愛された福音書【ヨハネによる福音書の解説】#2

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真実に生きることへの苦闘(ヨハネによる福音書4章43節〜54節)

いつもとはなんと異なる今日の一日であろうことか!空は青く、緑は濃く、すれ違う全ての人々は友人のように見える。人生が突然バラ色に変わってしまった。まさに全てがすばらしい状態になったのです。しかし、その日は今とはまったく異なった状況で始まったのでした。

その日、バシリコ(彼の本当の名は不明。バシリコとは、ギリシア語で「王の役人」を意味する。ヘロデ家に仕える人物で、ガリラヤ地方の行政府の役人であった)はカファルナウムで目覚めたのでしたが、もし今までと全く異なる何らかの別な手段が講じられなければ自分の息子は確実に死んでしまうということに思いをいたした朝でした。それまで数週間の間その息子は病床にありました。

バシリコは息子を深く愛しており、何とか助けたいと切望する日々でした。そのような時、彼はイエスのことを思い出しておりました。数ヶ月前までは近くの部落に住んでいて、しかも多くの人々を癒していたのです。しかし、今やイエスは南方へ長い旅に出てしまっている。彼は、息子のために間に合うように戻られるであろうか。

しかし、戻って来たとしても、息子のために何かしてくだされるだろうか。もしも、人々の言っているように、彼が本当に預言者であるなら、自分の不在の故、息子が死んでしまうかもしれないことを知っているに違いない。それなら、何故に長い旅路に出発してしまったのか。 しかし、もし彼がこのことを知らないとしたらどういうことになるのであろうか。あるいは彼の奇跡とやらがまやかしであるとしたら。あるいはまた、それらの癒しがサタンからのものであったらどうなるのか。バシリコはこのように縷々思い巡らしておりました。しかし、彼の試し得る、その他のあらゆる対策が尽き果てて行きました。

全ての望みが失われていったように見えた丁度その時、彼は、イエスがガリラヤに戻ってきて、カナにおられるという噂を耳にしました。動揺していた彼の心に希望のともし火がともりました。何をしても何の甲斐もなかったのでした。従って、主イエスにカファルナウムに来ていただくように願ってみる価値は十分あるように思われました。しかし、カナまで歩いてゆかねばなりません。八里以上の道のりを五百メートル以上も登って行かねばならないきつい歩きです。その上、会ってその日のうちに一緒に帰り着くようにお願いしなければなりません。

息子の荒い息と咳にせかされるようにしてその日、朝六時に家を出発しました。もはや無駄にする時間はありません。希望に押し出されるようにしてバシリコは、かつてない努力をして、前へ前へと登り道を進みました。お昼頃になり、カナまであと数キロというところまで来て少しだけ休んで一息つきました。イエスを見つけ出したらどのようにお願いすべきかを考えてみました。自分の持っている疑いの気持ちを素振りにも見せてはなるまい。自分の息子を必ず癒してくださると全く信頼しているふうにして、イエスに近づいてゆかねばなるまい……。

信仰の啓発

主イエスと王の役人たちとは面識があったということは当然あり得ることです。彼らは同じ行政区の市民として、少なくとも数か月は過ごしたことのある間柄でありました(二ノ一二、四ノ四六)。しかしながら、ヨハネによる福音書では、外見において主を知るということは、信仰よりむしろ疑いへと人々はしばしば導かれていっていることが示されております。主の最初の反応(四ノ四八)は、ニコデモの場合と同様、この人物も不適切な信仰の持ち主の、もう一つの例であることを示唆しております。表面的にはガリラヤ人たちは全体として主イエスを歓迎しているように見えます。しかし、真の意味では主イエスを信じることができてはおりませんでした(四ノ四三~四五)。奇跡や驚くべき業に対しては、すぐに畏敬の念を持って反応しましたが、その御言葉に対しては、なかなか応答できませんでした。ですから、主イエスを真に受け入れるということにおいて、奇跡はむしろつまずきの石となっていたとも言えましょう。

彼自身、ガリラヤ人の一人であり、また王家に属する貴族であり役人であったので、今や、自分の部分的でかつ不適切な信心に真正面から向き合わされることとなりました。彼はイエスの言葉をそのまま信じることをしないで、その前に、信じられる証拠としての何か目に見える事実が欲しいと願っていたのです。自分のこの不信心を、主から隠しおおせないと知って仰天してしまいました。自分の不信心の故、全てのもくろみが水泡に帰してしまうのではないかとの恐れの中、必死になって主の足元に自分を投げ出します。自分の心をこのように読み取ることができるのなら(二ノ二三~二五)、確かにこの御方は願いを聞き届けてくださりさえすれば、それがたとえどんな内容のことであってもそれを成し遂げてくださるであろうと。

すると、主イエスはこの役人にもう一つの衝撃を与えました。カファルナウムまで御自身が下って行く必要はないと言われたのです。場所がどんなに離れていても癒せるのだと言われるのです。この御力の宣言は、遂にこの王の役人に、最後の駄目押しのようにして真の信仰をもたらすこととなりました。しかし、信仰はしばしば試練を伴います。彼はこの新しい信仰通りに生きるでしょうか。息子は癒されたのだと信じ、家路をたどるでしょうか。それとも家に着くまで引き続き不安の中で、やはり主においでいただいて息子に触れていただくようにお願いすれば良かったなどと思い巡らし続けるのでしょうか。

彼のその後の行動は、彼が新しい信仰のうちに歩み始めていたことを証ししております。もしも、急ぎ山を下っていれば、その日の内に夜までにカファルナウムにたどり着けていたでしょう。そうではなく、周りの景色を見ながら、ゆっくりと彼は家路についたのです。花の香りを愛でつつ、また人々との会話を楽しみながら嬉々として家路をたどりました。その夜は途中で宿を取り眠りました。家のしもべが彼を探してやってくる程までに、ゆっくりと家路についたのです。そのように、ただ単に、主の命令に従って家に帰ることとなっただけではなく、遂に彼は、主イエスの御言葉を十分に信じ受け止めていることを明らかに示すような第一歩を踏み始めたのです。信じる人々は行動します。実に信じたことの証明はその歩みなのです。

信仰に関するこの教訓を今日どのように適用することができるのでしょうか。カファルナウムのこの人のように、どうしたら、私どもの願いに対するお答えを受けることができるのでしょうか。与えられている教訓には四つの段階が示唆されております。

①自分の問題を認識すること。これは言われている程には単純ではありません。本章の最後のところでもう少し詳しくこの問題に考察を加えてみたいと思います。

②その問題を主イエスのところに持っていく。祈りによってこの問題を主に申し上げるのです。またこの祈りの課題を祈りの友やグループの人々と分かち合うことも恐れてはなりません。

③あなたの必要にぴったりである御言葉を受けるようにしなさい。主からのその御言葉は聖書の中に見いだせます。もし御言葉に耳を傾けたいと思うなら、聖書をこそ学び知る必要があります。

④御神の御答えを語り、そして実行してみなさい。御言葉は単に聞くだけでは十分ではありません。その聞いた御言葉を行動に移し、私どもの信仰を他の人々に語り告げる時、その御言葉は真実のものとなって行きます。天来の信仰はそれにふさわしい行動を伴います。

しかし、もしも私たちが王の役人同様、内面に疑いが混じっていたらどうでしょうか。あるいは疑いがあったらどうでしょうか。このお話は、そのような場合、その疑いにもかかわらず、かすかな信仰ではあっても、その信仰の言葉と行動でもって、真正面から事に直面してみる必要があることを示しております。神の御言葉をもって、御神の側を選び取るのです。御言葉が言われる通り行動してみるのです。そうすれば信仰は訪れます。信仰の言葉を語れば、より深い信仰を持つこととなります(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』二二九ページ参照)。

ハイハウス夫人はこのことをある安息日に学びました。主とのより深い交わりを求めて、彼女は毎朝聖書の学びを通し御神の御言葉を受け取れるように時間を聖別する決心をいたしました。日曜の朝はいつもより早く起き、マルチン・ルターの註解書の助けを借りて、ローマ書の研究を始めました。その週の土曜の夜には、聖書とルターの書物を傍らに置いて更に研究し続けておりました。

翌日曜の朝、彼女は割れるような頭痛で目が覚めました。とても聖書研究ができる状態ではありませんでした。そこで彼女は祈りました。「主よ、あなた様は、今朝も私が時間をとって、あなた様と語らうのを望んでおられることを存じております。それ故、お願いいたします。どうかこの頭痛を取り除いてください」。彼女は十分待ちました。しかし、何事も起こりません。彼女は再度祈り、そして待ちましたが、今度も何事も起こりません。その時彼女は、「語りそれを実行しなさい」という信仰適用法の第四番目のステップを思い出しました。そこで御神に語りました。「私はあなた様が、あなた様との時間をとるように願っておられることを知っております。ですから、私は私のできる最善を尽くしましょう。頭痛はあなた様の問題です」と。頭痛にもかかわらず聖書研究を始めました。十分程してその頭痛は去り始めました。この出来事は彼女の信仰にとてつもなく大きい影響を与えました。

真実に生きることへの歩み

王の役人は、主イエスに直接指摘されるまでは、自分の不信仰の深さがいかばかりであるかを悟っておりませんでした。彼と同様、私たちも、しばしば自分の罪深さや不信仰に気付かないのです。私たちはエレミヤ書一七章九節の「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」(口語訳)の聖句を地でいっております。自分の心を自分では捉え難く、また自分が問題を持っていることさえも知らない場合が多々あるような存在である時、一体どのようにして、主イエスの御許に自分の真の問題なるものを申し述べることができるのでしょうか。一体どのようにして、御神と共に、真実な関係において生きることができるのでしょうか。

一、御神の御言葉と共に時間を過ごしなさい。

聖書が示す御言葉は、御神の視点での、私たちの無限の存在価値を確証付け、真実に生きることをめざす私たちを助け励ましてくれます。御言葉を読み進む時、福音が実現して行く多くの方法を調べてみるのです。御神がいか程、私たちを重んじておられるかを示している聖句に印をつけてみるのです。私たちの多くは表面的で形式だけの律法主義的環境下で育てられており、福音は理論だけで実際には体験されていないので、経験的には信じられない状況下にあります。それ故、全ての律法主義的疑念を払拭するまでに福音を確証付けている聖書の御言葉によって私たちを満ち満ちて浸すようにすることは、今日の私たちの信仰生活には必須です。私たちが福音を知り、それを理解し得た時にのみ、自分を真実に知るという人間成長のもう一つの過程に入り行くことができるようになり、また真実の自己認識に向かってゆく勇気を持つことができるようになるのです。

自分を知る更なる助けは、聖書中の人物伝の中に見いだせます。聖書の主要な人物伝を調べてみるのです。聖書は権威をもって、いろいろな人の真の姿を次から次へと描いて見せてくれます。重大な欠陥を持った人々の姿をも、あからさまに描いて見せてくれております。実際はその品性の多くはあなたや私のそれよりも、もっとひどいと感じさせられるものも多くあります。しかしながら、御神は、彼らの欠点にもかかわらず、彼らを用いられたのです。聖書の記述のこの特性が、エレン・ホワイトの特筆に値する書の一つである『教会への証』という書の第四巻九~一一ページに力強く描写されております。

聖書は真実を述べております。サムエル記下を読むと、あなたはそれをどんなに解釈してみてもこれが聖書かと思いたくなるような衝撃を受けるでしょう。ハリウッド流に言えばサムエル記下は間違いなく、ポルノと暴力映画の脚本記事です。しかし、ハリウッドの場合とは異なり、聖書の中のこのような性と暴力の描写は、唯に、御神から離れた人生の愚かさを示すためであり、それと共に、私たちが人間存在の法則を犯すことから体験するであろうその痛みとを示すために用いられているという点です。ダビデのように、私たちとても闇の人生から、より良い人生へと脱皮させられ得るのであることを勇気づけるため、それらは聖書中に置かれているのです。聖書中の正直な描写は、真実に生きる励ましとなり、私たちをして、罪を言いあらわす勇気を与えてくれます。御神がダビデを受け入れてくださったのを見て、私どもをも受け入れてくださるに違いないとの希望を持つことができるのです。

二、真実の祈りをささげることを旨とせよ。

真実を求めての聖書研究に肝要なことは、真実な祈りです。この真実な祈りということは、心からの献身をもって、神に奉げられる祈りということを意味しています。それは、祈りの経験における全的献身であり、心を傾け切って浸るのです。真実の祈りでは、次のように祈るのです。「どんな犠牲を払っても、私は真理を求めます」と。聖書の中に、真理を求めてゆく時、私たちは、御神が私たちに働かれ、聖霊に対し、私たちが自分の心を開けるようにお助けくださることに同意しなければなりません。それは真理を知ることを喜ぶためであり、その真理を受け入れ、たとえその結果がいかなることになろうともその導きに従うことができるようになるためです。御神に向かって「たとえ、いかなる犠牲を支払うようなことになろうとも、私は、真理を知ることを願います」と告げるなら、あなたはそれを受けます。しかし同時に、ある種の犠牲をも払うことになるでしょう。真理はあなたに、あなたの家族関係や仕事、またあなたの評判にも、この世では犠牲を支払わせることになるかもしれません。それはある場合には、あなたの命さえも支払わせるようにさせるかもしれません。それ程までしてあなたは、真理を知りたいと思われますか。もしそうなら、御神はあなたに真理をお与えになられるでしょう。

私が以前書き著した『現実世界における現代の真理』(一九九三年にパシフィック・プレスから出版されたジョン・ポーリーン博士の著。未邦訳。訳者注)の中で、御神の御旨を知ろうとして苦闘していた時のことについて書きました。ブルックリンのある家でその堅い床に伏して私はうずくまっておりました。どうしたら良いか解らなかったのです。ついに絶望の内で私は御神に叫んでいました。「私は真理を知りたい。真理の全体像を。そして真理以外の何ものも願わない。そしてそのことがどれほどの犠牲を払うことになろうとも、私はそれを厭いとわない」と。その時、御神は、私の願っていたものを御与えくださったのです。その時よりこのかた、私の人生は、以前とは決して同じではなくなりました。

しかし、どんな犠牲を払ってでも真理を求めたことは、真実の祈りを捧げるほんの最初の一歩を踏み出させたに過ぎませんでした。更に深い祈りへと導かれていく学びを今も続けております。この深いレベルの祈りを、「『真実の祈りその二』、すなわち続編」と呼んでも良いと思います。この祈りは次のようなものになります。「主よ、私はどんな犠牲を払ってでも、自分自身についての真実を知りたいのです」と。

真理とは、多分きわめて抽象的なものかもしれません。それは、黙示録に登場するすべての獣を正しく理解することであるかもしれません。それらを正しく理解するということは、非常な満足をもたらすことでしょう。しかしこの種の真理の理解は、より実際的な真理の理解の代わりとはなりません。自分自身についての真実を知るということ以上のような抽象的真理を知るということとは、非常に異なります。前者は、まさに、自分の本家本元の問題と密接に関わります。それは他の人々が、私たちをどう見ているかを知るということでもあります。ですから、その祈りは、次のようになるでしょう。「主よ、どうか、他の人々が私を見ているように、私自身を見ることができ得るように私をお助けください。他の人々が持っている私自身についての理解を、私も持てるように、どうかお助けください」。御神に関する麗しい事柄の一つは、御神は「聞く耳を持つ」者たちと共に、真理を分かち合うことを喜ばれるという事実です。もしも、あなたが犠牲を払うことを厭わないのなら、準備のできた程度に応じてではありますが、あなた自身に関する真実を知るようになります。

三、あらゆる種類の記録の技術を活用しなさい。

記録をしていく習慣を身に付けることは真実な祈りにとってはとても大事な道連れです。他の何ものもなし得ないような方法で、私たちの存在の深みを探らせるため、御神は記録の過程を用いてくださいます。私たちは、祈りの記録やその祈りに対する御神の御答えの記録、更には私たちの実際生活の中で御神の御力がどのようになされたかといった御働きの種々の方法を記録しておくのです。記録することは、私たちが真実であることへの歩みを勇気づけます。御神が調べたいと思われるどんな分野でも、御神が探られるのに協力し、それを記述して、自分を曝け出すようにさせていただくのです。こうすることはとりわけ助けとなります。エレン・ホワイトを含む、あらゆる時代の偉大なクリスチャンたちの多くは、自己を知る道具として、記録することを実施いたしました(いろいろな種類の記録の仕方の詳細については、著者のもう一つの書『現実世界において御神を知る』を参照のこと。二〇〇一年にパシフィック・プレスより刊行。未邦訳の書)。

四、責任を持つということ。

真実性への最も深いレベルでの歩みは、責任を担うということです。自己欺瞞は、私たちの深いところに根ざしており、祈りや聖書研究という中にすら入り込んでいきます。時折り御神は、他の人たちを用いて、私たちの殻を破られるのです。

「疑いに悩み、弱さに苦しみ、信仰弱く、目に見えない神をとらえることのできない魂がいる。しかし彼らの目に見える友人がキリストの代わりに彼らのところにやって来て、彼らのふるえている信仰をキリストに固くつなぐ環とすることができる」(『各時代の希望』上巻三八四ページ)

責任をとるということは、誰か他の人たちが、私たちを見張り続けるのを私たちが赦すということを意味します。このことから、利益を受ける方法には種々あります。一つの方法は、禁酒団体や小グループの交わりのような、互いに助けあうグループに属することを通してです。そのような場で問題とされるのは、ただ不正直ということだけです。全ての人が真実を語ることが求められております。しかも、その正直に語ったことで、受け入れられるのです。誰かが彼ら自身のことにつき、本当のことを語っているのを聞きますと、それらを自分と結びつけ、そこには、自分と同じ経験のうちにいる人たちがいることに気づきます。あなたは他人の告白の中に自分を認識するのです。自分たちの罪を言い表している彼ら全体の雰囲気のなかで、自分も、自分自身を言い表して行く勇気を持つのです。

小グループの持つ、このグループ・ダイナミックスの概念に関係して、友人の一人が示唆してくれた興味深い事柄があるのですが、それはセブンスデー・アドベンチスト教会の歴史から学んだという洞察です。エレン・ホワイトの『教会への証』の中の多くの内容は、人々に宛てられた言わば雑誌記事のようなものであるという点です。これらの証しの中で御神は真実に生きることへの、特異な方途を提供しておられるというのです。それらは、人々に対し、自分自身では見いだせなかった数々の事例を示してます。恐らくこれらの証しの目標は、これを読む人たち全てに、断固とした規則を提供しようとしたのではなく、むしろ、それは単に読者自身が持っている様々な質問への答えのため、小グループ活動の特質であるグループ・ダイナミックス的活動を行っているのと余り変わらない効果を狙ったものであると考え得るのではないかと言うのです。正しく扱えば、これらの「証し」は、私たちの頑なな殻の窓をこじ開ける働きをしてくれ、それに対し赦しや癒しの福音を適用し得るようにさせることができるようになるというのです。

ほんの少数の、勇気ある人々には、私はもう少し恐れを感じるような提案をしております。それは、あなたを本当に考えてくれ、しかも決してあなたを傷付けることを意図はしないが、しかし少々頑固であるような友人を持てという提案です。そしてこの友人に問うのです。「もし、私が絶対に怒らないし、恨みにも思わないとするなら、私に対しあなたはどんなことを直言したいか。御神との関係においてはどんなことが私の問題であると考えているか。対人関係についてはどうか」などと。

もし、あなたに親友がいないならどうしたらよいでしょうか。自分の心の深い苦しみについて語れるような信頼できる人は誰もいないとしたらどうしましょうか。

しかし、状況がそうであっても、あなたはあなたの責任能力から祝福を得ることができます。あなたの、手助けとなるようなクリスチャンの良いカウンセラーを選ぶようにしてみなさい。カウンセラーたちは、人々が心を開いて自分自身の奥深い真実を見いだせるよう、助けを与える訓練を受けております。彼らは傾聴の訓練を受けております。彼らは、しばしばあなたが自分をだまして演じているゲームを見抜くことができます。信頼関係を構築した上で、私共が秘密裏にしている必要のためにも助けを与え得るような訓練を彼らは受けております。私のこれまでの人生のいろいろな局面の中でカウンセリングを受けたことは殊の外助けとなったのですが、とりわけ、どこへも行き所のないと考える人々にとっては、試みる価値があります。不正直に、また無為に生きるには、余りにも人生は短いからです。

人は今日、真実の信仰に飢え渇いております。それは、私たちの日常生活に、ある種の変化をもたらすような信仰です。それは、イエス・キリストにあって、御神に向かって旅路を共にしている、信頼できる人々との生活共同体の中で、御神に自己を開示してゆく時、そのような信仰を見いだせるようになるのです。福音のメッセージを通し、主イエスの中に見いだした、天来の御恵みと親切は、私たち自身の真実の姿に真正面から向きあう勇気を与えてくれます。他方、私たちの心がいかにも欺瞞に満ちていると警告を与えたその同じ預言者が、次のような主の御約束を伝えておりますのには勇気づけられます。「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(エレミヤ二九ノ一三、一四)と。

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