【アモス書】第1の幻―いなごと祈り【1章解説】#8

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この記事のテーマ

アモスを通して与えられたイスラエルへの災害の内容と意味。それは象徴か、実際に起こったことかという点。神はなぜなすべきことを悔いたのか。預言者アモスが果たした役割。執り成しの祈り……などについて研究しましょう。

いなごによる文字通りの、先例のない災害が実際にイスラエルの王国南部を荒廃させたのでしょうか。それとも、いなごは破滅の象徴にすぎないのでしょうか。いずれにしても、アモスとヨエルによって伝えられたメッセージは、聴衆の注意を引きつけるような生々しい表現で語られています。聴衆はそのメッセージの時宜を得た重みを感じ取ることができたはずです。

ヨエル書のいなごの大群に関する描写などに見られる特有の誇張法は、いなごについての預言が終末の日の、裁きの時と関連があることを示唆しています。それらは当時の人々に対する神からの警告でしたが、同時に私たちのためにも書かれたものです。アモス書7:1~9:10にある五つの幻は、古代イスラエル人に臨もうとしていた裁きについての警告でした。しかし、それ以上に、これらの幻は終わりの時に生きている私たちに対する警告でもあるのです。

第1の幻

「主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、主は二番草の生え始めるころ、いなごを造られた。それは、王が刈り取った後に生える二番草であった」(アモ7:1)。

アモスはこれまで主の御名においてイスラエルに語った言葉を記してきました。しかし第 7章は「主なる神はこのようにわたしに示された」という言葉で始まっています。ヘブライ語では「わたしは見させられた」という意味です。これは預言者が幻を受けたことを示す聖書の一般的な表現法です。アモスの幻を受ける方法が大きく変化しましたが、彼は今、イスラエルに伝えるメッセージを幻によって与えられています。

問1

アモス7:1~3にある最初の幻を読んで下さい。

いなごは文字通りのいなごであり、イスラエルがいなごの大群に襲われ、その作物を根絶やしにされるということなのか、あるいはいなごが象徴的でアッシリア軍によって滅ぼされるということなのかは、学者によっても意見が異なっており、どちらの解釈も可能です。どちらでも基本的な意味は同じで、自らの罪を悔い改めることを拒み、喜んで赦し、いやし、恵みに回復してくださる主に立ち帰ることを拒む、背信した民のうえに、神の裁きが下るということです。

アモス書を読んで気づくことの一つは、その利害関係の大きさです。イスラエルは悔い改めるように警告されていました。さもないと、大いなる災いが彼らに臨むことになっていました。神は冗談を言っておられるのではありません。全宇宙の前で神が擁護されるのはもちろんのこと、魂が永遠に救われるか滅びるかの問題です。刑罰が厳しいとすれば、問題がそれだけ重大で、永遠の結果をもたらすからです。イスラエルがなぜこれほど厳しい裁きに直面しなければならなかったのかを疑う前に、このことを心にとめる必要があります。厳しい裁きは善悪の大争闘における争点の重大さを思い起こさせるものです。これは私たちとも密接な関係のある問題です。

主は思い直された(悔いた)

「いなごが大地の青草を食べ尽くそうとしたので、わたしは言った。『主なる神よ、どうぞ赦してください。/ヤコブはどうして立つことができるでしょう/彼は小さいものです。』/主はこれを思い直され/『このことは起こらない』と言われた」(アモ7:2、3)。

アモス書 7:3に、「主はこれを思い直され」[英語では「主はこれを悔い」]という言葉があります。主がアモスの執り成しのゆえに今回はイスラエルに災いを下すのをやめられたという意味です。

「主が思い直された」とはどういう意味でしょうか。ここで用いられているヘブライ語動詞の“ナハン”は、民が「立ち帰る」ことによって悔い改めたときに用いられている動詞とは異なります。“ナハン”には「情けをかける」「憐れみをかける」という意味もあって、ここではそのほうが正確な意味を伝えています。

問1

神が思い直された(悔いた)例が次の聖句にあります。これらをどう解釈し、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。出エ32:14、サム上15:35、エレ42:10

神の「悔い」は人間の「悔い」とは異なります。神が「悔いる」という思想は、神の予知と人間の自由意志に関する様々な哲学的、神学的議論を含んでいます。これらの聖句は、たとえ神が預言者を通して警告された出来事でも、もし条件が満たされるなら中止される場合もあることを示しています。言い換えると、神が「悔いる」という思想は、預言が条件つきであり、預言が実現するか否かは特定の条件が満たされるか否かにかかっていることを教えています。人間の態度もしばしば大きな役割を果たします。人間が従うとき、警告された災いは起こらず、人間が従わないとき、それは起こります。

仲保者(1)

問1

次の聖句に共通なことは何でしょうか。出エ32:32、ダニ9:16~23、ゼカ3:1~ 5

これらの聖句に共通して言えることは、神の民が罪を犯したときにも、神の前に立って彼らのために執り成してくれる人がいたということです。どの場合にも、仲保者が執り成しをしました。アモス書でも、アモス自身が神の前で、災いを撤回してくださるように神に嘆願しています。「主なる神よ、どうぞ赦してください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう。彼は小さいものです」(アモ7:2)。主は彼の叫びに耳を傾けられました。

これらの聖句は「執り成しの祈り」について教えています。祈りによって神はご計画を変更してくださるという考え方です。聖書は繰り返し、祈りが私たち自身の人生ばかりでなく、私たちが祈るその人の人生をも変える力を持つと教えています。聖書が他の人々のためにも祈るように勧めているのはそのためです。もし祈りに物事を変える力がなければ、神は私たちに祈るようには言われなかったはずです。祈りがどのようにして聞かれるかはわかりませんが、その祈りが聞かれることは確かです。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(ヤコ5:16)。

仲保者(2)

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ロマ8:34)。

「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブ7:25)。

アモスをはじめ、何人かの人たちは仲保者として働きましたが、聖書によれば、唯一の、真の仲保者はイエス・キリストだけです。事実、学者たちは火曜日の研究で学んだ人たちの中にキリストの予型となる人たちを認めています。彼らは私たちの仲保者であるキリストの御業の模範として、自分の民のために執り成しました。

問1

旧約のある人物はキリストの“型”とみなされています。彼らはキリストのどのような部分を示唆するようなことをしたでしょうか。

聖書は、罪深い人間である私たちには仲保者が必要であると教えています。罪は聖なる神と汚れた被造物との間に深い溝をつくりました。この罪の大きさのゆえに、人間はひとりでは神の前に立つことができません。「聖人」と呼ばれている人々でさえ、聖なる神の前に立つことはできませんでした。

主が燃える柴の中でモーセに現れたとき、モーセは「神を見ることを恐れて顔を覆」いました(出エ3:6)。ヨブも「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵(ちり) と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:5、6)と叫びました。御座に座し、天使の礼拝と賛美を受けておられる神を幻の中で見たとき、イザヤは叫びました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の(くちびる) 者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザ 6:5)。エゼキエル、パウロ、ヨハネの場合も、神を見たときの状況こそ異なっていても、その反応はみな同じでした。彼らはその光景に耐えられず、神の前にひれ伏しました。

いなご

ヨエルの預言は、いなごの大群が文字通りのものであったことを示し、全土を覆ういなごの災害について詳しく描写しています。

問1

同じようないなごの災いがヨエル 1:4~15にはどのように描写されていますか。

ヨエル1:4にはかつてないいなごの災害が次の4つの順序で描かれており、『SDA聖書辞典』には次のような説明があります。

【かみ食らういなご】「おそらく成長の第一段階にあるいなごで、まだ羽はないが、毛虫のような幼虫でもない。若い成虫」。

【移住するいなご】「完全に成長した羽を持つアフリカ移住いなご……と考えられる。大群で来襲し、卵を産みつける。このいなごはパレスチナではごく普通に見られる」。

【若いいなご】「おそらく羽を持った成虫になる前の、最後の成長段階のよたよた歩く、まだ羽のない移住いなご。飛び跳ねることはできても、這うことのできない、ふ化したばかりのいなごとも考えられる」。

【食い荒らすいなご】「オランダの科学者、F・ブルージェルによれば、パレスチナを去る段階の完全に成長したいなご」。

4段階に及ぶいなごの災害に強調されているのは、差し迫った荒廃が完全なものであるということです。いなごの大群が国土を覆い、最後の1本まで植物を食い尽くし、干ばつと飢饉(ききん) と荒廃をもたらすのです。ヨエルはいなごの災害だけでなく、この災害によって予示された主の日の悲惨な出来事にも注目しています。歴史上の主の日の出来事は、その時代に生きていた人々にとっては未曾有の出来事でした。同様に、終わりの時代における主の日の出来事は、空前絶後のものとなります(ダニ12:1参照)。

まとめ

神はアモスを通して彼の時代に迫りくる災害を警告し、また私たちの生きる現代にも語っておられます。これらの使命には警告と希望の約束とが入り混じっています。

「キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、私たちを義とするために借り物の墓から復活し、勝利のうちに、『わたしは復活であり、命である』と宣言されます。イエスは私たちの仲保者として父なる神の前で嘆願しておられます。彼は全世界の罪を負われましたが、死すべき人間を人の罪を負う者とはされませんでした。人はだれも自分自身の罪の重荷を負うことができません。十字架につけられたお方がすべての罪を負われたのです。このお方を信じる者はひとりも滅びることがなく、永遠の命を受けるのです。

キリストに従う者は、品性の完成を求めて努力するときに、キリストの恵みによってすべての試練と試みに勝利する者となります。イエスから目をそらし、ほかの人、ほかの物に目を注いで、ときに過ちを犯すかもしれません。しかし、その危険を警告されるとすぐに、彼は再び永遠の命の望みであるイエスに目を注ぎ、主の足跡に踏み従い、安全に旅を続けます。彼は喜びに満たされて、次のように言います。『イエスは神の前におられる私の生きた仲保者です。彼は私のために祈ってくださいます。彼は私の弁護者であり、ご自身の完全な義をもって私を覆ってくださいます。それゆえに、私は御名のゆえに恥と責めを負うことができます。私が迫害に耐えることを許されるときにも、彼は私に恵みと慰めに満ちた臨在とを与えてくださいます。それによって、御名の栄光が現されるためです』」(エレン・G・ホワイト『レビュー・アンド・ヘラルド』1896年 5月 12日)。

ミニガイド【いなご】

秋の雨ののちに生える牧草は、王様のための軍馬の食用として刈りとられます(列王上18:1~5)。「二番草」は春の雨の後、夏の乾燥期の前に生じる草で、これがいなごに荒らされると、人も動物も夏を前に食糧を失うことになります。いなごの大群発生は昔から今日までアフリカをはじめとしてこの地方で恐れられていた災難、災害でした。ひとたびいなごの大量発生が起こると、広い地域の草や木の葉は突如としてなくなり、大地は砂漠化し、森林もはだか同然で、樹木は枯れて倒れ、鳥は宿る場所を失い、獣は憩う陰もなく、羊、牛など草食動物は痩(や) せこけて倒れ、人々は食べ物を得ることができず、多くのものが飢餓(きが) に遭い、弱い者や幼い子どもたちがまず犠牲になりました。恐ろしいことに、いなごの群れは次々に移動して大陸を破滅状態にしてしまうのでした。

ミニガイド【神の悔い】

人が悔いるときはその悪を悔いる場合に使いますが、神が悔いるとは、神が意図した計画の変更、中止、延期などを意味しました(民数23:19)。神はあるときは直接ソドム、ゴモラに火と硫黄の(いおう) 刑罰を下されました。同じ神は人を介して刑罰を下されることがあります。カナンに入国したイスラエルは異教徒を滅ぼす神の兵士となり、アッシリア、バビロンはそれぞれ、イスラエル、ユダヤの人々への刑罰の力として用いられたのでした。「イスラエルの神は、アッシリアの王プル、すなわちティグラト・ピレセルの心を動かされたので、彼はルベンの部族、ガドの部族、マナセの半部族を捕囚として連れ去り……」(歴代上5:26)とあるように、アッシリアの王ティグラト・ピレセルもまた神の計画の中で役割を果たしたのでした。「主が油を注がれた人キュロス」(イザ45:1)はユダを征服したバビロンを破り、ユダヤ民族をペルシャの支配下においてエルサレムへの帰還を果たすべく用いられました。神はその計画の中で異教徒をもみ業のために用いたもうのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2001年4期『アモス書 主を求めて、生きよ』からの抜粋です。

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