何かもっと優れたもの ヨハネによる福音書1章19節~2章27節
「日はめぐり、お金もまためぐる。ここしばらく私の仕事は順調」と、宴会屋のマイカは一人ほくそ笑んでおりました。「たくさんの若者たちがいるし、たくさんの結婚の宴がもたれるだろうし、従って、たくさんの食事と飲み物が必要となる」。お祝いの席では宴会屋を必要としました。上品で粗相のない振る舞いで、いろんな面での満足、例えば家族が共に集い合うのを助け、幸せ一杯の人々が素敵な宴を楽しむことができるようにする役割です。
しかし、この時の結婚式は少々奇妙でした。ヨセフの妻であるマリアが、自分の親族(『各時代の希望』上巻一六五ページを参照)の結婚式のため、マイカに相談に来ました。うわさによれば、マリアは御霊によって、自分の息子のヨシュアを生んだと思っているということであり、恐らくはその子が、長いこと待ち望まれていた救世主であろうということでした。「まだ若くして、また一人身であったとき、結婚関係もなしに、しかも超自然的に子を産むに至ったと主張するのは、余りに虫の良すぎる変な話ではないか!」とマイカは考えたのです。
ある人々は、ヨシュアが弟子を伴って出席することは、宴を台なしにすることになりはしないか、結婚式より、彼の方に人々の関心が移り行くようなことになりはしないかと心配しておりました。しかし蓋を開けてみると、もっと心配なことが起こってしまいました。どんな宴会屋も、宴会が終わる前に飲食物を切らすということは赦されません。特に、カナのような小さな村ではそうです。もし、そんなことにでもなれば、いっぺんにその名に傷がつくことになります。取り返しのつかない打撃を被ることになってしまいます。しかし、明らかにそのようなことが起こりつつありました。出されているぶどう汁の質が落ちていっているのに気がついた時、マイカはパニックになり始めました。よくおわかりのように、飲み物をまかなうのに最善の方法は、最良のものをまず最初に出すのです。それから客人たちが宴会に少々疲れを覚え、もはや何を出されても、その違いに無頓着になったような頃になって、劣ったものを出すというような慣習がありました。このような戦略に従えば、かなりの出費を節約することができ、従ってマイカの懐への実入りもそれだけよくなるという算段です。しかし、今や飲み物の質が落ちてきたということは、残量も少なくなってきたということであり、しかも宴はこれからまだまだ続くのです。
最も不可思議なことが起こったのは、丁度このような時でした。まさに飲み物がなくなってしまったその時、一人のしもべがマイカのところに「このジュースを飲んでみてください」と言って一つのコップを持って来たのです。それを口にして驚いたことには、それはかつて口にしたことがないような甘い、しかも、新鮮そのもののぶどうジュースでした。しかも、それがふんだんにあるというのです。今やマイカは知りました。この人たちは普通の人達ではない。こんなに上等なジュースを、今の今まで残しておくとは。こんなのは全くの常識はずれだ。こんなやり方はない。誰でもみんなそう考えるはずだ。こんなことは決して前例にしてはいけない。そんなことは決してあってはならない。こんなふうにマイカは考え、真剣に願ったのです。
最後にもう一つ奇妙なことは、マイカ自身こんな特別においしいぶどうジュースを注文した記憶は全くないということでした。
単純なストーリー?
ヨハネによる福音書の第二章は、結婚式が終わらない内に飲み物がなくなってしまったという、ごく普通にありがちな出来事で始まっております。しかし、主イエスは、ここで、御自身の片鱗を現され、若いカップルと宴会屋を窮状から救い出されました。しかし、このことがこの物語の全てでしょうか。もっと他に深い何かがないのでしょうか。
驚くべきことに、ヨハネによる福音書には一つとして、譬話は記録されていないのです。マタイでもマルコでもルカでも、いずれの福音書の中でも、主の御教えの主要な基盤は、種々の譬え話でありますので、ヨハネによる福音書におけるその欠落は極めて注目に値します。しかし、本福音書では、他書において譬え話が果たしていた役割が、主イエスに関する実際の出来事でもって果たさせられているのです。ですから、この福音書の中では、それぞれのストーリーの表面下に、主イエスに関する特別な何かが教えられていることになるわけです。使徒ヨハネによる「譬え話」は作り話ではありません。実際の人々によって生きられた実際の出来事です。
ヨハネによる福音書の二章の一節から一一節の表面下には、二つの興味深いポイントを見いだせます。第一点は、水をぶどう汁に変えた出来事は、単なる物理的な奇跡を超えたものを象徴しているということです。その水は、単なる水ではありません。それは、儀式的な清めのために聖別されていた水です(二ノ六)。当時の宗教的な人々は、事ある毎に執り行わねばならなかった、清めの仕来たりに囚われて生きていたように思われます(マタイ一五ノ一、二)。洗うことは良いことです。清潔になります。宗教的には、御神のことについて考えさせてくれる可能性もあります。しかし主イエスは、これらの熱心に執り行われた儀式的な種々の洗いよりも遥かに良い何物かをもたらしておられるのです。主は、味の「良い」ぶどうジュースを提供しておられます。それは、御自身の血の象徴です。そしてこのぶどうジュースは、ただのぶどう汁ではなく最高に「良い」ものでした(二ノ一〇)。
第二点は、この出来事には間接的にではありますが、十字架に関係した一連の事柄を内包しているということです。この結婚式は三日目に執り行われました(一節)。それは主の復活に関係いたします(マタイ一六ノ二一、ルカ二四ノ七、二一、四六、使徒言行録一ノ四〇、コリント一・一五ノ四を参照)。主イエスは水をぶどう汁に変えました。これは主の血潮の象徴です(ルカ二二ノ二〇、コリント一・一一ノ二五、二六)。主イエスの「時」(二ノ四、七ノ三〇、八ノ二〇、一二ノ二三、二四)と、その「栄光」(二ノ一一、一二ノ二三、二四、三七~四一及び一七ノ一~五を参照)とは共に十字架の出来事を指し示しています。それにこの福音書では、二回だけ主が母に語りかけておられるところが記録されておりますが、いずれにしても「婦人よ」と呼びかけておられます。一回目はこの婚宴のお話の中で(二ノ四)、もう一回は十字架上からです(一九ノ二五~二七)。このように、この魅力的な婚礼のお話は、特異な方法での十字架の譬えとなっており、更に、そこにて表されている御神の御品性の一つである、御栄光とは何かの譬え話ともなっているのです。
神殿を清めるという出来事について
続いて記述されている、主イエスが宮を清められたという出来事(二ノ一三~二二)も、先に考えたのと同様、二つのテーマを内包しております。主は儀式を御自身に置き換えようとしておられることと、十字架を予測させるというテーマです。神殿の庭で販売されていた動物は、犠牲のために必要でしたが、それは遠くから旅して来た人々にとってはありがたいサービスで、神殿の庭にはそのための市場が開設されておりました。またお金の両替商も必要でした。なぜなら神殿では、神殿特有の通貨があって、しかも、それ以外の貨幣は使えないようになっていたからです。いろいろな資料によれば、神殿の庭における商いには、多くの偽りや汚職があったということですが、しかしヨハネによる福音書では、そのことを問題にしてはいないようです。
なぜ使徒ヨハネがこの出来事を記述したかは、他の三つの福音書の宮清めのお話と比較してみるとより明らかになります。四福音書のいずれにも共通しているのは、主イエスが神殿の庭で商売をしていた人々を追い払われた姿の描写です。ヨハネによる福音書において特異なのは、主の宮清めの業を、その御働きの終わりにではなく始めに置いている点です。更に特異な点は、一七節にある詩編からの引用であり、主はむちを用いられたこと、そして追い払われたものの中には商売人たちだけでなく羊や牛が含まれていたこと、更には神殿の破壊に関する言及とその神殿を御自身の御身体によって置換するようになるということの主の御宣言とその解説です。
マタイもマルコもルカも共に、御神は神殿を祈りの家となるように意図されたのに、それを強盗の巣にしてしまったと言っております(マタイ二一ノ一三、マルコ一一ノ一七、ルカ一九ノ四六)。マタイによる福音書では、主は商いをされていた場を癒しの場に変えられたとあります(マタイ二一ノ一三、一四)。他方マルコによる福音書では、神殿は全ての民族のためであるという点を強調しております(マルコ一一ノ一七)。そしてルカによる福音書では、主は神殿の庭を元来の目的に回復されたこと、すなわち祈りと教えのための場とされたことを述べています(一九ノ四六、四七)。しかし、ヨハネによる福音書では、何かこれら以上のことが盛られております。すなわち、宮清めは、主の十字架とその復活の、言わば先取りとなっているのです(二ノ一九~二一)。
ヨハネの言わんとしていることはこうです。神殿における業は表面的には律法の定めに従って事が運ばれるように執り行われてはおりましたが、他方では神殿奉仕の持つ、より深い真の意味を見失ったまま人々はこれを行っていたというポイントです。主は、御自身の御身体をもって、犠牲の動物と取って代わるためにこの世に来ておられました(二ノ二一)。ですから、ヨハネにとってはこの出来事は、主の十字架こそが真の宗教の究極的表現であることを示唆した御業であったのです。それは御神の自己犠牲の御愛の究極的啓示なのです(三ノ一四、一二ノ三二)。
ヨハネによる福音書二章一節から一一節で、私たちは不可思議な方法で主イエスが提供された「良い」ものを見てきました。それは人間の宗教的清めに関係してでありました。今日とて当時の場合と何ら変わりはありません。全ての人は、人生に意味を求め、その中に何らかの価値を見いだそうとして苦闘しております。しかしほんのわずかの人々しか、それをイエスの内に求めようとはいたしません。そうではなく、今日でも多くの人々は、蓄財や、何らかの業績となるものの達成や、また人々との強力な人脈を構築したりすることなどの内に、生きる意味を見いだそうとして苦闘し歩んでいるのです。
良いもの、さらに良いもの、そして最大のもの
チェスターは、人はその所有物によってその人物の価値評価ができると考えておりました。彼はニューヨークの南ブロンクス街の通称「アパッチ砦」と呼ばれていた薬物付けの人々があふれて生活している通りで成長しました。隣近所の多くの若者たちは、売春宿の主人や売春婦たちを敬っていました。なぜならこれらの人々は高級な衣装に身を包み、高級車を乗り回していたからです。チェスターに私が幸福とはどのようなものかと問いますと、彼は言下に言いました、「幸福とは、でかくて大きい、黒塗りのキャデラック!」。チェスターは所有の多寡の中に人生を見ようとしておりました。
私は、何かを成就したとすることから来る価値観にも、疑問を持っております。私が何かをうまく成し遂げると他の人々はそれを誉めてくれ、その時は自分は人として価値があるのだと感じるのですが、しかし、このことは、反対に、私にとってはあることを思い出させられるのです。あるフットボールの試合で、サードを守っていて四回失策したあの日のことです。その後は、三日間も落ち込んだままでした。何と愚かだったことであろうと! しかし、これがごく普通に現実生活の中で起こり得ることではないでしょうか! それでも、多くの人々はスポーツの英雄や映画のスターたちにほとんど何でも捧げてしまいたくなる程、これらのスターたちの成し得たことはこの世で最高のことであるかのように考え、自分もそれに類した何かをと憧れるのです。
また、他の人々は人生の価値をその人の知人で測ろうと致します。もし彼らが、大富豪か著名な学者か、この世で最も高名な人か、あるいは権力ある誰かと親交があれば、人間としてより価値があると感じるのです。ある場合には、しばしば、人は姦淫さえ犯しますが、それは、必ずしもその人が自分の伴侶より美しいとか素晴らしい人物とかというのではなく、単に彼らが値踏みして得ありとするそのような人に認められたり、その関係から来る社会的優越性を保持したいなどの願いのもとにです。
所有も、何かを成し遂げることも、人々との関係構築もみなある面では良いものです。しかし、これらのものは最善のものではありません。もし真の人生が、所有の多寡や業績や有名人との人間関係いかんに関わっているのであれば、バスケットボール選手たちは、この地上で最も幸せな人たちと言えましょう。何と彼らは年俸何百万ドルの報酬を得、最高位の超人的レベルの演技を披瀝し、願うならどんな人とでも、あらゆる種類の人間関係を果たし得る人々です。それなのに、なぜこれらプロのバスケットボールの選手たちの主要な問題は麻薬汚染なのでしょうか。なぜ彼らのうちのある選手たちはあんなにも怒りやすかったり、傍若無人になってしまったりするのでしょうか。こうしたことは、人生つまり真の人生は、所有の多寡や業績や人間関係などの中のみにては、決して見いだされ得ないことを表しています。
どれ程多くの財産を所有していても、十分という時は決してないでありましょう。その上あなたの持っているものは、遅かれ早かれ色褪せ、朽ち果て、壊れ、つぶれ、あるいは抹消されるようになります。運動選手たちとても早晩年老いて体力も落ちてゆきますし、美人コンテストの女王たちも年と共にその美び貌も衰え、教授たちも年とともにやがてその切れ味も消えてゆきます。愛する者たちも皆去って行くだろうし、尊敬も失われ、また離縁もあり得ます。思いがけない時に死が訪れる可能性もあります。もしも私共の人生の価値が所有や業績や人々との関係等に基づいているなら、その人生は誠にもろく移ろい行くもの、そして不確かなものとなります。
それではどこに真の生き方を見いだせるのでしょうか。そうです、それは究極の友の中にです。私たちには、私たちの全てを知っていて、しかも、いつも共にいてくれて、ありのままを受け入れ、愛してくれるような友が必要です。このような友、私共に対する評価が時と共に変わることのないような友が必要です。私たちには真に価値ある友(スーパースター)、そしていつまでも生きていてくれるような友が必要です。死に別れするということもない友です。もしも私たちがこのような友を見いだせたなら、自分の存在価値を強力に感じることができるし、生きる意味も不動のものとして感じ取れることでしょう。そして、このような友との関係で感じ取る自分の価値観は、株価の上下や日々の業績のいかんに関わって変動することもないし、また日常生活において触れ合う人々や、関係する人々の気分や気まぐれによって揺れ動くこともないでありましょう。
実は、私共はお伝えしなければならないとてつもなく素晴しいニュースを持っているわけです。あなたのための、そのような友が存在しているというニュースです。その方の名こそは、主イエスなのです。この御方は全宇宙に優る価値のある御方です。しかも、この御方は私たちの全てを知っておられ、かつ私たちをあるがままで愛してくださいます。この御方はもはや決して死ぬことはありません。従って、この御方を友とすることにおいて、私達の存在価値は永遠に定まります。主イエスを友とする人生は、貧乏、病、死においてすら、動かされることなく生きることの意味を持てるようになるということです。使徒ヨハネが主は道であるとして知ったこの主を知ることは、主をしりぞけるよりは殺される方を選んだ殉教者たちの心情をも理解することになりましょう。彼らは主イエスなしの人生には、生きる意味が全くないという程に、主イエスの内に真の友を見いだしていたのです。
しかしながら、以上のことは何も、物を所有することや業績をあげることや人間関係を構築していくことが、私共の人生の中で何の役割を果たすものではないということではありません。私たちには、生きるためには物が必要です。業績はこの世界を豊かに変革して行きます。そして私たちの豊かな人間関係は深い喜びを与えてくれます。全てこれらの要素は私の人生の重要な部分です。しかし、私共の人生の土台に、御神をではなく、これらの要素を据えるとき必ず失望する時が来ます。ですから、これらのものは自らの価値を測るものとしては、決して依り頼むに足る不動のものではないのです。他方、私共の人生を御神の内にその中心を据えるとき、私共の人生における、これらの一時的であるにせよ価値ある要素は、そのふさわしい場所を占めることになるのです。
サタンは私共が御神との関係から離れて生きる生き方を求めるように試みます。私共が決して満足できないようなもろもろのものや、はたまた何か人並みはずれた業績を上げることや、あるいはまた、変わりやすい問題の多い人間関係の構築などで人生を生きるようにと試みます。
しかし私共は、主イエス・キリストを通して御神に依り頼むことの内にのみ真実の人生を見いだすことができるのです。
十字架という砦
本章の初めのところで、ヨハネによる福音書の第二章にある二つの演じられた「譬え話」は、主の十字架の出来事の、言わば試食のような内容を含んでいるということを指摘いたしました。カナの婚姻の出来事の中では、「三日目に」とか、「婦人よ」とか「時」、また「ぶどう汁」とか、「栄光」などの言葉がそれでした。十字架を暗示するという隠れた主題は、実は宮清めの出来事の中にも見ることができるのです。主イエスは、犠牲の動物や神殿そのものを、御自身の御身体でもって置き換えようとしておられます(二ノ一九~二一)。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と主が言われた時、主イエスは明らかに御自身の十字架上での死とそれに引き続く栄光の復活とを考えておられたのです。
人間存在の価値を確立するものは実にあの十字架です。宇宙の創造者は万物よりも万人よりも遥かに優って大事な御存在です。あらゆるもの、あらゆる偉大な運動選手や政治家、そして礼拝の対象としたくなるような俳優たちに遥かに優って大切な御存在です。このような御方があなたや私のため、身代わりとなって死ぬという御決心の中に私共の人生の計り知れない価値を見ます。もし私共がこの宇宙の最も偉大なお方にとって、このように大事な存在とされているのであれば、私たちはもはや貧富とか、人物の大小とか、有名人であるか普通の人であるかなどは何をかいわんやです。そして、他の人たちです。がどう思おうが、全く眼中になくなるのです。私共はキリストにあって、今、真実に大切な存在なのです。そして、この主の十字架こそは、疑いを差し挟む余地のない程に、私共の存在の大切さが論証されている場なのです。
ですから、使徒パウロが次のように言うのは不思議でも何でもありません。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(ガラテヤ六ノ一四)。パウロは世が提供する物質と業績と人の魅力を捨て去ることができました。それは、遥かに不動で満足を与え得ているあるもの、すなわちイエス・キリストの十字架の御業の中に人生の意味とその大切さとを見いだすに至ったからです。「十字架の下に立って、キリストはただ一人の罪人のためでさえ、その命をお捨てになったのだということを考えるとき、はじめて一人の魂の価値を正しく評価することができる」のです(『キリストの実物教訓』一七七ページ)。この同じ十字架がヨハネによる福音書の中心テーマなのです。
この記事は、ジョン・ポーリン(Jonathan k. Paulien)著、我妻清三訳『ヨハネー愛された福音書』からの抜粋です。
著者紹介
ジョン・ポーリーン博士
執筆当時アンドリュース神学院における新約聖書釈義の教授(2024年10月29日現在ロマリンダ大学教授)。7冊の著書、並びに100以上の雑誌記事や学術上の論文その他の出版物もある。ポーリーン教授は特にヨハネの手によるものと考えられている福音書や、書簡、黙示録などの研究の専門家である。仕事に一息をいれている時には、パメラ夫人並びに3人の子供たちと共にあることを喜びとしている家庭人でもある。
翻訳者紹介
我妻清三(わがつませいぞう)
1938年1月1日、宮城県生まれ。東北大学工学部、日本三育学院神学科卒。米国アンドリュース大学大学院(宗教学修士)、同神学院(神学修士、実践神学博士)修了。北海道静内、山形、木更津、芦屋、サンフランシスコ、刈谷、広島、茂原、光風台等で20余年の教会牧師。日本神学教育連合会・東北アジア神学校連合会幹事歴任。1990年来13年間三育学院短大・カレッジ神学科で教鞭。2003年4月退官時、教授・神学科長。牧師。結婚・家族関係カウンセラー。