目瞭然です。

 ローマの信徒への手紙8章3節から13節における「肉」という用語

パウロの言っていること(口語訳)欽定訳新国際訳新標準改訂訳
3律法が肉により無力になっている 罪深い性質
3(神は)御子を、罪の肉の様でつかわし罪深い性質
3肉において罪を罰せられた罪深い性質
4肉によらず霊によって歩くわたしたち罪深い性質
5肉に従う者は罪深い性質
5肉のことを思い罪深い性質
6肉の思いは死である肉欲的に罪深い人
7肉の思いは神に敵する肉欲の罪深い思い
8肉にある者は、神を喜ばせることができない罪深い性質
9あなたがたは肉におるのではなく罪深い性質
12肉に従って生きる責任をそれ
12肉に対して負っているのではない罪深い性質
13もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はない罪深い性質

明らかに、肉に従って生きることは悪いことです。その生き方は神に敵対し、自己に頼り、死に向かっています。しかしパウロによると、神がキリストを罪の肉の様で生きるように遣わし、肉による生き方を滅ぼされたので、誰も肉に従って生きる必要はありません。今やキリストは聖霊を遣わし、生涯をキリストに明け渡すすべての人の内に生きるようにしてくださっています。なんという違いでしょう。霊にある命は肉にある命の反対です。

ローマの信徒への手紙8章2節から14節における「霊」という用語

以下のチャートを見ると、2節から14節までにパウロが「霊」という語を13回使用していることがわかります。霊の命がもたらす差異に注目してください。

パウロの言っていること(口語訳)
2いのちの御霊の法則は、……あなたを解放した
4霊によって歩くわたしたち
5霊に従う者は
5霊のことを思うからである
6霊の思いは、いのちと平安とである
9神の御霊があなたがたの内に宿っているなら
9あなたがたは……霊におるのである
9キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない
10霊は……生きているのである
11イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っている
11あなたがたの内に宿っている御霊によって
13霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう
14すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である

クリスチャンの中に生きる聖霊を神が遣わし、新しい違った生き方、自由と希望の生涯を導き、指示してくださることしか、クリスチャン生活を可能にさせるものはありません。これこそ、クリスチャンを罪に定めることなく生かす大いなる約束の一つなのです。

神の子としての養子縁組の約束

パウロは、聖霊が私たちを神の子、神の世継ぎにすると言っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」(ローマ8章15~17節)。

これは、神がキリストにあって私たちのためになされたことを示すために、パウロがローマの信徒への手紙において用いている多くの隠喩の中の一つです。私たちは神御自身の養子とされました。実際、神を「アッバ」と呼ぶ特権を与えられています。このアラム語は幼子が父親に呼びかける時に用いる語で、親しみのこもった「お父さん」という意味です。いずこの親もみな、我が子に自分を認めさせ、名前を呼ばせたいと思っており、そのため、ほとんどすべての言語には、「ダーダ」とか「パパ」といった、実の名前に代わる単純な音の呼び方があります。「アッバ」もそのような言葉です。普通、この言葉は神に話しかけるのに用いられることはありませんでした。しかしマルコによる福音書14章35、36節によると、イエスは亡くなる直前の夜、園における決定的な瞬間にその語を用いられました。「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』」

神が私たちを子としてくださり、神の家に連れていってくださり、世継ぎとしてくださったのですから、今や私たちも親しみをこめて神に話しかける特権が与えられている、とパウロは言います。私たちが神の家族に受け入れられた神御自身の子であるなら、罪に定められることがないのは明々白々です。

ラビ文学にはこの約束と著しい違いがあります。

出エジプトがなぜ個々の戒めとの関連で言及されるのであろうか。その問題は、友人の息子が捕虜になっていた、王にたとえられる。その王は身の代金を払ってその若者を息子としてではなく、奴隷として身受けした。それゆえ、若者が王に従わない時はいつでも、「お前はわしの奴隷である」と王は言うことができた。そこで若者が戻ってくると、王はこう言った。「わしにサンダルを履かせ、わしの衣を浴場へ持ってまいれ」。するとその若者が不服を言った。王は売り渡し証書を取り出して、「お前はわしの奴隷である」と言った。そのように、神が友人アブラハムの子らを贖った時、神は彼らを子供としてではなく、奴隷として贖ったのである。それゆえ、神が法令を押しつけ、彼らが従わない場合、神はこう言われるであろう。「お前はわたしの奴隷である」

この陳述とは対照的に、私たちは奴隷ではなく子である、とパウロは明言しています。私たちが神御自身の家族に受け入れられるのであれば、その約束は、個人の救いに留まらず、ユダヤ人も異邦人もキリストにあって一つとなり、私たちが神の家族の一員である新しい現実をも指し示していることになります。

地上の苦しみよりはるかに優れた将来の約束

ローマの信徒への手紙8章18節において、パウロはこう言っています。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」。さらに彼は、神が最終的な啓示をもたらされるのを待つ間、人間だけでなく、被造物全体が苦しみにうめいていることを強調しています。目下のところ、私たちが世継ぎとなるのは希望においてですが、それはゆくゆく現実のものになるという確信を抱いています。その時が来たなら、私たちは、自分たちの苦しみが受けるものに比べれば取るに足りないものだ、と考えるでしょう。このことはこの世の苦しみの恐ろしさを減らしはしません。誰であれ、ある日新聞を読み、この世の悪とそれが引き起こすものすごい苦しみにひるまずにいることはできません。しかし、現される栄光はこのような苦しみを上回るほど、はるかにすばらしいものなのです。

しかし現時点において、私たちは希望に安んじなければなりません。私たちは、パウロが「体が贖われること」(23節)と呼ぶ最終的な栄光をまだ見ていませんが、忍耐して待つことのできる確証を既に見ているものから得ることができます(25節)。 最後の日に私たちの体が変えられたり、復活させられたりする時、最終的な救いとなります。パウロは体のない存在についての知識を得ているわけではありません。最終的な希望というのは、私たちが体から抜け出るということではなく、神が私たちの体を贖ってくださり、それによって体が不死になるということです。この贖いと同時に起きるのが、朽ちることと死の終焉です。私たちは被造物であるので、私たちが贖われるためには、完全な死の終焉を必要とします。

このようにクリスチャンを被造物と結びつけることによって、パウロは私たちの住んでいる環境との連帯を示しています。環境も私たちも神が造られたものです。このことはクリスチャンに特別な環境保護意識を与えるはずです。私たちは環境と二重に、すなわち、創造と贖いによって結びついています。神は被造物を大切に思っておられ、私たちと共に被造物を贖われるでしょう。神が被造物を大切に思っておられるのであれば、どうして私たちが環境をぞんざいにできるでしょうか。

祈りにおける助けの約束

パウロによれば、私たちは祈る方法さえ知らないということですが、聖霊がこのことにおいても私たちを助けてくださいます。聖霊は、私たちが自分自身にとって最善のものを知っている時に祈るであろう祈りへと、私たちの祈りを変えてくださるのです。8章26、27節において、パウロはこのように言っています。「同様に、〝霊〟も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、〝霊〟自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、〝霊〟の思いが何であるかを知っておられます。〝霊〟は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」

覚えておくべきことは、私たちのための聖霊の執り成しは、私たちに対する神の御心を変えさせ、さもなければ神がなさらない何かを私たちのためにさせようとするものではない、ということです。私たちの内にお住みになる聖霊は、神御自身の霊です。私たちに対する神の態度は、神の霊の態度と違いはありません。神が私たちのお父様であるので、神は御自分の霊を通して私たちの内にお住まいになります。そして良き親として、私たちの願うものをお与えくださるだけでなく、気づいていない必要も含めて、私たちの必要に答えてくださるのです。

かつてラビが祈りに関する古いユダヤの話をしてくれたことがあります。ある人が神から離れ、世の道を歩み、礼拝することをやめてしまった。外で気楽に遊び戯れ、酔いしれたある夜のこと、翌日が、ユダヤ暦において最も聖なる日、最も大切な日、贖罪の日であるのを思い出した。男は奈落の世界に踏み込んでいるのを認め、悔い改めることにした。朝、ひどい二日酔いの中で目を覚ました時に、彼は悔い改めたいという自分の願いを思い出し、贖罪の日の悔い改めの祈りをすることにした。それは、私たちの教会でささげる随意な祈りと違い、暗記して繰り返す、書かれた典礼祈祷であった。ところが二日酔いのこの男は、思い出そうと頑張ってみたものの、その祈りを思い出すことができなかった。そこでついに、神に向かってこう言った。「主よ、私がどんなにみじめであるか、あなたはご存知です。あなたのもとに帰りたいと思いますが、祈りを思い出せません。それどころか、思い出せるものはアルファベットだけです。アルファベットを復誦します。どうか文字をうまく並べて正しい祈りに変えてください」。この男の祈りは他のどんな祈りよりも神に喜ばれた、とラビは言いました。この話はパウロのここでの論点と合致しているように思います。

神が私たちの益のために働かれるという約束

28節でパウロは、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」と言っています。神は前もって彼らのために救いを用意されておられるのです。 これは、神が悪を引き起こされる、という意味ではありません。しかし悪が発生する時、神は善のために働かれます。神はつねに悲劇を勝利に変えるお方です。

私たちは「超勝利者」であるという約束

この章での約束は、ますます良いものになっていきます。パウロは言います。

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。(ローマの信徒への手紙8章31~37節)

パウロは旧約聖書のイザヤ書50章7節から9節を念頭に置いて、これらの言葉を書いたようです。

主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。

論点は、神があなたがたの味方であるなら、誰があなたがたに敵対しようが問題ではない、ということです。そして私たちは、神が私たちの側におられることを知っています。なぜなら、神が私たちのために「御子をさえ惜しまずに死に渡された」(8章32節)からです。

パウロはイザヤの論点を取り上げ、神が私たちのために共にいてくださるということを確言しています。誰が私たちに敵対できるでしょうか。誰が私たちを訴えられるでしょうか。誰が私たちを罪に定められるでしょうか。キリストは私たちを罪にお定めになるでしょうか。もちろん、なさいません。キリストは私たちのために死なれ、神の右に座し、私たちのために執り成しをしてくださっているお方です。すべてこれは、キリストの愛から私たちを離すものは何もない、ということを意味しています。艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、私たちを離すことはありません。なかなかすごいことが列挙されています。しかし、37節においてパウロはさらに、「これらすべての事において勝ち得て余りがある」(口語訳)とさえ、言い切っています。

パウロが「勝ち得て余りがある」すなわち「勝利者以上である」と言う時、新約聖書でただ一回だけ出てくる言葉を使用しています。そのギリシア語の言葉は、「勝利」を表す「ニケー」の動詞「ニコー」と、「~を超えて、~以上の」を意味する語「ヒュペル」との複合語です。後者は英語で用いている「超えて」を意味するハイパー(hyper)に相当する語です。私たちは「超勝利者」あるいは「スーパー勝ち組」である、とパウロが言っているのは、私たちが他の誰よりも強く速いからではなく、サタンが私たちに投げつけるいかなるもの(死さえ)よりもキリストが強力であるからです。

「勝利」を意味する「ニケー」という語には、興味深い背景があります。パルテノン(アテネのアクロポリスの丘の上にある神殿で、守護女神アテーネーを祭る)のような大神殿とともに、勝利の女神ニケー(英語ではNike[ナイキ])を祭る小さな神殿が、アテネのアクロポリスに立っています。パウロはかつてこの神殿の陰で(使徒言行録17章)説教しました。ギリシア人が普段のスポーツ競技や戦争において勝利を願い求めたのが、この女神でした。

「ニケー」は、この女神がギリシア時代にそのような役割を演じていた、まさに同じ二つの舞台、すなわち、戦争とスポーツにおいて、固有名詞になっています。ナイキ・ミサイル(米国製の迎撃用地対空ミサイル)や、みなさんおなじみのナイキ・スポーツシューズがそれです。このように、私たちはキリストにあって勝利を確信している「超ナイキ」あるいは「スーパー・ウィナーズ」なのです。

何も私たちを神から引き離すことができないという約束

最後の、究極の約束は、全宇宙の中のいかなるもの、死であっても、神の愛から私たちを引き離すことができない、という約束です。パウロは言います。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章38、39節)。私たちが神の愛の力と永続性を過小評価することは簡単です。というのも、その真実さを疑ってしまうほど、あまりにも素晴らしいものに見えるからです。しかし、全宇宙の何物も神の愛ほど強力なものはありません。神が私たちを愛することを選択なさるので、何物もその愛から私たちを引き離すことはできません。

以上の約束のリストをもって、ローマの信徒への手紙の前半部分は終わっています。でも、ここで逃げ出さないでください。これまでのところで、パウロは言いたいことの地固めをしたにすぎません。彼がこれまでに述べてきたあらゆる良い知らせには、実生活における重要な意味が含まれており、彼は今からその意味を私たちに伝えようとしているのです。

参考文献

①  Siphre Numbers, Shelah 115:35a, quoted in C.K. Barrett, ed., The New Testament Background: Selected Documents (New York Harper and Row, 1961),152.

② 「忍耐」を表すギリシア語には、英語の’patience (忍耐)’に付随する不活発な意味合いがありません。忍耐して待つというのは、おとなしく待っているということではなく、むしろ緊張下にあって積極的に待ち構えることなのです。

③ パウロが、いかなる人も破滅するように運命づけられてはいない、と言っていることに注目してください。この話題については、ローマの信徒への手紙9章を学ぶ次章で、さらに多くの時間を割きます。

④ パウロはローマの信徒への手紙1章で用いた神の怒りに「私たちを渡された」という表現と同じ語をここで用いています。いうなれば、この手紙の冒頭で提起された罪と怒りの問題に対する答えがなぜイエスであるのかが、ここでわかります。

この記事は、ジョン・ブラント(村山晴穂・訳)『信仰による従順──信じる者すべてに救いをもたらす神の力』からの抜粋です。

ジョン・ブラント
米国カリフォルニア州グランドテラスのアザル・ヒルズ・セブンスデー・アドベンチスト教会牧師。ローマ・リンダ大学宗教学部教授。博士。

主な研究文献:
A Parable of Jesus as a Clue to Biblical Interpretation, in Adventism in America, ed.Gary Land, 1986.
Now and Not Yet, 1988.
Good news for Troubled Time, 1993.
Romans: Mercy for All, 1996. ジョージ・ナイト共著
Introducing the Bible, Vol.I, II, 1997. ダグラス・クラーク共著
Decisions: How to use Biblical Guidelines when making decisions, 1999.

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