過去をあなたの後ろに追いやって(ヨハネによる福音書5章1節〜47節)
一体人生とは何であろうか。どのようにしてそれを知ることができるのだろうか。いや、今まで一度たりとも自分には生きたという実感はなかったのだ! 自分がした全てといえば、何かが起こるのを待って、ただここに横になっているだけ。しかし何にも起こらなかった。少なくとも私にとっては。友達もいないし、特にこんな病気になってからは。お金もないし働くこともできない。もう飽き飽きした。自分には人生などというものはないのだ。自分は心中奥深いところで言っていることを知っている、ずっとこのままで終わるのだなと。それならば、何故、今、自分はここにいるのだろうか。
エルサレムにある池の傍らで、足のなえた一人の男がマットの上に横たわっています。これまでのうわさによれば、天使が下ってきて池の水を泡立てるとき、そのたび毎に一番最初にその池に飛び込んだ者は、たとえどんな病であっても、男であっても女であっても、癒されるということでした。癒されることを願ってそれこそ多くの人々がやって来ましたので、この足のなえた人はしばしばその群衆に遮られて、自分が横になっているところからは池の水を見ることさえできないほどでした。ですから、水が少しでも動きますと、人々は一度にどっと動き出すことになって、ある者は群衆に踏みつけられて死に至ったということさえありました。そのようにして彼は、もう何年も水を見続け、癒される機会を待ち続けてきたのです。しかし、水が動いたときにはいつでも、自分より病の軽い誰かが飛び込んでおりました。希望なき状況です。数年たつうちに彼の目は、失望も重なって、だんだんとどんよりとなって来ておりました。身体の麻痺したこの人は心も麻痺してまいりました。
時がのろのろと過ぎ行く時、時々彼は後悔の念を抱きます。若かった頃、しばしば彼は、ラビたちが罪と呼んでいた生活にふけることがありました。もし、そんな罪深い生活をしていたら必ず病気や死に至るようになると、彼らはよく彼に警告したものでした。彼の場合はまさにそのとおりになって、生ける屍となったのです。やめようと思った時でさえ、彼を罪に駆り立てたものは一体何だったのでしょう。どんな種類の空しさが彼をして、この致命的な行為にふけさせるようにさせたのでしょうか。もし彼が罪の結果がどうなるのかを真に知っていたなら、やがてその悪習慣をやめるに至ったのでしょうか。それとも彼は唯このような経験をする運命に定められていたということなのでしょうか。三八年間の苦しみでした。それは公平といえるでしょうか。彼は本当にこのような運命に値する者であったのでしょうか。
しかしながら身体の麻痺よりもっと悪いのは、人々による排斥です。彼の病気が彼の罪の結果でありましたので、大方の人々、特に宗教家たちは彼に同情することなく、むしろ白い目で見て来たのです。彼はその運命に遺棄された者のように、彼はただ一人取り残されて、いたずらに考えを巡らすだけ。しかもその考えには何の喜びもなかったのです。
突然一人の親切そうな人が、彼のどんよりとした視界に飛び込んでまいりました。彼はその人の表情の中に、いかにも人々から見捨てられた苦しみを味わうとはどういうものかを知っておられるかのような同情に富んだ人の情を感じ取りました。関心を寄せ、心配そうに見てくれている人。その人は言いました。「良くなりたいか」と。
この質問は一体何を意味するのかと、足の萎えたその人は一瞬思いめぐらしました。私が良くなりたいかって? おぼれている人間に空気が必要かと言っているのと同じではないか。豚に向かってお前たち泥のぬかるみが好きかと聞いたり、ファリサイ人たちに、名声を得たいかとか、ローマ人たちに権力が欲しいかなどと聞くのだろうか。良くなりたいのかとは何だ。それにしてもこの人は一体何者?
あわれみの家
考古学者たちがエルサレムにあるベトザタの池を発掘しました。神殿地域の丁度北側にあります。真四角ではありませんが、約幅六〇メートル、長さ九〇メートル、そして深さが一〇メートル余りの四角な池です(この池は大きく北の池と南の池とからなっていて、北の池の南端に、ヘロデ大王が造ったといわれている巡礼者のための沐浴の水槽があり、東西に一六・五メートル、南北に六・五メートルの石を彫って造ったもので、高さ八・五メートルの美しい五つの柱廊がこれを囲んでいたといわれている。訳者注)。岩に刻み込まれた水槽があって、その水槽は四方が柱廊によって囲まれておりました。更に水槽の真ん中に水槽を左右に分けるもう一つの柱廊があって、新約聖書が言うように合計五つの柱廊が当時あったことがわかっております(五ノ三)。池の構造からするとギリシア的であり、恐らくは、ギリシアの癒しの神アスクレピウスを祭って、そこに神殿らしきものが置かれていたのではないかと考えられております。池には地下水が引かれており、池の水が、時折動いたのはそのためではないかと考えられております。そのギリシア的建築の外観も手伝ってか、癒しを求めるいろいろな人々、宗教的にも雑多な多くの人々が、その池に引き付けられていたようです。
ベトザタという名は、アラム語で憐れみ(あるいは恵み)の家の意味がありましたが、しかし癒しを求めてそこにやってきた数え切れない多くの人々には、少しもそこに憐れみを見いだせなかったのです。英語欽定訳は、主の天使が癒しの池の水を動かしたと言っておりますが、より古い聖書写本はこの箇所を取り除いております(『各時代の希望』上巻二四二ページ参照。この中で著者は一般の人々がそう信じていたと言っております。傍線は訳者注)。主イエスがその癒しの御業を、癒しを必要としている他の多くの人々をさておいて、最も価値の低い病人を助けられるように計らわれたのは、本当に不可思議に思います。私たちが確信をもって知り得ることは、このお話の中で主は人々が憐れみを求めてやってくるその場所で、まさにその憐れみを示されたのだということです。
このお話が内包していること
ヨハネによる福音書における物語は、主イエスとは一体どなたで、またどのような御方であるかを示す生きた譬え話であるということを、この物語でも再度発見するのです。この物語の中の幾つかの側面は注目に値します。
まず第一の側面は、主イエスはその男を御自身の意図で癒されたという点です。主は、群がっているたくさんの病人の中からその一人を選ばれました。主を求めていた人ではなかった病人です。癒された後でさえ彼は癒し主がどなたであるかさえも知らなかったし、従って癒される前に信仰告白のようなものもなかった人をです。このことは、たくさんの人々が私に語ってくれたことを思い出させます。すなわち、彼らは、過去の人生のある一点で、自分が求めてもいなかったある方法で、しかも、それに値しなかったにもかかわらず、差し伸ばされている御神の御手を感じ取ったのであると。御神はこのようなことをなさるのです。それは、罪の言い訳をさせるためではなく、御神の憐れみを体得し、それによって罪を処理する勇気を得ることができるようにさせるためなのです。
第二の驚くべき側面は、主イエスはこの男の癒しのため、安息日という日を選択されたという点です。ラビたちは緊急事態であれば安息日であっても事を成すことを認めておりました。しかし、この人の場合は彼らの言う、その緊急事態ではなかったのです。三八年間も横たわっている状態でしたので、安息日を避けるため、その癒しが一~二日遅れたとしても、この人にとっては、それ程重大な問題ではなかったことかもしれません。ですから、主イエスは熟慮の上で故意に、この安息日の癒しをなされたのです。「安息日に善いことをするのは許されている」(マタイ一二ノ一二)と主イエスは言われましたが、ここで主は、教えておられたことを実行してみせられたのです。安息日は善を行うのには最もふさわしい一日です。善い業を安息日になすということは、御神がこの日になしておられる御業の範に倣って働いているということになります。
しかしながら、これらもろもろの興味深いことの中でも最大のものは、一四節が暗示している事柄です。主が「もう罪を犯してはいけない」と言われた時、主は、まず第一に、この男の病気は罪によってもたらされたものであると言われていることになります。罪を犯し続けるなら麻痺が再び起こるようになるかもしれないということです。しかしここには、もっと深い意味が内包されております。「罪を犯す」と訳出されている原語の形は高度に継続を表す意味を示しています。このことは、この人は横たわっていた時でさえもある意味で罪を継続していたことを示しております。一体どんな種類の罪について主は語っておられたのでしょうか。足の萎えた彼は銀行強盗はできませんし姦淫もできません。また誰かを殺すなどという行為も不可能だったでしょう。従って、主は心の中での罪のことに触れておられたのに違いありません。その人の肉体の病気は不健全な精神の在り方から招来したものでした。病人の肉体の癒しは、氷山の一角の出来事に過ぎなかったのです。主イエスは全人的癒しに関心を持っておられるのです。
過去の傷には単に身体上の怪我や傷のみならず、情緒や霊性、そして心理的な痛手をも含みます。主イエスとの関係構築においては、これら全てのことに関わることができるし、関わらねばならないのです。主との歩みにおいては、表情が明るく輝くようになり、情緒は安定し、身体にも新しいエネルギーが注入されるようになります。こういうことが、セブンスデー・アドベンチスト教会が何故、食生活や運動や心の在り様にこだわるのかの理由です。天来の信仰生活は、人生のあらゆる部分を内包するのです。霊的のみならず、精神も、肉体も、情緒においてもです。
情緒的痛みの処理
このように言いますと、大概のキリスト者たちは、新生を経験した後でさえも、自分たちの内面生活、とりわけ感情の面では極めて不安定のままにあることを容易に認め、不安に思います。古い性質が何度も現れてきて、困惑しまた苦しみます。他の誰もがそうでありますように、キリスト者たちは、不幸な記憶や突然の怒りの感情や、言葉では言い表せないもろもろの考えと苦闘しなければなりません。主イエスは肉なる外面だけではなく、内面の戦いについても最大限の心配りをなしてくださいます。
歓迎されざる思想や感情は、おもに二つのタイプの過去の出来事の周りを思い巡らしたり去来したりしております。すなわち、私たちがなしてしまったことと、私たちになされたことの二つです。私たちがなしてしまったことどもに対しては、良心の呵責や後悔や敗北感のような感情を引き起こします。失敗の記憶は一方では私たちを臆病にしたり、用心深くしますし(「自分は良いことは何一つできない」との思い)、他方では向こう見ずな生き方(「どうせ自分は」と、自暴自棄的な「何をどう評価されようと気にしない」の思い)を与える可能性があります。
ほかの人々が自分になしたことについての思いでは、怒りや悲しみや深い恨みの感情の原因となり得ます。全てのこれらの感情は、私の場合は、私が十代の時に経験した、深い情緒的痛手の結果として生起してきます。
高校生活を送っていた時、私の英雄は聖書の先生でした。私が成人したら他の何にもまさってこの先生のようになりたいと願ったものです。最上級生になった時、その学校の最も強いフットボールチームのクオーターバックとなったことがありました。自分がプレーしていない時には試合の審判員を務める特権にも授かりました。
ある時、私はあの聖書の先生が応援しているチームの試合の審判員を務めることになったのです。ほとんど最初からセンターからの厳しい噛みつきがあって、事は気まずいものになって行きました。「なんだ、その判定は!全く馬鹿げた判定だ! どうした? 目がどこに付いているんだ? 相手チームからいくらもらったんだ!」サイドラインの方からも同様の野次がほとんど一時間も続いたのです。しかし、私はそれらを全く耳にしていないがごとくに、勇敢に振る舞い、私の最善を尽くしました。
遂に私は自分の権限を一振りし、サイドラインにいた聖書教師のすぐ目の前で試合の終わりを告げました。私はその日試合の頂点におりましたし、私は自分の見た通りの判定を下しておりました。彼は私に向かって叫んでおりました。「何たる判定! 私は信じられない。君は何と馬鹿げているんだ! 私の生涯で、こんな無茶苦茶な審判を見たことがなかった!」と。自分のこみ上げてくる感情を抑えながら、私はボールを拾い上げて、聖書教師の所に行って、震える声で言いました。「すみませんでした。私は自分のできる最善のことをしたのです」。彼は私の目を見、それから軽蔑をこめた調子で言いました。「君の最善は、不十分そのものである!」
私はクオーターバックとしての数年間の経験の中でも最もすばらしいボールをらせん状の回転を与えて投げ上げました。それは試合場のすぐそばにあった四階建ての建物の屋根まで届いて、そこに落ちたのです。フットボールシーズンの終わりを告げる体育教師の声を後ろに聞きながら、私は校庭を後にしました。私はその高校の最も深く暗い面を見ました。二時間もの間泣きました。誰も止めることができませんでした。数か月間お詫びの言葉を待ちました。しかし、一言もなかったのです。涙なしではその時のことを語れない自分がありました。
何故私は泣き叫んでいたのでしょうか。それは、私の個人的英雄の尊敬していた先生が、私の最善を取るに足りないと軽蔑を込めて私に語った時、私のあらゆる希望が失われたからです。私は、自分の最善が決して最善とはなり得ないのだと考えるようになりました。自分が最大に思いをかける尊敬する人も信じ得ないことがあるという事実も学びました。未来が真っ暗で無意味に見えました。しかし時を経て、単に人生における肉体の面のみならず、感情の面でも、主イエスの癒しの御力に、自分を明け渡せるようになる実際のステップを学ぶことができるに至ったことを私は今になって感謝しております。痛みの伴った記憶や深い憤りなどをどう扱うかについても、私は徐々にではありますが、学びつつあります。どうやって過去のことを後ろに追いやって前に進むかについても学びつつあります。
実際上、大なり小なり全ての人々は、私がフットボールの試合で経験したのと同じようなことを体験していることでしょう。多くの人々は同様の一連の長い経験をもって歩んで来ております。この情緒の癒しにとっての鍵となる課題は、どのようにして、つらい思い出や感情の傷を克服していけるかという点であります。激しいいじめや極端な暴力や乱暴があった場合、その情緒の癒しへの過程は、当然長く、そして複雑なものとなるでしょう。しかし、数年にわたり、私はその回復への道で私の助けともなった幾つかの戦略を学んでまいりました。以下の方法が私の学んだそれです。
過去のことをあなたの後ろに追いやる
①癒される方向を選択しなさい。多くの人々は癒しの道を正しいとして選びます。しかし癒しは赦しからのみ訪れるのですが、この赦しを追い求めるよりも、多くの人々は、むしろ問題を引き起こした誰かに厳しい態度をとるとか復讐したりまた非難することを是といたします。このような生き方が、何故、人はしばしばどん底を経験しなければならないかの理由です。癒しのため自らの変化を求める以前に、離縁や麻薬付けのような、全く悲惨な泥沼状況へと進んでしまうケースも多く見ます。人は、何にもましてその苦痛より解放されたいと願わない限り、感情の苦しみからの回復はです。
②自分の目で過去を直視せよ。あなたがなしてしまったことや、受けた仕打ちの現実をまず直視しようとして見ることです。過去についての真実の知識を追求して見るのです。祈りや聖書研究やいろいろな資料を調べたり、責任感を働かせながら、現実の問題に関係した、錯綜とした考えや気持ちの中から、正しい現実を分析・分類して行けるように求めるのです。自分のなした罪深い選択に対する責任を受容するのです。あなたは自分でコントロールできない事柄(あの聖書教師が取ってしまったような態度)から招来する苦しみを認めるのです。
私どもがなした事柄、あるいは他人になした事柄(罪)の故に、その感情の痛みで苦しむ時、実は、過去に関する真の知識が告白と悔い改めへと導きます。告白とは、単純に自分の真実に直面し、それについて語ることなのです。戦略の八番とこれが結び付けられる時、それは驚く程に癒しの効果を見ることになります。
③神の目で見ていただいている自分の価値を発見せよ。
自分の目で自分の過去を正視することには、とてつもない品性の力が必要とされます。たとえあなたがどんな者であろうと、十全に受け入れられているという認識が与えられるような関係を他にして、過去を直視することはほとんど不可能です。福音書が告げているのは、宇宙において最大に価値ある御方があなたの全てを知っておられること、しかもその上でこの御方が無条件であなたを愛しておられるということです。御神は私どもをあるがままで受け入れておられるのです。十字架の出来事は、一体私どもはどのように見られているのかを明示しております。私どもは、御神の尊い御一人子という無限の生命に等しい価値があります。
御子イエスはもはや決して死なれることはないので、この御方は、決して私どもを捨てられることはありません。御神の御目において私どもが見られている価値を把握する時、私どもは、自分の過去に真正面から取り組んでそれを処理して行こうとする勇気を持ち始め得るのです。
④支援と導きとを求めよ。自分の目で過去を見るという作業は、御神の御助けと共に、人の支援をも得てこれをなすことができる時にはより容易になります。あなたの信頼できる友を見つけることは、回復への過程において極めて重要な要素です。多くの人々にとっては、特に重大な精神的障害を被っている人々の場合、この過程は、まず専門のカウンセラーと出会うことから始める必要があるかもしれません。自分を最大に悩ましている事柄について話せるような安全な環境作りができる、専門の訓練を受けているそのような人と会ってみることです。しかし、種々の小グループも、傾聴して世話してくれる格好の場となり得ます。
⑤あなたの物語を繰り返し語りなさい。感情障害の癒しにとって、非常に重要な部分は、繰り返し自分の物語を語るということです。(あの聖書教師が知られていない地域では)私は自分の価値に関する説教の一部として繰り返し、私のフットボール試合での体験を話しています。そしてこのお話をすると、私は再び、あの忌まわしい思い出で打ちのめされます。しかし時の経過と共に、これを語ることにおいて、徐々に私にとっての強迫観念は薄れ行き、遂には、何の痛みもなくそれを語れるまでになったのです。感情障害処置の他の方法は、もし必要であれば何回か、自分の障害の物語を書き出してみることです。あなたはそうすることによって、自分に対しても、他の人たちに対しても繰り返しその出来事を語ることができるし、それによって、そのお話に関係している感情を処理していけるようになるのです。
⑥あなたの感情障害の中に主イエスをお招きしなさい。感情障害の記憶から癒される最も優れた道は、その光景の中に主イエスをお迎えすることです。あなたの記録や想像の中で、その出来事がどのように主に感じ取られるかを考えてみるのです。その光景の中の一人ひとりに主は何と語られるだろうか。あなたに関して主はどのように感じられるであろうか。あなたが傷つけた人あるいはあなたを傷つけた人についてはどうであろうか。その場所で、主を含めた設定の中で、記憶を新たに再構築してみるのです。主が提示なさるであろうどんな回復法をも受け入れてみることにするのです。そして必要としている主の御赦しを受け入れるのです。
⑦あなたを傷つけた人を赦しなさい。私たちが誰かを赦す時、それは、時々は、赦された相手の祝福となりますが、しかし一方、それは間違いなく、赦した本人自身の祝福となります。赦しとは一つの選択です。私共は赦しの必要が自分を突き刺すようになる前に、何度か赦しの選択をしなければならないかもしれません。敵意や、憎しみや、憤りは、その対象者にはほとんど打撃を与えないかもしれませんが、しかしそれらは常に、それを心に抱く人々に重大な損傷を与えます。赦すということは過去の鎖を断ち切ることです。赦すとは癒しを見いだすことです。主イエスは私どもが赦せるように助けようと切望しておられます。
⑧あなた自身を赦しなさい。この自分を赦すという作業は、通常、他人を赦すことより難しいのです。あなた自身の感情の問題から他の人々を傷つけてしまった時はいつでも、あなた自身に赦しを宣言するようにしなさい。適切な機会を見計らって償いを計りなさい。あなたを傷つけている人、あるいはあなたが愛している人々を、裁いてしまったり非難してしまって後悔しているあなた自身を赦すのです。私たち自身を、告白と悔い改めの雰囲気の中に置くようにしてごらんなさい。そうすれば、他者のみならず、自分自身をも赦せるように、主がお助けくだされるところに私共を置いていることとなります。
⑨新しい、前向きの記録を打ち立ててゆきなさい。傷跡はまだ残っているとはいえ、苦しみは消え去るという、そのような時が訪れるでしょう。私たちは思い出しますが、さっそくそれは自分に苦衷を与えないのです。古い記録が閉じられる時、それはまさに、新しい記録、前向きの記録を作り行く時です。主イエス・キリストにあってあなたはいかに尊い価値ある存在なのかを思い出してみなさい。他の人々を確信づけたり励ましたりすることを、日頃の務めとしなさい。あなたの物語を、他の傷ついている人々と結びつけて用いてみなさい。そうすれば彼らの人生に前向きの、前とは異なった影響を与え始めることとなります。
御神の知恵であなたの心を満たすため、聖書の御言葉を暗記しなさい。あなたが成長して行かれるにつれ、より深く真実な生き方へと導かれ行くような戦略を、継続してみてください。ご自分の人生に、清新な生き方が必要であると感じる時には、いつでもこのような処置を通して取り組むことができます。過去をあなたの後ろに追いやって新たに生きようとすることは、キリスト者たちが聖化としばしば呼んでいるクリスチャンの一生涯の過程なのです。
ヨハネによる福音書は、主イエスは精神も肉体も感情も霊性も私たちのあらゆる面を配慮してくださることを確証づけております。豊かな人生を味わうのに、訪れの永遠の時まで待つ必要はありません。私共は今、その味わいを持ち始めることができるのです(一〇ノ一〇)。主は、私たちがその豊かな人生の味わいの過程に是非とも今、入り行くようにと、今日も招いておられるのです。
この記事は、ジョン・ポーリン(Jonathan k. Paulien)著、我妻清三訳『ヨハネー愛された福音書』からの抜粋です。
著者紹介
ジョン・ポーリーン博士
執筆当時アンドリュース神学院における新約聖書釈義の教授(2024年10月29日現在ロマリンダ大学教授)。7冊の著書、並びに100以上の雑誌記事や学術上の論文その他の出版物もある。ポーリーン教授は特にヨハネの手によるものと考えられている福音書や、書簡、黙示録などの研究の専門家である。仕事に一息をいれている時には、パメラ夫人並びに3人の子供たちと共にあることを喜びとしている家庭人でもある。
翻訳者紹介
我妻清三(わがつませいぞう)
1938年1月1日、宮城県生まれ。東北大学工学部、日本三育学院神学科卒。米国アンドリュース大学大学院(宗教学修士)、同神学院(神学修士、実践神学博士)修了。北海道静内、山形、木更津、芦屋、サンフランシスコ、刈谷、広島、茂原、光風台等で20余年の教会牧師。日本神学教育連合会・東北アジア神学校連合会幹事歴任。1990年来13年間三育学院短大・カレッジ神学科で教鞭。2003年4月退官時、教授・神学科長。牧師。結婚・家族関係カウンセラー。