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ポルノハウス
うだるような暑さの中、ぼんやりと歩いていると知らず知らずに脇道にそれていってしまいました。
健康の本などを渡しに、田舎の家々を訪問してまわっていた時のことです。疲れでぼんやりとしてしまい、ふと脇の小道に入ってしまったのです。
開けた先は目を背けたくなるような光景でした。庭や道はポルノ雑誌で埋め尽くされ、窓から見えるその家の中は天井までそれらが積み上げられ、飾られていました。
逃げよう
そう本能的に思いました。しかし意思と反して、「こんにちは」と僕は声をかけてしまったのです。中から大柄な男性が出てきました。カップラーメンの容器が転がり出てきます。
用件を伝えると、彼は一言言いました。
健康の本、欲しい
心身ともに健康とはほど遠い生活を彼は過ごしていました。だからこそ、彼は求めていたのだと思います。その場から離れ、恐怖から解放され、ほっと安堵をつき、神さまに感謝の祈りをした時に、一つの聖句が僕の頭に浮かび上がりました。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
ヨハネの黙示録3章20節(新共同訳)
もしかしたら、イエスさまならあの家に入ってその人を抱きしめていったのかもしれない。そう思った時に、イエスさまの愛の深さを感じました。
そして、あの家は僕自身の心の状態でもあるのだと知りました。僕たちの心の中が可視化できたら、あの家のように誰も近づきたくない、そんな状態に見えるのかもしれません。
罪を積み上げ、飾り、溜め込み、わかっていてもそこから逃げられない、それが僕たちの心の状態なのかもしれません。自分の欠点、弱さ、嫌なところ、変えたいところ、そこから逃げられない。
そんな僕たちの家にイエスさまは入ってきてくださいます。そして、イエスさまは言われます。
わたしが(天国)に行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
ヨハネによる福音書14章3節(新共同訳)
僕たちの汚い家から、美しい天の家へと引越しの準備をイエスさまはしてくださっています。
ところで新しい引越し先には他の人たちもいます。天使たちです。うまく馴染めるでしょうか。そもそも、彼らは受け入れたいと思っているのでしょうか。僕たちを。
サタンの訴え
「この人は本当に救われていいんですか。天国にいれる価値なんてないんじゃないですか」。
そうサタンは天使たちに訴えています。僕が会ったあの人を家に受け入れたいと思う人はあまりいないのが、現実ではないかと思います。天の家においては、僕たちも同じです。同じように目を背けたい罪を犯している。そんな僕たちを受け入れていいのか、そうサタンは天使たちに訴えています。
サタンはイエスさまの判断は間違っているのではないか、神さまは愛でも正義でもないのではないか、そう思わせたいのです。サタンは僕たちのすべての行動の記録が書かれた手帳を取り出し、訴えます。
イエスさまは手帳を受け取り、僕たちの罪の記録を一つ一つ、イエスさまの血で赤く塗りつぶしていかれます。
そして、僕たちの罪の結果として受けるはずのものはイエスさまがもうすでに受けられたこと、その罪は赦されたことを天使たちが納得できるように説明されるのです。もちろん、僕たちにもイエスさまは会った時に説明してくださいます。こうして、僕たちの天での「居場所」ができるのです。これを「裁き」といいます。
日の老いたる者(神さま)がきて、いと高き者の聖徒のために審判をおこなった。そしてその時がきて、この聖徒たちは国を受けた。
ダニエル書7章22節(新共同訳)
しかし、問題が一つだけあります。それはあの男性が「欲しい」と言わなければ、彼を救うかもしれない本を手にできなかったように、僕たちも「欲しい」と言わなければ手にできないのです。あなたは欲しいですか?