この記事のテーマ
低い生垣に縁どられたアイルランドの細い田舎道を車で走っていると、たらふく草を食べてのんびりと家路をたどる牛の群れに道をふさがれることがあります。彼らは、牛飼いがいなくても、主人の牛舎に帰って行きます。自分たちがどこにいるべきであり、だれのものであるかを知っているからです。
幼い男の子が母親からはぐれて、「ママー!」と大声で泣いていたとします。彼は、その店の中の自分がいる場所や母親がいるところはわからなくても、通り過ぎて行く大勢の母親たちの中に、自分の母親だけはちゃんと見つけるでしょう。
残念ながら、ユダヤの民は、幼い子どもやアイルランドの牛でさえ知っていたこと、つまり、彼らが主のものであること、しかも天の主のものであることを忘れたために、契約の民としての真のアイデンティティー(独自性)を失ってしまいました。「わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない」(イザ1:2、3)。
今回は、その民をご自身のもとに連れ戻される神の働きについて学びます。
天よ聞け(イザ1:1~9)
イザヤ書は、その著者(「アモツの子」)、メッセージの出所(「幻」)、主題(4人の王の時代のユダとその首都エルサレム)について、手短に紹介しています。イザヤの主な聴衆は、彼が生きた時代の自分の国であるユダの人々です。イザヤは、彼らの状態と運命について語っています。
イザヤが預言者として活動した期間に国を治めた王たちの名前を記すことによって、イザヤは聴衆を限定し、本書を特定の期間の歴史的・政治的諸事件に結びつけています。その期間は、列王記下15~20章と歴代誌下26~32章に示されている時代です。
問1
イザヤ1:2で主が言われたメッセージの本質は何ですか。神の民の歴史すべてに当てはまるこのメッセージは、今日のキリスト教会についても当てはまりますか。
イザヤのメッセージは、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ」という言葉で始まっていることに注目してください(申30:19、31:28と比較)。これは、字義通り天と地が聞き、理解するという意味ではなく、強調のためです。
ヒッタイトの皇帝のような古代の中近東地方の王が格下の支配者と政治的な条約を結ぶ際には、条約違反は必ず罰せられることを強調するため、自分の神々を証人として引き合いに出しました。しかし、王の王なる神が、モーセの時代にイスラエルの民と契約を結んだ際には、証人として他の神々を用いることはありませんでした。唯一の、まことの神であられるお方は、天と地に証人としての役割をお与えになりました(申4:26参照)。
腐敗した儀式主義(イザ1:10~17)
問2
イザヤ1:10を読んでください。ここで主は、ソドムとゴモラを比喩表現として用いることによって、何を語っておられるのでしょうか。
問3
イザヤ1:11~15を読んでください。主はご自分の民に何を語っておられますか。主はなぜ、彼らの捧げる礼拝を退けられたでしょうか。
人々は、犠牲を捧げた「血にまみれた」その同じ手を祈るために上げました。それは暴力と虐待という罪に汚れた手でした(イザ1:15、58:3、4)。彼らは、同じ契約の民を虐待することによって、イスラエル人すべての保護者である神を侮辱していました。他の人に対する罪は、主に対する罪だからです。
犠牲制度を定め(レビ1~16章)、エルサレムの神殿をその場所として定められたのは、神ご自身でした(王上8:10、11)。しかし、これらの儀式は、ご自分の民と結ばれた契約に従って行われるように意図されたものでした。神とイスラエル人との契約によって、神が聖所または神殿において、彼らの間にお住みになることが可能になったのです。ですから、彼らが神とその契約に忠実である限り、そこで行われる儀式と祈りは効力を持っていました。同じ契約の民に対する正しくない行為を悔い改めないまま犠牲を捧げる者たちは、儀式を偽りのものにします。ですから、彼らの犠牲は無効であったばかりでなく、罪でした。彼らの儀式行為が自らの忠誠を示していても、行動は契約を破っていることを証明していたからです。
赦しについての議論(イザ1:18)
問4
イザヤ1:18を何度も読んで、ここで主が言われていることを書いてみましょう(文脈をつかむために必要なら、その前後の数節も読んでみてください)。
神は、ユダの民の契約違反の罪の確かな証拠を挙げて(イザ1:2~15)、彼らに改革を迫ります(同16、17節)。この訴えは、彼らにまだ希望があるからでした。死刑に値する犯罪者に改心を迫るでしょうか。死刑の順番を待っている囚人がどうして「搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護」できるでしょうか(同17節)。しかし、神が「論じ合おうではないか」と言われるとき(同18節)、私たちは、主がなおも、彼らがどんなに堕落していようとも、ご自分の民と論じ合い、彼らを悔い改めと回心に導こうとしておられることを知るのです。
主は彼らに、「おまえたちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる」と言われます。なぜ罪は赤いのでしょうか。赤は、民の手をおおう「血」(流血の罪)の色だからです(イザ1:15)。これに対して白は、流血の罪のない状態、純潔を表す色です。神はここで、私たちは変わることができると言われます。これは、ダビデ王がバト・シェバを奪い、その夫を殺した罪の赦しを神に求めたときに用いたのと同じ言葉です(詩51:9、16〔口語訳51:7、14〕)。神はイザヤ1:18で、ご自分の民に赦しを与えようと論じておられるのです。
問5
神の赦しの申し出が、同時にその民に回心を迫るのはなぜですか(イザ1:18を44:22と比較)。
ここに、ご自分の民に対する神の厳しい警告の目的が示されています。それは神の民を拒むためのものではなく、むしろ彼らを神のところに連れ戻すためのものです。神の赦しの申し出は、民に自らを道徳的に清めるようにと迫る神の訴えです(イザ1:16、17)。神の赦しは、その民が神の力によって造り変えられるのを可能にします。ここに、エレミヤ31:31~34に預言されている「新しい契約」の始まりを見ることができます。新しい契約においては、赦しが、新しい心をつくる神との関係の土台となるのです。私たちは、決して返済することのできない負債を負ったまま出発するのです。謙虚に赦しの必要を認めるときに、神が与えてくださるあらゆる祝福にあずかる準備ができるのです。
食うか食われるか(イザ1:19~31)
問6
イザヤ1:19~31を読んでください。ここに示されている、聖書全体を通して語られている主題は何でしょうか。
イザヤ1:19、20の論理構造に注目してください。もし、民が快く神に従うなら、地の良き物を食べます(19節)。対照的に、もし神の赦しと回復の申し出を拒み、神に背くなら、剣の餌食になります(20節)。決めるのは彼ら自身です。したがって、これらの聖句は条件付きの祝福と呪いを含んでいます。
イザヤ1章には、申命記30:19、20にあるイスラエルの民との契約を記したモーセの言葉が用いられています。「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く」(申30:19)。
問7
モーセの言葉に注目してください。そこには、中立的な立場はありません。命か死、祝福か呪いのどちらかです。なぜ妥協は許されず、二つのうちの一つしか選択できないのでしょうか。
これらのモーセの言葉は、申命記27~30章に記された一連の警告、祝福、呪いを結びつけ、要約するものです(レビ26章と比較)。この契約に含まれる要素を挙げてみましょう。
(1)イスラエルのためになされた神のみ業の確認(2)契約を維持するために守るべき条件・規定〈命令〉(3)証人(4)契約条件を守ることによる祝福と、違反への警告のための呪い
これらの要素は、ヒッタイト人のようなイスラエル以外の民族の政治的条約にも同じ順序で出てきます。つまり、神はイスラエルと契約を結ぶに当たって、彼らが自ら選んで相互に結ぶ契約関係ですから、理解しやすく印象に残りやすい形式を用いることによって、その本質とその結果をできるだけ強く印象づけようとされたのでした。この契約が持つ潜在的な恩恵は、圧倒的ともいえるものでした。しかし、イスラエルが同意した契約を破るなら、かつてないほどの困窮を招くのでした。
不吉な愛の歌(イザ5:1~7)
イザヤ5:1~7の歌のたとえを読んでください。神は7節で、やっとこのたとえの意味を説明されます。このたとえの目的は、イスラエルの民が自らを客観的に眺めることによって、彼らの真の状態を知るためでした。神はダビデ王に対してもこの手法を効果的にお用いになりました(サム下12:1~13参照)。神はこのたとえを「愛の歌」と呼ぶことによって、イスラエルに対するご自身の思いを明らかにされています。神とイスラエルとの関係は、神のご品性、すなわち愛に基づいています(1ヨハ4:8)。神は彼らに愛の応答を期待しておられましたが、神が収穫したのは「良いぶどう」ではなく、ヘブライ語では「悪臭のするもの」を意味する「酸っぱいぶどう」でした。
問8
「わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか」(イザ5:4)というみ言葉を通して、主は何を語ろうとしておられるのでしょうか。
神は、次の節で次のように言われます。「さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ/わたしはこれを見捨てる」(イザ5:5、6)。
私たちが罪を犯しても、神はみ守りを取り去って滅びるままにし、私たちをすぐにご自分から切り離されることはありません。神は忍耐強く、私たちが神の赦しを受け入れるチャンスをお与えになります(2ペト3:9参照)。神は、ご自分の訴えに応える人を切り捨てることはありません。人の中に応答の望みがある限り、訴え続けられます。神は、私たちの「いいえ」をそのまま受け取られません。なぜなら、私たちが無知で、罪によって欺かれていることをご存知だからです。しかし、もはや応答の余地はないと見ると、神は最終的に私たちの選択を認めて、私たちが選んだ道を行くままにされます(黙22:11参照)。
聖霊を通して聞こえる神の訴えを頑なに拒み続けるなら、私たちは結局、戻れない一線を越えることになります(マタ12:31、32)。キリストから離れることは、危険です(ヘブ6:4~6)。神がどうしてもおできにならないことがあるのは、私たちが自由な意思で選択することを尊重されるからです。
さらなる研究
イザヤ1:4に関連して、エレン・ホワイトは次のように記しています。
「神の民を自認する民は神から離れ、その知恵を失い、その判断力をゆがめてしまった。彼らは、古い罪から清められた過去を忘れて思い起こすことができなかった。彼らは、以前の自由、確信、幸福についての記憶を消し去ろうとして闇の中を、不安を抱えてあてどなく歩き回った。彼らはあらゆる無遠慮で、向こう見ずな狂気に飛び込み、神の摂理に逆らい、すでに負っていた罪を増し加えた。彼らは神の品性を攻撃するサタンの声に従い、神には憐れみと赦しがないと非難した」(『SDA聖書注解』第4巻1137ページ、英文)。
まとめ
神の民が主を忘れ、その祝福を当たり前のことと感じるとき、神は彼らに主と結んだ契約の責任を思い起こさせられます。憐れみ深い神は、民の状態をお示しになり、主のみ守りが取り去られたときの壊滅的な結果について警告し、主にいやし、清めていただくように民に強く迫ります。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年2期『イザヤ わが民を慰めよ』からの抜粋です。