罪を犯すということ【ダビデ—悔い改めの祈り】#25

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神は堕落した人類を喜んで引き上げ、神に近づく人たちを完全に救うことができます(ヘブ7:25)。私たちの罪がどれほど恐ろしいものであっても神は赦し、私たちの人生がどれほど傷ついていてもいやしてくださいます。

聖人といわれる人たちの中にも、かつては卑しむべき罪人であった人たちがおり、事実、彼らは回心後も戦い続けました。キリストは十字架につけられた強盗に楽園を約束しました。迫害者パウロは偉大な使徒になりました。賛美歌「アメージング・グレース」の作詞者ジョン・ニュートン牧師は墓碑に次のように刻みました。

ジョン・ニュートン/かつて不信心、放蕩者であった者/アフリカでは奴隷たちの僕……/我らの主、救い主イエス・キリストの豊かな憐れみにより赦され、回復され、守られ/滅ぼそうと長く努力してきた福音を宣べ伝えるべく召された者

グレイス・アーウィン著、『奴隷たちの僕—ジョン・ニュートン略伝』433ページ

不道徳な若者だったジョージ・ミラーは偉大な祈りの人、多くの孤児たちの父となりました。アルコール中毒から救われたビル・ウィルソンは「禁酒会」を設立しました。救いを経験した人たちはみな、苦しむ人々に奉仕する者になっています。

ある人は「神の恵みがそれほど豊かなら、罪を犯し続けてもよいのではないか」という考えに誘われるかもしれません。なぜこの考えは誤りなのでしょうか。

ロマ6:1〜4

先に述べた聖徒たちはみな、自分の過去の罪を悔い改めました。しかしたとえ神が罪を赦されるといっても、その結果は避けられません(出34:7)。ダビデは罪の結果として4人の子供が死に、反乱が起こり、民の道徳意識は低下しました。「ダビデは罪を悔い改めて許され、主に受け入れられたのではあったが、彼は、自分自身がまいた種の痛ましい実を刈り取ったのである」(『人類のあけぼの』下巻423 ページ)。罪の楽しみは「はかない」ものですが(ヘブ11:25)、その結果はつらく、しかも長く続きます。

ダビデの悔い改めの祈りは私たちに、神との正しい関係に入るためには、まずありのままの姿でみもとに行き、罪を告白し、自分を清め、新しく創造してくださるように祈る……ということを教えてくれます。「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける」(箴言28:13)。

「ダビデは何度も神によって勝利しましたが、それでも自分の無力さと罪深さを強く感じました。彼の良心は眠ってもいなければ、死んでもいませんでした。彼は、『わたしの罪は常にわたしの前に置かれています』と認めました。自分は罪とは無関係で、関心もないなどとうぬぼれることもありませんでした。ダビデは偽りに満ちた自らの心を見て自身を深く反省し、神がみ力によって自分を傲慢な罪から守り、隠れた過ちから清めてくださるように祈りました」(『SDA聖書注解』3巻1147ページ、エレン・ホワイト注)。

◆ダビデが神に受け入れられた根拠は何でしょうか。深い罪に対する悲しみのゆえでしょうか。告白、悔い改めでしょうか。彼にキリストの義が着せられたからでしょうか。

◆欺詐、不倫、傷害というような社会的過ちを犯し、悔い改めてキリストを救い主として受け入れてなお、罪の結果に苦しみ、悩んでいる人がいます。私に何かお助けすることができるでしょうか。

詩編130編を読みましょう。「これは絶望の中から主に赦しを求める罪人の告白です。もし主が彼の罪に従って扱われるなら、彼に望みはありません。主はこの罪人に赦しを与える神としてご自身を啓示しておられます」(『SDA聖書注解』3巻915ページ)。

*本記事は、『聖書に見る偉大な祈り』からの抜粋です。

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