この記事は約2分で読むことができます。
モーセは、「荒野で40 年も苦労したのですから、今度は喜びの40年を与えてください」と神に訴えました。ヤコブやヨセフの場合、神は苦難に続いて平和、繁栄を彼らに与えましたが、モーセにも長い放浪と隷属の年月を償ってくださるのでしょうか。神は喜びの冠をもってモーセの苦難に報いてくださるのでしょうか。
「最後にモーセは、神に自分の手の働きを確かなものとし、自分の人生がすべて無駄にならないように嘆願しました(17 節)。神が燃える芝の中でモーセに会い、へブライ人を救うためにエジプトに戻るように彼に命じられたのは、こうした回想の時においてだったと思われます」(『SDA 聖書辞典』763 ページ)。
幕が上がり、モーセの生涯の次の場面が開かれました。神が活動を起こし、モーセがドラマの主役になります。最初の頃、モーセにはこの新しい役割に対する備えができていませんでした。長い孤独な生活、挫折感、神の怒りについての思いで、彼は自尊心を失っていました。しかし神は何度も、共にいて助けると約束され、モーセを励ましました(出エ3:12、14、4:2〜5、12)。
次の40年間、モーセは地上のだれも知らないほどの神との親しい交わりを経験しました。彼は40 日40 夜、シナイ山で神と共に過ごしたことが二度あり、そのため顔が神の栄光で光り輝くほどでした(出エ24:18、34:28、30)。
◆モーセは神の栄光と美しいご品性を見ました。彼は罪に対する神の怒りのかなたに、罪人に対する神の大きな愛とあわれみを見ることができました。モーセと同じ体験はできませんが、感謝すべきことに私たちも聖書を通して同じ神に会うことができるのです。
過去を振り返り、また将来を眺めるとき、特に物事がうまくいかないとき、私たちは失望しがちです。しかし、モーセの経験は、神のもとに祈りの中に自分の生涯を委ねるとき、神が恵みを与え、「わたしたちの手の働きを確かなものにしてくださる」(17)ことを教えています。
「『わたしをとめるな。……わたしは……彼らを滅ぼしつくすであろう』と神は言われた。もし、神がイスラエルを滅ぼそうとなさるならば、いったいだれが彼らのために嘆願することができようか。たいていの人は、罪人が滅びるのを、そのまま放任しておくものである。人々の忘恩とつぶやきの声しか聞くことのできない苦労と重荷と犠牲の生活を捨てて、それに代わって安楽と栄誉ある地位とに喜んでつかない人間がいったいあるであろうか。神ご自身がモーセを解放すると言っておられたのである。
しかし、モーセは失望と怒りしか感じられないところに、希望を見いだした。モーセは、『わたしをとめるな』という神の言葉を、哀願を禁じるのでなくて、それを奨励するものと解した。そして、モーセの祈りだけがイスラエルを救い得るものであって、そのような祈りによって、神は、ご自分の民をお救いになるものと考えた」(『人類のあけぼの』上巻373、374 ページ)。
イスラエルの民が金の子牛を拝んだとき、モーセは再び彼らのために祈りました。出エ32:11〜14をご覧ください(申命9:25 〜29比較)。詩編90 編をもとに『人類のあけぼの』下巻90 〜98 ページを読みましょう。偉大な執り成しの祈りの人であったモーセは後の日を示されました。メシアの犠牲と十字架、大争闘の終焉と永遠のみ国とを見たのでした。
*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。