【ペトロの手紙1・2】王の系統を引く祭司【1章解説】#3

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ペトロは、ユダヤ人の文化、宗教、歴史の中にどっぷり漬かっていたので、彼が手紙を書き送っている相手のクリスチャンを「聖なる国民、神のものとなった民」と呼んでいます。そうすることによって彼は、旧約聖書が古代イスラエルを指すために用いている契約用語を使い、ここでそれを新約聖書の教会に適用しています。

それもそのはず。イエスを信じる異邦人信徒は、神の契約の民に接ぎ木されたからです。今や彼らも、契約上の約束にあずかる者です。「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(ロマ11:17、18)。

今回学ぶ箇所(Iペト2:1〜10)において、ペトロは読者に聖なる責任と高い召しを指し示しています。その責任と召しは、彼らが神の契約の民、(パウロの言葉を使えば)オリーブの木に接ぎ木された者たちとして持っているものです。そしてそれらの責任は、古代イスラエルが持っていた責任と同じであり、主によって提供される救いの大いなる真理を宣べ伝えることです。

クリスチャンとして生きる

Iペトロ2:1は、「だから」で始まっています。つまり、これから述べることは、これまでに述べたことに基づいているということです。すでに見たとおり、ペトロの手紙Iの第1章は、キリストが私たちのために成し遂げられたことと、私たちがそれにどう応えうるかということに関する「力作」でした。第2章において、ペトロはこの主題を取り上げ、それをさらに考えています。

Iペトロ2:1〜3を読んでください。クリスチャンには二つの義務があることを示すために、ペトロは関連性のない二つのたとえを用いています。一つは(不要なものを捨てる)否定的であり、もう一つは(しようと努める)肯定的です。

最初のたとえ(説明)においてペトロは、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」(Iペト2:1)を捨て去りなさい、とクリスチャンに勧めています。そうすることでクリスチャンは、周囲にいる多くの人とは違ったふるまいをするでしょう。彼らは悪意を捨て去ったので、ほかの人を傷つけたいとは思わず、それどころか彼らの役に立とうとするでしょう。クリスチャンは偽善を捨て去ったので、ほかの人をだますために行動したりせず、率直かつ正直にしているでしょう。クリスチャンは自分より多く持っている人をねたまないでしょう。彼らは自分の人生に満足し、神の導きによって置かれた場所で花を咲かせます。彼らはほかの人の評判を傷つけるようなことをわざと言ったりしません。

ペトロが用いている第二のたとえ——乳に飢えている赤子(Iペト2:2)——は、彼の勧めの肯定的な側面です。クリスチャン生活は、単に悪いものを捨てるだけではありません。そんな生活はむなしいでしょう。そうではなく、クリスチャン生活は、空腹の赤子が乳を求めて泣き叫ぶのと同じ激しさで霊的栄養を求める生活です。ペトロは読者に、霊的栄養の源である神の御言葉、つまり聖書を指し示しています(ヘブ4:12、マタ22:29、IIテモ3:15〜17も参照)。私たちが霊的、道徳的に成長できるのは、神の御言葉によってです。なぜなら、イエス・キリストが(少なくとも私たちにとって)最大限に啓示されているのは、その中においてだからです。そして、私たちが愛し、お仕えすべき聖なる神の御品性と御性質は、そのイエスの中に最もあらわれているのです。

生きた石

Iペトロ2:4〜8を読んでください(イザ28:16、詩編118:22、イザ8:14、15も参照)。ペトロは、霊的栄養を求めなさい、と読者に語ったあと、すぐに彼らの注意をイエス・キリスト、生きた石(エルサレム神殿のこと)に向けます。また、ペトロは、旧約聖書の三つの箇所を引用しており、それらの箇所は、教会におけるイエスの役割をあらわす隅の石の重要性を強調しています。これらの聖句をイエスに結びつけたのは、ペトロだけではありません。イエス御自身が、一つのたとえ話の締めくくり(マタ21:42)において、詩編118:22を用いておられます。ペトロはユダヤ人指導者に向けた演説の中でも同様にしています(使徒4:11)。またパウロは、イザヤ28:16をローマ9:33で用いています。

イエスは拒絶され、十字架にかけられたが、彼は神の霊的な家の隅の石として、神によって選ばれた方であった、というのがペトロの主張の要点です。そしてクリスチャンは、この霊的な家に組み込まれる生きた石です。隅の石、建築用の石といった専門用語を用いることで、ペトロは教会のイメージを表現しています。教会はイエスの上に築かれていますが、彼に従う者たちによってできます。

クリスチャンになるというのは、クリスチャン共同体か地域の教会の一部になることを意味するという点に注目してください。ちょうど一つのれんがが大きな建築物に組み込まれるように、クリスチャンは他の仲間から離れてイエスの弟子になるように召されたのではありません。神の国を広げるために、仲間のクリスチャンと一緒に礼拝したり、働いたりしないクリスチャンは、矛盾しています。クリスチャンはバプテスマを受けてキリストのものとなることによって、彼らはキリストの教会の一部となるのです。

ペトロはまた、教会の機能についても述べています。教会は、「霊的ないけにえ」をささげる「聖なる祭司」(Iペト2:5)によって構成されます。旧約聖書において、祭司は神とその民とを仲介しています。新約聖書において、ペトロやほかの聖書記者たちは、教会を神の生ける神殿、神の民を神殿の祭司として示すために、神殿や祭司といった言葉を用いています。ペトロは、今日のクリスチャンがいかに生き、行動しうるかについての真理を明らかにするために、旧約聖書の礼拝形式を指し示しています。

神の契約の民

ペトロは旧約聖書の視点から大いに書いています。そして、この視点の中心になっているのは、契約という考えであり、契約はユダヤ教神学とキリスト教神学の中心的主題です。

契約とは何でしょうか。「契約」を意味するヘブライ語の「ベリト」は、二者の間における条約とか、正式な協定を意味します。契約は、2人の個人の間(例えば、創世記31:44におけるヤコブとラバン)や2人の王の間(例えば、王上5:26〔口語訳5:12〕におけるソロモンとヒラム。新共同訳では「条約」)で結ばれることもあれば、王と民の間(例えば、サム下5:3におけるダビデとイスラエルの長老たち)で結ばれることもありました。これらの契約の中で最も目立つのは、神と神の選民(アブラハムの子孫)との間に存在する特別な契約関係です。

創世記17:1〜4、出エジプト記2:24、24:3〜8を読んでください。聖書の最初の書である創世記は、神がどのようにアブラハムと契約を結ばれたのかを詳しく記しています(創15:9〜21、17:1〜26)。神は、御自分の民をエジプトにおける苦しみから救う際に、この契約を「思い起こされ」(出2:24)ました。またモーセの時代に、十戒とそのほかの律法をイスラエルの子らにお与えになったとき、神はこの契約を結び直されました(出19:1〜24:8、特に24:3〜8)。

しかし、契約上の約束は無条件ではありません。「主は、もし彼らが主の要求を忠実に守るなら、すべての収穫物において、あるいは従事しているすべての仕事において彼らを祝福する、と契約されたのである」(『教会への証』第2巻574ページ、英文)。

確かに預言者たちは、契約を連想させる言葉をしばしば用いながら、神の律法に従わないことの危険性を繰り返しイスラエルに警告しました。ダニエル書や黙示録の預言の例外を除けば、聖書の中の多くの預言は条件付きであると言われてきました。契約上の約束にとって、それほど服従という考えは重要です。契約による祝福の預言は、神の律法への服従が条件であり、災いの預言は服従しない者たちにのみ適用されます。

王の系統を引く祭司

出エジプト記19章において、主はモーセに言われました。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出19:3〜6)。

ここには、十字架の何千年も前に明らかにされた福音のメッセージがあります。つまり、神は御自分の民を贖い、彼らを罪と罪の縄目から救い、それから彼らに、御自分と世界の前で特別な契約の民として神を愛し、神に従いなさい、と命じています。

Iペトロ2:5、9、10と出エジプト記19:6を読んでください。クリスチャンを「王の系統を引く祭司、聖なる国民」と呼ぶこの言葉は私たちセブンスデー・アドベンチストに、私たちの義務を物語っています。「霊的な家」「選ばれた民」「王の系統を引く祭司」「神のものとなった民」は、いずれも聖書の中で、神がアブラムの子孫と持っておられた特別な関係をあらわす名誉ある言葉です。今や新約聖書の中で、つまりイエスと十字架という背景の中で、ペトロは同じ契約の言葉を用いて、それを教会員に当てはめています。イスラエルに対してなされた契約上の約束が、今やイエスを信じるユダヤ人だけでなく、異邦人信徒を含むまでに広げられているのです。そうです。イエスによって異邦人も、自分はアブラハムの子孫である、と主張できます。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(ガラ3:29)。キリストによってだれでも、生まれに関係なく、この「王の系統を引く祭司」の一員になることができるのです。

力ある業を広く伝える

旧約聖書の教会との類似点は、救いや、神によって召され、選ばれたことだけではありませんでした。問題は、何のために召され、何のために選ばれたのかということです。ペトロはすぐに答えています。

この特別な関係は一つの目的のためだと、ペトロは指摘しています。「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(Iペト2:9)。これは、古代イスラエルがしなければならなかったことです。神が彼らを召されたのは、この世に対する神の証人とするためでした。神の目的は、古代イスラエル、つまり御自分の契約の民を通してこの世を祝福することだったのです。

次の聖句を読んでください(申4:6、26:18、19、イザ60:1〜3、ゼカ8:23)。契約の民である古代イスラエルは、主によって与えられた救いという福音をこの世に届けるという使命を持っていました。クリスチャンも同じ天来の使命を持っています。クリスチャンは、神に関する彼らの体験や知識、また神がキリストによってこの世のために成し遂げてくださったことを、ほかの人に伝えるために召されているのです。

Iペトロ2:10を読んでください。この聖句は、クリスチャンのあらゆる使命と目的にとって、重要です。この世は、罪や死や差し迫った破滅にあふれています。しかしイエスは、この滅びから全ての人を救うためにご自分の命を与えてくださいました。古代イスラエルと同様、名誉という言い方は、責任という言い方でもあるのです。クリスチャンは極めて高い地位、神の民という地位にいます。しかしこのことは、ほかの人を招いてその高い地位を共有させるという責任をもたらすのです。Iペトロ2:10が述べているように、今やクリスチャンは自ら一つの民を形成しています。彼らはかつて民ではありませんでしたが、今や憐れみを受けて聖なる民になったのです(ホセ1、2章参照)。聖書において、「聖なる」という言葉は、礼拝のために分離されることを通常意味します。ですから、「聖なる」民であるクリスチャンは、この世から分離されなければなりません。彼らの生き方に違いが見られなければならないのです。クリスチャンはまた、人々をその温かさのゆえに引きつける、寒い夜の火のようでなければなりません。クリスチャンは、彼らがあずかった輝かしい救いをほかの人にも伝える任務を課せられています。

さらなる研究

「教会は、神の目に非常に尊いものである。その外面の装いではなく、世とは全くかけ離れた誠実な敬神さのゆえに、神は教会を重んじられるのである。神は、その教会員がキリストを知る知識にどの程度成長しているか、また、霊的な経験にどの程度進んでいるかによって教会を評価なさる。

キリストはそのぶどう園から、清潔と無我という実を得たいと渇望しておられる。キリストは、愛と善意の原則を求めておられる。いかなる美術品であっても、キリストの代表者である人々のうちに、現されるべき性質と品性の美には匹敵できない。信ずる者を生命から生命に至る香りとし、そのわざに神の祝福をもたらすものは、彼の魂をつつむ恵みの雰囲気である」(『希望への光』1302ページ、『キリストの実物教訓』277ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。

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