危機【ヨブ—絶望の祈り】#6

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人生の暗闇 私たちは神に見捨てられたと思うことがあります。C・S・ルイスは妻をガンで亡くしたとき、「神はどこにおられるのか」と叫びました。彼は続けて、「苦しみに追いつめられ、しかもすべてが空虚に思えるとき」、神に祈っても「自分の目の前で戸が閉められ、内側から鍵を閉める音が聞こえ、そして静寂。いくら待っても沈黙」という思いをし、「人の住んでいる気配はあるのに何の応答も聞こえない」という焦燥、不安、絶望、孤独を体験すると述べています(『悲しみの実体』4、5ページ)。

魂が闇に閉ざされたとき、ヨブも叫びました。「どうしたら、その方を見いだせるのか。/おられるところに行けるのか。/その方にわたしの訴えを差し出し/思う存分わたしの言い分を述べたいのに。/答えてくださるなら、それを悟り/話しかけてくださるなら、理解しよう」(ヨブ23:3〜5)。しかし答えはありませんでした。

状況が絶望的で、出口も見えず、神が聞いてくださらないように思われるとき、人はどう祈ればよいのでしょう。今回、私たちはヨブの物語と祈りからその答えを探したいと思います。

ヨブ1、2章に義人ヨブを襲った試練が記録されています。それは家族を失う、財産をなくす、体に悪性の病気が起きるという悲惨な一連の出来事でした。このため妻から愛想をつかされ、親友から批判されるという四面楚歌の絶望状態に置かれました。ヨブの知らない所で、思いもよらない不運の話が進んでいたのでした。

友人たちはヨブの苦難を見て、その原因はどこにあると考えていたのがわかりますか。

ヨブ4:7、8

人はさまざまな理由で苦しみます。不幸は自分の誤った選択や失敗によることがあり、自分の過ちとは無関係の場合もあります。

また、人はだれかれの区別なくサタンの暴虐、災害に見舞われ、人間であるがための苦しみに遭います。「ヨブとその友人たちは、苦難が特定の罪に対する刑罰であるという伝統的な考えに染まっていました(4:7、8)。ヨブは罪の覚えもないのに、自分の不幸に対する説明をしなければならない苦境に立たされたのでした」(『SDA 聖書注解』3巻494 ページ)。

ヨブ1:20、21には、最初の試練に対するヨブの反応が書かれています。苦難や損失は神への感謝の念を深めることがあります。ありふれた祝福に対する感謝の念は、コップ1杯の水のようにごく当たり前のものを失うことでかえって深まる場合があります。

イギリスの作家サマセット・モームもその一人でした。彼の家の暖炉には、優れた高価な品々と並んでひび割れた粘土のコップが一つ置かれていました。人に「なぜこんなものを」と尋ねられると、モームは第1次大戦中に輸送船に乗っていたとき、乗員は1日1杯の水しか与えられず、わずかな水を大事に飲んだことを話すのでした。彼はそのときのコップを見える所において、どんな恵みも決して当たり前と考えてはならないという生涯の教訓にしていたのです。

ヨブも同じ感謝の気持ちをもって神を礼拝しました。彼は残された祝福を当然のことと考えることなく、神をほめたたえたのでした。

*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。

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