聖書の栄養学【健康と癒し】#12

この記事は約11分で読むことができます。

目次

今回の記事のテーマ

ある作家が、自分は神も、超自然的なことも、霊的実在も信じない、と主張しました。彼が信じたのは物資的な世界と物質的な事物だけでした。「人間は食べるものがすべてだ」と彼は断言しました。

彼の考えは極端かもしれませんが、ある意味では一理あります。確かに、私たちは食べるもの以上ですが、私たちの食べるものは私たちを形づくる上で助けになります。私たちの血液、骨、肉、組織などはすべて、私たちが体に取り入れるものによって養われます。食べることをやめれば、私たちは死にます。食べ物はいろいろな意味で私たちの肉体に影響を及ぼします。食べ過ぎたり、悪いものを食べたりして身体をこわしたことのある人なら、食べ物が肉体的、精神的に私たちに大きな影響を及ぼすことを知っています。当然ながら、食事は私たちの思想に影響を及ぼします。なぜなら、私たちの脳は思想の中枢(ちゅうすう)であり、脳はその栄養源である食物の影響を受けるからです。

今週は、健康的な生き方に欠かせない食事と食物について考えます。

最初の食事

問1
創世記1:26 〜30 を読んでください。最初の食事について何と書かれていますか。人間と動物が同じものを食べていたという事実は何を暗示しますか。

神はアダムとエバを養うためにさまざまな果物とナッツ類で満ちた園を造られました。これらの産物が今日のそれとどのように違っていたかは想像するしかありませんが、神によって用意された園は色とりどりのおいしい食物、多種多様の果物・ナッツ類で満ちていたと思われます。美しい川の岸辺には命の木があり、それは12 種類の実を結び、毎月実をみのらせました。その葉は諸国の民をいやし、あらゆる病気・病を予防しました。使徒ヨハネは黙示録22:2、3 で、命の木についてこのように描写しています。エデンの生活についての描写はあまりにも簡潔なので、わからないことが多いのですが、アダムとエバが園にある1 本の木──私たちには与えられていない──からも食物を得ていたことは明らかです。

科学的研究によれば、菜食は飽和脂肪の多い肉食よりも健康的であることがわかっています。米国ロマリンダ大学はアドベンチストの健康調査を行い、その中で二つの異なった食事の傾向を除いては、共通した人口統計とライフスタイルを持つセブンスデー・アドベンチスト教会員の比較を行いました。卵乳菜食主義者(卵と牛乳を含む菜食をする人)を、肉も食べる菜食主義者と比較したところ、前者の方が心臓病、がん、高血圧、糖尿病、痴呆(ちほう)症、骨粗鬆(こつそしょう)症にかかる率が低く、平均余命も長いことがわかりました。アドベンチストの菜食主義者はより多くの全粒穀物、果物、野菜、豆類、ナッツを食べることによって、8 年から10 年も長く、健康的な人生を送っていました。彼らはまた、精製した穀物食品、砂糖、加工食品をとる率も低いことがわかりました。ヨーロッパ、オーストラリア、南アメリカで行った調査でも、同じ結果が出ました。セブンスデー・アドベンチストの健康に関しては、400 以上の報告が科学雑誌などで紹介されています。

洪水後の食事

私たちがクリスチャンとして忘れてはならないことは、人類の犯した最初の罪が食欲と関係があったということです。アダムとエバはある特定の木から食べてはならないと言われていましたが(創2:16、17)、彼らはそれを食べてしまいました(創3:6)。これこそが罪というものでした。私たちは食事を偶像化しないように注意すべきですが、同時に食事の重要性を軽んじてはなりません。さまざまな意見が聞こえてくる中で、私たちは真にバランスのとれた食生活に必要な知恵を求めなければなりません。

問2
創世記9:3、4 を読み、1:26 〜30 と比較してください。洪水の結果、人間の食事にどんな変化が生じましたか。その理由は何ですか。この変化は罪のゆえに地上に生じたさらに深刻な不調和をどのように反映していますか。

神が人間に動物を食べる許可をお与えになったのは、ほとんどの植物が消滅した洪水後でした。これは人間と動物の間にあった調和のとれた関係に大きな変化をもたらしました。私たちは現状に慣れてしまっているので、この変化がどれほど信じ難いものであったか理解することができません。

問3
創世記7:1、2、8:20 の聖句は、清い肉と不浄な肉の区別がユダヤ民族と共に始まったという思想とどのように矛盾しますか。

これらの聖句は、清い肉と不浄な肉の違いがユダヤ人の秩序と共に始まったものでないことを裏づけています。ユダヤ人もユダヤ民族もなかった時代ですから、当然といえば当然です。明らかに、ユダヤ人を召し出して、彼らを御自分との契約のもとで特定の民とされたときに、神は清い肉と不浄な肉の区別に関して詳細な啓示をお与えになりました。レビ記11 章と申命記14 章に、この問題に関する詳しい説明がなされています。これらの区別の理由に関しては、神学界、さらには医学界にかなりの議論がありますが、最大の理由の一つは健康上の理由であるように思われます。不浄なものとされている動物の多くは、とても私たちの健康に有益であるとは思われません(たとえば、ネズミ、豚、蛇、ハゲワシなど)。

私たちが信じるように、もし神が私たちに体を大切にするように望まれるお方であるなら、神が私たちの食用に適さないものを示してくださるとしても不思議ではありません。

新約聖書における食物

前項、「洪水後の食事」でも学んだように、清い食物と汚れた食物との区別はユダヤ民族から始まったものではありません。それにもかかわらず、多くの人が、新約時代に聖書がこの区別をなくしたので、今日では何を食べても問題ではない、と主張します。

しかし、考えてみれば、それは全く理にかなったことではありません。食事が私たちの健康に重要な役割を果たすことは言うまでもないことです。したがって、新約聖書が健康的な生活に欠かすことのできない食事の問題に全く関心を示さないということはありえないことです。

問4
テモテIの4:1 〜5 の中で、パウロは何と言っていますか。私たちは今では汚れた肉を食べることができるという意味ですか。

パウロがここで扱っているのは、神が創造において人間にお与えになった二つのもの──食物と結婚──を禁じるようになる将来の異端についてです。ここで言われている食物とは、神が人間の食用として創造されたすべての食物のことです。これらのパウロの言葉を、汚れた食物が「信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったもの」(Iテモ4:3)であるという意味に理解してはなりません。そうでないとしたら、どうでしょう。ネズミは「感謝して食べる」べきものとならないでしょうか。

『ローマの信徒への手紙』および『コリントの信徒への手紙』の中でパウロが述べているのは、肉を偶像に供える異教の慣習についてです(ロマ14 章、Iコリ8:4 〜13、10:25 〜28)。初期のクリスチャンは、そのような食物を食することは異教崇拝に当たるかどうかをめぐって紛糾していました。信仰の強い人たちはそのようには信じないので、偶像に供えた食物でも食べられるものはすべて食べることができました。そのような強い信仰を持たない人たちは、偶像に供えられていない野菜だけを食べました。パウロが強く勧めたのは、だれも野菜だけを食べる人たちを軽蔑したり、食物に適した「すべてのものを食べる」人たちを裁いたりしてはならないということでした。

問5
使徒言行録10 章を、新約聖書が人間の食事に関する浄・不浄の区別を撤廃したことの証拠と考えることが誤りであるのはなぜですか。使徒10:28 参照

バランスのとれた食事

問6
「わが子よ、よく聞いて、知恵を得よ、かつ、あなたの心を道に向けよ。酒にふけり、肉をたしなむ者と交わってはならない。酒にふける者と、肉をたしなむ者とは貧しくなり、眠りをむさぼる者は、ぼろを身にまとうようになる」(箴23:19 〜21、口語訳)。これらの聖句はどんな重要な健康の原則について教えていますか。どうしたらこれらの原則を私たちの健康と節制に応用することができますか。

「最善の食物が何であるかを知るためには人間の食事に対する神の最初の計画を研究しなければならない。……穀類、果実、堅果類、野菜がわたしたちのために創造主のお選びになった食物である。こうした食物をできるだけ単純に、自然のまま調理したものが最も健康的で栄養がある。それはさらに、複雑な刺激的な食物によっては得られない力と耐久力と知能の力を与える」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』286、287 ページ)。

だれかが菜食主義者であるという理由だけで、自動的にその人が健康的な食事をしているということにはなりません。また、だれかが肉を食べているという理由だけで、自動的にその人が体の神殿を汚しているということにはなりません。よい食生活であるか否かは、ほかのいろいろな要素によって決まります。

菜食主義者であっても、脂肪や塩分、砂糖をとりすぎている場合があります。これらはどれも糖尿病、心臓発作、脳卒中、がんの原因になります。

さらに、食べ過ぎることも問題です。どれほど厳格に菜食を心がけていても、食べ過ぎは深刻な健康被害につながる肥満の原因になります。

どんなことでもそうですが、食事においても節制が大事です。どれほどよい食物であっても、食べ過ぎは健康に有害です。一般的には、栄養学的な必要に応じて、過食にならない程度に、なるべく多くの種類の健康的な食物を摂取することです。健康については何でもそうですが、重要なのはバランスです。

今日の食事

問7
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ロマ14:17)。食事と健康の全般に関連して、この聖句はどのように理解すべきですか。どんな極端を避けるべきですか。

私たちアドベンチストは健康に関して与えられている勧告を心から感謝すべきです。私たちの実践している食事の基本的な原則は現代の医学によって裏づけられています。エレン・G・ホワイトは1909 年の、世界総会における最後の説教の中で次のように述べています。「私たちは食事において守るべき厳密な線を引くことはしない。しかし、果物や穀類、ナッツが豊富にある国では、肉食は神の民にとって正しい食物ではないと明言する」(『教会へのあかし』第9 巻159 ページ、英文)。もしそのような食事が可能な状況にあるなら、私たちはそのようにすべきです。そうすることは私たちを正しい者や聖なる者にするわけではありません。ましてや、私たちが最上と見なす食事をしていない人たちを裁く立場に私たちを置くことはありません。しかし、そうすること(菜食)は私たちをより健康にしてくれます。健康を望まない人はだれもいません。

今日、栄養学者はしばしば、摂取すべき最上の食物とその量を図で表した、いわゆる「食物ピラミッド」(食事指導ピラミッド)なるものを紹介しています。ピラミッドの底辺にくるのは穀類、つまりパンや麺類、玄米です。これらは量としては最も多くて、1 日に6 杯から11 杯です。その上にくるのが果物と野菜で、1 日に5 杯から9 杯とるように奨励されています。その上が乳製品と卵で、1 日に2 杯から3 杯です。これらは菜食主義者にとって重要です。十分な量のビタミンB12を取る必要があるからです。完全菜食の人は栄養補助食品によってビタミンB12を取るべきです。その上のグループが豆類、ナッツ類、種子類、菜食者のための肉(代用肉)です。非菜食には魚、鶏肉、肉が含まれますが、その量は適量です。最後の、最上段には、少量の脂肪、油、甘味、ヨウ素添加塩がきます。

健康は尊い賜物です。食事は健康において重要な役割を果たします。とするなら、最上の食物を選ぶように心がけることは賢明なことです。体によくないとわかっているものを食べる誘惑に直面したときに自制心を働かせることは重要です。神がこれらの真理を与えてくださったのは私たちの祝福のためです。よくあることですが、これらの真理を無視するとき、私たちは自分自身だけでなく、ほかの人をも苦しめることになります。

今回の記事のメッセージ

『SDA 教会指針』には次のように書かれています。「クリスチャンの品行とは、……私たちの体が聖霊の神殿であるゆえに、それを賢明に取り扱うべきことを意味する。適度の運動と休息に加えて、できるだけ健康的な食事を心がけ、聖書に示されている汚れた食物を避けるべきである」

『信仰の大要』21 「原初の食事法 聖書では、清い動物の肉を食べることを罪としてはいません。しかし、神の初めの計画には、肉食は入っていませんでした。なぜなら、食用として動物の生命を取ることは神の意図されるものではありませんでした。またバランスのとれた菜食は、健康のためには最善であるからです。この菜食の効用に関しては、今日では、科学的にも数多く実証されています。…… エデンの園で示された神の食事法、すなわち、菜食は理想的なものです。しかし、現実にはときとして理想どおりにはいきません。そのような状況下にあっては、また、たといいかなる場合に置かれても、もし、良い健康を保ちたければ、その置かれた環境下で得られる最善の食糧を摂取することです」(『アドベンチストの信仰』492、493 ページ)。

*本記事は、『健康と癒し』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

関連コンテンツ

よかったらシェアしてね!
目次