【イザヤ書】惑星地球の再生【65ー66章解説】#13

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天文学の本を読み終えた12歳の男の子が、ある日、急に学校に行きたくないと言い出しました。驚いた母親は、その子をかかりつけの医師のところに連れて行きました。医師は尋ねました。「ビリー、勉強もしたくない、学校にも行きたくないなんて、何があったんだい」

ビリーは答えました。「だってね、先生。この天文学の本には、いつか太陽は燃え尽きて、地球上の生命は消滅するって書いてあったんです。結局何もかも死んでなくなるんなら、何をしても意味ないと思うんです」

母親は、ヒステリックに叫びました。「そんなことあなたには関係ないでしょ!そんなことが理由だなんて信じられないわ!」

医師は、母親をなだめるようにして微笑みながら言いました。「でもね、ビリー。心配しなくてもいいと思うよ。太陽が燃え尽きる前に、私たちはみんなとっくに死んでしまっているんだからね」

幸いなことに、私たちの存在は、死をもって終わるのではありません。私たちには、新しくされた世界で生きる永遠の命が約束されているのですから。

新しい天と新しい地(イザ65:17~25)

問1

イザヤ65:17~25を読んでください。主は、どんな再生を約束しておられますか。

神は、新しい創造を約束しておられます。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」(イザ65:17)。この驚くべき預言の中で、主は「エルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する」と約束しておられます(同18節)。その都では、もはや泣く声は聞こえません(同19節)。人々は100年以上も普通に生きて(同20節)、働くことを楽しみとし、子孫を喜びとします(同21~23節)。彼らが呼びかけるより先に、神はお答えになります(同24節)。

問2

これはすばらしい光景ですが、なぜ私たちの最終的な回復と最終的希望を描いていないことがわかりますか。

ここまでは、「約束の地」における穏やかな生活が描かれています。しかし、人々は、長生きはしますが、まだ死ぬのです。「新しい天」と「新しい地」が創造される時に私たちが期待する〔人間の〕性質の根本的な変化は、どこにあるのでしょうか。続く25節は、次のように述べます。「狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(イザ65:25)。

ライオンのような肉食動物が菜食料理教室に入っても、菜食になることはできないでしょう。それには、罪によって死が生まれる前のエデンのように、この世界が再創造によって理想的な状態に回復されることが求められます。

イザヤ65章で神は、「新しい天」と「新しい地」を創造されるある過程、一つの段階として、エルサレムの再創造の始まりの姿を示しておられるのです。イザヤ11章の、メシアが正義を携えておいでになる描写と比較してください(イザ11:1~5)。のちに、最終的に、神の全世界に及ぶ「聖なる山」に平和が訪れます。イザヤ65章に見られるのと似た、「狼は小羊と共に宿り……獅子も牛もひとしく干草を食らう」という描写が、11章でも用いられます(イザ11:6、7)。主の「聖なる山」は、エルサレムのシオンの山から始まりますが、それは、神が新しい世界においてご自分の贖われた民に約束しておられることの前ぶれ、しるしにすぎません。

神の「磁力」(イザ66:1~19)

問3

イザヤ66:1~19を読んでください。イザヤの時代を念頭に置いて、彼がここで基本的に何を言おうとしているのか考えてみましょう。

神はここで、イザヤの筆を通して、この書全体に一貫して流れる〔悔い改めへの〕訴えと警告を繰り返しておられます。すなわち、神が霊の砕かれた人々、み言葉におののく人々を救い、回復されるということです(イザ66:2、5)。イザヤ40:1にもあるように、神は彼らを慰められますが(イザ66:13)、神に反逆する者たちを滅ぼされます。この反逆する者には、神に忠実な者たちを憎み、拒む者たちと同じように(同5節)、偽善的儀式に見られる神の拒まれる犠牲をも含みます(同3、4節をイザヤ1:10~15と比較)。さらに、かつてエルサレムの神殿で行われたような〔偶像崇拝や〕、異教の邪悪で忌まわしいことを行う者たちも含まれます(エゼ8:7~12、イザ66:17)。

問4

イザヤ66:3には、どんな霊的原則が示されていますか。現代の教会と礼拝にも同じような考えが入り込んでいないでしょうか。

問5

神はどのように、磁石のようにすべての国を引き寄せられますか(イザ66:18、19)。

神は敵を滅ぼした後で(イザ66:14~17)、磁石のように人々をエルサレムに集めるために、ご自分の栄光を現されます(同2:2~4と比較)。神は、彼らの間に、「一つのしるし」を置かれます。ここでは、それが具体的に何であるかは示されていませんが、イザヤによって前に言及されているしるしであることは明らかです。すなわち、神がその民に喜びと平和を与え、彼らの地を回復されるということです(同55:12、13)。神が滅亡ののちに、その民を回復することによって栄光を現されるとき、ちょうど洪水ののちに、ノアに「契約の虹」をお与えになったと同じように、それは神の回復された寵愛のしるしとなるのでした(創9:13~17)。

宣教師と礼拝指導者(イザ66:19~21)

問6

生き残った者たちを諸国に遣わし、すべての兄弟を主への献げ物として連れて来るとは、どういう意味でしょうか(イザ66:19、20)。

神は、「彼らはわたしの栄光を国々に伝える」とあるように(イザ66:19)、主の破壊から生き残った者たちを、地の果てまで、神を知らない人々に遣わされます。これは、旧約聖書における最も明確な宣教声明の一つです。言い換えるなら、諸国の人々がヘブライ民族に引き寄せられるばかりでなく、彼らの中から他の民族に真の神を教えるために出て行く者があるということです。この思想は、新約聖書にも明確に示されています。捕囚からの帰還からキリストの時代までの間にも、ユダヤ人による布教活動はありましたが(マタ23:15)、初期のクリスチャンによる宣教は、急速、かつ広範囲に及ぶものでした(コロ1:23)。

ちょうど、イスラエル人が神殿で主に穀物を献げたように、宣教者たちは、「すべての兄弟を主への献げ物として……あらゆる国民の間から」主のもとに連れて行くのです(イザ66:20)。穀物の献げ物が、神への生きた贈り物であるように、主に連れて来られる回心者たちは、主にとって「生けるいけにえ」なのです(ロマ12:1と比較)。人々が神への献げ物の一つとなり得るという思想は、ずっと古く、「イスラエルの人々の奉納物として、レビ人を主の御前に差し出して主に仕える者とする」という、レビ人の奉献の記述があります(民8:11)。

問7

「わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる」(イザ66:21)との神の約束は、何を意味するのでしょうか。

21節の「彼ら」は、その前の節の「あらゆる国民」を指します。神は、これらの異邦人の中から、祭司やレビ人と共に礼拝指導者をお選びになるのです。これは、大変革です。神は先に、アロンの子孫だけに祭司として仕える権威を与え、そしてレビ族だけに祭司を助ける者とされました。異邦人は、字義通りのアロンの子孫やレビ人にはなれませんが、神は、かつてほとんどのユダヤ人にさえ許されなかった祭司職に就く者が異邦人の中から出ることを、是認されるのです。

信仰の共同体(イザ66:21)

イスラエル人には、「祭司の王国、聖なる国民」であって(出19:6)、彼らを代表して礼拝指導者となるために特別な祭司が聖別されていましたが、将来、異邦人の中からも礼拝指導者が立てられるのでした(イザ66:21)。

問8

この変化は、新たにされた信仰の共同体に、どんな影響をもたらすでしょうか(マタ28:19、使26:20、ガラ3:28、コロ3:11、1テモ3:16参照)。

神の「新しい世界秩序」においては、異邦人は神の民に加わるだけでなく、彼らが一体となった信仰の共同体においては「王の系統を引く祭司」となって、ユダヤ人と平等な〔神の〕協力者になるのです。したがって、ユダヤ人と異邦人を区別することは事実上、的はずれなものとなるでしょう。

問9

このイザヤの預言は、いつ成就しますか。

異邦人を伝道したパウロは、次のように宣言しています。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、……あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(ガラ3:28、29)。

したがって、約束による相続人になることと、高められた「王の系統を引く祭司」になることは、気取ったエリート主義のための付託ではなく、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」を宣言する〔霊的〕ユダヤ人に加わるための信任なのです(1ペト2:9をイザ66:19と比較)。

異邦人が高められるということは、ユダヤ人に、異邦人にも同じ報いを与える神は不公平な方だと不平を言う理由を与えはしません。それは異邦人にとっても、遅く雇われた労働者が早く雇われた労働者を見下すべきでないように、ユダヤ人の兄弟姉妹を軽視する理由にはなりません(マタ20:1~16)。ユダヤ人は、神の啓示のチャンネルとして、初めに「神の言葉をゆだねられた」のです(ロマ3:2)。パウロは、異邦人に次のように書いています。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたがたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません」(同11:17、18)。

あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続く(イザ66:22~24)

イザヤ書の最もすばらしい約束の一つであるイザヤ66:22を注意深く読んでください。新しい天と新しい地で、私たちの子孫と私たちの名は永遠に続くのです。もはや消し去られることも、切り倒されることも、接ぎ木されることも、根こそぎにされることも、引き抜かれることもないのです。私たちには、新しくされた世界での永遠の命が約束されているのです。それは、罪も、死も、苦しみもない世界、新しい天と新しい地、私たちキリスト者信仰の最終的かつ完全な成就、キリストが私たちのために十字架で成し遂げてくださったことの完結を意味するのです。

問10

イザヤ66:23の新しい天と新しい地の描写の中に、なぜ「安息日ごと」と共に「新月ごと」という言葉があるのでしょうか。

イザヤ66:23に出てくる新月に関しては、いくつかの解釈があります。次の解釈は、その一つです。神は犠牲制度が存在する前に、安息日を創造されました(創2:2、3)。ということは、安息日は犠牲制度によって崇められはしても、安息日が犠牲制度に依存することはないのです。このように、安息日は回復の期間を通じて、新しい地までとぎれることなく続くのです。月ごとの新月は、毎月実を結ぶ命の木と関連して(黙22:2)、(週ごとの安息日のように休息の日であるとは限りませんが)新しい地では礼拝日になるのかもしれません。

いずれにせよ、イザヤ66:23における重要な点は、神の民は永遠にわたって主を礼拝するという事実です。

問11

イザヤはなぜ、救われた者たちが、滅ぼされた、神に背いた者たちの死体を見るというような悲観的な情景でこの書を閉じているのでしょうか(イザ66:24)

イザヤはこの当時の人々への警告として描いたこの生々しい情景の中に、バビロンによる破壊から生き延びた忠実な者たちと、滅ぼされる反逆者との対比を暗喩したのです。この情景は永遠の責め苦を意味しません。その目的を達するまでやむことのない滅びである「火」によって殺され、反逆者たちは死んでいます。その後、エルサレムの再創造が始まるのです。

イザヤの警告は、黙示録の書に預言された最後の裁きを指し示しています。すなわち、火の池での罪人、サタン、そして死の滅びがあり(黙20章)、そののち、「新しい天と新しい地」、聖なる「新エルサレム」が到来します。もはや涙も嘆きもないのです。「最初のものは過ぎ去った」からです(黙21:1~4をイザ65:17~19と比較)。地から贖われた者たちすべては、永遠の命を得て、新しい存在となるのです。

さらなる研究

参考資料として、『各時代の大争闘』第42章「大争闘の終結」を読んでください。

「永遠の年月が経過するにつれて、神とキリストについてますます豊かでますます輝かしい啓示がもたらされる。知識が進歩していくように、愛と尊敬と幸福も増していく。人々は神について学べば学ぶほど、ますます神のご品性に感嘆するようになる。イエスが彼らの前に、贖いの富と、サタンとの大争闘における驚くべき功績とをお示しになると、贖われた者たちの心はいっそう熱烈な献身の念に燃え立ち、いよいよ喜びに満たされて黄金の立琴をかき鳴らし、万の幾万倍、千の幾千倍の声が一つになり、賛美の一大コーラスとなって盛りあがる。

『また、わたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」』(黙示録5:13)。

大争闘は終わった。もはや罪はなく罪人もいない。全宇宙はきよくなった。調和と喜びのただ一つの脈拍が、広大な大宇宙に脈打つ。いっさいを創造されたお方から、いのちと光と喜びとが、無限に広がっている空間に流れ出る。最も微細な原子から最大の世界に至るまで、万物は、生物も無生物も、かげりのない美しさと完全な喜びをもって、神は愛であると告げる」(『希望への光』1930ページ、『各時代の大争闘』下巻467ページ)。

まとめ

イザヤは、圧倒的なスケールで救いの情景を描写します。神は、その信仰の共同体を清め、そして回復されるだけでなく、その境界をすべての国々に広げられます。最終的に、神の共同体の再創造は、惑星地球全体へと広がり、神のご臨在がその民を究極の慰めとなります。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年2期『イザヤ わが民を慰めよ』からの抜粋です。

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