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田舎町に輝くもの
僕の留学先はニュージーランドでした。自然が豊かすぎて、留学先の小さな町には少しのバーに、べらぼうに高いレストラン、十数席くらいの映画館くらいしか娯楽はありませんでした。
そんな何もない町にキラキラと輝くものがありました。
そうです。あのフィッシュアンドチップスです。友情ではありません。友情もありましたが、それよりも、ギラッギラのポテトです。語学を学びに行っていた学校の隣で、お値段なんとたったの2ドルでこれでもかと、ポテトが買える。ポテラーにはたまらない日々でした。
もともと油ギッシュなジャンクフードが好きで、ポテトはもちろん、ハンバーガーにピザ、アイスにコーラ、餃子に焼肉、天ぷらにといった具合でした。そんな僕が毎日、ポテトを手軽な値段で買える環境におかれてしまったら、それはもう買うわけで、もはやポテト中毒なのではというくらい毎日食べていました。
そんな僕に悲劇が訪れます。なんと、脂っこい食事に胃が拒絶反応を示すようになってしまったのです。それに加えて。肉や魚も苦手になってきてしまいました。匂いや脂っぽさ、味が受けつけなくなってきてしまったのです。そんなこんなで、あんまり今では肉や魚が好きではなくなってきてしまいました。
問題の解決策
さて前回、僕たちの罪や欠点は自分の意思の力ではどうすることもできないような問題です、と学びました。
聖書には「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」(イザヤ書64章6節)とあります。僕たちが正しいと思っていることでさえも、神さまからしたら汚いのです。
では、どうすればいいのでしょう。聖書にはこう書かれています。
あなたがたに新しい心を与え(る)……そこであなたがたは自分たちの悪の道と善くない行いを思い起こし、過ちと忌むべき行為のゆえに、自分を嫌悪するようになる。
エゼキエル書36章26節、31節(新共同訳)
新しい心が与えられて、自分の欠点や罪を嫌悪するようになるとありますね。
みなさんは良心の呵責を覚えたことはありますか。僕はあります。幼稚園生の頃、僕のいた幼稚園ではベイゴマが流行っていました。みんな思い思いに飾りつけて、コマをぶつけ合って、遊んでいたのです。
そんなコマの中で、ひときわカッコいいコマを持っている子がいました。いいなー、そう思っていたある日、僕は幼稚園の教室に一人になる時がありました。ふと見ると、その子の机の上には、そのカッコいいコマ。
そっと手に取りました。こっそりポケットに入れました。
そのときに、心がザワザワとしたのをよく覚えています。良心の呵責です。
その声に従って、僕はコマをもう一度その子の机の上に返していきました。
……たぶん(笑)。
もう、記憶も定かではない3、4歳でさえも、良心の呵責を覚えるのです。この良心は神さまからの声です。神さまに助けを求めるとき、新しい心が与えられて、より強く良心の呵責を覚えます。そして、その行動を嫌うようになります。その良心に従うならば、その良心の呵責の先には喜びがあります。
僕の体が油ギッシュなジャンクフードを受けつけなくなったように、僕たちは罪を嫌うようになります。したいのに頑張ってやめるのではなくて、やめたくて仕方がないから罪をやめたいと願うようになるのです。
キリストの力によって
日本では多くの自己啓発本が売られ、多くの人が生き方を自力で変えようとしています。
でも、それはできません。ほんの少し方向は変えられても、根本的には何も変わらない。もしかすると、そんな自分に嫌気がさしてくるかもしれません。
神さまが働きかけてくるとき、嫌気がさして、僕たちは自分を変えたいと思います。そんなとき、思い出してください。イエスさまを。
この方以外には、だれによっても救いはありません。
使徒言行録4章12節(新共同訳)
でも、自分のことなんて、知らないでしょ。
いえいえ。イエスさまはちゃんとアレをしているので大丈夫です。
わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。
イザヤ書39章15ー16節(新共同訳)
イエスさまはあなたの名前をちゃんと手のひらに書かれて、いや刻まれています。