【イザヤ書】神を演じる【解説】#6

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「その日牧師は高慢について悔い改めを求める説教をしました。説教の後で、ある女性が、このところひどく悩んでいる重大な罪を告白したいと牧師に申し出ました。牧師がどんな罪かと尋ねると……

彼女は答えました。『高慢の罪とでも言うのでしょうか。つい先日なんか、自分の美しさに見とれるあまり、鏡の前に1時間も座っていたのです』。

『おやおや……』牧師は続けました。『それは高慢の罪ではありません。妄想の罪です』」(ポール・リー・タン編『7700の例話百科事典』1100ページ、1988年、英文)。

1人のすばらしく力のある天使の心に罪が生まれて以来、高慢は(天使にも人間にも)現実と妄想の境界線をあいまいなものにしてきました。この高慢の罪の問題で何より深刻なのは、霊的高慢です。むしろ、あまりに堕落していて他人に頼る以外に救いはないと考える哀れな罪人のほうに救いがあります。

は、罪の起源である高慢と自己賞揚について考えます。

諸国民の裁き(イザ13章)

イザヤ13:1には、改めてイザヤが著者として紹介されています(イザ1:1、2:1と比較)。これは新しい区分の始まりを示しています。イザヤ13~23章は、諸国民に対する神の裁きのことば(託宣)が含まれています。

問1

諸国民についての預言がバビロンから始まっているのは、なぜでしょうか。

イザヤ10:5~34はすでに、イザヤの時代における最大の脅威であったアッシリアに対する裁きを宣言しています。イザヤ14:24~27がアッシリアを滅ぼす主の計画について簡単に繰り返す一方、13~23章は、最も重要な存在であるバビロンを筆頭に、その他の脅威について述べています。

文化的、宗教的、政治的に豊かな富に恵まれたバビロンは、後に超大国として頭角を現し、ユダを征服し、追放するまでになります。しかし、イザヤの時代の人々は、バビロンが間もなく神の民を脅かす存在になるとは、想像できなかったでしょう。イザヤが宣教した時代には、アッシリアがバビロンを支配していました。ティグラト・ピレセル3世がバビロンを征服し、プル(王下15:19、代上5:26)の名でバビロンの王となった紀元前728年以降も、アッシリアの王は何度もバビロンを奪い返しています(紀元前710、702、689、648年)。しかし、バビロンは最終的にこの地域の超大国となり、ユダ王国を滅ぼします。

大いなる都バビロンの滅び(イザ13:2~22)

カルデア人ナボポラサルによってバビロニアの栄光が回復したのは、紀元前626年のことでした。彼は自らバビロンの王となり、新バビロニア王朝を開き、(メディアと共に)アッシリアを破る戦いに参戦しています。その子、ネブカドネツァル2世はユダを征服し、その民を捕囚としました。

問2

バビロンの都は、どのようにして最終的に滅びましたか(ダニ5章参照)。

紀元前539年にペルシアのキュロス王がバビロンを攻め落とし、メド・ペルシア帝国を建設した時以来(ダニ5章参照)、バビロンの都は独自性を失いました。

アレキサンダー大王は、紀元前331年に、戦うことなくペルシア人の手からバビロンを奪い取りました。彼のバビロンを東方の首都にする夢は破れ、バビロンは数世紀のうちに衰退します。ローマ皇帝セウェルスは紀元前198年までに、バビロンが完全に荒廃しているのを見ます。このようにして、大いなる都バビロンは見捨てられ、その終焉を迎えます。

イザヤ13章に述べられているバビロンの滅亡によって、虐げられていたヤコブの子孫は、解放されます(イザ14:1~3)この神の民の解放は、紀元前539年のキュロス王によるバビロンの征服によって実現します。キュロス王は、バビロンの都を破壊はしませんでしたが、これがバビロンの終焉の始まりとなり、バビロンが神の民を脅かすことは二度とありませんでした。

イザヤ13章は、バビロンの没落を神の裁きとして表現しています。この都を奪う兵士たちは、神の代理人として戦います(イザ13:2~5)。裁きの時は「主の日」と呼ばれ(同6、9節)、主の怒りはあまりに激しく、星たち、太陽、月、天と大地にまで影響を与えます(同10、13節)。

士師記5章のデボラとバラクの歌が描く、天からの雨をもって地を震わす主と比較してください(士5:4)。士師記5:20、21は、やはり星などの自然界の事物を用いて、外敵との戦いを描写しています。

神の山から落ちた「君主」(イザ14章)

バビロンの滅亡(イザ13章)は、神の民を解放へと導き(同14:1~3)、イザヤ14:4~23は、バビロンの王に対する比喩的な嘲りの歌を記しています(ミカ2:4、ハバ2:6)。ここに描かれている、陰府の国で新参者を出迎える光景(イザ14:9、10)、死んだ王が蛆や虫を寝床とする(同11節)は、明らかに字義通りのものではなく、詩的なものです。ここでは、尊大なバビロンの王が先の高慢な王たちと同様に辱めを受けることが、劇的な表現で語られているだけで、決して死者の状態について述べているのではありません。

問3

イザヤ14:12~14は、どんな意味でバビロンの王に当てはまりますか。

バビロンの王たちに謙遜な王はいませんでした。しかし、「いと高き者のようになろう」(イザ14:14)とうそぶく尊大な王もいませんでした。王たちは、神々と強い一体感を持っていましたが、神々に従属する存在でした。この事実は毎年、バビロニアの新年祭の第5日に象徴的に表現されました。この日、王は、マルドゥク神の像の前に出る時、王の記章をはずす行為によって王権が再認されました。

イザヤ14章、エゼキエル28章は、神をも恐れぬ尊大さについて記しています。そして、ここでその描写は、地上の王に対する描写を超え、より鋭い神の目線から、次のように語ります。「この誇り高い君主は神の園であるエデンいた。彼は油注がれ、翼を広げて覆う守護のケルブとして神の聖なる山にいた。創造された日から彼の中に罪が見いだされるまでは完全であったが、神によって投げ落とされ、遂に火で焼き尽くされるだろう」(エゼ28:12~18)。この修辞的な表現は、人間を指すにはあまりに比喩的です。しかし黙示録12:7~9は、天使たちと共に天から投げ落とされたこの力ある者を、「サタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(黙12:9)、エデンの園でエバをだました者(創3章)と呼んでいます。

サタンは、高慢な妄想を抱きました。「……『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは……神ではない」(エゼ28:2、口語訳)。サタンの死が、神でないことを証明するでしょう。キリストとは違って、サタンは火の池に投げ込まれて滅び(黙20:10)、二度と、宇宙を悩ますことはないのです。

天の門(イザ13、14章)

イザヤ14章には、「明けの明星」(英語欽定訳では「ルシファー」)、「曙の子」(イザ14:12)と呼ばれているサタンに対する嘲りが、バビロンの王に対する嘲りの中に含まれています。なぜなら、サタンは人間を通して働くからです。

問4

「バビロン」は、後にローマを指しますが(1ペト5:13)、黙示録では悪の勢力を指すのはなぜでしょうか(黙14:8、16:19、17:5、18:2、10、21)。

文字通りのバビロンと同様、ローマと黙示録の中の「バビロン」は、神の民を迫害する尊大で残忍な権力を意味します。黙示録17:6には、バビロンが「聖なる者たちの血に酔いしれている」とあります。彼らは、その名前の示す通り、神に反逆します。バビロンは、バビロニア語では“バブ・イリ”、つまり「神々の門」であって、これは神の領域への入り口を指します。創世記11章を見ると、人々は、人間の力で、神と同等の天の領域に昇ることができると考え、バベル(バビロン)の塔を建てたのでした。

ヤコブが天と地を結ぶ階段の夢から覚めた時、叫びました。「これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(創28:17)。「神の家」が「天の門」、つまり天の領域への入り口なのです。ヤコブはそこを「神の家」を意味する「ベテル」と名づけました。

ベテルの「天の門」とバビロンの「神々の門」は、天の領域への正反対の方法でした。ヤコブの階段は、元々天にあったものが、神によって〔地上の人間に〕示されました。しかし、バビロンの塔とピラミッド型の神殿は、人間によって、地上から天に向かって建てられたものでした。この正反対の方法は、救いに至る対照的な道を示しています。つまり、神の恵みによるのか、人間の行いによるのかです。すべての真の宗教は、ベテルが模範です。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(エフェ2:8、9)。しかし、律法主義と「世俗的な」人道主義を含むすべての偽りの「宗教」は、高慢なバビロンを模範とするものです。この対照は、イエスの「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」に見られます(ルカ18:9~14)。

シオンの勝利(イザ24~27章)

イザヤ24~27章には、神の民の救いと敵の敗北が、世界的な規模で描写されています。

問5

イザヤが描く地上の荒廃(イザ24章)と、ヨハネが描くキリスト再臨に続く千年期に関連する出来事(黙20章)は、なぜ似ているのでしょうか。

イザヤ13、14章と同様、バビロン帝国に見られる数々の特徴は、後の諸権力に当てはまります。また、「バビロンの王」は、人間の支配者たちと、背後で操るサタンを表しています。したがって、バビロンは倒れたとのメッセージ(イザ21:9)は、後の時代にも繰り返されうるのです(黙14:8、18:2)。サタンが最終的に滅ぼされるのは、キリスト再臨の後です(同20:10)。バビロン帝国の滅亡は、「主の日」(イザ13:6、9)として成就しましたが、もう一つの「主の大いなる恐るべき日」(ヨエ3:4〔口語訳2:31〕、マラ3:23〔口語訳4:5〕、ゼファ1:7と比較)は、まだ成就していません。

黙示録は、それが実際に成就するのは、新エルサレムにおいてであると述べています(黙21:2)。

問6

神は、邪悪な者たちを本当に滅ぼされるのでしょうか。

イザヤ28:21には、神の滅ぼす働きが「未知の業」(聖書協会共同訳)と表現されています。それが神にとって「未知の業」であるのは、神が滅ぼすことを望まれないからですが、それでもなお、それは神の業、行いなのです。罪は、その中に自滅の種をはらんでいることは事実ですが(ヤコ1:15)、究極的に生と死を支配する力をお持ちになるのは神であり、最終的な滅びの時、場所、その有様を決定されるのも神なのです(黙20章)。ですから、神が罪の呪いに終止符を打たれるタイミングを、ただ因果応報、または自然のなりゆきにまかせるなどという消極的な方法をお選びになるということはあり得ないことです。

さらなる研究

「私たちが救いを受けるためには何か条件があるのでしょうか。私たちがキリストのもとに行くための条件はない。では、キリストのもとに行ったなら、何か条件があるだろうか。それは、生きた信仰によって、十字架につけられ、復活された救い主の血によるいさおしに、完全にすがりゆだねることである。そうすることで、私たちは、義の業を行うのである。しかし、神がこの世で罪人を呼び、お招きになる時、そこに条件はない。彼は、キリストの招きによって近づいたのであって、それは条件ではない。あなたは、神のもとに行くために応答したにすぎないのである。罪人が神のもとに行く時、彼はカルバリーの十字架に上げられたキリストを見る。その光景は神によって彼の心に焼き付けられる。その時彼は、それまでに想像したどんなものをも遥かに越えた愛に捕らえられる」(『原稿集』第6巻32ページ、英文)。

まとめ

イザヤは、アッシリアに続いて、バビロンがユダを征服するのを見ました。しかし彼は、人間を越えた力を持つ闇の世の主権者(エフェ6:12)が、神に敵対する人間を通して働き、大胆にも神を演じようとするのを見ます。にもかかわらず、主は敢然として打ち勝ち、苦しむ私たちの惑星に永遠の平和をもたらすのを見たのでした。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年2期『イザヤ わが民を慰めよ』からの抜粋です。

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