【ペトロの手紙1・2】ペトロの手紙における大きな主題【解説】#13

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ペトロの手紙I・IIは、実際的な目的のために書かれました。手紙Iにおいてペトロが取り組んだ問題は、クリスチャンが直面していた迫害であり、手紙IIにおける重大な問題は、偽教師でした。ペトロは読者を励ますとともに、彼らの前に立ちはだかる挑戦に関して警告しようと、強く、権威をもって書きました。

重要なのは、ペトロがいずれの問題にも神学的用語で対応していることです。迫害によって生じる苦しみは、私たちに救いをもたらしたイエスの苦しみと死をペトロに思い返させました。偽教師たちは、イエスがこの地球に戻られたあとに行われる裁きに直面することになります。こういったことが、二つの手紙の中でペトロが扱っている主題の一部です。

今週の最後の研究では、ペトロが書いた次の五つの主題について、もう少し詳しく考えます——私たちに救いをもたらしたイエスの苦しみ、神が最後の裁きにおいて私たちの行動を裁かれるという知識に対する私たちの実際的な対応、イエスの速やかな来臨に寄せている私たちの希望、社会や教会における秩序、私たちの人生に指針を与えることにおける聖書の役割。

苦しみ、イエス、救い

問1

Iペトロの次の聖句を読み、それぞれが救いについて明らかにしている点を書き留めてください。1:2、8、9、18、19、2:22〜25、3:18

ペトロが救いについて語るとき、それは大抵の場合、罪人の身代わりとしてのイエスの苦しみとの関連においてです。例えば、ペトロはIペトロ2:22〜24において、イザヤ53:6、9を反映する言葉を用いながらイエスの苦しみについて語っています。「〔イエスは〕十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。……そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(Iペト2:24)という言葉は、身代わりと犠牲という考えを示しています。

旧約聖書に記されている犠牲において、罪人は献げ物を神殿に携えて行き、手をその上に乗せました。この行為は罪人の罪を動物へ象徴的に移すもので、その後、動物は罪人の代わりに殺されました(レビ4:29、30、33、34、14:10〜13)。祭壇に蓄積された汚れは、贖罪日に清められ、取り除かれました(同16:16〜19)。

犠牲の血は、罪の贖いにおいて重要な役割を果たしました。クリスチャンは、イエスの尊い血によって買い取られました(Iペト1:18、19)。パウロもまた、同じ身代わりの考えを伝えています。罪と何の関わりもないイエスが、私たちのために罪となされた(IIコリ5:21)、と。Iペトロ3:18が述べているように、キリストは罪のために苦しまれました。正しい方(イエス)が、悪人(私たち)のために苦しまれたのです。

パウロと同様(ロマ3:21、22)、ペトロは信仰の必要を強調しています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し……ています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Iペト1:8、9)と述べています。救いは信心深い行為によっては得られません。私たちのためにイエスが成し遂げられたことを信じ、個人的救い主として受け入れるときに与えられます。私たちの確信は、イエスの中にあります。もし確信が私たち自身の中にあるとするなら、どんな現実的な確信を私たちは持つことができるでしょうか。

私たちはいかに生きるべきか

ペトロが何よりも頻繁に立ち戻っている主題は、IIペトロ3:11で彼が問いかけた質問によって提示されています——「このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません」

問2

次の聖句を読んでください(Iペト1:15〜17、22、2:1、3:8、9、4:7〜11、IIペト3:11)。クリスチャンの行動について、ペトロは何と言っていますか。

ペトロは二つの手紙における多くの箇所で、クリスチャンの行動に注目しており、多くの主題が繰り返し出てきます。

第一に、神の裁きとクリスチャンの行動のつながりをペトロは強調しています(Iペト1:17、IIペト3:11)。神はすべての人の行動を裁かれるでしょう。それゆえ、クリスチャンは清い人生を送らなければなりません。

第二に、クリスチャンは聖なる者にならなければならないと、ペトロは何度も述べています。旧約聖書において、聖なるものは、神殿での使用や(出26:33、34、28:36、29:6、37)神の御目的(例えば、創2:3における安息日)のために取りのけられます。実際、神の御計画は、神の民が神のように聖くなることであり、ペトロはその主題にも触れています(レビ11:44、19:2、Iペト1:15、16)。何かを聖いものとして取りのける過程は「聖化」と呼ばれ、ペトロの願いは、彼の読者が聖霊によって聖なる者とされ、イエスに従うことです(Iペト1:2)。

第三に、聖化される人たちにふさわしい行動について、ペトロはいくつか細かい点を挙げています。彼らは、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去らねばなりません(Iペト2:1)。彼らは、霊において、同情心において、謙虚な心において一致し(同3:8、9)、徳、信心、そして愛を持っていなければなりません(IIペト1:5〜7)。

再臨の希望

問3

次の聖句を読み、未来の出来事について言われていることを書き留めてください。Iペト1:4、1:17、4:5、6、4:17、IIペト3:1〜10

ペトロの手紙Iを初めて読んだり、聞いたりした人たちが直面していた重大な問題の一つは、迫害でした。ペトロはその読者を次のような考えによって慰めています——彼らの今の生活は、迫害によって妨げられているかもしれませんが、天では彼らの報いが、取り去られることのない報いが待ち受けているのだ、と。彼はペトロの手紙Iの書き出し部分で、クリスチャンには朽ちることのない資産が天に蓄えられている、と述べています(Iペト1:4)。

ペトロは、未来に起こる二つのこと、つまり最後の裁きと火による悪の滅びを強調しています。言い換えれば、現在は迫害があるけれども、未来には公平な裁きがなされ、信徒は永遠の報いを受けるということを、彼は示しています。

ペトロは三つの別の箇所で、裁きについて語っています(Iペト1:17、4:5、6、17)。彼は、父なる神がすべての人間を彼らの行為に従って公平に裁かれると言い(同1:17)、イエス御自身が生きている者と死んだ者を裁こうとしておられると指摘しています(同4:5)。彼はまた、裁きは神の家から始まるという興味深い所見を述べています(同4:17)。ペトロは、「不信心な者たち」が世界規模の火の嵐によって滅ぼされることも強調しています(IIペト3:7)。

ペトロは、イエスが本当に戻られるのかどうかということに関して起こった問題を扱っています(IIペト3:1〜10)。ここで彼は、イエスの再臨の「遅れ」は、より多くの人が悔い改めて救われるためなのだ、と指摘しています。また、みんなが、未来の報いの確かさによって、聖く、汚れのない生活を送るためだ、とも指摘しています。

このように、ペトロが現世と実際的なクリスチャンの生き方に注目していようと、彼は読者の前に、未来の希望を提示し続けています。要するに、現在の状況がどうであれ、彼らは信仰と服従によって前進する必要があるということです。

社会と教会における秩序

問4

Iペトロ2:11〜21、5:1〜5を読んでください。政府や教会の指導者の重要性について、また、両者に対するクリスチャンの応じ方について、ペトロはこれらの聖句の中で何と言っていますか。彼の言葉は、私たちの生きている場所にかかわらず、いかに現在の私たちの状況に適用されるべきでしょうか。

ペトロが生きていたのは、クリスチャンが政府や宗教の権威者によって迫害を受けていた時代でした。この事実は、ペトロやパウロが政府の権威者の適切な役割について言わねばならなかったことを、一層重要なものにしています(Iペト2:13〜17、ロマ13:1〜7)。2人にとって、政府の権威者は、悪を行う者たちを阻止する役割を果たすために、神によって置かれたものでした。言うまでもなく、統治する権力者が問題になる時代はあります。クリスチャンは、ペトロの時代にこのことに直面しており、長年にわたって、その状況は悪くなるばかりでした。

しかし一般的な考えでは、良い政府は法律や秩序や安全を守るものです。現在も、法律や秩序が壊されている実例はありますし、分別のある政治の切実な必要性をだれもが目にすることができます。良い政府が神から人間に与えられた祝福の一つであるというのは、確かです。

ペトロは、教会をよく統治することは重要だというパウロの確信を、間違いなく共有していたでしょう。パウロは、教会の礼拝において「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」(Iコリ14:40)と主張しています。同様にペトロも、「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」(Iペト5:2)と教会の指導者たちに求めています。彼らは謙虚さと配慮をもってそうしなければなりません。個々の教会はきちんと導かれる必要があります。良い指導者はビジョンと一貫性を与え、教会員が各自の霊的な賜物を神の栄光のために用いることができるようにします。

聖書の重要性

問5

Iペトロ1:10〜12、IIペトロ1:16〜20、3:2、16を読んでください。聖書は、それが今日の私たちの生活や信仰においてどのような役割を果たすべきかを理解するうえで助けとなります。その聖書について、これらの聖句は何と言っていますか。

第二の手紙において、ペトロは偽教師に立ち向かいます。次のように言うことで、読者の目を権威の二つの源に向けています——「聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです」(IIペト3:2)。今日、私たちは、「聖なる預言者たち」の言葉を知るために旧約聖書を持っています。生きている使徒には会えませんが、私たちにはそれよりも良いものが与えられています。新約聖書の中で明らかにされている、霊感を受けた彼らのあかしです。四福音書は、イエスの人生、死、復活に関する信頼のおける物語を残しました。使徒言行録には、使徒たちの働きが収められています。私たちは、霊感を受けた使徒たちの言葉を確かに読むことができます。パウロは、神のみ言葉の権威について力強く書いています(IIテモ3:16)。そして、ペトロは読者の目を、教理的、道徳的権威の源としての聖書に向けています。

ペトロはIIペトロ3:16において警告しています——聖書は真理の源であるけれども、聖霊が私たちに理解させようとしておられるメッセージに細心の注意を払わなければ、その真理の源自身が誤解され、おそろしい結果を招きうる、と。

ペトロの言葉は、聖書を学ぶための基本的原則を現在の私たちに思い出させるものです。私たちは祈りつつ聖書の一節を読まねばなりません。私たちはそれを、章、書、聖書全体の背景に即して読まなければなりません。聖書記者は、書いたとき、何に的を絞って語っていたのでしょうか。私たちは書かれた時の歴史的状況に照らして読むべきです(ペトロの手紙I・IIの場合、1世紀のローマ帝国でしょう)。私たちは霊的洞察を求めつつ、また、聖書のメッセージの中心がキリストの犠牲的死によってもたらされた救いであること(Iペト1:10〜12)を承知のうえで、読まなければなりません。そして最後に、私たちは、私たち自身の生活とのつながりにおいて読むべきです。神は、どんな真理を私たちに受け取らせたいと願っておられるのでしょうか。私たちは神のみ言葉を、神の国に積極的な貢献をする形で、いかに私たち自身の生活に適用できるのでしょうか。

さらなる研究

深刻な神学の中においても、ペトロの手紙は、クリスチャン生活とクリスチャン同士の接し方を非常に重視しています。言い換えれば、私たちは真理を、イエスが知っておられたように知る必要があるということです。しかし、それより重要なのは、私たちも真理を生きることです。私たちは早い段階で次のような重要な言葉を得ています。すなわち「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(Iペト1:22)。彼が、真理に従うことと魂を清めることを結びつけている点に注目してください。真理は私たちを変え、私たちを「清い心」で熱く愛し合う人間にします。服従、心の清さ、そして愛——これら三つは互いに関係しており、これが私たちの追い求めるべき理想です。もし私たちがこの命令に従うなら、私たちの生活や教会がいかに変わるか、あなたは想像できるでしょうか。ほかのことはともかく、それが教会の連帯感にどんな貢献をするか、考えてみてください。

「兄弟がた、あなたは自分の家や教会へ帰るとき、キリストの精神を伴っているだろうか。不信や批判を捨てているだろうか。私たちは、これまで以上に団結し、一致して働く必要のある時代に来ている。一致には力がある。しかし、不和や不一致には弱さしかない」(『セレクテッド・メッセージ』第2巻373、374ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。

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