この記事は約1分で読むことができます。
罪とは
聖書の教えを「律法」ともいいますが、この律法はヘブライ語ではトーラーと言います。この言葉は、「人々が歩むべき正しい道、あるいは方向の指示」という意味の言葉が語源となっています[1]。
対して、「罪を犯す」という動詞は、ハターといい、「道から外れる、神の指示から離れて歩む、目的を見失う」という意味になります。
興味深いことに、ギリシャ語でも罪は「的外れ」という意味を持つハマルティアという言葉で表現されています。
聖書の教えは、良心の声と同じようにわたしたちの歩むべき道を示すものなのです。そこから外れたとき、「罪」をわたしたちは犯してしまいます。
すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。ヨハネの第一の手紙3章4節
思っただけでも
日本社会で「犯罪」といえば、法律から反した行動のことを指しますが、聖書の「罪」は反した思いまで含みます(マタイによる福音書5章21―22節、27―28節)。
たとえば「殺してはならない」という戒めは「自分の体を大切にする」ということを含みますし、それだけでなく「バカ!」と誰かに言うことまで含まれるのです。
「偶像礼拝をしてはいけない」という戒めは、ただ単に像を拝むことだけでなく、聖書の神よりも大切なものがある状態も含んでいます。
そう考えていくと、わたしたちの力ではとても解決できないような状況があるように思われます。だからこそ、わたしたちは根本的に、神によって変えられる必要があるのです。
わたしは新しい心をあなたがたに与え……る。その時あなたがたは自身の悪しきおこないと、良からぬわざとを覚えて、その罪と、その憎むべきこととのために、みずから恨む。エゼキエル書36章26節、31節
この体験こそが、再臨を待ち望むわたしたちに必要な体験なのです。
しかし、そうは言っても、忙しい日々の中で神との交わりの時間を保つことができない現実があるでしょう。そんなわたしたちのために、安息日は設けられました。次はこの安息日について学びましょう。
参考文献
[1] ジリ・モスカラ『申命記 命を選ぶ』77ページ