【アモス書】自分の神と出会う備えをせよ【4章解説】#4

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アモスはまずイスラエルの女たちを叱責し、彼女たちをバシャンの「雌牛ども」と呼んでいます。バシャンはヨルダン川の東にある牧草地で、ぜいたくな暮らしをしていた圧迫者たちの妻を象徴していました。実利主義に溺(おぼ)れたこれらの人たちは、最初にその富を失い、捕囚となるのでした(アモ4:1~3参照)。次に、イスラエルを悔い改めに導くための5つの刑罰を警告しています。しかし人々は預言者の言葉に耳を傾けませんでした。そのため彼らは神の裁きに直面したのでした。その理由はイスラエルの人々が悔い改めなかったからであり、悔い改めない世界も同じです。「『自分の神と出会う備えをせよ』(アモ 4:12)。これは世に伝えるべき警告である。それは私たち一人ひとりに対する警告である。私たちは……キリストと一つになるように求められている」(『セレクテッド・メッセージ』第 2巻 116ページ)。

バシャンの雌牛ども(アモ4:1~3)

「弱い者を圧迫し、貧しい者を虐げ(しいた) る女たちよ」(アモ4:1)。主が特に不快なものとして挙げておられる罪に注目してください。「雌牛ども」と呼ばれているこれらの女たちは、貧しい人々を虐げていました。彼女たちについて具体的に述べてはいませんが、「これらの女たちが、ぜいたくと遊興のための富を手に入れるために夫に強制していた暴力と詐欺(さぎ) を暗示しているかもしれません」(『SDA聖書注解』第4巻966ページ)。要点として、これらの女たちは自分自身の個人的な利得のために、貧しい人々を虐げていたということです。

問1

貧しい人々を圧迫することはどれほど罪深いことでしょうか。マタ25:35~ 40

この虐待と結びついているのが貪欲(どんよく) と金銭欲です(Iテモ 6:10)。裕福な人々は貧しい人々を犠牲にしてでも豊かになろうとします。アモス書にあるこれらの女たちは夫を利用して自らの富と快楽を手に入れようとしました。聖書は決して金持ちを非難しているわけではありませんが、貧しい人々を虐待し、だましてまでお金を手に入れようとする人々に対しては明らかに警告しています。

神の聖

「主なる神はご自分の聖なることによって誓われた」(アモ4:2、口語訳)。

問1

神が民を罰することを「聖なるがゆえに誓われた(英文)」とはどういうことでしょうか。

神の聖が処罰を要求するのでしょうか。神が罪を拒まれることは確かです。ある人たちは、神が罪を(お受け入れにならないのではなく)お受け入れになることができないと考えます。神の全く聖なる性質がそれを許さないからです。またある人たちは、神は聖なるお方であるので、罪を罰せずにはおられないと言います。この聖句にどんな意味があるにせよ、神は罪を犯し、悔い改めようとしない人々を罰せられることは明らかです。

【聖なる神のご性質を示す聖句】

  • 「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる」(イザ 57:15)。
  • 「神は光であり、神には闇が全くない」(Iヨハ1:5)。
  • 「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」(レビ11:44)。
  • 「彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う』」(イザ 6:3)。
  • 「我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方」(詩99:9)。
  • 「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり」(ヨシュ24:19)。
  • 「お前は誰をののしり、侮ったのか。誰に向かって大声をあげ/高慢な目つきをしたのか。イスラエルの聖なる方に向かってではなかったか」(列王下19:22)。
  • 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(黙示4:8)。

皮肉に満ちた招き(アモ4:4、5)

神はアモスを通し、あらゆる手段を用いてイスラエルの注意を喚起しておられます。警告を彼らに理解させるためです。アモス4:4、5では、皮肉を用いて、イスラエルの民に偶像礼拝の本拠地であるベテルとギルガルに行くように招いておられます。彼らが偽りの礼拝にいかに熱心であるかを示すためでした。

問1

背教の避けられない結果は何でしょう。ホセ9:17

預言者ホセアは背信的な国民の象徴として、イスラエル部族内の背信の指導者エフライムについて言及しています。10部族はやがて「諸国にさまよう者」となるのでした。国を弱体化させるこれらの原因を取り除く代わりに、指導者たちはうぬぼれ、異教の民と同盟を結ぶことによって政治的な権力を手に入れようとたくらみました。

「ベテルの祭壇の前に現れた神の人により、また、エリヤやエリシャ、アモスやホセアによって主は、くり返し、十部族に不服従の罪を指摘した。しかし、イスラエルは、譴責(けんせき) と勧告を受けたにもかかわらず、ますます、背信の深みに沈んでいった。『イスラエルは強情な雌牛のように強情である』。『わが民はわたしからそむき去ろうとしている』(ホセ4:16、11:7)。

天からの刑罰が、反逆した民の上に厳しくくだった時があった。神は言われた。『それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わが口の言葉をもって彼らを殺した。わがさばきは現れ出る光のようだ。わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よ(はんさい) りもむしろ神を知ることを喜ぶ。ところが彼らはアダムで契約を破り、かしこでわたしにそむいた』(同 6:5~7)」(『国と指導者』上巻248,249ページ)。

「お前たちはわたしに帰らなかった」

問1

アモス4:6~11節で警告された神の5つの罰は何でしょうか。

聖句に示されている最も悲しいことは、恐るべき刑罰がイスラエルに臨むということよりも、イスラエルが繰り返しそれらの刑罰から教訓を得ることを拒み続けてきたということです。それぞれの聖句には、「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」という表現が鍵となる言葉として語られています。これらの刑罰はすべて同じ目的を持っていました。その目的とは、イスラエルを罪から離れさせ、主に立ち帰らせることでした。

これらの聖句に用いられている「帰る」という言葉は、「悔い改め」を意味するヘブライ語から来ています。語根の“シュブ”は“テシュバ”(帰る)の基礎となっている語で、一般的には「悔い改め」を意味します。悔い改めは確かに信仰生活において重要な要素です。「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」という表現の最後の言葉を“テシュバ“に置き換えると、「しかし、お前たちは悔い改めなかった」となります。

悔い改めについて述べている次の聖句を調べてください。マルコ2:17、ルカ 15:7、使徒 20:1、21、ローマ 2:4、ヘブル 6:1、黙示録 3:19、2:21。それらは直接的な意味で、神に立ち帰ることについて何と教えていますか。神に立ち帰るという思想は悔い改めを理解する上でどんな助けになりますか。

自分の神と出会う備えをせよ

「かつて、神がソドムとゴモラを覆し(くつがえ) たようにわたしはお前たちを覆した。/お前たちは炎の中から取り出された燃えさしのようになった。/しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる。/それゆえ、イスラエルよ/わたしはお前にこのようにする。/わたしがこのことを行うゆえに/イスラエルよ/お前は自分の神と出会う備えをせよ」(アモ4:11、12)。

聖書は、裁きがあることをはっきりと教えています。繰り返しご自分を正義のお方として示しておられる神(申命 32:4、イザ45:21、エレ23:5)が、世の終わりに裁きを執行されないということは考えられません。あまりにも多くの罪、不義、悪が地上に行われています。正義の神はいつの日にか必ずその正義を現されるはずです。正義の神がその正義を執行されないということはありえません。

問1

神はイスラエルの民に「会うための備えをせよ」と言われました。これは救いと希望のメッセージでしょうか。それとも恐怖に満ちた裁きのメッセージでしょうか。あなたはこの聖句をどのように受け取りますか。

神はキリストを通してその救いの愛を豊かに私たちに啓示してくださいました。天は人類を救うために大いなる犠牲を払ってくださいました。しかし、神は決して私たちの意志を強制されません。人が忠実に、謙虚に、従順に神に仕えるか否かという重大な決定は、その人の選択にゆだねられています。生死を分けるこの決定に比べれば、ほかの選択はどれも取るに足らないものです。遅かれ早かれ、私たちの選択は永遠に封印されるのです。これが、アドベンチストの言う、いわゆる「恩恵期間の終了」です。

まとめ

預言者を通してイスラエルは「神に帰る」ことを充分に警告されました。人々はそれを拒み、裁きが来ました。実に明快な事実です。

イスラエルの恩恵期間の終了と、この世界の最終的な恩恵期間の終了との関係について、次の引用文を読んでみましょう。

「『イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け』という言葉が、ついに彼らに語られた。『あなたはあなたの神の律法を忘れたゆえに、わたしもまたあなたの子らを忘れる。彼らは大きくなるにしたがって、ますますわたしに罪を犯したゆえ、わたしは彼らの栄えを恥に変える。……わたしはそのわざのために彼らを罰し、その行いのために彼らに報いる』(ホセ 4:1、6~9)」(『国と指導者』上巻 249ページ)。

「不運なイスラエル王国の最後の年月は、アハブ家の治世下における最悪の争闘と不安の時代でさえ見ることができなかった暴力と流血のはなはだしい時であった。2世紀以上にわたって、十部族の王たちは、風をまいてきた。そして、今、彼らは、つむじ風を刈り取っていた。王は、次々に暗殺されて、野望をもった他の者がそれに代わった。……正義の原則は、すべて破棄された。神の恵みの保管者として地の国々の前に立たなければならなかった者が、『主にむかって貞操を守らず』互いに裏切り合った(ホセ5:7)」(『国と指導者』上巻 247ページ)。

「キリストを裏切り、拒絶したときにエルサレムで見られた取引の光景は、世界の歴史においてキリストが最終的に拒絶されるときに見られる光景を表しています。宗教界は最初の大いなる反逆者に加担し、神の戒めとイエスの信仰に関する憐れみのメッセージを拒否します」(『SDA聖書注解』第5巻1107ページ、エレン・G・ホワイト注)。「神はこの世と、また大いなる変節者の虚偽を受け入れ、キリスト教会のすべての人々に迎合し、神の律法を捨てる自称クリスチャンと論争されます」(『原稿』第 40号、1897年)。34

ミニガイド【預言者アモスのきつい言葉】

「この言葉を聞け」で始まるアモスの弾劾(だんがい) は厳しいものでした。そこには逆なでするような挑発、衝撃的な隠喩(いんゆ) 、皮肉が込められています。そして「しかし、お前たちはわたしに帰らなかった」との神の言葉がさびしく 4章の中に繰り返されています。

「バシャンの雌牛どもよ」(4:1)ある田舎町のクリスチャン農夫が高級文化都市パリの婦人協会に招かれて講演をすることになったとします。着飾った淑女、身分が高い女性たちが集ったとき、彼はアモス書を引用して、「さあ、聞きなさい、あなたたちパリに住む雌牛の群れよ」と切り出し、身分が高いと称する女性たちの低い倫理とアルコール飲料の過度の摂取を叱責する話をしたとしたら……。

アモスの説教は女性たちに向けた侮辱的表現であり、注目を集めるというより、怒りを喚起することを意識したのかもしれません。方法の是非は別として、彼は直ちに断罪と神の審判を告知したのでした。妻たちの求めにさっそく従う夫たちも非難しているのです。アモス書は以降男性たちに集中します。アモスは女性の社会における重要性と責任を理解し、意識してあえてこう語ったのでしょう。もしアモスが偏見を持っていたとしたら、それは悪に対してであって女性に対してではありません。女性、男性に限らず市民全体に向けられた警告でした。貧しい者からの搾取や過度の飲酒への耽溺(たんでき) は、男女を問わず罪に問われるのです(クレイギ著『デイリー・スタディ・バイブル』新教出版社、参照)。

「ベテルに行って罪を犯し/ギルガルに行って罪を重ねよ」(4:4)。“礼拝に行き、神に背きなさい。礼拝に出席してそこで罪を犯しなさい……”。何ととげとげしい、残酷な表現でしょう。これが預言者の発言でした。ベテルは父祖ヤコブが神の臨在を確認した大事な地、ギルガルも民がカナンに入国した最初の地で、サムエルが犠牲を捧げた聖なる歴史遺跡を意味します。そこで「罪を犯せ」とは!

イスラエルの礼拝は無味乾燥どころか、神への反抗、拒絶、反逆、神との交わりが引き裂かれる事態に堕していたのでした。宗教を愛し、忙しく捧げ物をそなえて、活動をしながらも公義、誠実、慈悲を尊重せず、他者を非難し、助けるべき人を圧迫、不正をもって虐げるのは非宗教的、とアモスは率直に語りました(リンバーグ著『現代聖書注解』日基出版局参照)。

*本記事は、安息日学校ガイド2001年4期『アモス書 主を求めて、生きよ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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