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ラップの歴史
悪魔が若い人々を誘惑するのに一番よい武器は、音楽です。
僕は1973年にジャマイカで生まれ、1978年に両親とともにアメリカに移住しました。1978年はまだ、ラップミュージックが徐々に人気になってきた時期で、その頃はまだ3つしかラップのグループがなかったのです。
その3つのグループというのが、シュガーヒルギャング、ズルネーション、そしてアフリカバンバータでした。ラップミュージックは、ニューヨークのブロンクスという場所から、広がりを見せ始めます。
1960年のジャマイカでは、ディングと呼ばれる音楽がありました。パーティーの途中で、二人のMCがダンスフロアにおどり出て、互いの音楽をけなし合いながら、韻を踏むのです。
この音楽には、パトイスというジャマイカの方言が使われていたため、アメリカ人が理解できるものでありませんでした。
しかし、1970年ごろになって、多くのジャマイカ人がニューヨークのブロンクスに移住するようになると、状況が変わります。
アフリカ系アメリカ人が、ジャマイカ人と同じパーティに来るようになり、このスタイルの音楽を耳にするようになったのです。
内容は理解できませんでしたが、マイクをもって韻をふみながら、言い合うのを見た彼らは、自分たちのスタイルにアレンジします。
それがヒップホップでした。
音楽との出会い
1978年、当時まだ5歳だった僕は音楽について、何も知りませんでした。ロックにも、ラップにも、ついでに教会も興味がなかったのです。何も知りませんでした。
1981年にアメリカの音楽番組であるMTVが始まると、一つの転機が訪れます。
幼い僕がそのときのミュージックビデオに感動を覚えたことを、今でも鮮明に覚えています。
1970年代はラジオ最盛期の時代で、80年代はミュージックビデオの時代となりました。ビデオがラジオスターを消し去ったのです。
僕はMTVの大ファンになりました。最初に好きになったのは、ロックとポップミュージックで、のめり込むように兄と共に聞き入っていました。二人でMTVをよく見るようになったのです。
そこに約1年後、RUNDMC(ラン・ディーエムシー)というラップグループが登場するようになりました。すぐにRUNDMCの大ファンになり、またマイケル・ジャクソンのファンとなっていきます。
そんな僕は、どこでもかしこでも踊るような子どもでした。両親は僕を見て、ダンスの才能があることに気づいていきます。
ある夜、叔母の家で踊っているとき、叔母が、僕のおでこに1ドル札を貼り付けました。
そのときのことをよく覚えています。叔母の家にいる大人たちが、口々に褒めるのです。「ショーン! お前はダンスがうまいんだな!」。
それを聞きながら、僕は心の中でガッツポーズをしていました。
その出来事がキッカケに、僕はいつか、素晴らしいミュージシャンになれるかもしれないと考え始めたのでした。
バージニア州への引越し
僕には、クリスチャンとして信仰の模範となってくれる人や家族は、だれもいませんでした。二人の叔母がいて、一人はバプテスト教会に通い、もう一人はカトリック教徒でしたが、僕や兄の人生に影響を与えるようなことはありませんでした。
そのため、たいていの青年がやるようなことは、すべて僕も兄も経験しながら、成長しました。
8歳から11歳まで、音楽漬けの人生を送っていました。人生の中心には、音楽しかなかったのです。
ニューヨークはヒップホップの誕生の地です。
ニューヨークで女の子にモテたいなら、そこでダンスをしたいなら、ヒップホップは必ず通る道でしょう。
ところが、僕が15歳のとき、父はバージニア州に引っ越すことを決めましたのです。それは、僕の人生で最も悲しい日でした。
「ここでの生活やダンスの街が好きなんだ。友だちもみんなここにいる。ニューヨークから引っ越さないで。バージニアなんか行きたくない!」
僕は、父に頼み込みました。しかし、不動産業に携わった父は、仕事の関係で引っ越さなければならないと言います。
バージニア州に引っ越すことになった僕は、とても怒りを覚えていたことを覚えています。
バージニア州にきて、高校に通いましたが、ニューヨークからの引越しをまだ怒っていたので、だれとも関わろうとしませんでした。学校のだれとも話さず、心を閉ざして、「俺はニューヨークから来たダンサーだ!」と、刺々しい雰囲気を振りまいていました。
僕のプライドのために、僕と友だちになろうとだれかが近づくことをゆるさなかったのです。
ショーンとの出会い
そんなある日、僕はショーンという自分と同じ名前の青年に会います。
「ショーン、君と同じ名前でニューヨークから来た人がいるよ」と言われても、最初はかたくなでした。僕はそれが嘘だと思っていたのです。
しかしついに、彼と会うことになります。
頭の先からつま先まで、彼を見定めるように見ると、髪型ひとつで彼がどこから来たのがか、すぐわかりました。彼はまさに、当時のニューヨークで流行っていたヘアカットをしていたのです。僕らはすぐに意気投合しました。
「ニューヨークからきたやつを見つけたぜ。ブルックリンからだって!」
兄に彼を紹介すると、三人とも本当にあったときから、仲良くなりました。そのとき、僕は17歳、兄は18歳で、ショーンは僕と同じ17歳でした。
その後、僕たちはバージニアでパーティーざんまいの日々を送るようになります。試合後のパーティーに参加するために、バスケの試合にも行っていました。バスケに興味がないにもかかわらずです。
ダンスが下手な人たちの前で踊り、ますます鼻高々になっていきました。
やがて、バージニア州だけでなく、ワシントンD.C.など、いろいろな場所のクラブに行っては踊りまくる日々を送るようになります。ショーンもダンスが得意でした。
ある日、パーティーで僕たちが踊っているのを見た人が「モンスターみたいに、君たちは踊るね」と言ったのを、僕たちは気に入りました。
それからしばらくして、兄が僕たちのグループ名を「ボギーモンスター」にしたらどうかと、アイディアを出したのです。
ボギーモンスターの結成
ボギーモンスターとして、バージニアやワシントンの人たちに、僕たちの名前は知れ渡ることになりました。モンスターがプリントされたTシャツをつくり、そのロゴは有名になっていきます。ダンスは僕たちの命でした。
やがて、友だちになったショーンもラップができたので、音楽グループを結成することになりました。右から左へと、次から次へと、やりたいことが変わっていくのが、高校生というものです。高校生の間は、その名前で活動しようと考えたのです。
1年後、兄がバージニア州立大学に進学し、その後、ショーンも同じ大学へ、僕はバージニアユニオン大学へと進学しました。お互いの大学から、車で30分ほどしか離れていなかったので、毎週末、兄の大学でパーティーをするようになりました。
週末は車に乗って、リッチモンドに出て、ピーターズバーグを通り過ぎ、クラブにいって踊りました。その頃には、モンドという新しい仲間が加わっていました。
モンドはラッパーで、ダンスができるわけではありませんでしたが、彼もまたニューヨークのブロンクス出身だったので、彼をメンバーに入れることにしたのです。
ブギーモンスターは、兄と僕の2人のダンサーと、ショーンとモンドの2人のラップで構成される4人グループになりました。
そんなある日、41組の参加者が集まる、大きなコンテストが催されることになりました。このコンテストの勝者は、レコードデビューが約束されていました。
「コンテストに出よう!」
そう息巻く、グループの他の3人からの電話を混乱しながら、話を聞くと、「41組の参加者の中から優勝することはできない」という気持ちがまず湧き上がりました。
しかし、3人とも口々に「大丈夫。出場しよう!」と励ますのです。何度も何度も、電話をかけてきて、僕を誘いました。とうとう、根負けした僕は、コンテストに参加することになります。
コンテストの結果は……
コンテスト当日、僕らの出番は1番目でした。
「最初のグループのことなんか、最後のグループが出る頃には忘れられてしまうだろ」
そんなことを考えながら、僕は出番が終わってからコンテストが終わるまでの長い間を、じっと座っていなければなりません。
やがて、すべての出場者の演奏が終わり、審査員が結果発表を行い始めました。
第3位、第2位と、他のグループ名が呼ばれていき、最後に第一位の発表になったとき、耳に飛び込んできたのは、「ブギーモンスターです!」という声でした。
その声をきて、僕たちはただ叫び、飛び跳ねていました。
レコードが出せる。それは大きな喜びの瞬間でした。
ところがそのあと、だれ一人として僕たちにコンタクトしてくる人はいません。電話一本もかかってこないのです。「どうなっているんだ」と思っている間に、だれからも電話がかかってくることなく、月日がすぎていきました。
やがて、僕たちは落胆しました。
そして、1学期が過ぎようとした頃、モンドはニューヨークにいくことを決心しました。
「僕は学校をやめて、ニューヨークに行く。どこかのレコード会社と契約しようと思うんだ」
そう彼は言いました。
ニューヨークはラップの聖地です。そこでレコード契約を交わすことは、並々ならならぬ、努力が必要でした。
「大学を辞めるなんでバカげてる!」
僕は彼を止めましたが、彼の持っていたものは大きな野望でした。
「できる!絶対。レコード契約にこぎつけてやる」
モンドは張り切って、彼の野望に向かって漕ぎ出しました。
モンドの野望
大学を2年でやめたモンドはその後、マンハッタンに行き、そこでデレックという紳士に会います。彼はラッシュ・マネージメントという会社でマネージャーをやっていました。
そして、なんとデレックはモンドが持っていた僕らのデモテープを聞いて、「なかなか気に入ったぞ。他のメンバーはどこだ?」と聞いてきたのです。
「彼らはバージニアの学校に通っています」とモンドが言うと、デレックは彼に言いました。
「そうか、彼らを連れてきてほしい」
モンドはすぐに電話をかけて、僕たちを説得し始めます。
「ショーン、君たちは大学を辞めてニューヨークに来るべきだ。彼は僕たちの音楽を聴きたがっているんだ!」
「僕の親は中退なんて、絶対に許してくれない。ジャマイカ人だぞ、そんなこと言ったら、両足を銃で撃ち抜きかねない。大学に行くことが一番大切といって、こっちの話なんて聞かないさ。モンド、うまくいかないよ」
「いいから、お父さんと話せよ!」
モンドが食い下がるために、僕と兄は父に話すことにしました。
「お父さん、モンドがニューヨークに行って、レコード契約を結ぼうといっているんだ」
「なんだって? 何をいっているんだ!ダメだ、ダメだ、退学なんて許さないぞ!」
僕と兄が父と喧嘩をしているとき、モンドはもう一人のショーンにも電話していました。
「レコード会社のデレックが俺らに会いたがっているんだ」と話したそうです。すると、ショーンはすぐにニューヨークに行きました。僕と兄は、家で泣きながら怒ったのを覚えています。
ショーンとモンドはニューヨークに行って、デレックに会い、「君らの音楽を聞かせてくれ」と言われました。その頃、僕たちのグループは3、4曲ほど作曲をしていました。
「君たちはラッパーかい?」「ダンサーかい?」「ブギーモンスターという名前の由来は?」。デレックは矢継ぎ早に質問をしてきたそうです。
僕たちは2人のダンサーと2人のラッパーのグループです」とモンドたちが言うと、デレックはまた聞きました。
「他の2人はどこにいるんだ?」
モンドがデレックに「彼らの両親がきびしくて、大学を辞めるなんて言ったら、膝を撃ち抜かれるんです」と答えると、デレックはルベン・ロドリゲスという男のもとへ行きました。
ルベンは、ペンドラムレコード社の社長でした。
夢の舞台へ
ある日、僕たちはルベンから電話をもらいました。彼と長く話して、僕たちがグループの一員であることを伝えると彼は、僕たちにオファーしてきました。
「一度、ニューヨークに来てくれないか。契約を結べるかもしれないから」
「それなら、僕の父と話してくれ」と僕は伝え、その電話がだれからきたかを告げずに父と代わりました。
話を聞いても、「ありがたい話だがお断りするよ」と父は言って、その電話を僕に返してきます。
それでもルベンは諦めずに、「もう一度お父さんと代わってくれ、金額で交渉してみよう」とねばります。
ルベンが父に「彼らは大儲けできます」と言い、お金で交渉を始めました。
そこで父は台所にいる母のところに行き、詳細を話しました。しばらくした後、「それなら行ってもいいだろう」と父がついに折れたのです。
僕らは飛び上がって喜び、バスに乗り、マンハッタンへ行き、モンドとショーンに会いました。社長のルベンは、高級スーツを着こなし、タバコをふかして、まるで映画のワンシーンから出てきたようでした。
「さあ、君たちの実力を見せてごらん」
ルベンにそう言われた僕たちは、デモテープを渡し、彼らの前でラップとダンスのパフォーマンスを披露しました。
パフォーマンスが終わると、ルベンはデレックを呼び、彼らは別の部屋にいきました。
それはたった5分でしたが、とても長く感じられました。「気に入られただろうか」と廊下でソワソワしていたのを覚えています。
しばらくすると、デレックが出てきて「社長は君たちと2500万円で契約を結ぶことを決めた」と告げました。
張り裂けんばかりに声を上げて、僕たちは喜びました。本当にレコード契約ができるなんて!
まさか自分がそんなことになるなんて、思いもしませんでした。「これからテレビに出て、有名になって、サイン会なんて開くようになるんだ」。僕はそんなことを考えました。
マネージャーは、150万円近い大金を渡し、「使い果たすなよ。アパートを借りて、ミュージックビデオのための服を買い、アルバム制作のために使うんだ」と言いました。
彼の言われたとおりにすると、お金はすぐになくなりましたが、また資金をもらうことができました。
そのときの僕たちの人生は、最高でした。
お金は入るし、女の子は寄ってきました。ドレッドヘア、イヤリング、鼻にピアス、金歯にし、指にはタトゥーを入れました。まったくもってクリスチャン的ではない人生です。
MTVはもちろん、僕たちはローリングストーンズという雑誌にも載りました。90年代に有名なアーティストたちとも共演しました。
ある俳優も僕らのライブにやって来て「君たちが僕の一番すきなラップグループだ」と言ってくれたりもしました。
映画やドラマのオファーもあり、本当にたくさんの人に会いました。世の中の人からみれば、最高の人生でした。
ところが、そんなある日、ひとりの男に会ったときから、僕たちの人生は変わっていきました……