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ダビデは良心の呵責と自己嫌悪の中で詩編51 編を書きました。ダビデはここで自分の深い罪意識と同時に、神の救いの偉大さについて歌っています(デリク・キドナー『詩編1、2巻に関する序言と解説』189ページ)。ダビデはこの祈りを聖歌隊の指揮者に与え、公の礼拝で歌うように命じました。人々が自分の悲しい堕落の経験から教訓を学び(詩51編、表題)、また神は全く望みのない自分のような罪人を救ってくださるということを知らせるためでした。
トーラー(モーセの五書)の愛読者であったダビデは神の品性を知っていました(詩119:97)。出エジプト記34:6、7にある神のご性質についての言葉は悲しみに沈む彼をどんなに慰めたことでしょう。神は「罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)という祈りを拒みたもうことは決してありません。
「神よ、わたしを憐れんでください。この叫びの中には弁解も、言い訳も、釈明の努力も、また自分を断罪する律法の正義についての不平もありません。ダビデは真の謙遜をもって誰をも責めず、ただ自分自身を責めています」(『SDA聖書注解』3巻755ページ)。
監獄の中でハリー・オーチャードは自分の過去を振り返り、精神的苦悩に震えました。彼は妻と幼い娘を捨て、酒とギャンブルに身を落とし、いくつもの恐ろしい罪を犯してきました。しかし一筋の希望の光を見いだしました。それは、神が自分の罪を赦してくださるという希望でした。彼はヒンズデール衛生病院(SDA)のデビッド・ポールソン医師から送られてきた小型聖書を熱心に読みました。そこに彼はダビデの罪と悔い改めの物語を見いだしたのでした。
◆「自分の犯した罪はあまりにも深くて赦されない」と感じる人にとって、ダビデの経験はどんな助けになりますか。
*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。