愚かさと知恵
「コヘレトの言葉」の中は、霊的教訓を伝える、動物や昆虫でいっぱいです。私たちがあの「あざ笑う蝶」(本書の序論)の話ですでに気づいておりましたように、ソロモン王は動物に関しても専門家的であり、彼はまた「獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた」(列王記上5の13。〔口語訳では4の33〕)のです。前章では、彼は鳥と魚とを参照いたしました(9の12)。彼はまた、犬やライオン(9の4)、牛(2の7)、そして獣一般(3の19、21)について話しております。本章では、彼は、その教えを伝えるために、2匹の蛇と鳥そしてこともあろうに、蝿を用いております。
ちょうど「死んだ蝿は香料作りの香油を腐らせ」(10の1)ますように、愚かさは知恵を台無しにいたします。「コヘレトの言葉」を煩わしておりますのは何時も同じ問題です。すなわち、愚かさと知恵との混じり合いです。これまで、彼は、一方を他から仕分けするために、すなわち、知恵を愚かさから分離して識別しようとして苦闘してまいりましたし、そのために「経理を担当する」会計士のような役割をも演じたのです(7の29)。
さて、状況はより劇的になってきております。愚かさはまさに、知恵と混じり合っているなどというものではありません。それは知恵の中核に入り込んでおり、まさしく、そのアイデンティティに影響を及ぼしているのです。愚かさは蝿のようであり、否もっと現代風に表現すれば、それは、微生物のようです。彼らは至るところに存在し、すべてのものを汚染するのです。
学校で
ここは、愚か者が居ると考えられる最たる場所です。それでも、「コヘレトの言葉」は、彼らが学会の中を闊歩するのを見ます。愚かな者たちが高校や大学に至る諸クラスで教えております。コヘレトは、知恵という主題を特化して教えている知恵の専門家たちの中にもいる愚かな者たちを見ております。元来「その知恵のために尊敬されている」(10の1、新英語欽定訳〔NKJV〕)賢人でさえ堕落しております。ほんのわずかな愚かさが、大いなる仕事をしてしまうのは驚きです。たった一つの誤りに基づいた仮説の容認、ほんの些細な誤りが、全ての作品を駄目にしてしまうのに十分です。問題はその誤りが、知恵を装っている点です。愚かさは、知恵の言葉を使います。知恵の論理性を用い、このようにして、知恵を装った愚かさはますます尊敬を受けるようになります。
例えば、どのようにして進化論が学会の中に導入されていったか、そしてそれが、科学と論理性という高尚な名の下に、どれほど深くすべての学科を侵略して行ったのか、これをよく考えて見てください。その結果、誰でありましても、この考えとは別の教えをしようとする者があれば、その人は愚か者ではないかと疑われそのレッテルを張られてしまうほどになっている現状です。このようなことが、コヘレトの揶揄的観察の背景にある事柄なのです。この種の主題になりますと、普段は理性的で高潔そのものの賢人も、突然、理性を失った人のようになり、しばしば議論において感情的になったりするのです。
「コヘレトの言葉」は、この奇妙な行動を例示するため、その時代の比喩的表現を用いております。「賢者の心臓は右手にあり、愚者の心臓は左手にある」(10の2、新英語欽定訳〔NKJV〕)。ここで「コヘレトの言葉」は、疑わしい解剖学の所見を述べているわけではありません。
彼はただ、人間の矛盾性を示すためにユーモアを用いているのです。その人は、まさに知恵を持っております。思考と知恵の座である心がそこにあります(1の16、歴代誌上29の18、出エジプト記31の6)。しかしながら、知恵を持って考える能力を与えるその心は、左側へ追いやられております。この左側は、通常は欺瞞と関連する側です(士師記3の15、21、サムエル記下20の9、10)。それに対し右側は、祝福と特別な能力の側とされております(創世記48の14、エゼキエル21の22)。彼の心臓が左側にあるということは、彼はもはや考えることをしないということを暗示しております。彼はただ、自分の根性と先入観によってのみ行動する人であるということなのです。しかしそれは、この人が権威をもって人に教えたり、愚かであると他の人々に言うことも妨げはしません(10の3)。①
賢い人と見なされているこのような人が、権威筋からの支持と名誉さえも有していると、「コヘレトの言葉」は私たちに告げております。「愚者が甚だしく高められる」(10の6)。ここで、再び「足の速い者が競争に」(9の11)勝つわけでもないなどについて、前章で著者がすでに述べたと同じナンセンスに私たちは出くわすのです。「奴隷が馬に乗って行くかと思えば 君候が奴隷のように徒歩で行く」(10の7)と、「君主の誤り」として「コヘレトの言葉」がこき下ろしているような、支配者によって犯されている同じ不正に遭遇する時、私たちは口ごもります。賢明な者たちが辱められている一方、愚かな者がまじめに必要とされ、また崇められたりしております。そうであるなら、愚かな者を重用する主人②が、あなたに対して自制心を失うようなことがあっても、全く驚く必要はありません(10の4a)。その場合には「その場を離れるな」(10の4b)と、「コヘレトの言葉」は忠告しております。自制心を失わずに、あなたの確信に忠実であり続けるようにしなさい。③なぜなら、「そのときあなたは大いなる罪過を④いやす⑤ことができる」(10の4c 新英語欽定訳〔NKJV〕)のだからと。
「いやす」と訳出されたヘブル語動詞の「ラパー」は、和解とか許しでもって処理せねばならないことを内包しております(詩編60の6、103の3)。その考えはこうです。平和と許しの精神でもって(このことをしっかりとした信念で保ちつつ)、平静であり続ける中で、始めてあなたは、その人を得、また愚かさによって引き起こされた罪過を修復することができるようになるかもしれないということなのです。ヤコブは同じ言葉を用いて、同じ助言をいたしております。「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」(ヤコブ5の20)。敵対する者に対し、正しいことをするというだけでは十分ではありません。同時にあなたは、彼があなたの言うことに耳を傾け、確信に至るような何等かの方法を講じて、その人と友好関係を構築して行く必要があるのです。
職場で
今や、愚かな者たちが仕事場の高位置に座して居て、職場を占拠しております。私たちは彼らの行動を見、話していることを聞いております。彼らは自分自身をあらわにしております。彼らは自分たちの働きと言葉とによって罠に陥っております。著者は、このような彼の視点を、速くない者が競技で勝つことのナンセンスさと、罠にかかって突然に死に至るナンセンスさとを結びつけることによってほのめかしておりました(9の11、12)。そして私たちが、私たちの技量、あるいは適切な知識のゆえではなく、単に私たちの良い人間関係や魅力的な笑顔といったことのゆえに、一つの地位に置かれているのであれば、その地位は私たちにとっては罠となり、その中で私たちは自分の愚かさを露呈することとなります。
最初の例話は、実は、罠の領域からとられております。「落とし穴を掘る者は自らそこに落ち」るのです(10の8)。「コヘレトの言葉」が言っている穴とは、動物を捕獲する罠です(詩編7の16、エレミヤ書18の22)。これらの罠は偽装されていますので、猟師たちは慎重でなければなりません。そうでないと、自分の掘った穴に落ちてしまう可能性があったからです。同じ愚かな行動は、彼がそれらの石の性質を知らなかったため、石の壁の間に隠れていたへびにかまれる愚かな石工について観察されております。あるいは不器用なため、彼が処理している石によって負傷している下手な砕石夫、あるいはハンマーによって自分の指を打つことを繰り返している気の毒な大工、またはどのような斧を使うかを知らなくて、2、3本の棒を必要としているだけなのに、とんでもないエネルギーを費やしてしまうような役に立たない木こり、等々。これらの振る舞いはすべて愚かであり、非能率的です。
ここで不足しているものは、適切な知恵です。これらの事例の中で暗示されている教訓は、先ほどのそれと同様です。もしも愚かな者が、専門家のあなたに取って代わってその場所を占める場合、心配しないでください! ただお待ちください。その人のする仕事は、彼自身の罠となり、それから、やがてあなたの本物の知恵が必要とされるようになるからです。
同じ観察が、愚かな者の出す言葉についてなされております。愚か者たちが、あたかも賢人であるかのようにして昇進します。しかし彼らが話をする時、彼らの言葉は、本当は彼らがどのような人物であるかを明らかにいたします。最初の実例はへび使いです(10の11)。へびの有毒な牙か、あるいはへびを操るためにへび使いが用いる呪文のような言葉を指すのに、「コヘレトの言葉」は、恐らく意図的に、ヘブル語では「舌のマスター」という意味を表す非常に珍しい表現を用いております。もしも、へび使いが適切な魔法の言葉、適切な笛鳴らし、そして適切な動き、そしてまたは、どのように彼のへびを読むかを知らないならば、そのへびは早晩、彼に噛み付く時が来るのです。そうした時には、彼は明らかに、ペテン師ということになるでしょう。言い換えれば、彼はどのような一般の素人よりも良い(直訳では「より良い」)ということにはなりません。彼は「舌のマスター」ではないのです。
この最初の事例は、愚か者の舌について語っている次節の伏線です。そしてそれは愚かな者としての彼を明らかにすることとなりましょう。話をしている愚かな者の顔は、ほとんど風刺の漫画を思い起こさせるような言葉で表現されております。「唇」(10の12)は、二つ以上の唇を暗示して、通常は使われることのない唇の複数形が用いられております。その愚か者は、余りにもおしゃべりなので、彼の口にはたくさんの唇を持っているような印象を与えているのです。これらのたくさんの唇は、「彼自身を呑み込む」(10の12)のです。彼は自分自身の言葉によって呑み込まれてしまうのです。四章五節ですでに愚か者の特徴と言われておりましたその身を食い潰す者となるのです。彼の話し言葉の最初から最後に至るまで、絶えず愚かなことを語り続け、そのようにして、終わりに至っても、私たちは未だ始まりに居るという具合にです(10の13)。愚かな者は永遠に、今という時点に残り続け、未来に従事することはありません。彼は何にも貢献することはないのです。「未来のことはだれにも分からない」(10の14)のです。
「コヘレトの言葉」は、このように、皮肉な調子で、饒舌な愚か者についての風刺を結論づけております。
玉座でのこと
本章の最後の段落では、もはや賢い人は一人もおりません。愚か者だけが残されております。従って私たちには、照らし合わせる者がおりません。自分たちが愚か者であることを誰も知らないのです。ただ未熟な子供が玉座に就いております。しかし、彼に助言する者は誰も居ません。皇族たちは、たとえそれが朝であっても、宴会を催すことに明け暮れております。その状況は呆れはてるほどです。「あなたの王はわらべであって、その君たちが朝から、ごちそうを食べる国よ、あなたはわざわいだ」(10の16、口語訳)。⑥その「国」⑦の首都の真ん中で、統率力の危機が起こっております。 前節(15節)は、「都」への言及で終わっております。もしも、16節が、国について話しているのなら、それは、都に起こっていることが、国全体に影響を及ぼしているためです。「王」と「都」についてのこの関連は、9章13~15節での貧しいが賢い者が一つの都市を救った例え話に、私たちを連れ戻します。しかし今回は、その都を救う賢い者が、近隣には残されていないのです。ただ、わらべが、権力の座に就いております。
「わらべ」に対するヘブル語の「ナアル」は、ソロモンが自分自身を「取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません」(列王記上3の7)と表現した時の「若者」と同じ言葉です(「若者」は「ナアル」の訳)。「若者」であることを補うため、ソロモンは彼の統治の助けとなる知恵を求めました。「コヘレトの言葉」中における同じ言葉の使用は、このわらべなる王の知恵の不足を暗示しております。「ナアル」という語はまた、「召使」⑧をも意味しております(創世記22の3)。それゆえ、この言葉は王家の出ではない、従って王となるべき人物とは考えられてはいない者、すなわち王権の強奪者であるような者を意味しているのかもしれません。君たち、すなわちその国の指導者層は、朝からさえ楽しみに耽っております。ですから、彼らはその日、日中の自分たちの義務を果たすことができません。その「都」に不足しているものは、知恵であり、合理性であり、自制心です。このリーダーシップの危機の結果は悲惨です。「家は漏」るのです(10の18)。「家」という語は、文字通りの家をさしてはおりません。その語に付されている定冠詞が示しておりますように、「コヘレトの言葉」がこの語を使う時、国家的実体をその心に描いていたものと考えられます。ヘブル語では、この語は、宮殿(列王記上7の8、口語訳)、もしくは神殿(列王記上6の2、3、38)を表します。これらの指導者たちは、その責任感や霊的優先という感覚を全くと言って良いほどに意に介してはおりません。政治的生命だけではなく、礼拝や信仰生活も崩壊しております。これらのリーダーたちは、宴会やお金だけに夢中なのです。
さて、19節で、お金と関係して用いられております「こたえる」(「アナー」)という動詞は、聖書中では、特に詩編の中で(詩編3の5、13の4、ホセア2の23)、しばしば神が主語となる形で用いられております。更に、お金は世界的視野の中に置かれていて、「すべて」(コル)と関連づけられております。「銀はすべてにこたえてくれる」(10の19)。金銭が神に取って代わっているのです。それが大切なもののすべてです。お金、お金、お金なのです。知恵は完全に消え去っております。
本章は、香水の中の死んだ蝿の話で始められました。最初は、香油を腐らせ、知恵は愚かさと混じり合いました。それから知恵が汚染されました。愚かさがその深部に入り込んで来ました。愚かな者が完全に支配しているかたちです。そして知恵が消え果てました。もはや香水はありません。ただ腐らせる蝿の存在だけです。それは心との密接な関係で出発いたしました(10の2)。それから、「道行くとき」に歩き回り、教え続けている一人の愚か者のおかげで野外へと出ます。次いで少しずつ、学問の世界へと入ってみました(10の3)。それから、行政の世界にも侵入してみます(10の6)。すると「奴隷が馬に乗って行く」(10の7)様な場面になり、それまでの単数形が複数形へと変えられました。更に、愚かな者の言葉は至る所で、すなわち、ラジオ、TV、インターネット上などで繰り返されるようになりました。最終的には、それは政府と(10の16)、宗教本部(10の18)にまで達しました。この連祷的な一連の長ったらしい話の最後の言葉は、「すべて」です(10の19)。愚かさが至る所にあるのです。
しかし、真実は、至る所すべてにではありません。悲嘆に囲まれている中で、場違いのようにして祝福の言葉が躍り出ます。
「いかに幸いなことか
王が高貴な生まれで
役人がしかるべきときに食事をし
決して酔わず、力に満ちている国よ」(10の17)。
この「国」は、他の国とは対照的に設定されております。それは呪いというより祝福です。本節は、詩編の中に多く見られますように、いわゆる「至福」(それは、詩編41の2や65の5などにみられるように、義なる人に宣言されている祝福)の言葉です。主イエスは同じ形式を用いられて、マタイによる福音書5章3節から12節までに見られますように、山上の説教で、ご自分の祝福の言葉を宣言しておられます。
その王は嫡出子であり、決して未熟なしもべたる者でも、また強奪者でもありません。彼は、高貴な生まれという資質を有しております。ヘブル語の「ホーリーム」(「高貴」と訳出されている)は、その国の指導者たちを輩出すると見られている、その社会の中でのエリート階層を指します(イザヤ書34の12)。その役人たちは、「しかるべきときに食事をし、決して酔わず、力に満ちている」(10の17)のです。それが適切な時間に、そしてドンちゃん騒ぎのためにではなく、それが「力」のために為されるものである限り、宴会的な食事であっても、何も問題はありません。良いリーダーは、従って「力」によって特徴づけられております。ヘブル語の「ゲブラ」(「力」)は、酩酊状態には対極となる語で、体力を暗示しており、また神の心、知恵、そして理解力とも結び付けられております。箴言の中の「知恵」がこのことを裏付けております。「わたしは知恵。熟慮と共に住まい 知識と慎重さを備えている……。わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ」(箴言8の12、14。イザヤ書11の2とも比較せよ)。これらのリーダーたちは、身体的に強靭であり、禁欲的であるばかりではなく、彼らはまた賢明で、神のキャンプに属しているのです。
このグループの人々は、その他の人々とは根本的に違います。彼らは自分たちを神とその聖なる戒めとに忠実であろうとする聖なる人々と同一視いたします。10章20節では、明らかに「コヘレトの言葉」は、祝福された「国」にいる人々に語りかけております。その人々は、良い王を持ち、良い役人たちを有し、賢明に振舞います(10の17)。彼らは少数派に属しておりますし、そしてまた愚かな者たちが至る所にいますので、彼らは慎重であるべきです。誰かが彼らを見張っているかもしれません。たとえその王がまだ未熟ではあり、強奪者でありましても、その王を呪ってはなりません(10の20)。たとえ行政庁が堕落していても、その富める者たちを「呪うな」です。そして、あなたの公然たる言葉をコントロールするだけでは十分ではありません。妻とだけいる寝室のような密室の私生活の中においてさえ、気をつけている必要があります。眠っている時でさえ注意深くあるべきです。と言いますのは、あなたが夢の中で語っているのを誰かが聞き、そのようなあなたを他言されることがあり得るからです。「コヘレトの言葉」は「空の鳥がその声を伝え」(10の20)と言っておりますが、恐らくは、古代エジプトで通信手段として使われていた伝書鳩のようなものを指しているのでしょう。次の行には、「翼」のある者とありますから、鳥、もしくはまた、昆虫のようなもの、蝶でもあり得ます。
あなたの声(「コール」)の調子、あるいはあなたの言葉(「ダバール」)は、あなたを裏切ることがあり得ます。主イエスは同様の警告を発しておられます。「だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」(ルカ12の3)。騒々しい笑いや、宴席や、話好きな愚か者たちの中にあっては、賢明な者たちは、静かで、寡黙であるべきです。「コヘレトの言葉」は更に、思いをさえコントロールすべきであると訴えます。「心のうちでも」(10の20、口語訳)、と言っております。誰かについて、否定的にあるいは批判的に考えるとしますと、その時、早晩、たとえ言葉あるいは声の調子を通してではなくとも、あなたの表情や微妙なしぐさを通してあなた自身をそれらは裏切ることになります。悪い王や愚かな者たちの前では、外交的で親切で、ただ慇懃であると言うだけでは十分ではありません。私たちの考えと、私たちの意図とは、私たちの心の態度と調和しているべきです。
主イエスと同様、「コヘレトの言葉」は、偽善に対し警告を与えております。それは単に慎重さの問題ではありません。それはまた、そして多分、更に重要な課題であるのですが、それは倫理の問題です。それは、正しいというだけ、そしてまた神の民、聖なる残りの民に属しているというだけでは十分ではありません。「コヘレトの言葉」は、私たちが騒々しく批判し、人を名指しで悪口を言うことからだけではなく、悪しき王やその役人たちについて、否定的に考えることさえも、控えて居るべきであることを示唆しているのです。反セム族的な気質、あるいは反イスラムとか、それがたとえ対象が何であろうと、「反」何々ということは、「賢い」ということと調和しないのです。あなたが、知恵のキャンプに属しているということであれば、愚か者に怒ることをあなたに許可しないはずです(7の9)。たとえあなたが真理を有し、あなたの王が嫡出子であり、しかも他者が愚かに振舞ったとしましても、あなたは依然として寡黙であるべきであり、彼が愚かな者であるとの思いさえも抱くべきではないのです。誰かを馬鹿呼ばわりすることは、まさに愚か者の特徴なのです(10の3)。
参考文献
① この解釈は、直訳、すなわち、「彼はすべての人に言う。『愚かだと』」新英語聖書訳(NEB)では、「他のすべての人を馬鹿呼ばわりする」と訳出している。比較して考えて見よ。
② 「主人」と訳出されているヘブル語「モシェル」は、ある種の「司政者」「監督」(創世記42の6)を指し、支配者、為政者、あるいは王を意味する語ではない。
③ 主人が自分の理性を「失い」高ぶることと、賢い人がその持ち場を「離れない」こととの間には、ヘブル語では語呂合わせがあり、同じ「ヌーアッハ」が用いられていることからして、この二つの行為の間にはある種の関係が暗示されている。
④ NKJVによる訳の「立腹」というより、「罪過」あるいは「不正」が直訳である。(口語訳では「とが」、新共同訳では「大きな過ち」。訳者注)
⑤ NKJVの「なだめる」より、「いやす」である。使用されているヘブル語動詞は、「ラパー」である。(口語訳では「和らげる」、新共同訳では「見逃してもらえる」。訳者注)
⑥ 新共同訳では「いかに不幸なことか、王が召し使いのようで、役人らが朝から食い散らしている国よ」。ここにはヘブル語原文にある「わらべ」が訳出されてない。訳者注。
⑦ 古代ギリシャ語並びにシリア語や訳では、これを「都市」と訳出している。
⑧ 多くの英語訳では、この語を「召使」または「奴隷」として訳出している
この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。