【ペトロの手紙1・2】ペトロの書簡の中のイエス【1章解説】#8

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ペトロの手紙Iをここまで学んできたので、内容の背景がどうであれ、扱っている具体的問題が何であれ、ペトロの目がイエスに向けられていることは、すでにはっきりしています。ペトロの文章のあらゆる部分に、イエスが染み込んでおられます。それはこの手紙に織り込まれた金の糸です。

ペトロが、自分は「イエス・キリストの使徒」であると書いた最初の行から、「キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように」(Iペト5:14)と書いた最後の行に至るまで、イエスが重要な主題です。そして、彼はこの書簡において、私たちの犠牲としての死について語っています。また、イエスが体験された大きな苦難について語り、その苦難の中でのイエスの模範を私たちの手本としています。ペトロは、イエスの復活とその意味について語ります。さらに彼は、イエスを救い主、つまり「キリスト」(油を注がれた者)としてだけでなく、神なる救い主としても語ります。つまり、私たちはペトロの手紙Iの中に、イエスの神としての御性質に関する多くの証拠を見るのです。イエスは神御自身であり、私たちが永遠の命の希望と約束を持つために肉体を取り、生き、死なれたのでした。

私たちは今回、ペトロの手紙Iの全体を振り返り、それがイエスについて明らかにしていることを詳しく調べます。

イエス——私たちの犠牲

聖書の重要な主題の一つ、たぶん最も重要でさえある主題は、堕落した人類の救済における神の働きという主題です。創世記におけるアダムとエバの堕罪から、黙示録におけるバビロンの倒壊に至るまで、聖書はさまざまな形で「失われたもの」(ルカ19:10)を救おうとする神の働きを明らかにしています。そしてこの主題は、ペトロの手紙の中にもあらわれています。

Iペトロ1:18、19、コロサイ1:13、14を読んでください。Iペトロ1:18、19

は、イエスの死の意味を次のように説明しています。「知ってのとおり、あなたがたが……贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」。この聖句の中には、二つの重要なたとえ(象徴)があります。「贖い」と「動物の犠牲」です。

「贖い」という言葉は、聖書においていくつかの意味で用いられています。例えば、(犠牲にできない)ロバの初子や男の子の初子(出34:19、20)は、代わりの小羊によって贖われました。お金を使うことで、貧しさのために売られてしまったものを買い戻す(贖う)こともできました(レビ25:25、26)。最も重要なのは、ユダヤ人奴隷が買い戻せたことです(レビ25:47〜49)。ペトロの手紙Iは読者に、「先祖伝来のむなしい生活」(Iペト1:18)から彼らを買い戻す(贖う)ための犠牲は、「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」(同1:19)にほかならなかったと伝えています。言うまでもなく、小羊というたとえ(象徴)は、動物の犠牲(いけにえ)を連想させます。

このようにペトロは、キリストの死と旧約聖書における犠牲の動物の死を結びつけています。罪を犯した人は、傷のない羊を連れて来ました。そして、彼の手をその動物の頭に置きます(レビ4:32、33)。その羊はほふられ、その血の一部は祭壇に塗られ、残りは祭壇の基に流されました(同4:34)。犠牲の動物の死は、その犠牲をささげた人に「贖い」を提供しました(同4:35)。イエスは私たちの代わりに死なれ、彼の死は私たちを以前の人生と(さもなければ私たちのものとなったであろう)運命から贖ったのだと、ペトロは言っています。

キリストの受難

クリスチャンは「キリストの受難」についてよく語ります。英語のパッション(受難)という言葉は、「苦しむ」という意味のギリシア語の動詞から派生したもので、「キリストの受難」という言葉は、たいていの場合、エルサレムへの勝利の入場に始まる彼の生涯の最後の期間に彼が苦しまれたことを指します。ペトロも、その最後の日々のキリストの苦しみという主題にこだわっています。

Iペトロ2:21〜25、イザヤ53:1〜12を読んでください。イエスの苦しみには、特別な意味があります。彼は、「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」(Iペト2:24)。罪は死をもたらします(ロマ5:12)。罪人である私たちは、死に値します。しかし、完全なキリスト——その口に偽りがなかった方(Iペト2:22)——が、私たちに代わって死なれました。その引き換えに、私たちは救いを持っているのです。

問1

イザヤ53:1〜12を読み直してください。この箇所は、イエスが私たちのために救いの計画を実行されたとき、何に苦しまれたと述べていますか。このことは、神の御品性について何を物語っていますか。

「サタンは激しい試みでイエスの心を苦しめた。救い主は墓の入口から奥を見通すことがおできにならなかった。キリストが征服者として墓から出てこられることや、犠牲が天父に受け入れられることについて望みは与えられなかった。キリストは、罪が神にとって不快なものであるため、ご自分と神との間が永久に隔離されるのではないかと心配された。キリストは、不義の人類のためにあわれみのとりなしがやんだ時に罪人が感じる苦悩を感じられた。キリストが飲まれたさかずきをこんなにもにがいものとし、神のみ子を悲しませたのは、人類の身代りとしてキリストに神の怒りをもたらしている罪についての観念であった」(『希望への光』1075ページ、『各時代の希望』下巻275ページ)。

イエスの復活

Iペトロ1:3、4、21、3:21、ヨハネ11:25、フィリピ3:10、11、黙示録20:6を読んでください。すでに触れたように、ペトロの手紙Iは、イエスに対する信仰のゆえに苦しんでいる人々に宛てて書かれています。それゆえ、手紙のまさに冒頭で、ペトロが読者の注意を、彼らを待ち受けている希望に向けさせていることは、極めて適切です。彼が述べているように、クリスチャンの希望は、ほかならぬイエスの復活に基づく希望であるので、生き生きとした希望です(Iペト1:3)。イエスの復活のゆえに、クリスチャンは朽ちることのない天の財産を期待することができます(同1:4)。言い換えれば、どんなに状況が悪くなろうと、すべてが終わるときに私たちを待っているものを考えなさい、ということです。

確かに、死者の中からのイエスの復活は、私たちも復活しうることの保証です(Iコリ15:20、21)。パウロはそのことを、「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(Iコリ15:17)と述べています。しかし、イエスが死者の中から復活されたので、彼は死そのものを打ち破る力があることを示されました。それゆえ、クリスチャンの希望は、キリストの復活という歴史的な出来事の中にその根拠を見いだせます。キリストの復活は、終末時代における私たちの希望の土台です。

その希望と約束がなければ、私たちはどうなるでしょうか。キリストが私たちのために成し遂げられたすべてのことは、復活の約束において完結します。それがなければ、私たちにはどんな希望があるでしょうか。なぜなら、私たちは、一般的なキリスト教信仰とは違う、死者が墓の中で眠った状態にあることを知っているからです。

「クリスチャンにとって死は眠り、一瞬の沈黙と暗黒にすぎない。生命はキリストと共に神のうちにかくされ、『キリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう』(コロサイ3:4)。……再臨の時にはすべての死せるとうとい人々がキリストの声を聞いて、輝かしい永遠の生命に入るのである」(『希望への光』1092ページ、『各時代の希望』下巻318、319ページ)。

メシアとしてのイエス

先に触れたように、イエスの地上での働きにおける重要な転換点の一つは、彼が何者かという質問への返事として、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)と答えたときでした。「キリスト」(ギリシア語で「クリストス」)という言葉は、「油を注がれた者」「メシア」(ヘブライ語で「マシアハ」)を意味します。「メシア」という言葉は、「油を注ぐ」という意味の言葉に根差しており、旧約聖書の中では、さまざまな状況で(異教徒の王キュロスを指す箇所〔イザ45:1参照〕においてさえ)用いられています。それゆえ、ペトロがイエスをキリストと呼んだとき、彼は旧約聖書に基づく理想的な人をあらわすためにこの言葉を使っていました。

旧約聖書の中で、「メシア」「油を注がれた者」という言葉が使われている次の聖句を読んでください。詩編2:2、18:51〔口語訳18:50〕、ダニエル9:25、サムエル記上24:7〔口語訳24:6〕、イザヤ45:1。ペトロは主に触発されて、イエスをメシアと宣言しましたが(マタ16:16、17)、間違いなく、彼はそのことの意味を十分にはわかっていませんでした。メシアとはだれなのか、メシアは何を成し遂げるのか、そしておそらく最も重要なことに、メシアはそれをどのように成し遂げるのか、ペトロは明確には理解していませんでした。

そのような理解に欠けていたのは、ペトロだけではありませんでした。イスラエルには、メシアに関して多くの異なる考えがあったからです。先の聖句における「メシア」「油を注がれた者」という言葉の使い方自体が、最終的にメシアがどうなり、何をするかをかなり予示していたにしろ、全体像を示していません。

ヨハネ7:42は、メシアに期待(予想)されていたことのいくつかを明らかにしています。メシアはダビデの子孫であり、ベツレヘムの村から出るのです(イザ11:1〜16、ミカ5:2)。その部分は、そのとおりになりました。しかし、一般的なイメージだと、ダビデの家系から出るメシアは、ダビデがしたことをするのです。つまり、ユダヤ人の敵を倒すのです。ローマ人によって十字架につけられるメシアなど、だれも予想しませんでした。

言うまでもなく、ペトロはこの書簡を書くときまでには、メシアとしてのイエスを(二つの書簡の中で、メシアは15回イエス・キリストと呼ばれています)、また彼が人類のために成し遂げられたことのすべてを、もっとはっきり理解していました。

イエス——神なるメシア

ペトロは、イエスがメシアであるだけでなく、主であることも知っていました。つまり、これらの書簡が書かれたときまでに、ペトロは、メシアが神御自身であることを知っていました。「主」という称号は、世俗的な意味も持ちえますが、この言葉は神性を明確に意味します。Iペトロ1:3、IIペトロ1:8、14、16において、ペトロはイエス・キリストを主、神御自身と呼んでいます。

新約聖書のほかの記者と同様、ペトロはイエスと神との関係を「子」と「父」という言葉であらわしています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(Iペト1:3)という聖句は、その一例です。イエスは「愛する子」(IIペト1:17)と称され、主としてのイエスの権威の一部と天の地位とは、彼が父なる神との間に有するこの特別な関係に由来しています。

IIペトロ1:1、ヨハネ1:1、20:28を読んでください。IIペトロ1:1には、「わたしたちの神と救い主イエス・キリスト」と書かれています。原語のギリシア語では、同じ定冠詞が「神」と「救い主」の両方に用いられており、このことは、イエスが「神」でも「救い主」でもあることを文法的に意味します。従ってこの聖句は、新約聖書の中でイエスの完全な神性をはっきり明示する箇所の一つとして存在しています。

初期のクリスチャンはイエスを理解しようと努力しながら、新約聖書の中の証拠を次第にまとめていきました。ペトロの書簡の中では、新約聖書のほかの部分と同様、父、子、聖霊がはっきりと区別されています(例えば、父、子に関しては、Iペト1:3、IIペト1:17、聖霊に関しては、Iペト1:12、IIペト1:21)。しかしその一方で、イエスは、聖霊と同様、完全に神として描かれています。長い期間をかけ、多くの議論を重ねたのち、教会は、神の聖なる神秘を可能な限りうまく説明する「三位一体」という教理を生み出しました。アドベンチスト教会もこの三位一体の教理を「信仰の大要」の中に一つの項目として含めています。このように私たちは、ペトロが彼の書簡の中でイエスをメシアとしてだけでなく、神御自身としても明瞭に表現しているのを見るのです。

さらなる研究

「『メシア』という言葉で始めることは、キリスト教会の名前の由来がギリシア語の同義語『クリストス』(油を注がれた者)にあるのだから、理にかなっているように思える。そのヘブライ語は、ユダヤ人が待望していた解放者、新しい時代の幕開けに、神の民のために神の代理人となる解放者と関係している。これらのヘブライ語もギリシア語も、『油を注ぐ』ことを意味する語根から派生した言葉である。新約聖書の記者たちはイエスを『キリスト』と呼ぶことによって、特定の働きのために特別に聖別された方と明らかにみなしていたのである。

『クリストス』という称号は、新約聖書の中に500回以上登場する。イエスの同時代人の間には、メシアという身分に関して複数の概念があった。しかし西暦1世紀までに、ユダヤ人はメシアを神と特別な関係にある者とみなすようになっていた、と一般的に認識されている。メシアは、神の国が樹立されるときに、時代の終わりの到来を告げるのである。神は彼を通して、御自分の民を解放するために歴史に介入される。イエスは『メシア』という称号を受け入れられたが、それを使うように勧めることはなかった。なぜなら、この言葉には、その使用を難しくさせる政治的なニュアンスが伴っていたからである。イエスは御自分の使命を説明するために、その言葉を公の場で使うことはためらわれたが、それを使ったことでペトロ(マタ16:16、17)やサマリアの女(ヨハ4:25、26)を責めることはなさらなかった。マルコは、『キリストの弟子だという理由で』(マコ9:41)彼の弟子の1人に1杯の水を与えることに関してイエスが語られたことを報告しているが、その報告からわかるように、イエスは御自分がメシアであることをご存じだったのである」(『SDA聖書注解』第12巻165ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。

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