前章における最後の知恵の言葉は、慎重であれとの呼びかけと勧告でありました。愚かさが至る所にあり、その王が悪い時、反撃したり、革命を試みたり、更には不平を言ったり、批判したり、「王を呪ったり」することは、何の役にも立たないということでした。それは非生産的で、愚かで、罪作りです。不正と偏屈に対する長い戦いの人生の最後になって、フランスの哲学者ヴォルテールは、すっかり絶望して、公的生活を離れ、自分の庭を耕して生きることに決めました。
与えることの危機
「王を呪うな」と言った後、「コヘレトの言葉」は今や、「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」(11の1)と言って励まします。彼は人々に敵対する言葉の世界から、人々のために行動する世界へと移動してきております。そしてそれは、抑制と用心の世界から、開放性と冒険する世界へと移り行きます。確かなことは、中東の文化では、パンは非常に貴重で、聖なるものでありましたので、人は決してそれを投げ捨てるようなことはしないわけですが、そうした中での「コヘレトの言葉」の勧告は、奇妙な響きを持っており、不釣合いでさえあるのです。実際パン一切れでもそれが地面に落ちたなら、人々は恭しくそれを拾い上げ、それにキスをし、棚に戻すでしょう。
それなのに、何故「水の上に」? 魚に食べさせるためでしょうか。しかし考えはむしろ、そのパンが水の上に投げ与えられる時には、それがやがていつの日か戻って来るという希望を持って投げられるということなのです。「月日がたってから、それを見いだすだろう」(11の1)と。
「コヘレトの言葉」においては、水は戻って来るという考え方(1の7)と関連づけられております。スペイン・ポルトガル系のユダヤ人であるスィファールデイムと呼ばれている人々の間には、ひとつの伝統的な習慣があります。家族の誰かが旅行に行こうとしている時に、母はいくらかの水を入り口の敷居のところに注ぎかけ、その人に、その水の上を歩かせ、その人が安全に戻るよいしるしとしたのです。同じような考えは、古代エジプトの格言でも実証されております。すなわち、「良い業を行え。そしてそれを水の上に投げよ。水が干上がった時あなたはそれを見いだすでしょう」。①
それで、「コヘレトの言葉」の言わんとしていることには、二重の意味があります。一方では、それはリスクを冒すことへの激励です。水は冒険を意味します。私たちにはパンがどこに行くかを知り得ません。しかし、水はまた、消失のリスクをも意味しております。聖書の思想においては、水は、無と混沌とに関係づけられております(創世記1の2、エゼキエル書26の19~21)。預言者ミカが神について、神は「我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ書7の19)という時、神は私たちの不義や咎を赦される(ミカ書7の18)ということを意味しているのです。他方では、水はあなたにあなたの良い業を戻してくれますので、良い業は失われることは無いとの約束でもあります。これが言わんとしているもう一つの面なのです。「コヘレトの言葉」には明瞭に宗教のほのめかしを含んでおります。「水の上に」という表現は、聖書的伝統では、創造の御業と関係があります(創世記1の2)。この特別な表現を用いることによって、「コヘレトの言葉」は、創造主なる神が支配しておられると言うことを暗示しております。あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」との指令は、単なる慈善活動への勧誘以上のことを表しております。それは信仰への訴えです。あなたはあなたのパンを失う危険を冒す時にのみ、それがあなたのところに戻ってくる体験をすることになるということなのです。そして、信仰はこの危険を暗示しているのです。この逆説は、知恵が愚かな者の心の中で見いだされるかもしれませんし、また逆も真なりと言った、「コヘレトの言葉」のいつもながらの助言と呼応しております。あなたのパンを投げるというこの愚かと見える行為は、賢明な行動となるのです。なぜなら、それをすることで、それを見いだすようになるからです。主イエスが、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10の39)と言われた時、同じ逆説を語っておられたのです。
「コヘレトの言葉」の格言に隠されている真理は、多くの適用性を有しております。勿論、それはまず、金持ちにではなく、貧しい者にパンを与えることに関係いたしております。パンを貧しい者に与えることによって、お返しとしては何も受けないというリスクをあなたは冒します。贈り物の重要性はあなたではなく、あなたが与えるその人にとってでありますから、その行為を行うのです。それがもしも、単に貧しい者の一言の感謝であれ、ある種のお返しの奉仕であれ、あるいは良い気分と言ったものであれ、あなたが何等かの報酬を期待して与えると言うのであれば、それは贈り物ではなく自己満足です。
同様のことが、霊的事柄にも当てはまります。もし、私たちが、祝福を受けるため、あるいはまた、気持ちよく感じるため、更にまた神の国を獲得せんがために、神に奉仕するというのでしたなら、私たちは神にではなく自分に奉仕していることになります。宗教はあまりにもしばしば、ある種の銀行投資のような、人と神との間の「受けるために与える」の取引事項のように理解されて来ております。私たちは献げ物をいたします。私たちは宗教的集会に参加します。そして、神のために犠牲を払います。それから、私たちは見返りとして、神は私たちを守り、私たちが与えたものを豊かにして送り返してくださるものと期待いたします。それを要求さえいたします。もしもそのことが起こり、結果的に豊かになり、幸せになるなら、私たちはそれに当然値すると考えます。そしてもしもそうならないなら、私たちはこの神を疑うようになり、早晩、私たちは与えることをやめ、神から離れてさえ行くようになります。
「コヘレトの言葉」がこのような誤解に言及するのは、これが初めてではありません。少し前で、「コヘレトの言葉」は、このような理由づけが人生の現実に合わないことを観察しておりました。「足の速い者が競争に……必ず勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも」(9の11)ないと。さて今や、著者は、状況の不公平さをいっそうかきたてつつ、期待しないで与えるようにと私たちに勧めます。しかし彼は、与えることは何事ももたらさないとは言っておりません。彼は単純に、与える者は何も見返りを期待すべきではないと言うことを強調しているのです。パンは、「見いだされる」のだということは興味深いことです。それは、驚きとしてもたらされることを意味しております。「コヘレトの言葉」の考えでは、「見いだす」ということは、常に失敗と関連づけられております。「コヘレトの言葉」が見いだしている唯一確かなことは、彼は見いだすことができないということです(7の27、28、8の17)。そのパンは、「月日がたってから」のみ、見いだされるものです。つまり、私たちが、そのことをすでに忘れ去った時に至ってです。神がそのすべての背後に居られるという信仰を持っていましても、奇跡が起こり、そのパンを見いだす時、私たちは驚いてしまうのです。私たちはそれを期待しておりませんでした。私たちはそれを受けるに値しません。それは純粋に恵みです。それゆえ、私たちの心は神への感謝で満たされるのです。
「コヘレトの言葉」は、まさに1回限りの慈善行為について話してはおりません。「七人と、八人とすら、分かち合っておけ」(11の2)と言うのです。「分かつ」に対するヘブル語は「ヘレク」で、それは、ある部分を意味します。あなたのパンを七つあるいは八つの部分に分けなさいということです。あなたのパンを、七人あるいは八人の人々と分かち合いなさいということです。この数字は字義通りに受け取られるべきではありません(ミカ書5の5を参照)。これは、沢山とか、それ以上に、を表す文学的表現です。その意図するところは、再び寛大さを促進することです。しかしこの度は、「コヘレトの言葉」は、その要求を拡大しております。惜しみなく与えることへのこの招待が、ひとりの人にではなく多くの人々にと広げられているのです。
信仰の危機
慈善をなす者に寛大であるべきことを納得させるため、二つの論拠が与えられております。第一番目の論拠は否定的なもので、災害に対する恐れという点です(11の2~4)。二番目の論拠は肯定的なもので、「神の業」という点です(11の5)。両者共、その論議は信仰の冒険ということに、その土台を置いております。私たちは「分からない」という句が、4回繰り返されており、(11の2、5、6)、それらは、両者の論議に関わっております。「わたしたちは分からない」のだから、私たちは慈善を施すことを恐れるべきではない。「わたしたちは分からない」のだから、私たちは信じるべきなのだという風にです。
問題に対する恐れは、自然界の諸要素によって例示されております。雲や地の上に降る雨、南や北に倒れる木、風、また雪、畑で種を蒔いたり収穫したりしている農夫などが用いられております。これらは、人が理解したり、コントロールしたりすることが難しい現象です。「どのように雨雲が広がり 神の仮庵が雷鳴をとどろかせるかを 悟りうる者があろうか」(ヨブ記36の29)。木の倒れることや風の吹き具合とは、共に厳密には知る由もありません。木が、北に倒れるのか、南に倒れるのかは、②私たちには「分からない」ように、風はどちらに吹くのかも私たちには「分からない」のです。「コヘレトの言葉」では、風は、予測不能で、信頼できないものの象徴です。本書の中でこの考えは、捕らえることが不可能という意味を持つ表現である、「風を追うようなこと」(1の14、2の11、17、26、4の4、6、16、6の9)の句を通して繰り返されております(1章6節も参照のこと)。
それでも「コヘレトの言葉」は、これらの要素の予測不可能性は、農夫の種まきや収穫に妨げとはならないのだと、主張いたします。もしも農夫が、その種まきと収穫において、これらの要素に厳密に依存せねばならないとしたなら、彼は、どちらの業をもなすことができないのです。それゆえ、危険を冒すことは、生き抜くための必要条件となっているのです。「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない」(11の4)のです。もしもあなたが風を恐れているので与えたくないのなら、その恐怖のため、あなたは蒔くことも刈り入れることもなし得ないでしょう。このことは飢餓と死とをもたらすかもしれませんので、この恐れは愚かな事で、危険でさえあります。失うことを恐れるその慎重さの手段とはいえ、与えることを恐れることは、最終的には、あなたをしてすべてを失わせるように導くことともなるのです。
神の御業は、「風の道」によって例示されております。そして妊婦の胎内での子供の形成によっても例示されます。ちょうど、風がどこから来てどこへ行くかが「分からない」ように、そしてまた、母の胎内で骨がどのように育つかが「分からない」ように、「すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない」(11の5)のです。ちょうど天地創造の御業が、自然界の諸要素の神秘を解く鍵であるように、御業は、これら前述の「分からない」とされている神秘のすべてを解く鍵となります。重要なことは、ここでの「風の道」は、雲や、木が倒れることや、蒔いたり収穫したりの行為の背後にあったその風を指し示しております。同様に子供を産もうとしている妊婦の「豊かさ」は、雨を予期させる雲の「豊かさ」を指し示します。否定的であれ肯定的であれ、これらのすべての現象は、神の創造の御力を表しております。風あるいは霊(ヘブル語では両者共に「ルーアッハ」)は、創造時に「水の面を動いていた」(創世記1の2)霊「ルーアッハ」を暗示しており、神の創造の御業を予期させております。同様に、妊婦に関する映像も、それは雲の豊かさでは暗黙裡でありましたが、女性の豊かさや骨の成長への言及においては明らかに、創造の神秘的過程を暗示しております。主イエスがニコデモに、上から生まれることを説明された時、この二つのイメージを用いておられたことは興味深いことです。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3の8)。
ちょうど、神に私たち自身をお献げする行為の背後に、創造に対する信仰がありますように、パンを与える行為の背後にも、同じ信仰があるのです。慈善をなす行為は、ですから、創造の御力への私たちの信仰の表明となるのです。それは、ただ単に自分が失われて行く中においても、私たちは神を信頼すると言う理由の故ではなく、ただ単純に、次の事実を私たちが認めているからなのです。すなわち私たちは、神の被造物として全的に神に依存している存在なのだと言う理由の故なのです。神が創造の物語の中で「与える」お方として描写されておりますように、自分たちの創造主として神を信じている者たちは「与える」べきなのです。それは決して受けるためにではなく、神から与えられていることに対する極自然で明らかな彼らの応答としてです。与えられる神の恵みは、私たちをして与えることを余儀なくさせるのです。
したがって、この実物教訓から学ばせられる直接的教訓は、行動ということです。私たちが種蒔きを夕にするか、朝にするか、あるいは夕と朝の両方でなすのか、それらのいずれであったにせよ、その結果は私たちに依存しません。それゆえ、「コヘレトの言葉」は結論づけるのです。あなたがたはその結果が「分からない」のですから、いつであっても蒔くというリスクを負って行きなさいと(11の6)。わたしたちの知らないことは、神の結論である「よい」というものです。「実るのはこれであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである」(11の6、口語訳)。創造物語で、鍵となっている語のひとつである「良い」(トーブ)という語が、本段落の最後の部である6節にも出て来ております。私たちの慈善の業の中においてさえ、神の恵みが最後の言葉となります。神への信仰が意味するところは、逆説的に、受け身や怠惰ではありません。すなわち私たちが神に信頼しているということは、神に働いていただこうではないかという受動的な考え方ではありません。反対に教えられていることは、神の恵みという考えとの完全な緊張関係においてではありますが、尚も私たちの側の責任と勤勉な働きへの召しなのです。私たちの慈善という与える働きでさえ、神から与えられている贈物なのです。
人生の危機
私たちの目は、神の恵みでもって満たされております。前の段落の最後の部分(11の6)からのボールが跳ね返って来たかのように、再び、創造時の鍵となる語の「良い」(トーブ)が用いられております。この「良い」(ここでは「楽しい」と訳出されている)は、今や、私たちが自分の目で見る太陽の光のことにあてはめられております。「光は快く、太陽を見るのは楽しい」(11の7)。ヘブル語においては、「太陽を見る」とは、慣用句であり、それは単純に「生きている」ということを意味しております(6の5、7の11。また詩編49の20、58の9、ヨブ記3の16をも見よ)。なぜなら、光は命の最初の現れであったからです。それは、すべてが光の洪水で始まりました。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった……。第一の日である」(創世記1の3、5)。私たちが今扱おうとしている聖句(11の7、8)である二つの節は、創世記1章の創造物語への言及で満ち満ちております。「良い」、「見る」、「光」、「太陽」、「生き物」、「人(アダム)」、「闇」、そして「すべて」などの語が、この二つの節の中で共有されております。このように、「コヘレトの言葉」が光への言及のすぐ後で、「暗い日々も多くあろうことを忘れないように」(11の8)という時、彼は創造物語を心に描いているのです。彼は私たちに、私たちがどこから来たのか、それは何もない混沌の世界から、暗闇の中からであったことを覚えていなさいと強く勧告しているのです。私たちは、存在していなかったのです。そして今ここで、私たちは太陽の光を楽しんでいるのです。
人生は神の賜物です。それゆえ、これを充分に楽しみ喜ぶが良いとしております。この楽しみは過去に向きを変えさせ、私たちの起源と創造者への感謝の思い出とに結びつけられるようにいたします。しかし、この最初の意味しているところは同時に、もう一つの意味づけとも混じり合います。それは未来志向のものです。「忘れないように」という語は、当然過去に関連したことについて暗示しているのではありますが、同時にそれは未来への言及を内包しております。
「暗い日々も多くあろう」(11の8)と言われておりますように、光が闇によって脅かされている現実ですが、このことを、ますます楽しみなさいと勧めているのです。ここでは、「コヘレトの言葉」は、死ということに言及しております。それは、長生きした後にのみ訪れるべき「日々」のことです。私たちは、ちょうど「多くの年月」長生きを楽しむように、「多くの日々」暗闇の中に長逗留するようになることをも予期すべきです。
「コヘレトの言葉」は決して平凡な幸福の処世術を提示しているのではありません。その楽しみ喜びは包括的です。それはちょっとした買い物の時に感じるような瞬時の楽しみでも、二、三の楽しみでもありません。そのような半端なものではありません。「コヘレトの言葉」は、与えられているその果実から「すべて」のジュースを搾り切るため、「すべて」のことを活用するようにと私たちに勧めております。怠惰や好機を「見」過ごしたり、それを活用したりしない無能さは愚かなのです。私たちはでき得る限りにおいて、「すべて」を知ることに熱心であるべきです。そして世界のあらゆる場所を訪ね、すべての果実を味わい、あらゆる種類の人々と知り合い、すべてのことを学びとることに熱誠を込めるべきです。死の危機は、人生の危機へと私たちを連れて行くのです。
それから楽しむことへの呼びかけが若者に向けて、迫るようにして与えられます。若いということは、私たちが人生において最高度に何かをなせる時です。時間があります。活力があります。強い飢餓感があります。そして、より多くのことに立ち向かうのです。「コヘレトの言葉」は、人生の危険についての彼の言及での範例として、若者との結びつきを用いております。「コヘレトの言葉」は最初に、私たちの持っている自由、すなわち、私たちの選択の能力を認識しております。幸福は私たちの持つ自由という秤にしたがって構成されております。私たちが沢山の物事をなせばなすほど、私たちはより幸せです。これが、「コヘレトの言葉」が厳密に若者たちに言っていることなのです。それは、若者よ、「心にかなう道を、目に映るところに従って行け」(11の9)なのです。聖書的思考においては、私たちの存在の中心である心は、私たちの感情の、私たちの内なる思考の、私たちの願望の、そして私たちの意図の座席なのです。
「コヘレトの言葉」は再び、目に言及いたします。「目に映るところに従って」(11の9)と言います。たとえあなたが何を見ても、何が心に思い浮かんでも、前進し、その中に「歩み行き」、その道に従って行ってそれを楽しめと言うのです。「コヘレトの言葉」は少し前に、一般的な表現を用いて推奨した事柄を、若者に強く勧めております。彼は人生における同じ冒険を勧奨しております。
しかしながら彼は、「知っておくがよい 神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれる」(11の9)のであるとの言葉を付け加えております。これも少し前で、彼は「忘れないように」と言って記憶すべきことを喚起しておりました。死との暗闇は、私たちの人生の自然な一部です。これが、私たちが「忘れないようにしなければならない」何かなのです。しかしながら、裁きについてはそんなものではありません。裁きという語についている定冠詞は、単一の特別な出来事を示唆しており、それは決して一般的な司法活動を意味してはおりません。それですから、この裁きについては、私たちは知らされる必要のある何かがあるのです。
「コヘレトの言葉」は「知る」と言う動詞を用いております。前の段落で「忘れないように」ということは人生を楽しむことへの刺激として用いられておりましたが、この節では、「知る」という語が、その楽しみとの関連で用いられております。私たちを落胆させたり、喜びの中に恐れを入り込ませるためにではなく、それどころか正反対に、私たちの喜びを聖化するためなのです。
この新しい情報は、信者たちを恐れさせる単なる一つの神学的教義なのではありません。裁きは、人生の楽しみに敵対するようにして与えられるものではありません。そうではなく、むしろそれに付加するものとして、また、人生の楽しみとの整合性の関係において与えられるのです。③暗闇が人生への脅威であり、それゆえにこれが、人生を楽しむ誘因として用いられているのに対し、神の裁きは、人生を形成して行くための誘因であり、人生に対する補足としてもたらされるのです。それゆえ、「心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け」(11の10)と言われております。神の裁きは、たとえ未来のある未知の時間に起こる外的出来事であるとはいえ(3の17を参照)、そのことは、私の人生に影響を与え、私の人生の楽しみ方に作用することとならねばなりません。裁きへの最初の言及が、「悩み」ということにかかわっているということは、何と興味深いことでしょうか(そして確かにこれは重大事です)。「悩み」を表すヘブル語「カアス」は、「ふさぎ込む」(サムエル記上1の8。口語訳では「心に悲しむ」、訳者注)、「苦しいこと」(サムエル記上1の16。口語訳では「悩み」、訳者注)、「怒り」(ホセア書12の15。口語訳では12の14で同じ訳、訳者注)、「憤り」(申命記9の18)や「ねたみ」(ヨブ記5の2)のような意味を包含いたします。「コヘレトの言葉」では、「痛み」や「悩み」(1の18、2の23、5の16〔口語訳では5の17、訳者注〕)等と訳出されております。要約いたしますと、この言葉は、楽しみの反対物である否定的なものすべてを表現いたします。
裁きということから学ぶ最初の教訓は、私たちが人生を楽しみ、また楽しむ能力を伸ばすことを妨げるであろうすべてのものを、それがたとえ何であろうと、取り除くべきであるということなのです。裁きは、私たちに、楽しみというものが神によって許され許容されているというだけではないことを思い起こさせます。実に、楽しむことは、神からの命令であり、それは神から割り当てられている、私たちへの「分け前」なのです。それは神からの贈物です。神は、私たちがその贈物を楽しむことに失敗したなら、そのことに対し、私たちに釈明を求めるでしょう。タルムードに記録されている伝統は、次のように私たちに警告しております。「すべての人は、その人生において見、しかもそれを楽しまなかったすべての良い事柄につき、神の前で、人はそれを釈明することになるであろう」と。④
裁きということが示している二番目の意味は、私たちの「肉体から苦しみを除け」と言われていることに対する私たちの責任です。このことは、人生の楽しみは理解されるべきであり、悪を除外し、それから切り離して生きねばならないということを意味しております。人生を楽しむということは、私たちの肉体を不当に濫用したり、また健康や人生の基本的原則を無視したりすることを意味しません。それは、また私たちの隣人の前に立ちはだかったり、また中傷したり傷つけたりすることを意味するものでもありません。神の裁きという光の中で見るとき、人生を楽しむということは、いわば知恵に割り当てられた仕事であり、それは、善であるものを悪から仕分けし、もっと充実して楽しめるような方法で、私たちの人生を形造っていくようにするという事なのです。
ですから、裁きという知識は、私たちの人生の楽しみに特別な味付けを与えます。使徒パウロが言うように、「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」(二コリント7の1)ということになるのです。人生上で体験するもろもろの危機は、聖化への道の上で、遂に終局を迎えるに至るのです。
参考文献
① Instruction of Anksheshong, 19,1.10, in AEL III, p.174.
② 二つの両極である北と南への言及は、全方向を暗示する文学的手法である。
③ 命令法の「ダ」(「知れ」)に接頭辞的に付いている「ワウ」は、「そして」を意味する連結の接続詞である。これを前の文との対照的な内容を表すことを前提として、分離的「ワウ」(「しかし」)と訳出すべきであるとする理由は全くありません。実際は、その前に出て来るすべての動詞(但し、この段落の序論の動詞である「喜ぶがよい」という動詞以外)には「ワウ」が付いていて、一連の動作を示唆している。「そして、過ごせ……。そして、従って行け……。そして、知っておくがよい」のようにである。多くの注解者は、この「ワウ」を、「そして」ではなく「しかし」と訳出している。それは、この部分を後世のある編集者による付加と見るからであり、それは喜びへの呼びかけを修正するための挿入であったとしているからである。
④ Jerusalem Talmud, Qiddushin, 4:12.
この記事は、ジャック・B・デュカーン(英:Jacques B. Doukhan)著、我妻清三訳『コヘレトの言葉 ーすべてはむなしい』からの抜粋です。
ジャック・B・デュカーンはアルジェリアで生まれ、フランスで教育を受けた。フランス・ストラスブール大学でヘブライ語と文学の博士課程を修了。エルサレムのヘブライ大学から博士課程終了後の奨学金を受けた。アンドリュース大学旧約聖書釈義博士号取得。同大学においてヘブライ語および旧約聖書釈義教授、ユダヤ・キリスト教研究所所長を務める。