【アモス書】第4の幻―夏の果物【8章解説】#11

目次

この記事のテーマ

人間の性質を表すのになぜ“果物”が選ばれたか。宗教の規則をすべて守りながら宗教の本質を失うとは。主が罪を“忘れる”、“覚える”ということ。み言葉の飢饉(ききん) ……などを学びましょう。

アモス書8章のテーマは次から次と変わり、どれ一つを取り上げても小さな本になるくらいの内容です。アモスはまず実を結ぶことについて論じています。それから、宗教的な形式主義でその形式に命を吹き込む精神を持たない人々にふれています。これはいつの時代のクリスチャンにも言えることかもしれません。

次に、救いに関する興味深い問題、つまり赦されている罪と赦されることのない罪について語っています。また世の終わりにおける最終的な闘争にふれています。

そして最後に、「主の言葉」を聞くことに関する「飢えと渇き」について論じています。どれも大切なテーマですが、こうした重要な問題について考え、祈りたいと思います。

その実によって

「主なる神はこのようにわたしに示された。見よ、一籠の(かご) 夏の果物(カイツ)があった。主は言われた。『アモスよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『一籠の夏の果物です。』主はわたしに言われた。『わが民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。その日には、必ず宮殿の歌い女(め) は泣きわめくと主なる神は言われる。しかばねはおびただしく至るところに投げ捨てられる。声を出すな』」(アモ8:1~3)。

ここで語られている果物は「早く熟する果物で、とくに『いちじく』のことです。この幻の目的は民の裁きの時が熟したこと、神の忍耐が終わりに来たことを示すことにありました。神の忍耐はただイスラエルの罪を長引かせるだけでした」(『SDA聖書注解』第4巻979ページ)。

問1

果実についての次の聖句を読んでください。マタ3:10、マタ7:17、ヨハ12:24、ロマ7:4、ガラ5:22~ 23

果物はたとえば変化、円熟、熟成、腐敗などの過程を表すのに用いられています。果物は甘くて美味ですが、腐ると悪臭を放ちます。聖書の中で果物が人間とその行為を描写するのに用いられているのも不思議ではありません。

安息日が終わってから貧しい者を踏みつける

「このことを聞け。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちよ。お前たちは言う。『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう』」(アモ8:4~6)。

この聖句はサタンの最大の、最も一般的な霊的偽りの一つである宗教的形式主義を述べています。それは最も基本的な宗教原則の乱用を覆い隠そうとするものです。これらの人たちは、自分たちが安息日と儀礼を厳格に守っているので、そうでない人たちよりも霊的に優れていると考えていました。これらの宗教的儀礼を守っている自分たちは聖なる者であって、正直、貪欲、(どんよく) 貧しい人への援助といった細かいことを気にとめる必要はないと考えていました。

「月の第1日は……宗教儀式のために捧げられていて、明らかにすべての取引が休みとなる日でした。……ここに、真の献身の精神が伴っていないのに、ただ形式的に聖なる儀式を守る空しい実例があります。これらの背信者たちは利己的な思いから、宗教的な形式主義に費やされるべき時間を惜しみ、その礼拝は祝福となるどころか呪(のろ) いとなります」(『SDA聖書注解』第 4巻 980ページ)。

これらの人たちは早く安息日が終わるように願い、日没になるや直ちに商売で人をだまそうと考えていました。自分たちの詐欺(さぎ) 行為を妨害するのは“安息日”でした。安息日の真の意味を理解し、神の意図された通りにそれを守る人にとって、貧しい人をだますというのは考えられないことです。明らかに、これらの宗教的偽善者たちは、自らの霊的状態に全く無知になっていました。

問1

キリストが直面した安息日遵守についての同じような問題を挙げて下さい。

この研究で、宗教の形式部分を守り、形の背後にある献身の精神が失われているとのことにつき、ラビであるヨシュア・ヘシェルの安息日についての言葉を読んでください。「この日、人は手の業を休め、世界はすでに創造されて人の助けなくして動いていることを知る。6日間、私たちは世と戦い、地より利を受ける。安息日は魂に蒔かれた種の世話をする。この世は私たちの手にあるが、魂は他の偉大な力に属す。6日間、私たちは世を支配することを求めるが、安息日は自分を治めることを求める」(アブラハム・ヨシュア・ヘシェル『安息日』13ページ)。

「わたしはいつまでも忘れない」

「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」(アモ8:7)。

この聖句は恐ろしいほどの厳しさを持っていますが、救いに関する聖書の基本的な立場から言えば実に正確です。私たちのすべての罪は赦され、忘れられ、抹消されるか、もしくはつきまとって私たちを有罪とするかのどちらかです。罪の刑罰を免れるか、もしくはそれをまともに受けるかのどちらかです。罪の結果から完全に自由の身となるか、罪の結果の重圧によって滅びるかのどちらかです。神が私たちのすべての罪を「忘れる」か、もしくは「覚える」かのどちらかです。中立、司法取引、妥協はありえません。

問1

アモス8:7にある「(行った悪を)いつまでも忘れない」との主の言葉と「あなたの罪を思い出さない」(イザ43:25、ヘブ 8:12、10:17)との言葉をどう調和させたらいいでしょうか。

これらの聖句の中で、神は彼らの罪を「忘れる」と約束しておられます。つまり、彼らの罪はもはや彼らに対する神の取り扱いを左右する要因とはならないということです。これらの言葉は、いわば詩的な表現であって、神が私たちの罪を赦すときには、それを完全に赦し、もはや「記憶する」ことすらないという意味です。私たちがイエス・キリストによって救われるとき、キリストの義が信仰によって私たちのものとなるとき、そのようになるのです。

一方、アモス書8:7はまた、イエスの義によって覆われていない人々の運命についても語っています。マタイ18章の「仲間を赦さない家来」のたとえにも、これと同じ原則が啓示されています。私たちは自分のすべての罪を赦されるか、罪に対する刑罰を受けるか、完全に赦されるか、完全に罰せられるか、完全に救われるか、完全に滅びるかのどちらかです。

苦悩の日

アモス書 8:9には、主の日が次のように描かれています。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ……」。パレスチナに生きていたアモスは、主の日に太陽が真昼に沈むのを見ました。それからほぼ3000年後、エレン・ホワイトは一つの幻を与えられました。彼女はその中で、神がご自分の民を救出するために世界の歴史に介入されるとき、太陽が真夜中に昇るのを見ました(『各時代の大争闘』下巻 414ページ参照)。

問1

イスラエルへの罰としての“その日”は、終末の運命の日についての予表と考えていいでしょうか。(イザ4:1、12:1、4、ヨエ3:1、18参照)

アモス書8:9で、預言者アモスはずっと後に起こる出来事について予告しています。アモス書8:9、10は、最後の裁きの日におけるキリストの再臨を指し示しています。

問2

サマリアの滅亡についての悲しみ(アモ 8:10)と最後の裁きの日の全世界の悲しみ(黙示 1:9~19)とを比較してみましょう。

「神のみ声が神の民を捕われの身からかえされるときに、人生の大きな争闘においてすべてを失った人々に、恐るべき覚醒が起こる。恵みの期間が続いていたとき、彼らは、サタンの欺瞞(ぎまん) に目をくらまされ、自分たちの罪の行為を正当化していた。金持ちは自分たちは貧しい人々に優越していると誇っていた。しかし彼らは、神の律法を犯してその富を得たのであった。……ところが今、彼らは、彼らを偉大にしていたすべてのものをはぎ取られて、何も持たず、なんの防備もないのであった。彼らは、自分たちが創造主よりも好んだ偶像が破壊されるのを見て、恐れおののく。……金持ちは、自分たちの豪壮な邸宅が破壊され、金銀が四散するのを見て悲しむ。……悪人たちは、無念の思いに満たされる。それは、彼らが神と同胞とを無視した罪深さのためではなく、神が彼らに勝利されたためである」(『各時代の大争闘』下巻436,437ページ)。88

飢えと渇き

「見よ、その日が来ればと/主なる神は言われる。/わたしは大地に飢えを送る。/それはパンに飢えることでもなく/水に渇くことでもなく/主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。/人々は海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見いだすことはできない」(アモ 8:11、12)。

この聖句は信じがたいことを述べています。人々は「主の言葉」を探し求めても見いだすことができないというのです。私たちを天国に入れるために御子を十字架につけてくださった神が、「御言葉」を探し求めても見いだすことができない状況をお許しになるとは!

問1

ヨハネ12:35にあるイエスの言葉から、アモス8:11、12の教えようとしているポイントをつかんでください。

「今、神の僕たちによって語られた御言葉を理解し、研究し、尊ばない者たちは、将来ひどく悲しむことになります。終わりの時に、裁きの主が地を歩き回られるのを、私は見ました。恐ろしい災いが来ます。そのとき、御言葉を軽蔑し、軽視していた者たちは、『海から海へと巡り/北から東へとよろめき歩いて/主の言葉を探し求めるが/見いだすことはできない』(アモ 8:12)。御言葉を聞くことのできない飢えが地に臨むのです」(『終末の諸事件』234,235ページ)。

アモス書の言葉は、私たちの現在の状況に関して重要な原則を教えています。私たちが絶えず不要なもので自分の心を満たすなら、「主の言葉」がやがて意味を持たなくなってしまいます。霊的真理に対して鈍感、無感覚になるあまり、真理を聞いても、それが心に浸透して行かなくなるのです。私たちが読んだり、見たり、考えたりすることが私たちを真理に対して鈍感にし、その結果、「神の御言葉」に接することができないのと同じ状態になるのはそのためです。

まとめ

第 4の幻も来るべき裁きを伝えるものでした。安息日の意義を悟らず、形は守ったものの中身は偽善、不正、悪に満ちたものでした。“その日”は終わりの日を意味していました。イスラエルにとって「その日」は「泥棒が夜のいつごろ来るか」(マタ 24:43)わからないようにということではありませんでした。現代に生きる私たちも重大な事件とその予兆によって予告されています。私たちは“その日”のための備えがあるでしょうか。

ミニガイド【夏の果物】

ヘブライ語でいちじくのことを「カイツ」、終わりのことを「ケーツ」ということから、アモスは類似した二つの発音を結びつけて大事な象徴を語ったのでしょう。いちじくは夏に収穫しますが、放っておくと熟しすぎて腐敗が始まり、虫がつき、悪臭を放ち、捨てられます。預言者は裁きを意味する収穫の時が来ていること、この地方の主産物であるいちじくが腐って捨てられる運命にあることを告げたのでした。

ミニガイド【社会的な矛盾】

金持ちは貪欲にも貧しい人々から富を搾り取り、安息日の過ぎ去るのも待ちきれないほど商売に心を用い、少なく与えて多くもうける根性を厳しく批判します。そうした上で貧しい人々を奴隷に売って財を蓄える罪を指摘しました。モーセの民法は不正な秤((はかり) 申命 25:13~16)を禁じ、当日に賃金を支払うこと(24:14、15)、寄留者や外国人への落穂拾いの配慮(17~22)というような商取引を細かく規定し、ヒューマニズムの精神を啓示されました。他者への思いやりは社会の成熟度、または腐敗度を知る大事な秤です。現代社会にも当てはまる評価法ではないでしょうか。

ミニガイド【主の言葉を聞くことのできない飢えと渇き】

「預言者ははっきりと繰り返しての不服従のゆえに、神の裁きを避けるべくイスラエルが主の言葉を求めようとしてもすでに時遅しと述べています。これは、神がその民への愛を差し控えたためでなく、罪人が自分の犯した罪の結果から逃れようとするだけで、罪そのものを捨てて離れようとしない心の頑な(かたく) さの結果です。イスラエルは真の悔い改めと品性の改変を望まないほど聖霊を悲しませたのでした。

主が再臨される直前の世界も、イスラエルの悲劇を繰り返します。悔い改めない全世界は7つの災いに苦しみ、何とかして災害から逃れようと、かつて無視してきた神の言葉にさえ解決を求めてきますが、時遅く、救いの言葉を見いだすことはできません」(『SDA聖書注解』アモス8:11の項)。

*本記事は、安息日学校ガイド2001年4期『アモス書 主を求めて、生きよ』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次