ユダヤ人と異邦人のための贖い
息子を大切にしていると言っている父親を思い浮かべてみてください。父親は息子にありとあらゆる約束をし、その中には、ある日すべての持ち物が息子のものになるという約束も含まれています。愛しい息子が家を継ぐ者であると父親は言っています。ところがその後、明らかな理由もなく、父親は息子と縁を切り、まったく見知らぬ者を養子にし、家を継がせます。なんという父親でしょうか。確かに誠実な父親ではありません。移り気な父親というのでしょうか。過ぎたことに気を止めない父親というのでしょうか。いずれにせよ、誠実な父親とは呼べそうにありません。
どのような神が、ユダヤ人に対して、「私はあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる」と約束しておきながら、その後彼らに背を向け、代わりに異邦人を選ぶでしょうか。このような神は誠実な神でしょうか。あるいは、約束を破った神でしょうか。神は本当に神の民としてユダヤ人を選んだのでしょうか。もしそうであれば、福音が異邦人に伝えられるというパウロのメッセージは、神の誠実という点でどう解釈すべきでしょうか。パウロはローマの信徒への手紙3章の冒頭にて、一連の修辞疑問を用いてこの問題を提起していました。
では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
ローマ3章1~6節/新共同訳
いよいよパウロがこれらの問題について詳しく答える時です。何気なく読んでいっても、ローマの信徒への手紙の8章と9章との間にはテンポの違いがあります。ローマの信徒への手紙の実質的な内容は1章から8章までであって、9章以降はパウロの議論と関連してはいても重要でない付録のようなもの、と考える人が多くいます。しかし実際のところ、9章以降はこの手紙におけるパウロのメッセージにとって極めて重要な箇所なのです。パウロは、一人ひとりがどのように救われるかということについてだけ語っているのではありません。彼の関心事は、神のみ名がどう崇められるかということなのです。神は信頼に足る誠実な神でしょうか。そうでなければ、パウロのメッセージ全体が不毛ということになります。しかし、もし神がユダヤ人への約束をお破りになったとしたら、いかにして神は誠実で信頼に値する方であり得るでしょうか。神が約束に忠実であられないとしたら、ユダヤ人であることにどういう利益があるのでしょうか。また、神が誠実であられないとしたら、再び御心を変えられるとまずいので、異邦人は神への信頼を控えるべきではないでしょうか。
核心
ローマの信徒への手紙9章から11章は、パウロのメッセージにとって本質的な問題を扱うために注意深く書かれています。手紙のこの部分におけるパウロの議論は理解しやすいものではなく、それどころか、誤解されやすいものです。9章の各部は、神が恣意的で不当であると感じさせます。しかし私たちは、11章の終わりをざっと見ることなく9章に取りかかるべきではありません。議論の終わりを知らないと、危険な結論に飛びついてしまう可能性があります。それゆえ、本章はローマの信徒への手紙9章に関する内容を扱っていますが、まず11章をざっと見ておかなければなりません。
9章から11章におけるパウロの綿密な議論は、一つの中心的な主張をもって終わっています。神が歴史上、ある人たちを召し、他の人たちを斥けているように見えることにおいてどうなさったとしても、神は一つの目標を持っておられたし、今もそれを持ち続けておられる、という主張です。そしてその目標とは、すべての人をあわれみ、救うということなのです。11章32、33節にその鍵を見ることができます。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」
神が常に、何をなさる時にも持っておられた唯一の目標、それは、すべての者にあわれみ深くあることでした。言い換えれば、神はすべての人を救いたいと望んでおられるのです。この核心をなおざりにして9章を読むと、その論点をまったく見失うことになります。この核心を心に留めることによって私たちの読み方はすっかり変えられ、9章の難解な箇所の意味を理解できるようになるのです。それゆえ、たえずこの核心から目を離さずにいることで、私たちは9章に入ることができるわけです。
パウロの憂い
先に、パウロは牧師であると記しましたが、たぶんローマの信徒への手紙9章1節から5節ほどこのことを明示しているところはないでしょう。ここにおいてパウロは、魂の奥からほとばしり出る激しい、個人的な憂いを吐露しています。彼は、真実を語っていることと、その憂いが深い悲しみと絶え間ない痛みをもたらしていることを強調しています。この悲しみの原因は、その大半がメシアを受け入れていない同胞、イスラエルの現状なのです。
イスラエルが受けてきたあらゆる祝福を考えるとき、パウロにとってこのような現状を想像するのは難しいのです。彼が列挙した祝福のリストには、以下のものが含まれています。
*神の子としての身分
*シナイ山や数多くの顕現の場で、神が御自身を現された際に見た聖なる栄光
*アブラハムとの間に結ばれ、その後イスラエルに更新され続けた契約
*救済することはできないが恵み深い祝福である律法
*神殿での礼拝
*キリストにおいて最終的に成就する約束
*父祖たち
*「肉による」、つまり、人間の子孫としてのキリスト、救世主
これらすべての特権が与えられているのに、キリストの中にパウロが見ているものをイスラエルの誰もが見ることができなかったというのはどういうわけでしょう。
しかしパウロの態度は審判や有罪宣告の態度とは違います。むしろパウロは、イスラエルの同胞が救われるのであれば、自分はのろわれても(「永遠の罰に定められる」という意味の「アナセマ」という語)、キリストから離されてもよい、という願いを抱いています。同胞と連帯し、同胞を思いやるこのような精神は、イスラエルが金の子牛の像を拝んだ後に、次のように言ったモーセを思い起こさせます。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(出エジプト32章31、32節)。しかし、これらの二つの偉大な牧会上の告白には、一つ相違があります。モ─セが、民と共に消し去ってくれるように頼んでいる一方で、パウロは、民のために自分が切り離されることを願っているのです。パウロはイスラエルの民が失われることなど想像できないのです。彼らが救われるのであれば自分は消し去られてもかまわない、とパウロは思ったのでした。
神の自由な選び
9章の残りの部分には、パウロが旧約聖書から引用した出エジプト記33章19節の説明が載っています。モーセがシナイ山で神と会見した時、神の栄光を示してほしいと願いました。神の御顔を見てなおモーセが生きていることはできない、と神は言われましたが、モーセが要求したように、御自分の栄光を彼に見せてくださいました。その際の会話の中で、神はモーセに言われました。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」(ローマ9章15節:出エジプト記33章19節からの引用 RSV NIV 憐れみ’compassion’ 慈悲’mercy’)。言い換えると、神はお選びになること(もの)が何であっても自由にそうされる、ということです。神はお選びになったいかなる者にも慈悲深くあられるということです。もちろん私たちは11章にある核心を覚えている必要があります。神が選ばれるのは、すべての人を憐れむことです。しかし納得いく議論のために、パウロは神の誠実さを疑問視する人たちに話しかけています。彼らは、たいていのユダヤ人がメシアとしてのイエスを退けたという事実によって、神を不公平なお方だと見ています。神の約束はすべてのユダヤ人に果たされるべきであるというわけです。
パウロはそれに反論します。すべての文字通りのユダヤ人がイスラエルに与えられた約束の対象だったわけでは、決してありませんでした。旧約聖書は、神がある人をお選びになったり、ある人をお選びにならなかったりした例で満ち満ちています。神は自由なお方であり、望まれることを何でもおできになります。パウロは、神の自由さの例を聖書からいくつか提示しています。
イサクとイシマエル(ローマ9章6~9節)の例
アブラハムには息子が一人以上いても、約束を受け継いだ者はイサクと彼の子孫だけであった事実を、ユダヤ人は知っていました。このことは、血のつながったアブラハムの子孫全員がその約束に含まれていたわけではないことをはっきり示しています。7節には、「認められる」とか「見なされる」という意味の大切な語(訳者註/口語訳や新共同訳では「呼ばれる」)がありますが、これはパウロが四章で使用していた語です。4章においてアブラハムが義と「認められた」ように、イサクの聖なる継承権が神によって認められたがゆえに、イサクは約束の子だったのです。
ヤコブとエサウ(ローマ9章10~15節)の例
神は約束を受け継ぐ者として、長男ではないヤコブを選ばれました。神は、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とおっしゃいました。この論点はパウロの時代のユダヤ人にとって理解できることでした。ユダヤ人は、エドム人とかイドマヤ人とか呼ばれるエサウの子孫を愛することも、抱擁することもなく、同胞とは認めていなかったからです。
ファラオ(ローマ9章17節)の例
神は御自分の目的のためにファラオをお立てになり、神がファラオの心をかたくなにされました。このことから、神は誰でも御自分がお選びになった者を自由に立てられることがわかります。
ホセア(ローマ九章二五、二六節)の例
パウロはホセア書から文章を二つ(ホセア2章23節〈新共同訳は25節〉と1章10節〈新共同訳は2章1節〉)引用し、神の民でない者が神の民と呼ばれるであろう、という神の預言を示しています。神は誰をも自由に選び、神の民となさいます。
イザヤ(ローマ9章27~29節)の例
パウロはイザヤ書から文章を二つ(イザヤ10章22、23節と1章9節)引用し、おびただしい数のイスラエルの民がいても、残りの民だけが救われる、というイザヤの宣告を示しています。ここで示されているのも、すべての文字通りのイスラエルが約束の子ではない、ということです。神が残りの民を守り続けてくださらなければ、イスラエルは一人も救われなかったソドムとゴモラのようになってしまうだろう、ということです。
旧約聖書の以上の文章から明らかなように、神は自由なお方であって、約束を受け継がせたいと思う人たちをお選びになることができます。こういった例に不平をもらす人がいて、神の不誠実さを強調したいと思ったなら、どういうことになるでしょうか。パウロは次のように言って、彼らを切り捨てています。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」(ローマ9章20~21節)。
パウロのもう一つの論点は、これらすべてが人間の行動によるのではなく、神の選びによるのだ、ということです。パウロはこう言っています。「ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」(9章16節)。
11章の議論の核心を忘れるようなことがあれば、こういったことはすべて神の側の恣意と不公平から来ているように聞こえるでしょう。確かに、神は自由にお選びになりますが、実際にお選びになるものは、すべての人を救いたいという願いの中で、すべての人をあわれむことなのです。神は恣意的に気まぐれに振る舞う権利をお持ちである、とパウロは論じていますが、神はそのように行動されません。ここでの論点は、神は誠実なお方であるということです。それどころか、神は誠実以上のお方です。神は公平であることを超えて、むしろあわれみと恵みを基にして行動されます。
パウロは、もう一度イザヤ書から引用して──今度は8章14節と28章16節──9章の結論へと向かいます。これらの聖句において、イザヤはイスラエルに与えられるつまずきの石について語っているのですが、神に信頼する者はつまずくことがない、と言っています。パウロはこれをユダヤ人の拒絶と異邦人によるキリストの受容にあてはめ、以下のように言っています。
では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。
ローマ9章30~33節)
失望することがない(訳者註/原語及び著者が使用している新国際訳では「恥をかくことがない」という表現)者は、信頼する人たち、信仰を持つ人たちです。ローマの信徒による手紙10章と11章の残りの議論に進むと、このことがより明らかになってきます。
恵みによる選び
ローマの信徒への手紙9章から、神は恣意的であると結論したとしても、私たちがとがめられることはないかもしれません。そのような結論に至る可能性のある表現を以下に挙げてみました。
*13節 「神はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」
*15節 「神は……慈しもうと思う者を慈しむ」
*17節 「わたし(神)があなた(ファラオ)を立てた」
*18節 「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」
*20節 「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」
*21節 神は、粘土の器である私たちを意のままに用いられる焼き物師であられる。
*22節 「神は……怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれた」
*27節 「残りの者が救われる」
これはたいていの人が望まない神についての描写です。これらの陳述は、本書の最初で注目したように、パウロによって綿密に組み合わされた3章(ローマ9~11章)にわたる議論の核心に達する時にのみ、意味あるものとなります。全体の意図は、神は信頼すべき真実なお方であり、すべての人を救い、すべての人に憐れみをかけるご計画を立てておられる、ということを示すことです。ローマの信徒による手紙10章と11章を読み進む時、このことが明らかになってきます。
義を追い求める(ローマ10章1~3節)
9章と同じように10章の冒頭において、パウロは、自分の民、ユダヤ人への心からの関心を表明しています。しかし問題は、義を追い求めていった彼らが間違った方法でそれに取り組んだということです。彼らが誤解している主な点は二つありました。自分たちで義を手に入れられると考えたことが第一点、義は自分たちだけのものだと考えたことが第二点目です。
義について先に言ったこと、義は個人の救い以上のものであるということを思い出してください。この用語の背景は法的なものですが、パウロの時代の法律体系は現代のものとは違います。裁判官は出て行って、不正を正そうと努めました。ちょうどそのように、真の裁判官であられる神はすべてのことがらを正しい状態に復したいと願っておられます。神は、すべての人が互いに、かつ神と、調和して生きていくコミュニティーを創りあげたいと望んでおられます。神が望まれる義は、個人的なものというより社会的なもの、私的なものというより普遍的なものなのです。
ユダヤ人は神に対して熱心ではあるが、このことをわかっていない、とパウロは説いています。ユダヤ人の願いは、自分たちの義、私有財産として創り出した義を確立することである、とパウロは言っています。ユダヤ人が自分たちの考え方を拡大し、すべての人に与えられる神の義の広さ、深さを理解できるよう、パウロは努めているのです。
キリスト、律法の終わり(ローマ10章4節)
ローマの信徒への手紙10章4節においてパウロは、「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」(訳者注/新共同訳では「律法の目標」。口語訳と新改訳と詳訳聖書では「律法の終わり」という意味を使用)と伝えています。英語の「エンド」 (’end’「終わり」)という語に相当するギリシア語の「テロス」には異なる意味がいくつかあります。皿洗い器から皿を取り出す時、落としてこなごなになったら、私は「これで皿も終わりだ」と言うこともできますが、この場合の「終わり」は「崩壊」という意味です。でも、「新しい青年礼拝のチャペルのために(with the end in mind of)教会で献金を集めています」と言う場合もあります。この場合は、何かの「崩壊」ではなく、「目的」とか「目標」について話しているのです。それでは、キリストが律法の「エンド」であるとパウロが記した時、彼はどの意味を用いているのでしょうか。注解者たちはいくつかの可能性を提示しています。
1.キリストは律法に終止符を打たれる。律法は今や価値がなく、無関係のものである。
2.キリストは律法が目指す目標である。キリストは律法を成就なさる。
3.キリストは律法の誤解に終止符を打たれる。
パウロが一番を考えていなかったという証拠を求めるには、ローマの信徒への手紙6章から8章を再読すれば充分です。「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いもの」(7章12節)だということを思い出してください。パウロが「エンド」という言葉で意味したものは、おそらく二番と三番の意味を組み合わせてものでしょう。キリストは律法の目的、律法が指し示すお方です。そしてキリストは、ユダヤ人と異邦人を区別するものとして律法を見る排他主義者の律法観に、終止符を打たれます。ローマの信徒への手紙10章4節によると、神の目標は、キリストにあって、信じるすべての者に義をお与えになることです。もはや誰も義を私的な所有物と主張するために律法を用いることはできません。
聖書研究(ローマ10章5~21節)
ローマの信徒への手紙10章5節から21節において、パウロは旧約聖書から多くの言葉を引用しています。
*5節 「掟を守る人は掟によって生きる」(レビ記18章5節)。
*6~8節 「御言葉はあなたの近くにあり」(申命記30章12~14節)、遠くで探すものではありません。
*11節 「主を信じる者は、だれも失望することがない」(イザヤ28章16節)(訳者註/著者の英文を直訳すると「辱められることがない」)。
*13節 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル3章5節)
*15節 「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(イザヤ52章7節)。
*16節 「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」(イザヤ53章1節)。
*18節 「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」(詩編19編5節)。
*19節 神はイスラエルに対して「民でない者のことでねたみを」起こさせるでしょう(申命記32章21節)。
*20節 「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ(た)」(イザヤ65章1節)。
*21節 「わたしは、不従順で反抗する民に……手を差し伸べた」(イザヤ65章2節)。
今回の聖書研究の大事な点は何でしょうか。この手紙の朗読を聞いているユダヤ人の中には、救いがすべての人のためであるという思想に違和感を覚える人たちがいることをパウロは知っていました。そこで彼は旧約聖書に戻り、ユダヤ人の聖書において、神が、信頼するすべての者に心を開いておられ、すべての人は救われ、イスラエル以外の者たちにも御自分のメッセージをお伝えになり、イスラエルはこれまで不従順であった、と主張しておられることを、ユダヤ人に示したのです。要するにパウロは、ユダヤ人の聖書を用いて、最初の四節で言ったことは耳新しい話でも異端的な話でもない、聖書自体のメッセージである、と言っているわけです。神の目標はいつでもすべての人に義を与えることでした。それゆえ、神が異邦人に憐れみを施される時、不誠実ではあられないのです。ユダヤ人が本当に耳を傾けていたなら、神は彼ら以外の人々をも気にかけておられるのを承知していたことでしょう。神の御計画は、御自分の子どもたちから目を背けることはなく、彼らに初めからずっと示そうとされていたもっと包括(非排他)的な幻に忠実であることだったのです。
神の驚くべき御計画──すべての人への憐れみ(ローマ11章1~16節)
しかしながらユダヤ人の中には、彼らに対する侮辱としてパウロがこれまでに言ってきたことを聞き取っていた人もいたかもしれません。神が異邦人を含めるために働いておられるとするなら、それは神が約束された人々を退けることを意味するのではないでしょうか。神はイスラエルが「神の民」になると言われました。このような異邦人への働きかけは、神が御自分の民を退け、御自分の約束に不忠実であることを意味するのではないでしょうか。
「神は御自分の民を退けられたのであろうか」(1節)という問いかけをもってパウロは11章を始めています。またもやパウロの答えは、「決してそうではない」です。優秀な弁護士のように彼は二つの証拠を提出しています。
最初の証拠は、パウロ自身です。彼はユダヤ人であり、自分がベニヤミン族のユダヤ人であるとみなすことをやめていません。神がユダヤ人を退けられたのであれば、パウロも退けられていたでしょう。ところが彼はすべての者のための神の憐れみと恵みの良き知らせを説教しています。それゆえにパウロを見さえすれば、神がイスラエルを退けられたのではないことはわかるでしょう。
二番目の証拠は、旧約聖書のエリヤの物語からです。神の預言者としてエリヤは、自分が最後まで残った神に忠実な唯一の人間だという結論に達しましたが、神は彼に、バアルを礼拝しない者が7000人いる、と知らされました。イスラエルの大多数の者が神に背いていたにもかかわらず、神は忠実な民を残しておられたのです。パウロはこのことを、イスラエルの大多数が神のなさっておられることを理解できずにいた当時の状況になぞらえています。まだ忠実な残りの者がいるという事実は、神が御自分の民を退けられたのではないことを啓示している、とパウロは言い、彼らを「恵みによって選ばれた者」(5節)と呼んでいます。
ローマの信徒への手紙11章7節によると、神はイスラエルの他の者たちをかたくなにされました。困ったことにここでもまた、パウロは神を非常に恣意的なお方として描いています。しかし今や私たちは、神の究極の計画──神がまったく恣意的ではあられないことを示す計画──に関するパウロの提示に近づきつつあります。8節から10節において、パウロは旧約聖書の文章をいくつか引用して(申命記29章3節、イザヤ29章10節、詩編69編23、24節)、イスラエルが失敗してきたことを確認しています。ところが一一節においてパウロは、ユダヤ人は立ち直れないほど倒れてしまった、とは言っていません。さらに次の数節においてパウロは、神が用意しておられる驚くべき御計画を明らかにします。信用することも、信じることもできそうにないことですが、イスラエルの罪と福音の拒否によって異邦人に福音がもたらされ、異邦人が福音を受け入れることでユダヤ人はねたましい思いを持ち、そのねたみによって、ユダヤ人は福音を受け入るようになる、というのです。① すなわち他の言い方をすれば、ユダヤ人の「いいえ」が異邦人の「はい」につながり、ねたみを通して、ユダヤ人も「はい」と言うようになる、というわけです。
パウロは、自分が最初からずっとどこに向かっているのか、わかっていました。神が恣意的であるかのように思わせるすべての描写は、神は恣意的ではあられないことにつながっていたのです。神には御計画があり、神のなさるすべてのことは、その御計画につながっています。その御計画とは、すべての人を救うことです。神が道々何をなさろうとも、神の究極的な目標は、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、すべての人を憐れむことです。神はイスラエルに忠実であられると共に、異邦人にも忠実であられます。神はだれをも滅ぼしたいとは願っておられません。神の目標はすべての人を憐れむことなのです。
まるで嘘のようなできすぎた話です! パウロは、その結果をまさに終末論的なもの、死者の復活に匹敵するものとして見ています。パウロは11章15節の「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう」という言葉で、彼の驚きを端的に表現しています。
オリーブの木の寓話(ローマ11章17~24節)
2000年のキリスト教史において最大のスキャンダルの一つは、あるクリスチャンたちによるユダヤ人の虐待と迫害でした。クリスチャンがローマの信徒への手紙のこれらの数節を読んでさえいれば、すべてのクリスチャンがユダヤ人排斥者になるのを食い止められたことでしょう。
パウロは牧師としてこの手紙を書いていることを思い出してください。これら3章における彼の議論が容易でないため、読み手はそのことを忘れかねません。しかし彼の議論のすべてがローマの教会の現実問題に関係しています。パウロがこの手紙を書いている時、ローマの教会にいるほとんどの人は異邦人なのです。それはこの教会がローマの地に始まってからの変化で、当初は紛れもなくユダヤ人のクリスチャンだけから成る教会として始まったのでした。現在、教会内で多数派の異邦人のクリスチャンは、少数派のユダヤ人のクリスチャンをどのように扱うべきなのでしょうか。パウロはまたもや旧約聖書から引用し、教会でユダヤ人と異邦人が仲良くやっていく方法について明解なメッセージを送っています。
旧約聖書において、イスラエルはよく木にたとえられました。木の種類はさまざまです。樫の木(イザヤ61章3節)もあれば、杉の木(詩編92章13節)もあります。しかしエレミヤ書11章16、17節において、イスラエルはオリーブの木にたとえられています。エレミヤもパウロも、折られた枝に託してイスラエルの不忠実について話しているので、パウロはローマの信徒への手紙11章17節から24節までを書いている時、たぶん以下の文章を思い出していたと思います。
主はあなたを、美しい実の豊かになる緑のオリーブと呼ばれた。
エレミヤ11章16、17節
大いなる騒乱の物音がするとき火がそれを包み、その枝を損なう。
あなたを植えられた万軍の主は、あなたについて災いを宣言される。
それは、イスラエルの家とユダの家が悪を行い、
バアルに香をたいてわたしを怒らせたからだ。
パウロの寓話において、木の根はすべての枝を支える神です。自然に生えた枝はユダヤ人で、野生の枝は異邦人です。パウロは、ユダヤ人のある者たちによる福音の拒絶の結果をオリーブの木の枝を折り取ることにたとえています。福音を拒絶した人たちは折り取られ、オリーブの木に接ぎ木される野生の木のごとくクリスチャンになった異邦人に取って代わられました。しかし今やパウロは、接ぎ木された野生の枝である異邦人がうぬぼれてユダヤ人を見下げることのないよう、異邦人に警告しています。異邦人は接ぎ木されたことで自慢すべきではありません。なぜなら、神が自然に生えた枝を切り落とすことがおできになるとしたら、野生の枝さえも切り落とすことがおできになるからです。神が野生の枝を接ぎ木させることがおできになるとしたら、切り落とされた自然に生えた枝に再び接ぎ木することがおできになるでしょう。ですから、だれも誇るべきではありません。
どうやら異邦人のクリスチャンの中には、思い上がって、福音を拒絶したユダヤ人を見下したがっている人たちがいたようです。ユダヤ人に対して異邦人が横柄な態度に出たというのは、神の憐れみがすべての人のためのものである、すなわち、異邦人だけのものではなく、ユダヤ人のものでもあるということを理解していなかった証拠です。
このように神がなおもユダヤ人に関心を払い、関わっておられる様子を知るなら、反ユダヤ主義などというのは跡形もなくなることでしょう。本物のクリスチャンであるなら、神がなおも愛してやまないユダヤ人の一人さえも軽蔑することなどありえないのです。
すべての人のための憐れみ(ローマ11章25~32節)
ここでパウロは、神が明らかにされた驚くべき計画をもうひとたび伝えています。イスラエルは「異邦人全体が救いに達するまで」、かたくなになっていました。この「異邦人全体が救いに達するまで」とは、具体的な数量を意味しているのではなく、異邦人世界の至る所で福音を聞く必要のある人たちに福音が伝わる時という意味です。けれどもパウロは、「こうして全イスラエルが救われる」(11章26節)と言っています。
この声明は、これまで多くの議論を巻き起こしてきました。文字通りすべてのユダヤ人が救われる、という意味なのでしょうか。多分そうではありません。しかし明らかに、全イスラエルを救うことは神のご計画なのです。私たちはパウロのこの声明をすぐに忘れるべきではありません。二九節でパウロは、「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」と言っています。私が思うに、パウロはユダヤ人や私たち異邦人に恵みを与えようという神の約束を、私たちが通常考える以上に、強く、不屈なものとみなしていました。神の恵みは極めて持続的なものであるがゆえに、神はユダヤ人であれ、異邦人であれ、一人の人間を救うためになし得るあらゆることをなさるのです。
ローマの信徒への手紙9章から11章における難しい議論の結論は明瞭です。神がすべての人を不従順の状態に閉じ込められたのは、一つの目的のため(だけ)でした。その一つの目的、神の切なる願いとは、すべての人を憐れむこと。ユダヤ人だけでもなく、異邦人だけでもなく、一部のユダヤ人や一部の異邦人だけでもなく、すべての人が憐れみを受けること。それが神の目標なのです。
栄光の賛歌
パウロが神の御計画の意味を把握しようとする時、彼は驚きのあまり一歩退いて神の栄光をたたえることしかできません。ローマの信徒への手紙9章から11章は、解釈上の課題を突きつけているかもしれませんが、神学の議論で終わっていません。礼拝の形で終わっているのです。神の驚くべき御計画、絶えざる恵み、神の愛の深さはあまりにも素晴らしく、パウロは賛美せざるを得ないのです。そのような賛美の歌にコメントすることは、その価値を損なうだけです。私たちがなすべきことは、パウロと共にこの賛美の歌を歌うことでしょう。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
ローマの信徒への手紙11章33~36節
だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。
だれが主の相談相手であっただろうか。
だれがまず主に与えて、
その報いを受けるであろうか」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
参考文献
① 「ねたみ」という語は申命記32章21節からの引用です。
この記事は、ジョン・ブラント(村山晴穂・訳)『信仰による従順──信じる者すべてに救いをもたらす神の力』からの抜粋です。