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時は木曜日の夜、イエスが逮捕され、裁判にかけられる数時間前のことです。イエスは弟子たちと共に過越の食事をしましたが、これがみんなで一同に集まった最後の記録です。過越の食事は当時、10人から30人で食べる習慣がありましたが、このときは主を含めて13人でした。イエスは、弟子の一人がご自身を裏切り、他の者たちは主を捨てると警告されたのでした(ルカ22:14 〜62、『SDA 聖書注解』5巻866 ページ参照)。
この部分をギリシア語原文で読みますと、サタンが私たちを支配しようと熱心であることが読みとれます。彼はこの世を手に入れることに失敗したことを悟り、今は私たちを誘惑し、支配するために懸命です。主はペトロのために祈られました。この祈りは人生最大の危機を克服する勇気をペトロに与えましたが、同時に、イエスは私たちの試練や戦いのためにも祈ってくださっています。
もし私たちが本心から「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(22:42)と祈るのなら、たとえ苦くても神がお与えになるどんな杯も喜んで飲むべきです。神が天使をお遣わしになったのは「キリストの手から杯を取り去る」ためでなく、「キリストがそれを飲まれるのを力づける」ためであったように、神は私たちにも力を与えてくださいます(『各時代の希望』下巻184、185 ページ参照)。
イエスの祈りの生活は私たちすべての者が見倣うべき模範です。彼は祈りによってあらゆる危機に直面しました。彼は敵に遭遇する前に、あるいは不正な裁き、憎悪、拷問、死に直面する前に、祈って戦ったのです。ですから主は勝利者として堂々と敵に立ち向かうことができたのです。
◆ルカ23:34にあるイエスの祈りは、なぜキリスト教の本質、基本といわれるのでしょうか。
*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。